悪友
「瑞貴ぃ、おでこん所、赤くなってる」
帰り支度をしていた瑞貴に、匠が自分のおでこを指で差しながら言う。
「え? うそ、やだなぁ」
鞄に荷物を詰めていた手を止め、瑞貴がおでこに手をやる。
「馬鹿みてーに眠ってるからだろ。暫くすりゃ戻るよ」
おでこに手をやり、ごしごしとしきりにこすっている瑞貴に、苦笑しながら匠が言った。
大体、こすってどうなるというんだ。
そう、匠は思った。
ピークは過ぎたようだが、外はまだうだるような暑さだ。玄関から外に出た匠は額に手をかざし、目を細めた。校庭は陽炎でゆらゆらと揺らめき、午後の日差しで照らされて白っぽい風景はまるで露出オーバーの写真のようだ。相変わらず続いている蝉の鳴き声が暑さに花を添えている。
「あっつー。こういう時は、バッサリとやりたくなるわね、この髪」
そう言いながら瑞貴が長い黒髪をゴムで束ね、ポニーテールにする。あらわになった白いうなじが少しまぶしく、匠は目をそらした。瑞貴は学校に自転車で通学しているのだが、自転車に乗っていると長い髪が邪魔になるのでこうしてまとめるのだ。ずっとまとめていないのは、後ろに引っ張られるような感じがするのがあまり好きではないせいらしい。
「そ、その分冬はいいんだろ。それに、そうしょっちゅう切りに行かなくても済むじゃんか」
匠が照れ隠しにそう言う。
「んー、ま、あたしはそうだけどね、ホントはちゃんと切りに行ったりしないといけないみたいだけど。そんなのめんどくさいし」
そう言いながら瑞貴が前髪を掻き上げる。
「長い方がよっぽどめんどくさいんじゃねぇの?」
「…そうかもね。じゃ、思い切って今度切ろっかな」
束ねた髪をつかんで見つめながら、瑞貴が呟く。
「あ、い、いや、俺はそのままでいいと思うけど」
「何よ、切れって言ったの匠じゃない」
ちょっとふくれた表情で、瑞貴が言う。
「お、俺は別にそんな事言ってないぜ」
「何やってんだよ、お二人さん。こんなクソ暑いところで。痴話喧嘩かぁ?」
そこへ、弘樹が話に割り込んできた。さっきまでぐたっとなってずっと居眠りをしていたというのに、今はまるで生まれ変わったように生き生きとしている。口では「クソ暑い」などと言っておきながら、暑さなどまるで関係ないかのように元気な笑顔を浮かべていた。匠から見ればうっとうしいばかりの肩まで届く長髪を後ろで止めた弘樹は、身長こそ長身の匠に少し及ばないが、その分すばしっこそうな外見をしており、またその外見を裏切らなかった。その上、同じく高三で夏期講習を受けている身分であるにもかかわらず、弘樹の肌は浅黒く日焼けしている。
一体、どこで遊んでいるのだろうか。いや、そもそもどこにそんな暇があるのだろう。
「何言ってんのよ。それより弘樹君、なんか日焼けしてるみたい。海にでも行ったの?」
同じ疑問を抱いたのか、瑞貴が尋ねる。
「まあね」
「いつ?」
瑞貴が続ける。
「先週」
「先週って…模試…」
そう言いかけた匠を弘樹が遮る。
「さぼりさ。あんなもんどーだっていいんだよ。模試で受かる訳じゃないんだからな」
そう言って弘樹がにやりと笑った。
「…あいかわらずだな」
半ば感心すらして、匠が呟く。匠と弘樹は中学生の頃からの付き合いなのだが、弘樹の遊び癖は昔っからこんな風で、それでも同じ高校に合格してしまうあたり、匠が馬鹿なのか、それとも弘樹が要領がいいのか。当時、匠は喜び半分の複雑な気持ちになったものだ。
「ま、色々と忙しくってね、あんな暇なことはやってられないのさ」
「どうせ女の子と遊んでたんだろ」
多少のやっかみも込めて、匠が言う。
「それも立派な用事さ」
弘樹が肩をすくめて見せた。
「じゃ、あたし、帰るね」
二人が話し出すと、瑞貴がそう言って二人から離れる。
「あ、ああ。気ぃつけて。ぼーっとしてて、壁につっこんだりするなよ」
「だーれが」
からかう匠にそう答えると、瑞貴は自転車置き場の方へ向かった。
「お邪魔だったかな?」
去っていく瑞貴を見送りながら、頭の後ろで両手を組んだ弘樹が呟く。弘樹は瑞貴が二人の話の邪魔にならないように気を使ったのでは、と言いたいのだ。
「何言ってんだよ、全く。…多分、暑いからだろ。あいつって、そういう奴じゃん」
「妙に分かったような言い方だな」
「そりゃ…もう友達付き合い始めて、三年目だし」
匠は心なしか「友達」という所を強調して言う。だが、それは自分でも意識しているわけではなかった。
「へーえ」
弘樹は馬鹿にしたような目で匠の方を見る。
「な、何だよ」
「別に。大したもんだって感心してるのさ。それより、もう、キスぐらいした?」
そう言いながら弘樹が意味ありげににやりと笑う。
「はぁ!? キ、キスぅ!?」
つい、大声を出してしまう。あわてて辺りを見回すと、そばを通りかかっていた女子生徒たちが興味津々といった様子でこちらをちらちらと見ながら通り過ぎていく。弘樹はそんな女子生徒たちに手を振って、にこやかな笑顔を向けていた。
「お、おい、何言ってんだよ、大体…」
「好きなんだろ」
「そ、そんなんじゃ…」
「好き、だよな」
しどろもどろにごまかそうとする匠を弘樹が大声で遮る。相変わらず、近くを通り過ぎる生徒たちが興味深そうにこちらを見ていくが、弘樹はいっこうに気にする様子もない。どうやら、それを計算に入れてわざと大声を出しているらしい。
「好き、なんだな」
今度は念を押すように、弘樹が尋ねる。
うつむいた匠は耳まで真っ赤になりながらこくりと小さく頷いた。とたんに弘樹がにんまりと笑う。
「そう来なくっちゃな。で、どうすんだ?」
「ど、どうって?」
「鈍い奴だな、告白するとか、そういうのに決まってんだろ」
呆れたような表情で弘樹が言う。
「ま、まだそんなこと…第一…」
恥ずかしげにうつむいて匠は歩き出す。
「まだって、もう三年目だろ? お前ら。それで、今まで一度もなーんにもなかったわけ? もう行く所まで行ってたっておかしかないぜ、普通」
「…だって、別に、恋人とかそういうのじゃないから…友達、だから」
「じゃ、お前はそれでいいのかよ? 友達だからって言って、それを言い訳にして、白黒つけることから逃げてるだけじゃないのか?」
「…」
俯いたまま、匠は何も言えなくなっていた。確かに、弘樹の言っていることは当たっていた。怖いのだ。本当は。少なくとも、このままでいれば失わなくて済む。恋人じゃなくても、友達なら、他人よりはいい。いつも、匠はそう思っていた。
「…俺だって、いつかは…その…言うつもりでいたよ」
「告白」という言葉は何となく喉に引っかかり、すんなりとは出てこなかった。
「卒業式の後、体育館の裏に呼び出して、とかいうんだろ?」
驚いた表情で弘樹を見つめ、心の内を見透かされて真っ赤になって何も言えなくなってしまっている匠を見て、呆れた表情でさらに続ける。
「図星、か。…あほか? まだ八月だぜ? 三月の卒業式まで、一体どれだけの時間があると思ってるんだ?」
「だ、だけど、今年は受験があるんだぜ、そんな時に…」
「甘ーい! 甘い、甘い! そうやってると、いつの間にか別の男に取られたりするんだぜ。こーいうのはな、勢いで押しまくるんだよ」
弘樹はオーバーに首を振り、それからがしっと匠の両腕をつかむと、そう力説する。
「い、勢い…」
「そー。勢いだ。押せ押せ押せ押せ押しまくれってな。で、さしあたって、だ。日曜に花火大会があるのは知ってるな?」
「あ、ああ…」
「そこに渡瀬を誘って、後はこれから俺が伝授してやる通りに事を運べばバッチリだ。うまくすれば初Cもいただけるかもしれないからな、ちゃーんとアレは…」
「そ、そんなのいらないよ!」
「? 何言ってんだ、アレは男の思いやりだぞ。大体、この年で足枷は欲しくないだろう?」
キョトンとした表情で、弘樹が諭すように言う。
「だから、そんなことはしないっつーの!!」
匠は真っ赤になって我知らず叫んでいた。