行こか戻ろか
その夜。
「…はあ…」
匠は受話器を持ったまま大きくため息をつくと、それを元に戻した。
これでさっきからもう十度目だ。昼間、弘樹に色々と言われたあげく、とうとう瑞貴を日曜日の花火大会に誘うことを約束させられてしまったのだ。
『実力行使あるのみ、だぜ』
別れ際に、ウインクしてそう言った弘樹の顔が目に浮かぶ。
「…大体、どうしてそんなことしなくちゃなんないんだよ…」
電話を恨めしげに見つめ、匠はそう呟く。
それにしても、女の子の所に電話をするのがこんなにも大変なことだとは。
何て話そう、だとか、どう誘ったらいいのか、とか、向こうの親が出たら何か変な風に思われるんじゃないか、とか。
そんなことが次々と頭をよぎり、そのたびにダイヤルの途中で受話器を置いてしまうのだ。
(…やっぱ、止めようかな…)
ほとほと疲れ果ててしまった匠は、受話器を見つめてそんなことすら思う。
ピロロロロ…
その時、ちょうど見つめていた電話が鳴った。半ば反射的に匠が受話器を取ると、聞き慣れた声が聞こえてきた。
瑞貴だ。
「あ、夜分遅く申し訳ありません、藤代さんのお宅でしょうか、私、匠さんの友達の…」
「お、おう。俺だよ。何、どしたの?」
普段は「匠」と呼ばれているのに、「匠さん」などと呼ばれると何かくすぐったいような気分になってくる。それに、普段の話し方からは全く想像できないようなきちんとした態度に、今まで知らなかった意外な側面を見た気がして、昼間、馬鹿にした顔で『へーえ』と言った弘樹が、思っていた事が何となく分かったような気がした。
(にしても、すげえ偶然もあるもんだな…)
何とか平静を装ってはいるが心臓はドキドキと早鐘のように打っている。
友達付き合いを始めてから三年目になるのに、お互い、相手に電話をかけたことなどなかったのだ。
「あ、匠? あのね、今、弘樹君から電話があってね、匠んとこへ電話しろって。何か用があるからって。何なの?」
(…そう言うことか…)
さすがに良く匠の性格を分かっているというか何というか。匠は弘樹の手際の良さに半ば呆れつつも感心してしまう。
「もしもし? 匠?」
受話器の向こうから瑞貴の怪訝そうな声が聞こえてくる。
「え? あ、い、いや、明日、花火大会があるだろ? それに、行かないかって事なんだ」
ほとんど咄嗟の勢いというやつで、さらっと言ってしまえた。
「花火大会? いいの? 遊んでて。悲しき受験生でしょ?」
「う、ま、まあ、そうだけど…」
確かに、それを言われると弱い。
(…やっぱな…ま、一応誘うことは誘ったし…)
弘樹に対して言い訳は立つ、などと妙なことを考えていると、
「いいよ、行こ。どこで待ち合わせ?」
と言う瑞貴の返事。
「へ?」
すでにあきらめていた匠は、予期せぬ返事にかえってとまどってしまう。
「いいよって言ったの。どこで待ち合わせる?」
良く聞こえなかったのかと思ったのか、瑞貴が繰り返す。
「いや、聞こえてはいるんだけど。…そうだな…」
「あ、ちょっと待って…」
電話の向こうから何かを探すようながさごそという音が聞こえる。
「…メモ用紙…メモ用紙…っと。はい、どうぞ」
「…六時半に、駅の改札ってのは?」
「OK。じゃ、その時…ね」
「ああ。遅れんなよ」
「それはこっちの台詞だって」
カチャン。
受話器を置いた匠は、暫く放心したように立ちつくしていた。心臓がまだドキドキいっている。いつもの軽口まで言ったくせに、内心はひどく緊張していたのだ。
「ちょっと、いつまでそこにいるつもり?」
電話のそばでぼーっと突っ立っている匠に、少し離れたところで腕組みをしてこっちを冷たい目で見ている妹の千夏が、いらついたような言葉を投げかける。
「い、いたのか」
一体、いつから見ていたのだろう。匠は決まりの悪さを感じた。
「用が済んだんだったらとっととそこをどいてってば! ったくもう、あたしだって電話使いたいんだから…」
千夏がついにかんしゃくを起こし、ドスドスと足音荒くこちらにやってくる。千夏が怒鳴る度に肩ぐらいまでの長さのセミロングの髪がさらさらと揺れた。このつやつやで柔らかな髪は千夏の自慢の髪だった。
妹の千夏は現在中学二年生なのだが、小柄で華奢な外見に似合わずかなりきつい性格で、いつの頃からか匠はその尻に敷かれるようになってしまっているのだ。
匠は早々に自分の部屋に退却することにした。