2-14 君は凪の夢を見る
あの日、押し寄せる海が全てを壊した。
少年は故郷を去り、少女は故郷を失った。
幼い彼らになすすべはなく、いまだ時は止まったままだ。
君は今、何を見て、何を思い、何を考えているのだろうか。
今を生き、楽しみ、喜びを誰かと分かち合っているだろうか。
そして君は今、何かに怒り、そして悲しむことができているだろうか。
人の無力さを知った君は、いったいどんな夢を見るのだろうか。
薄暗い廊下。ここにある胸像の前には、白銀色の小銭がこれでもかというほどに積み上げられていた。
誰が始めたのかは分からない。頭頂部のさみしくなった老人の像の前には一円玉が規則正しく積み上げられているのだ。台座いっぱいに並べられた一円玉は上に行くほど枚数が減り、きれいなピラミッドを描いている。
これは君の通う高校の初代理事長の胸像だそうだ。
その人の業績を君は良く知らない。でも長い間人気のない廊下に置かれながらも、いまだに生徒たちから面白半分に扱われているということは、教育者としては本望じゃないだろうか。
「ねえ、これ崩しちゃおっか」
「――っ、え?」
ふいに隣から聞こえてきた声への君の驚きようったら。飛び跳ねて驚く猫みたいだった。
声量を控えるでもなく、どこか挑発的な音色が混ざった女の子の声。ぼーっとしていたから気づかなかったのだろう。声の主は君のすぐ隣にいて、胸像を眺める君を見ていたんだ。
「崩しちゃおっか」
大きな瞳を君に向けている少女は、どうも君からの返事がないのが不満だったらしい。同じ言葉を繰り返した。
「な、なんで?」
ははっ、上ずった声だ。
まあ思い返せば、その時君は彼女と初対面だったんだ。動揺するのも無理はない。
「なんで? うーん、なんとなく」
そう言うが早いか、彼女は思い切り手を薙ぎ払った。
胸像の前の一円玉の山が勢いよく弾き飛ばされる様は、スローモーションのように君の目に映った。
白くきれいな山がきらきらと輝き、互いに互いを崩しながら姿を消していく。もしかしたら積み上げることを楽しみにしていた人がいたのかもしれないし、何か意味を持って積まれていたのかもしれない。
しかしそれは一瞬にして瓦壊した。
「……行こう」
主犯の彼女は君に声をかけ、君はそれに従った。
その瞬間、彼女と君は共犯者になってしまったんだ。
学校から逃げるように出る途中、君はあの一円玉ピラミッドを見るのが結構楽しみだったことに気づいただろう。それが一瞬にして崩れ去った。彼女は君の日常を崩したんだ。
彼女――大屋かおるは君と同学年だった。駅までの道で話しながら君は彼女の名を、そして同学年だということを初めて知った。
夏を間近に控えた道路には散歩中の親子、シルバーカーに座って休むおばあさん、良く分からない髪色の若者がいたけど、こんな時間に学校の外にいる高校生は君たちだけなんじゃないだろうか。もしかして今はやりの異世界に転移しまったのかも……。繊細な君のことだ、不気味なのどかさをひしひしと感じたことだろう。
「ねえ、1の3だっけ?」
彼女は君の方を見ないで聞いた。なんて失礼なやつだ。
「違う、2組」
「あー、ニアピン」
失敬。君も彼女を見ないで答えていた。似た者同士ということか。
会話はそれっきりで君は彼女とひたすら歩いた。賢明だ。その方が余計な話をしないで済む。
しばらく歩いた先の、ぽかっと空いた地下鉄駅の入り口で君たちは自然と足を止めた。
「じゃあ、また」
君の言葉に、彼女は怪訝そうな顔をした。
「帰んないの?」
なんと、彼女はもう帰るつもりだったのだ。昼前のこんな時間に。
「いや、荷物学校だし」
君が手をひらひらさせて見せると、さらに彼女は訝しげな顔をした。
「……そっか、じゃね」
そのまま彼女は階段を下り始める。彼女の姿が見えなくなると、君はひとり学校へと引き返すことにした。
学校は大騒ぎ……になっているかと思えばそうでもなかったようだ。
君が学校を出るときに散らばった一円玉はきれいに片づけられ、かろうじて残っていた土台の部分もきれいさっぱりなくなっていた。
君は胸像の前を通り過ぎ、荷物を置いている部屋に向かった。
ひたひたとなるべく音を立てないよう歩く。授業中の廊下というのは不思議な空間だ。あちこちの教室から漏れる何人もの先生の声が混ざり合う。ここに学校が凝縮されているんじゃないかと思ってしまうほどだ。
教室から向けられるいくつもの視線をかいくぐり、君がついた先は進路指導室。
「……失礼します」
君は聞こえるか聞こえないかの声で呟き、部屋にするりと入る。
壁を埋め尽くす本棚いっぱいの赤い表紙。その赤い壁に囲まれるようにおかれた長机とパイプ椅子。そしてそこに広がるコーヒーの香りと、ほのかに主張するおじさんの臭い。
「はーい……って、あれ? 木内、帰ったんじゃないの?」
この部屋の主、進路指導の内海先生が本棚の奥にある席から君に声をかけてきた。彼は部屋に漂うおじさん臭の主でもある。
「トイレ行ってました」
「あ、そっか」
そう言って内海先生はまた顔を引っ込めた。
君は椅子に置いた荷物をよけて席に着く。ふぅ……。君もようやく息がつけたことだろう。
君は入学してすぐ教室に入れなくなった。理由はわからない。でも学校には来ているから、他の部屋で過ごしている。ちなみにこのままなら留年は確実だそうだ。
友達という友達はいない。
小学校入学の時に福島から引っ越して以来、君は人間関係をめんどくさいと感じていたようだから、小・中学校時代は勉強に打ち込んで過ごしてきた。勉強をしていれば余計なことを考えなくて済むからね。
「木内さぁ――」
「……」
問題集を開いた君に本棚の奥から声がかけられる。まだ一円玉の動揺が抜けきらない君は、急な呼びかけに返事をするタイミングを逃してしまったようだ。ああ、なんと繊細すぎること。もう少しどっしりと構えてはどうだろうか。まあそんなところも君なのだから仕方ないか。
そこに返事のないことを疑問に思った内海先生の顔がひょこっと現れた。
「なんだ、いるじゃん。木内の親父さん、元気?」
「……はい」
「そっか。良かった」
会話はそれで終わる。
君は妙にホッとしていた。あの一円玉の事を聞かれるんじゃないかと、内心不安だったからね。でも君が内海先生以外の人と話したのはいつ振りだろう。久しぶりだ。まあどうせ君は彼女の顔も覚えていないだろうけどね。
「……今日は帰ります」
「ああ、気を付けてな。担任には俺から言っとくから」
おやおやまあ、君は開いたばかりの問題集を閉じてしまった。すっかり荷物をまとめて帰る気になっているね。そういえば君は家族のことに触れられるのが嫌なんだっけ。授業中に帰ると言っても内海先生は止めない。それがありがたいこともあり、物足りないこともあるけど。
「ただいま……」
「おう、お帰り」
6畳2間のアパート。玄関を開けるとすぐの所にあるダイニングキッチン。君はそこで仏壇を掃除しているお父さんに声をかけられた。
はあ、また帰ってきてしまった――実のところ、君はいつも帰宅するたびにそう思っている。君の家には朝から晩までお父さんがいるからね。仕事? 今はしていないみたいだ。
「今日もなァ、役所宛に一筆したためてやったんだ」
「うん」
「母さんを無駄死ににはさせねェぞ。関連死だって認めさせてやんだからなァ」
お父さんはそう言って仏壇のおりんをチーンと鳴らした。お母さん、今年で何周忌だっけ。あの日以来、何年もつらい思いをしていたお母さんは、自分で人生の幕を引いてしまったからね。お父さんはまだそれが受け入れられないみたいだ。何通も同じ手紙を役所に送り、お母さんの死の責任を取ってもらいたがっている。
「学校は楽しかったかァ?」
ほら、君に質問だ。答えてあげなよ。
「まあね」
「んだか……」
なんだい、その気のない返事は。本当ならもう一言、二言……そうだ、あの一円玉の話をしてもいいんだよ。
……でも仕方ないか。
君はお父さんと話しているとどんどん気持ちが沈んでいくようだから。自ら避けたのは賢明だよ。今「死にたい」と思ったら、実行に移してしまいそうだしね。
明日は良い日になるといいけど。
――
次の日も君はちゃんと登校した。そして真っ先に胸像の前へ向かう。どうなってるか不安で確認したいのはわかるが、それは犯罪者が犯行現場にもどるのと同じ心理だぞ。
だけど君は胸像までたどり着けなかった。
「おはよう、共犯者くん」
君は突然の呼びかけに、思わず驚きの悲鳴を上げそうになっていた。すんでのところで堪えられてよかったね。
声の主は大屋かおるだ。君は動揺したまま挨拶を返すことにした。
「……おはよう。というか何、その呼び方」
「共犯者くんは教室いかないの?」
おいおい。会話になってないぞ。
あぁ、そして不躾な質問に君の心は雨戸を閉じ、がっちり鍵をかけてしまった。別に悪いことをしているわけじゃないんだから堂々と「うん」とでも言えばいいのに。だけど君は授業を受けていないことを後ろめたく思っているからね。答えづらいんだろう。
大屋は君が口を閉ざしてしまったことに気づいたようだ。にんまりと何かを企んでるような笑みを浮かべた。
「授業受けないならさ、今日はあたしに付き合ってよ」
「えっ……?」
おっと、なかなかの策士。これには君も反応せざるを得なかった。
「ほら、行こ」
「ちょ、ちょっ……」
大屋は君の手を引いた。女子と手を繋ぐなんて小学校の低学年以来だろう? 君が少しドキドキしてしまったことは内緒にしておくよ。
さあ、君はいったいどこに連れて行かれるんだろうね。
僕は君の心が動き出せばいいなと、少しだけ期待し始めているよ。行っておいで、木内湊。