2-02 鐘の音色が消える時
アムリナは、鐘の音色が朝から晩まで途切れることなく鳴り響く街として知られている。
街中には無数の鐘撞き台が設けられており、「鐘譜」と呼ばれる楽譜に従って、正確に鐘が鳴らされている。
アムリナは、鐘の音色が鳴り響く間しか存在できない街だ。だから、鐘の音色を絶やさぬようにしているのだと語る者もいる。
事の真相はよく分からない。ただ、確かなのは、アムリナの街から鐘の音色が消えたことはかつてなかったし、これからもないだろうと街の人々が信じているということだ。
これは、鐘の音色に包まれた街で起きた、少し不思議な物語。
あるいは、アムリナで働く一人の鐘撞き人のささやかな成長物語。
エレーネが目を覚ますと、割れるような鐘の音色が彼女を包み込んだ。
幾重にも折り重なるように奏でられる音色。しかし、それは一斉に奏でられているわけではない。一秒、あるいはそれよりも短い差を設けて正確に鳴らされているのだ。
彼女は半身を起こして目を閉じ、鐘の音色に耳を傾ける。
音色はその時々によって異なる。朝、昼、晩、いや、もっと短く、分、秒刻みで音色は違う。中には、音色の違いから秒単位で時間を割り出す者もいるが、そこまでいくともはや暇人の娯楽だ。
【午前七時二分】
まるで教師の質問に答えるかのように、両手で素早く時刻を示すと、壁にかけられている時計に視線を移す。
長針がゆっくりと動いた。午前七時三分。逆に考えれば、手語で時刻を示した時には二分だったわけだ。
【私の勝ち】
勝利の笑みを浮かべながら、エレーネは上機嫌で寝台から下りた。
鐘撞き人をしている彼女が、自分が起きた時刻を間違えることはありえない。だが、それでも、今日も時刻を間違えなかったという事実が、彼女を上機嫌にさせるのだった。日々を上手く過ごすためのおまじないの一種だとも言える。
青空蛙の顔を象ったスリッパをつっかけて、カーテンを開き、窓を全開にする。
鐘の音が数倍の大きさになって彼女の目の間に迫って来る。音が塊となって押し寄せるあのビリビリとした感触を身体全体で楽しみながら、朝日に染まるアムリナの街を眺める。
こじんまりとした煉瓦造りの家や神殿が立ち並ぶ風景の合間を縫うようにして、巨大な塔が建てられている。
他の建物と同じ煉瓦造りではあるのだが、普通の家屋の二倍は大きい。その天辺には、巨大な鐘が吊り下げられている。
鮮やかな橙色をしているのがこの辺りの鐘の特徴だ。朝日や夕陽を金属に溶け込ませることによって生まれるその輝きは、いかなる宝玉にも勝ると、かつてこの地を訪れた吟遊詩人エリアーデが嘆息したとも伝わる。
今、エレーネの目が届く範囲の鐘たちは、大きく左右に揺れてガランガランと元気よく鳴っている。鐘の横に白い紐がついており、それを鐘撞き台に上っている鐘撞き人が引っ張ることで鐘が鳴るのだ。
エレーネはその様子をしばらく眺めていたが、やがて窓を閉めると、仕事へ向かうための準備を始めた。
パンと翼牛のミルクという朝食を終えて、仕事着に着替える。橙色のシャツとズボン、その上から同じく橙色のマントを羽織る。
マントには、この街で初めて鳴らされたと言われる伝説の鐘「リオネージュ」の紋章が刻まれている。
仕事用の道具入れを腰に巻き付けて、マントのポケットに財布などの貴重品を放り込む。
昼食は、昨晩作り置きしておいた野菜のスープを水筒にいれたものと、二日前に買った渦巻きパンにした。グルグルと元気に渦を巻いているパンの表面を確かめるが、カビは生えていないようだったので採用したのだ。
昼食もマントのポケットの中に突っ込むと、窓を再び開けて顔を外に出す。今日は風がやや強い。普段なら平たい帽子をかぶるのだが、仕事中に飛ばされて鐘撞き人組合で二千ベレも払って買い直すのも癪なので、今日は省略とする。
こういう時、髪を短くしていてよかったと、自分の短い茶髪を手で撫でる。
準備を整え下宿先から外へ飛び出せば、仕事へ出かけるのだろう人々の流れに飛び込んで、北へと進む。
だが、そのままずっと流されるわけではなく、住宅を三つほど通り過ぎると見えて来る鐘撞き台の一つへと向かう。
九十七番台。それが、彼女の職場である鐘撞き台なのだ。
この時間帯はどうしても混むので、鐘撞き台へ向かうために、人々を押しのける形になる。
当然、イヤな顔をされる。中には【馬鹿野郎】と手語で抗議をしてくる者もいる。
他の街なら下卑た罵声が飛んで来るところなのだろうが、ひっきりなしに鐘が大音量で鳴り響くアムリナでは、声の代わりに両手で表現できる手語という言葉が乱れ飛ぶ。
だが、そんな罵声ならぬ罵手に一々構ってはいられないので、エレーネは軽やかに無視を決め込み、突き進む。
鐘撞き台の前に来ると、金属製の梯子がかけられているので、それを小気味よく昇る。鐘撞き人の仕事を始めた頃は、途中で止まって下を見てしまい足がすくむことがたびたびあったが、今はもうそんなドジは踏まない。
上を向いて目的の場所まで進み続ける。それが、鐘撞き台の頂上へと向かう際に生まれる恐怖を和らげる最善の方法なのだ。
少しばかり息を荒げて鐘撞き台の頂上まで来ると、夜番のセバスチャンが、鐘の前で腰を下ろしてうつらうつらしている。
鐘撞き人は三つのローテーションを組んで仕事をする。
朝八時から夕方四時までの「朝番」、夕方四時から深夜零時までの「夕番」、深夜零時から朝八時までの「夜番」、この三つだ。
今月、セバスチャンは「夜番」を割り当てられていた。大方、仕事に入る前に酒でも上機嫌で飲んでいたに違いない。だから交代の時間になるとさすがにつらくなってうつらうつらしてしまうのだ。
これで、今までに一度も鐘撞きをしくじっていないと言うのだから、その点は大したものなのかもしれないが。
仕方がないなぁと思いつつ、背中を軽く突いてやると、彼は赤髪を振り乱しながら飛び上がる。クルッとこちらを向くので【おはよう】と両手を動かしニッと笑えば、【ビックリさせんなよ】との返事。
その一連の動きが面白くて、エレーネはついつい、この一つ年上の青年に悪戯をしかけてしまうのである。
【昨晩も仕事は順調だったの?】
【ああ。昼間に酒を飲んでたから途中ヤバかったけど、しくじっちゃいない。大丈夫、そこは間違いない】
そう手を動かしてから、慌てたように目の前の鐘から下がっている白色の紐を握る。
近くの壁に打ち付けられた紙切れに、エレーネも自然と目を向ける。
紙切れの上部には時刻が分単位で記されており、その下に点がいくつも付されている。
素人が見たらなにがなんだか分からないだろう。星座の早見表ですかと尋ねる者もいるかもしれない。だが、違う。これは「鐘譜」と呼ばれるれっきとした楽譜なのだ。
一日二十四時間、どの鐘撞き台でどのタイミングで鐘が鳴らされるべきなのかを示している。この街の全ての鐘の音色を導く、大切な存在だ。
鐘譜に付された点は、鐘を打つべきタイミングを示す。鐘の音色が一瞬でも途絶えないように、そして同時に音楽性を損なわないように、点は打たれているのだ。
鐘撞き人はこの精密に計算されて作られた鐘譜に合わせて自分の持ち場の鐘を鳴らす必要がある。誤差は一秒たりとも許されない。もしも間違えれば給料が減額されるし、それがずっと続くようであれば解雇されてしまう。
もちろん、誤魔化しなんてきかない。鐘撞き人たちは耳がいい。だから、一秒の誤差であろうとも、見逃すはずがないのである。もしも嘘を吐いてそれがバレれば、即解雇だ。
給料はそこそこいいが厳しい。それが、鐘撞き人の世界。セバスチャンが慌てたように紐を握ったのも、タイミングを外さないようにするためで、言わば職業病の一つと言える。
鐘が無事に鳴り響くと、彼はホッとした顔つきになり、いそいそと身支度を始めた。
そのかわりに、エレーネが紐を握り、鐘譜とのにらめっこが始まる。
【夜番は特に異常なしってことで】
去り際のセバスチャンからの引継ぎに、エレーネはコクリと頷いた。
セバスチャンはおどけたように敬礼をしてみせると、梯子を下りて姿を消した。きっと、このまま下宿に戻って眠りこけるに違いない。
朝日を浴びながら眠るのは、さぞや気持ちがいいことだろう。そんな想像をしたら、さっきまでタップリ寝ていたにも関わらず、つい欠伸が出てしまうエレーネなのだった。