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「人助け」の暴力  作者: 小島 剛
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取材という暴力

 まだ、私が日本学術振興会特別研究員をしていた、2004年ごろ、大学院のゼミでこんな発表をした人がいた。




 ドキュメンタリー映画の分析をしていて、「ショアー」や「ゆきゆきて神軍」について言及していきながら、社会調査者の暴力性について述べるというものである。これでは何のことか分からないだろうから、順を追って説明していこうと思う。

「ショアー」という映画は、ナチスの作った絶滅収容所に収容されていた人々にカメラを向け、インタビューをし、ただ、それを10時間以上延々と続けるという手法をとっている。私は実はこの映画のすべてを見ていない。2日間連続上映だったのだが、さすがにかったるくなってしまい、2日目に行かなかったのである。だが、発表者の方は全部見たようで、特に、映画の最後のほうの、絶滅収容所内で、収容者の髪を切る仕事していたカポーへのインタビューについて言及していた。カポーとは、絶滅収容所内でナチスのために使役されていたユダヤ人のことである。ナチスはユダヤ人を管理するために一部のユダヤ人を使っていた。この映画の特徴は、絶滅収容所に収容されていた人が自分の経験を語ろうとするときにどうしても、訥弁になってしまい、うまく語ることができない様を通してその暴力性の途方もなさを指し示すという点にある。例によって、そのカポーもうまく収容所での自分の経験をうまく語ることができない。そこで一計を案じたショアーの映画監督は、そのカポーにはさみを持たせ、ある人の髪を散髪させながら、当時のことを思い出してもらい、語ってもらおうというのである。発表者によると、その元カポーは泣き出してしまい、泣きながら自分の収容所体験をとつとつと語りだしたという。




 発表者の方は、こういうものの聞き方にある種の暴力性がないか、というのである。あまりにも悲惨な事態に遭遇し、その途方もなさをすらすらと論じることができないということは十分に考えられる。しかもそれは決して良い記憶ではない。それを無理にはさみを持たせて抉り出し、白日の下に曝そうというのである。この手法は確かに収容所内の様子を映画の視聴者に伝えることはできる。だが、何らかの狡知を用いて、収容者から語りを引き出すさまは、「ゆきゆきて神軍」の奥﨑謙三と何が違うのか、というのである。こちらの映画では、ニューギニア戦線で死地をくぐり抜け、地獄の思いをしながら日本に帰ってきた奥﨑が、戦友の不審な死を知り、その戦友が、友軍によって殺され食料にされる様を聞き出していく様子を記録したドキュメンタリーである。この映画ではニューギニア戦線で戦った奥崎の関係者への聞き取りの仕方が異様である。インフォーマント(話を聞かれる側の人)だって自分が友軍や現地人を殺して食っていましたということは、どうしたって言いたくない。そこで奥﨑は、どうしてもしゃべろうとしない、関係者を怒鳴り付け出し、時には馬乗りになって、殴りつけながら、無理やりにでも、自白にもっていくのである。



 もちろん、こんな方法は学者や弁護士には不可能である。調査者倫理や法曹倫理にもとることになるだろう。だが、この映画を見る者は、「でははたして普通に聞き取りをしていたら、この情報を聞き取ることができたかどうか」という問いを突き付けられるのである。だからこの映画は、調査や取材を生業とする者にとっては重大な意味を持っているといえる。




 ゼミの発表者は、こういうのである。社会学者の聞き取り調査とて、カポーにはさみを持たせて証言をとる狡知や、奥﨑謙三の振るう暴力と同じように、インフォーマントから情報を引き出し、それを、編成し、科学という形にまで構造化し、公的な場に引きずり出す暴力的性向を帯びているのではないか、という訳である。





 ややもすれば牽強付会で分かりにくい発表のように見えるかもしれないが、当時、和歌山県最南部を流れる日置川にかかる殿山ダムというダムが引き起こした異常放流を原因とする水害の訴訟の原告住民を「支援」しながら取材していた私には、妙に腑に落ちるところがあった。何しろ、「裁判で正直に話せば、裁判官もわかってくれて、ダム管理者の関電と監督者の関電をさばいてくれるだろうと」ナイーブに思っている、純朴な人々を、裁判所という科学・権力(社会の中で様々な「正しさ」を作り出す仕組み)が高度に構造化された、詐術や欺瞞、保身や欲望が入り乱れる場に引きずり出しながら、「支援」していたからである。




 わたしは、たいていの場合「弱者」に目を向け、社会を見るときにはまずそこを見る。そしてフィールドに介入しつつ、彼らをエンパワーしながら、取材して、論文を書いていく。そういうスタイルをとることが多い。訴訟を取材するにおいて、原告/被告双方とも取材するということはできないから、立場的に弱い原告側からの視点で取材をしたのである。




 しかし、ある意味では、これはひどいことではないだろうか。というのも、いくら、和歌山県日置川流域住民が度重なるダム水害に見舞われていて、危険な状態にあったからと言って、勝手に「科学技術弱者」などと名指し、社会から切り取り、もっぱら、社会学的方法という、私がこれまた勝手に選んだ方法によって、分析し、構造化し、論文にまで仕立て上げ、これまた、鬼がでるか蛇が出るかという科学・権力の場に引きずり出し、さらし者にするのである。これは手放しでほめられることか。



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