浴衣の彼女
毎週水曜日頃更新予定
全8回
そして、翌日。
予定より二十分も早く駅に着いた匠は、ぼんやりと改札から出てくる人の波を眺めていた。
浴衣を着た男女や家族連れ。四、五人のグループなど、皆楽しそうに話しながらぞろぞろと花火大会の会場である公園の方へ向かって歩いていく。中でもとりわけ目立つのが浴衣姿のアベックたちだ。楽しそうにはしゃぎながら、あるいはしっとりと寄り添って、歩いていく。
(…いいなあ…)
ぼんやりとそれを見ているうちに、何となく匠の期待感も高まっていく。
(…あいつも、もっとその気になれば綺麗になると思うんだけど…)
ぼんやりと眺めている浴衣姿の女の子に、瑞貴の姿を重ねる。昨日ちらりと見てしまった瑞貴の白いうなじが思い出され、思わず匠は赤面した。
「なーに鼻の下のばしてんの?」
不意に、間近なところで瑞貴のからかうような声が聞こえ、匠を現実に引き戻した。
「あ!? え!? な、何言ってんだ…」
振り返って言い訳をしようとした匠の声が途中で止まる。
瑞貴が浴衣を着ていたのだ。匠は一瞬自分がまだ妄想の中にいるのではないかと疑った。
「な、何よ、そんなにおかしい?」
ぽかんと口を開けたまま見つめている匠に、少し恥ずかしげに頬を紅く染めながら瑞貴がすねたような声で言う。
「あ、いや、まさか、そんな格好でくるなんて思ってなかったから…」
いつもの軽口も忘れ、かすれたような声でそう答えるのがやっとだった。
「だって、どうせなら気分出したいじゃない? あたし、花火見に行くのって初めてなんだ」
少し照れたように、わざとはしゃいだ声で瑞貴がそう答え、はにかんだ笑みを浮かべる。
「悲しき受験生はどうしたんだよ」
「んー、ま、いいじゃん。たまには息抜きも、ね」
そう言って瑞貴はウインクして見せた。
「調子いい奴」
匠は内心の嬉しさを隠すように、精一杯、呆れたような声でそう言ってみせた。
花火大会の会場になっている公園は野球場や陸上競技用のトラックもあるというかなり大きな公園なのだが、それでもたくさんの露店が軒を連ね、数え切れないほどの人々がひしめいている今の有様では少し手狭に思えてくる。
「うーん、なんかひいちゃうなぁ」
人混みを見て圧倒されたのか、瑞貴が呟く。
「…俺も。こんなに、すごいとはね…」
匠も実はあまり人混みは得意ではないのだ。だが、途中ではっと気がついてあわてて付け加える。
「ま、いいじゃん。たまにはこういうのも。い、行こうぜ」
ここまで来て「帰ろう」などと言われたら大変だ。
「わ、ち、ちょっと待ってよ! ったく、何はしゃいでんだか。大人げないなぁ」
匠はぶつぶつ言う瑞貴の手を取ると、強引に人混みの中に割り込んでいった。
「あ、あれやってもいい?」
瑞貴が綿菓子を食べながら射的の露店を指さす。
「…どーぞ」
半ば呆れ顔の匠が答えるが、既に匠の答えを待たずして瑞貴は射的屋に行ってしまっていた。
匠は今、手に金魚すくいでとった金魚、ヨーヨーすくいでとったヨーヨー、たこ焼き、リンゴアメ、その他訳の分からない品々を持たされ、すっかり荷物持ちにされていた。
(…自分が一番はしゃいでるじゃんか)
楽しげに射的をやっている瑞貴を少し離れたところからぼんやりと眺めながら、匠は思う。
弘樹が「伝授」してくれた計画には、「露店の建ち並ぶ所をぶらぶらと歩きながら、次第にしっとりとした雰囲気になっていく」というのがあったのだが、これではとても「しっとりとした雰囲気」にはなれそうにない。
(…ま、あいつが楽しんでるからいいか…)
考えてみれば、友達として付き合い始めてからもう三度目の夏を迎えているというのに学校以外の場所で会うのはこれが初めてで、こんなにはしゃいでいる瑞貴の姿を見るのもまた、初めてだった。
「おや、こんなところで。奇遇ですなぁ」
いきなり声をかけられて振り返ると、浴衣姿の弘樹がぐいっと体を寄せてきた。少し離れたところに、やはり浴衣姿の女の子がこっちを見て立っている。どうやら、あれが弘樹の今日の相手らしい。匠が学校で見かけたことのある顔ではなく、また、この前弘樹が一緒にいた女の子とも違っている。一体、弘樹には何人の相手がいるのだろう。
「おまえ、何でそんなカッコしてるわけ?」
弘樹がささやくように言う。
「何でって…」
「向こうはちゃんと浴衣着てんじゃねぇかよ。ったく気の利かねぇ…それに、何ぼさっとつっ立ってんだよ、かっこいい所見せるとか、何とかあるだろ」
そう言いながら弘樹は射的をやっている瑞貴を目で指し示す。
「だ、だっておまえ、露店を見ながらしっとりとした雰囲気にって、自分で言ったんじゃ…」
「アホか、おめーは。そんなもん臨機応変に対処するに決まってるじゃねぇか! 大体ここで一人で黄昏てたって…」
弘樹はそう言いかけて口をつぐんだ。射的を終えた瑞貴が戻って来たのだ。
「あ、弘樹君。弘樹君も来てたんだ」
「よお、珍しいな、こんなとこで。しかも、色っぽい浴衣なんて、さ」
そう言いながら弘樹が瑞貴を値踏みするように見つめる。瑞貴はその不躾な視線に恥ずかしげに頬を紅く染めた。
「やだなぁ、弘樹君だってそうじゃない。そだ、これから一緒に花火見ない?」
「悪いけど、野暮はなしってことでね。お互いに」
瑞貴の提案に弘樹は「お互いに」というところをわざと強調するようにそう答えてにやりと笑い、少し離れたところで所在なげにしている女の子を親指で指差した。
「…あ。そ、か、ごめん」
瑞貴がはっとしたように言う。
「いや、それはお互い様さ。じゃ」
またも「お互い様」を強調しつつ、弘樹は女の子の所に戻っていく。
「…お互い様、だって」
人混みに紛れていく弘樹たちを見送りながら、ぼそりと瑞貴が呟いた。匠は瑞貴の後ろ側にいたので、その表情は伺えなかった。
(弘樹の奴、露骨すぎるんだよ!)
一体、瑞貴はどういう気持ちでそう言ったのだろう。
どうしよう。ばれたのだろうか。もし、断られたら?
様々な思いが頭をよぎる。
「なんか、勘違いしてるよねー」
急に、振り返った瑞貴が笑いながらあっけらかんと言う。
思わず匠はこけてしまいそうになった。何のことはない、瑞貴は別に弘樹の言った言葉の裏の意味などこれっぽっちも理解していなかったのである。
(…に、鈍いというか…)
匠は気がそがれる思いだった。
(…ま、瑞貴らしいと言えば、瑞貴らしいけど…)
だが、内心少しほっとしていたのもまた、事実だった。
ボン、ボボン。
低い音が、あたりに響く。
花火の開始を知らせる合図だ。
「あーっ!! もう始まっちゃう!! 行こ、匠!」
「わ! おい、そんな急に引っ張るなって…」
その音で素っ頓狂な声を上げた瑞貴は、ぼんやりと物思いに耽っていた匠の手を取ると、カンカンと下駄の音をさせながら花火の打ち上げ会場である陸上競技場へと走り出した。