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2-16 魔王の末裔は奸臣の孫に嫁ぐ

 江戸時代中期、寛政かんせい六年。信長公の末裔である織田家は、先代の不祥事により一介の小大名に落ちぶれていた。織田家の長女・喜姫よしひめは、継母に追われるように成り上がりの家に嫁がされる。

 彼女の夫になる男は、田沼たぬま意明おきあき。奸臣と悪名高い、田沼意次(おきつぐ)の孫だった。祖父が失脚してなお田沼家に寄せられる恨みは深く、意明の死を願う「何者か」がいるのだという。夫を殺し、その手柄でもって織田家を再興させる──それこそが、喜姫に与えられた密命だった。

 殺すべき敵と思っていたのに、実際に対面した夫は、噂とは違って涼やかな貴公子だった。そして、田沼家にまつわる悪評に傷ついていた。意明の素顔を知るうちに、喜姫は彼に惹かれ、親の命令と夫への想いの間で悩み始める。


 魔王の末裔と奸臣の孫、似合うような似合わないような夫婦の行く末は──

 純白の綸子りんず幸菱さいわいびし紋をほどこした打掛うちかけは、ひどく重かった。綿が入っているからだけではなく、気分の問題でもあるだろう。豪奢な衣装がかせのようで、よし姫は深く溜息を吐いた。


「こんなに早く嫁に行くことになるなんて」


 十七での輿入れは、大名家の姫としては決して早過ぎはしない。ただ、自分は行き遅れるものと思っていたのだ。異母弟の成長を見届けてから、あるいは異母弟がはかなくなって、家を継ぐために婿むこを取ることになるか。いずれにしても、それなら心置きなく晴着を纏えていただろうに。


(父上が頼りにならないから……!)


 焦り、悔しさ、憤り。婚礼の当日になってなお、彼女のうちには暗く熱い思いが渦巻いている。けれど、周囲には小娘のありきたりな感傷に見えるのだろう、侍女が宥めるような笑みを浮かべた。


「花の盛りでのお輿入れ、誠にめでたく存じます」

「そう?」

「そうですとも! おいちの方様もかくやのお美しさでいらっしゃいます。淡路守あわじのかみ様もさぞお喜びでしょう」


 織田おだ家の姫なら誰でも飽きるほど聞いたであろう陳腐な賛辞に、喜姫は苦笑する。


 確かに彼女の祖、かの信長のぶなが公の妹君であったお市の方は絶世の美女と伝えられる。けれど、その御方の生涯は決して幸せなものではなかった。最初の夫は兄に殺され、二夫にまみえ、最期は自ら命を絶って果てた。婚礼に臨む女に聞かせるのに相応しい喩えではないだろうに。


(いいえ、確かに。私だって幸せにはならないでしょう)


 心の中で思い直して、喜姫は口の端をほんのわずか持ち上げた。少なくとも、これから会う夫とは()()()()()()()()()()()()()()()。そのように、しなければならないのだから。


(では、この者はなかなかわきまえているのかしら)


 そんなことはまったくなく、無神経な慰めにすぎないのだろうが。だから、もう少しいたぶってやるつもりで、喜姫は打掛の裾を整える侍女を皮肉っぽく見下ろした。


「曾祖父の代まで足軽あしがるだった家よ。織田家にはまったく相応しくない」


 婚家に対する悪意をはっきりと口にすると、侍女は目に見えて狼狽うろたえた。誰も聞いていなくとも、この手のことを聞かされるのは決まり悪く対応に困るものだ。決して的外れではないことならなおのこと。


「あ、の……祖父君は美男で大奥を騒がせたとか。お孫様も、きっと──」

「そうね。楽しみね」


 そのようなことは口にするな、とたしなめることさえ思いつかなかったらしい。侍女の動揺は、喜姫を少しだけ満足させた。だから曇りなく微笑んで、安心させてやる。むろん、彼女の内心は夫となる男とその家への侮蔑に満ちているが。


(大奥を騒がせて……御年寄おとしよりがたをも篭絡ろうらくしたのでしょうね? そうしてまつりごとを操った……)


 喜姫が嫁ぐ男の名は、田沼たぬま淡路守あわじのかみ意明おきあき。田沼主殿頭(とのものかみ)意次おきつぐの跡を継いだ孫、と呼んだほうが通りは良かろう。意次は、先代、先々代将軍の信任篤く、それを笠に着て政を壟断ろうだんし、賄賂の悪習を蔓延はびこらせ、世を乱したのだ。そうして、後には罰せられて過分に与えられていた領地の大方を召し上げられた。罪人とまではいかずとも、まあ奸臣かんしんと断じて差し支えない。


 魔王を名乗った信長公の末裔が、奸臣の孫に嫁ぐのだ。世間の者は、世も末だとでも笑うだろう。


      * * *


 よし姫が自身の縁談について聞かされたのは、今年──寛政かんせい六年の正月のことだった。上八洲洲河岸かみやえすがしの織田家上屋敷(かみやしき)にて。新年の挨拶で父と継母の御前に上がった時に、聞かされたのだ。


 畳に指をついて父母に頭を垂れていた喜姫は、その命令を聞いて思わず顔を上げた。あるべき従順さとはほど遠く、彼女の唇から漏れたのは不満も露な詰問だった。


「田沼淡路守様と──ですが、父上」

「咎があったのは先代祖父君のこと。すでにゆるされ、公方くぼう様にも拝謁している」


 喜姫の反発も反論も、予想していたのだろう。父、織田おだ左近将監さこんのしょうげん信浮のぶちかは、目を逸らして早口に述べた。縁談の内容以上に、その弱気な態度が彼女の不快の炎に油を注いだものだ。


(娘に対しては頭ごなしに命じるものでしょうに……!)


 これだから我が家は()()なのだ、と思うと歯がゆかった。


 徳川とくがわ家によって江戸に幕府が開かれて二百年弱、かつては天下を手中に収めかけた織田家は零落していた。いや、歴代の将軍は家康いえやす公の主筋であった織田家を、相応の敬意と配慮をもって遇してはいた。が、先代の信邦のぶくにの時に不祥事があった。幕府転覆の陰謀にも関わる、大それた事件であった。

 信邦がどこまで知っていたかは定かではないが、当主として責は免れず、蟄居を言い渡された。織田家に与えられていた諸々の待遇も取り上げられ、所領も辺鄙な地に移された。急遽、斜陽の家を継ぐことになった父は、かつての栄光を懐かしむばかりで盛り返そうという気概は見えない。


「相手のお家のことはともかく──我が織田家のことはいかがお考えですか!? 百太郎ひゃくたろうはいまだ幼く、ご公儀こうぎに届け出てもいないではありませんか。口にするのも憚られることではございますが、万が一の場合は婿養子を迎えねばなりませんのに」


 ならば自分がしっかりするのだ、と喜姫は思っていた。嫁に行くのではなく、婿を支えて織田家を再興する道もあるのではないか、と。けれど──


「貴女様がおられぬほうが、百太郎は心配いらぬかと思いますのよ、喜様」

義母上ははうえ、何を──」


 継母の冷ややかな声に、彼女は絶句した。さぬ仲の娘が愛しくないだけではない、いっそ敵意に満ちた眼差しを浴びて、凍り付く。


「子が健やかに育つかは天命というもの。それは、そうでしょうとも。けれど、織田家の男子がこうも立て続けに夭折ようせつするのは、まことに不可解……!」


 そう、確かに。継母や父の側室の産んだ子は相次いで亡くなっている。もう片手の指では足りないほどに。立つことも言葉を発することもなく儚くなった赤子たちを見送って、喜姫も何度涙をこぼしたことか。母は違っても、血を分けた弟たちなのだから。


(私が、殺したと!? 家に残るために……!?)


 義母の険しい眼差しが、喜姫を刺し貫く。百太郎──やっと二歳になった子まで殺させはしない、だから嫁として追い出すのだと、声にならない言葉がはっきりと聞こえた。


「婿を取るならば、ほかにも姫はいる。が、淡路守に沿わせるならそなたしかおらぬ」


 心外すぎる糾弾に返す言葉も見つからぬうちに、父は改めて言い渡した。ほかの娘とは、すなわち継母の腹の異母妹のことだ。織田家には居場所がないのだと、喜姫はそうして思い知らされた。


      * * *


 婚礼の間、花嫁が顔を上げることも言葉を発することもない。婚家の人々は、喜姫にとってはいまだ見ず知らずの他人ばかり。よって、被衣かずきの陰で目を伏せながら、喜姫は父の言葉を胸の裡に反芻していた。


『これは、織田家の再興に必要なこと。そなたならばやってくれよう』


 田沼家に嫁ぐのは喜姫でなくては、という真意はどうやらそこにあったらしい。つまりは、異母弟たちを手にかけた鬼女でなくては、ということだ。父も、継母の疑いを信じ込んでいるのだ。それに、どこぞの誰かが吹き込んだ甘言を。


『先代のことがあってなお、田沼家が存続するのは許せぬとお考えの御方がおられる。そのご意向を、汲んで差し上げれば──』


 そうすれば、織田家はかつての栄光を取り戻せるのだろうか。それを為してくれるのは何者なのか、田沼家はそれほどに恨まれているのか、かような謀略が誇るべき手柄足るのかどうか──分からないけれど。武家に生まれた女には、従う以外の道はない。


(いえ──御家の再興のためなら、否やはない。そうでしょう?)


 花嫁の胸に渦巻く思いなど誰も知る由もなく、御箸初おはしそめ式三献しきさんこん、贈物の交換と式は進んだ。打掛を紅色のものに着替えての祝宴に至っても、花嫁の役目は黙って座っていることだけ。夫はすぐ傍にいても、まだ顔もよく見えない。


 喜姫がようやく夫と間近に体面したのは、それぞれ絹の褥に端座した格好になってやっと、だった。


「さて──」


 薄闇の中、ひと言だけ呟いた男は、なるほど確かに美形だった。眉目は凛々しく整って肌には染みひとつなく、声の響きさえ涼やかで。歳は、二十二と聞いている。若輩の割に佇まいは堂々として──そしてなぜか、喜姫を見る眼差しは鋭い。密かに抱いた後ろ暗い企みを、暴かれる思いがするほどに。思えば、田沼家はこの縁談をどう考えているのか、彼女は考えて来なかった。

 それに──成り上がりの、収賄で財を成した家の当主が、どうしてこうも凛とした気配を纏っているのか。不本意にも気圧されながら、喜姫は思う。


(この男が、私の──)


 田沼淡路守意明。彼女の夫。そして、殺さなければならぬ相手。汚れた田沼家の命脈にとどめを──それこそが、彼女に与えられた役目なのだ。

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