春風に散る桜を見上げていた
春風に散る桜を見上げていた。
眠気を誘う穏やかな風が体を洗う。それと同時に、桃色の欠片が視界いっぱいに舞い踊る。
そして地上に降り立ち役目を終えたはずの花びらが、再び息を吹き返して蒼穹の彼方へと飛び去っていく。
いつ以来だろうか。こんなにも美しいものを目にしたのは。
「感動してる所で悪いがよ、おめぇやっぱクビだわ」
「無粋なのは知ってたけど、少しは空気を読んでくれ」
僕はまるで寝ている時に頭から水を浴びせられたかのような気分になり、唐突に追放宣言をした男へと視線を移す。
その男は片膝を立てて地面に座り込んでおり、つまらなそうな表情でこちらを見ていた。
「本当の事を言っただけじゃねぇか。テメェは最初から頭数に入ってねぇんだよ」
「昨日も同じことを言ってたね。いや、今朝もだったか」
「少しは利口になって言うことを聞きやがれってんだ。馬鹿野郎が」
「今更追放されたところで運命は変わらないさ」
土の匂いと草木の香り。僕は朗らかな春の訪れを肺いっぱいに吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
相変わらず嘘をつくのが下手な人だ。
眼帯をつけた傷だらけの顔。目立ちたがり屋で派手な戦いを好む生粋の狂戦士。
その名を耳にしただけで敵は震え上がり、その姿を目にしただけで逃げ惑う。
神出鬼没の死神。人の形をした災厄。彼の呼び名はどれも物騒なものばかりだ。
だが僕は知っている。僕たちの中で君が一番正気に近いのだと。
「チッ、クソが。なら勝手にしやがれってんだ。壁に穴を空けるくらいしか能のねぇやつが、本職にどこまで食らいついて行けんのか見物だぜ」
「それは昔の話だろう。確かに元々は非戦闘員の工兵だったけど、君らに付いてったお陰で実戦経験も身についているさ」
「テメェの言う実戦ってのは、ちょろちょろ逃げ回りながら一匹ずつ潰していくやり方のことか? この際言っとくがな、そのやり方はダセェし見苦しいんだよ」
「速度が求められない戦いでは、魔力の消耗を極力避けるべきだ。その為には一人ずつ始末していくのが最も合理的だと教わったよ。それが遊撃なのだということもね」
「ケッ、腰抜けどもが」
彼はあからさまに不機嫌な空気を醸し出しながら立ち上がり、拾い上げた漆黒の大剣を地面に突き刺した。
その刀身には無数の傷跡が刻まれており、幾十にも塗り固められた血痕が悍しい瘴気を放っている。
それは恐れを知らぬ戦士であることの証であり、彼の持つ誇りの全てなのだろう。
僕が遠回しに侮辱してしまったことでイラついているのだろうが、このやり取りもいつものことだ。
数分経てば収まるさ。
敵にも味方にも容赦ないが、身内にはとことん甘い性格だから。
「まあいいさ。テメェのお遊びも今日で見納めだ。俺様は俺様のやり方でやらせて貰う。邪魔すんじゃねぇぞ」
「……そうだね。僕もそうするよ」
暖かな春風が吹く。まるで先程の言い争い仲裁するかのように、僕たち二人を優しく包み込む。
再び桜の木へと視線を移した。枝をざわめかせ、この渇いた世界に彩りを加えている。
つむじを巻いた優しい風が、桜の花びらをふわりと運んでいく。
本当に綺麗だ。この感動を伝える言葉が見つからないほどに——。
「どうしても腑に落ちねぇことがある」
僕は目線を移すことなく、不機嫌な声色に耳を傾ける。
「俺様や他の連中はともかく、テメェがあの場所に行く理由が理解出来ねぇ。悪りぃがもう一回言ってくれねぇか?」
「”姫”に会いに行く。……ただそれだけだよ」
「テメェの言う”姫”ってのが、昔うちの遊撃隊にいた”雑魚狩り姫”だってことは分かるがよ。あいつぁもう死んだだろ」
「ただの安否不明さ。ただの偽装工作さ。あの人はそんな簡単に死ぬような人じゃない」
「何年経っても音沙汰がねぇ。噂すら耳にしねぇ。かといって、あのイカれ野郎が剣を捨てて隠居するってのもありえねぇ」
「だからだよ」
桜吹雪に包まれながら、俺は朗らかに微笑んだ。
「あの人のことだ。きっと今もどこかで戦っているのさ。名を変えて、姿を変えて。重荷を背負わず、何者にも縛られず。風のように自由で、桜のように美しく。だからきっとあの場所にも——」
「……なぁ、オメェよぉ」
「これがただの妄想だとでも言うつもりかい。全てはもうじき分かることさ」
「……ハァ。あのクソッタレ連中の中じゃ、珍しくまともな奴だと思ってたが、どうも俺様の見当違いだったみてぇだわ。テメェほどイカれてる奴は聞いたことがねぇ」
ひどく落胆した声。まるで重症を負った兵士を見捨てる軍医のように、彼は僕の安否に興味を失ったようだ。
それが少し寂しい気がして、それが少し悲しい気がして。
柄にもなく、僕は再び彼の興味を引こうとしてしまった。
「イカれてなきゃ、今の僕はここにはいないよ——」
この美しい景色と同じように、この美しい戦争も間もなく終わるだろう。
この桜の花びらと同じように、僕たちの命も間もなく散りゆくのだろう。
それが運命なのさ。ずっと前から気づいていたことさ。
次の時代がやってくるのだ。限られた土地と資源を奪い合う戦争の時代から、魔物の勢力圏を開拓する冒険の時代へと。
勇者が現れた後の時代から、勇者が現れる前の時代へと。
そしてそこには、僕たち人殺しの居場所なんてないのだろう。
だからこそ、最後はみんなで殺し合うのだ。
「……綺麗だな」
春風に散る桜を見上げていた。
この世のものとは思えないほどの幻想的な光景に心を奪われていた。
まるで吸い込まれそうになる感覚とともに、意識が現世から離れていく。
様々な記憶がフラッシュバックしていく。
母が枕元で読み聞かせてくれた絵本の記憶。幾多の困難を乗り越えて魔王を打ち倒した勇者の話を、目を輝かせて聴き入っていたものだ。
古い魔導書を読み漁り、必死になって魔法の練習をした少年期の記憶。今となっては使い道のない対魔物用の古代魔法を、必死になって覚えようとしたものだ。
身支度を整え、母に最後の挨拶をした時の記憶。対人魔法よりも上位の、対物魔法を扱う工兵として訓練を受けるのだと喜ぶ僕に対して、母は悲しそうな表情で頷いたことを覚えている。
膨大な量の課題に四苦八苦していた学生の頃の記憶。最初に習った魔法が自爆だったことには驚いたが、古の時代では禁忌とされた命を削る術式を、当然のように教わったことに一番衝撃を受けたものだった。
工兵としての初仕事だった輸送隊の護衛任務。期日に遅れないようにと、ひたすら馬車の進路先を整地するだけの、退屈な作業だったことを覚えている。
そして、僕の経験した初めての戦争。忘れもしない三度目の輸送任務。
補給線を遮断しようと企んだ敵軍が、僕の輸送隊へと奇襲攻撃をかけたのだ。こちら側は後方勤務の新兵ばかりだったのに対して、敵は実戦経験豊富なプロの遊撃隊だった。
まるで木枯らしに吹き飛ばされる枯れ葉のように、仲間たちが次々と殺されていったよ。
みんな僕を守ろうとしていた。替えの効く自分達とは違い、お前は貴重な工兵なのだと。ここで死なせる訳にはいかないのだと。
そんな彼らを僕はただ見ていることしか出来なかった。
……工兵は戦わなくてもいい。戦うのは才能の乏しい下級兵士の仕事なのだと教わってきた。
酷い無力感と、抗うことの出来ない絶望。
断末魔の悲鳴に満たされた地獄の中で、僕は静かに目を閉じた。
「的中だわ。この辺りが臭いと思ってたのよね」
自爆魔法の術式を組み上げたその時、不気味なほどに楽しそうな笑い声が暗闇の世界に響き渡った。
僕は思わず術式を解き、何が起こったのか確かめるために瞼を上げる。
そこには相変わらず剥き出しの地獄が広がっているだけだった。
ただ一つ、奴らの立場が逆転していたことを除けば。
「あははっ。結構生きが良いじゃない。あなた達みたいな人、久しぶり」
血に飢えた怪物たちは、皆一様に一人の女性に目を向けている。
彼女の足元には既に奴らの死体が何人も転がっていた。
血塗られた刺突剣を片手に、彼女は再び空を舞う。
完成された戦法。手掛かり足掛かりを与えない鉄壁の立ち回り。……完璧な合理性。
それはまるで滑らかに踊る蝶の舞のようで。必殺の毒を宿した蜂の一撃のようで。
奴らはそれに魅せられて、自ら命を差し出しているかのようで——。
春風に散る桜を見上げていた。
活力を沸かせる激しい風が体を叩く。それと同時に、深紅の欠片が視界いっぱいに舞い踊る。
そして地上に降り立った希望の光が、再び息を整えて逃れられぬはずの運命へと飛びかかっていく。
初めてだよ。こんなにも美しいものを目にしたのは。
「チッ、撤退だ!」
「あら、意外に腰抜けなのね。がっかりしちゃうわ」
奴らの数が半数を割ったところで、リーダーらしき男が指示を出す。それと同時に、群れた死神が踵を返して去っていった。
僕は心を奪われていた。呪いをかけられていた。
彼女の標的が僕に代われば、喜んでこの身を捧げてしまうほどに心酔していた。
ただの白昼夢だろうか。それとも、僕は既に殺されていて、夢の世界に迷い込んでしまったのだろうか。
まるで魂が抜けてしまったかのように呆然とする僕の前に、彼女は興味深そうに近づいてきた。
「何してるの? もう楽しい時間は終わったのよ」
「何者……ですか……?」
「私? さあね。みんな陰で”雑魚狩り姫”って呼んでるみたいだけど。ただの遊撃隊の下っ端よ」
「”姫”……?それがあなたの名前ですか……?」
「好きに呼ぶといいわ。姫だろうが王妃様だろうが、ご自由にね」
そう言って彼女は僕の左腕へと視線を移す。
そこには兵士としての階級を表す紋章が縫い付けられていた。
「あら、あなた工兵なのね」
その言葉が何を意味しているのかすぐに察した。
戦いもせずに突っ立っているだけの腰抜けは気に食わないから殺そうとでもいうのだろう。
僕はそれを受け入れる覚悟は出来ていた。そして下級兵士に生まれ変わり、あなたのように戦えるようになりたいと願っていた。
しかし、彼女の口から発せられた言葉は、その予想を遥かに超えたものだった。
「丁度良かったわ。この前うちのとこの工兵ちゃんがドジ踏んでね、新しい子を探してた所なのよ」
そして彼女は血に染まった右手を差し出してこう言った。
「来る?」
僕は迷わず、ゆっくりとその手を取った——。
凄まじい爆音と、激しい地震。
意識が過去から現在へと呼び戻され、体に叩きつけられた熱風に怯む。
桜の花びらが、まるで危険を知らせているかのように逃げ去っていく。
僕も彼も、先程の爆発で空高くに噴き上がった噴煙に目を奪われていた。
「戦略魔法じゃねぇか! まだ使えるやつが残ってやがったのか!」
「始まったんだ。全ての戦争を終わらせる戦争が」
「あんなもんあるなんて聞いてねぇぞ! クソがっ! 俺様の戦いに余計なもん連れてきやがって!」
「いや、心配はいらないさ。戦略魔法を扱える人間なんて、国中から集めても精々五、六人くらいだろう。それにあの魔法の本質は自爆だ。二度とは撃てないよ」
国が保有する最大にして最強の切り札、戦略魔法。人間が創り出した最悪の魔法。
この戦争を泥沼化させた元凶にして、これまで全兵力を結集させた決戦が出来なかった理由でもある。
それを開戦と同時に惜しみなく使ってくるってことは、つまりそういうことなのだろう。
再びの衝撃と爆音。
あれだけ艶やかだった桜の木も、二度に渡る余波によって色彩を失ってしまった。
そして冷酷な現実だけがこの場所に残される。
「俺様の出番はいつだよ。あれを全部撃ち終わった後か?」
「命令待ちさ。そろそろ彼が戻ってくるんじゃないかな」
僕は振り返り、司令部へと続く獣道を確認する。
そこには人影はおろか、全ての生き物が死に絶えてしまったかのような静寂だけが存在していた。
「どこ見てやがる。来やがったぞ」
その言葉の主を一瞥し、彼の目線を辿る。
いつの間にか、かなり近くまで迫っていた。律儀にも道を使わず、森の中を突っ切って来ていたようだ。
「ハァ……ハァ……ちょっと待って……」
「よう情報屋。あのクソジジイどもはなんて言ってたんだ?」
酸素を取り込むのに必死な姿を気にすることもなく、彼は今にも倒れそうな男に詰め寄る。
すると男はおもむろに指を三本立てる。
「まず一つ目。俺たちはここから大回りして敵司令部を襲撃。壊滅後は敵戦列を後ろから強襲。可能な限り戦果を上げろだ」
「遠回しにめんどくせぇんだよ。要は死ねってことだろうが。くだらねぇ」
僕も彼も動揺はしなかった。それはここに連れてこられた時から分かりきっていたことだったからだ。
「二つ目。これは極秘情報だが、司令部ではこの戦いにおける全軍の消耗率が八割以上になると見積もってやがった」
「んなこたぁ言われなくても分かってんだよ。もうちっと気の利いた情報を仕入れて来やがれってんだ」
戦後に軍部が政権を握らないように、今のうちに力を削らされているのだろう。
軍国主義者が平和を謳うなど、矛盾も甚だしいからな。
「最後、三つ目。後方の警戒網が敵の遊撃隊に破られた。このままだと司令部が丸裸だ。今他の遊撃隊が対応に向かってる」
「そりゃあいいじゃねぇか。獲物を横取りされる心配が減ったってわけだ」
「……”姫”だ」
僕は誰にも聞こえないように、静かに呟いた。
なんだ。そっちにいたんだ。
確かにあの日、戦果を上げるにつれて余計なしがらみが増えたと嘆いていたからね。
金と宝石で出来た鳥籠に入れられるのならば、積み上げた栄光をあっさり捨てて、自らの信じる自由を選ぶ。
本当に彼女らしい選択だ。いや、こんな美しい決断は彼女にしか出来ないだろう。
僕は司令部に続く獣道の先を見つめていた。
いっそのこと全てを投げ出して、彼女の元へと向かってしまおうとさえ思ってしまっていた。
でもそれは余りにも恐ろしかった。出来れば最後まで耳を塞いだまま死にたかった。
あなたが僕の中で生き続ける限り、僕はあなたのように強くいられる。
この狂った世界で、安心してイカれていられる。
僕は強くなれただろうか。あなたのように迫り来る闇を切り裂くことが出来るだろうか。
僕はあなたに挑む権利があるのだろうか
それらはきっと、最後の瞬間になれば分かるのだろう。
ならば僕は生き残ってみせるさ。限界まで生き残って、最後にあなたと戦いたい。
僕は腰から使い古された刺突剣を抜き、彼女に対して暫しの別れを告げた。
「いつまで寝ぼけてんだよ。置いてくぞ」
「……ああ」
彼に続いて僕たちは走り出す。
その足取りはまるでピクニックに行くかのように軽やかなものだった。
今回は長丁場になる。魔法は身体強化に絞るべきだろう。
立ち回りはいつも通りでいい。勇敢な彼が敵を陽動し、僕たちは端から切り崩していく。
同時に相手するのは二人までだ。それ以上になったら後退しつつ足並みを崩し、出る杭から順番に狩っていけばいい。
消耗せず、なるべく早く。それが出来なければ後退する。
後退出来なければ時間を稼ぐ。それも無理なら相打ちに。
格上ならば手傷を負わせる。それすら出来ないならば可能な限り消耗させる。
戦い方、考え方、そして命の捨て方。これらの全ては彼女が僕に教えてくれた物だ。
「どうしたの? そんなに考え込んで」
彼女の声が聞こえた気がした。それでも僕は前だけを見続けながら走り続ける。
「考えてても仕方がないわ。戦い方を身につけるのなら戦うしかないの。慣れてくれば楽しめるようになるわ」
「ああ、楽しいよ。強くなるって楽しいね」
存在しない彼女の声へと返事をする。
これは僕の受けた呪いだ。人間の持てる力の中で、ただひたすらに強さを求め続けてしまう催眠にかけられている。
「私はただ楽しいから戦っているのだけれど、あなたは違うの?」
「そうだよ。僕はただ強くなりたいだけなんだ」
彼女は首を傾げる。しばらく考え込んだ後僕に尋ねた。
「なんで?」
「強くなりたいから強くなりたいのさ」
そうだ。僕は強くなりたい。ただそれだけなんだ。
そうじゃないと意味がない。そうでないと意味はない。
「だってさ」
「ん?」
面と向かって言うのは流石に恥ずかしいが、僕は意を決して本音を語った。
「そうじゃないと、こうしてずっと肩を並べていられないから——」
春風に散る桜を見上げていた。
絶望を含んだ激しい嵐が体を叩く。それと同時に、殺意の欠片が視界いっぱいに映り込む。
そして地上に降り立った僕は、再び息を整えて逃れられぬはずの運命へと立ち向かって行く。
もう一度だけでいい。あの美しい彼女を目にしたい。
感想待ってます。