悠久
曇り空には淡い色のバラが似合うなと、その古いローズアーチを見て彼女は思った。
「どうぞ、お嬢さん。こちらです」
「あら、ありがとう」
小川の岸辺では紫色の小さな花を多重につけた植物が水に葉を浸している。
「庭園に咲く花は、すべて薬効のある植物なんですよ」
「薬効?」
彼女は小さな頭を傾げた。
墓守のおじいさんが小舟をつないだ板場に彼女をいざない、自分が先に乗ってから彼女に向かって手を差し伸べた。
「私、自分で乗れますわ」
「そうかい?」
疑うおじいさんに、彼女は赤色のエナメルシューズで板場を蹴って、小舟に見事に着地して見せる。
「オールも自分で?」
「もちろんですわ」
二つのオールを武器の様に構える彼女に、おじいさんは苦笑して船から降りていった。
「鍵は持ちました?ええ、結構です。流れに任せればつきますから、迷うことはないでしょう。どうか良い旅立ちを」
墓守の言葉に、彼女はやわらかな笑みを見せた。
水はどこまでも透明で底まで見通せた。川底の砂利の色が透けて見え、小川はどこか黒々としている。小川が流れる湿原は、緑の画用紙に黒いインクをこぼしたようだった。
水草が水流になびいている。
水流に任せて進めばよかったから、彼女はオールを早々に水から引き揚げて船底に横たえ、小舟の船首に座りひたと前を見た。
「どこいくの」
いつのまにか船尾に青年が腰掛けている。彼女はゆっくり振り返ると、緊張が解けた様に、花がほころぶように、ふわりと笑った。
「あなとのもとに」
「そう、まってたよ」
「14年間は長かったわ」
「僕は一瞬だった」
「あなたはね。」
「キミにとってだって。人生の長さに比べたら14年なんて一瞬だ」
「相対的にはそうだけど、時は絶対的だもの。1秒は1秒でしかないし、1年は1年なの。あなたは…」
「そうだね、僕は再生された時の分しか時間を感じない」
彼の姿は青白くぼやけていて、つかみどころがない。
彼女は彼に歩みよって、その手に自身の手を重ねた。だが彼女の手は彼の手をすり抜ける。
「ああ、あなたに抱き着けたらどんなにうれしいか」
「それは無理だね、ぼくは霧に投影されたホログラムでしかない」
風が吹いて、彼の姿が一瞬揺らめいた。
「あなたはいつだって、現実主義ね」
「あいにく、ロマンチックなのは苦手なんだ」
「変わらないのね」
「変わりようがない。米粒ほどのマイクロチップに書き込まれたデータ、それが僕の人格のすべてだ。データの書き換えを行わない限り、性格は変えられない」
「そう言う事を聞きたかったんじゃないのよ」
いじけた様に言って見せてから、彼女は目線を下げて、ふっと小さく息を吸う。
「死ぬって、どう?」
「ねむるようなものだよ」
「私ね、全然怖くないの。なぜかしら。あなたが先に逝っているからかしら」
「長く生き過ぎたせいだよ」
「ロマンチックじゃないのね」
彼女は霧のせいでしっとりとした髪が一房口元に張り付いたのを払って、唇を尖らした。
「そうね、確かに死んでもあなたに会えるわけじゃないわ。だから死ぬのが怖くないのは、あなたが先にいっているから、というわけじゃないわね」
「じゃあどうしてだい?」
「多分、あなたがいない世界を生きるのが、死ぬより退屈だからだと思うわ」
「死ぬより退屈とは変な表現だ」
「死ぬほど退屈と言ったほうがいいかしら」
ふむ、と彼は頷いた。
「…長すぎる生は、退屈を生む」
「あなたがいれば、退屈じゃなかったわ」
「嬉しいことを言ってくれるね」
彼は、そこで初めて頬を緩めた。彫刻の様に怜悧な印象だった彼が、途端に日向の猫のようなのどかさをかもす。
「さて、そろそろみたいだよ」
小川は、巨大な湖に流れ込んでいた。船が向かう湖の中央で、巨大な木が透明な水中に根を張り巡らせている。複雑に絡んだ巨木の根はどこまでも広がり果てがないようにさえ見えた。
「お別れね」
「お別れは、14年前にした」
「あなたにとってはそうね、でもその通りだわ」
技術は人をだますわね、と彼女は苦笑した。
じゃあねと彼女が言うと、彼は最後に、と声を大きくした。
「最後に、抱きしめたい」
彼女は目をすこし大きくした。
「…ロマンチックなのは苦手じゃなかったの?」
「苦手だけど、そう思ったんだ。そういうときもある」
ふふ、と笑って彼女は彼のホログラムに近づいた。唇を最愛の夫に重ねる。
「さようなら」
幸せな顔のまま彼女は墓に近づいて鍵を回した。
かちり
データの移行が完了した音を合図に、墓守は<鍵>を鍵穴から抜き取った。鍵に挿入されたマイクロチップを取り出し、保管ケースに大事にしまう。
「彼女には親族はいなかったな。誰かに再生されることはあるだろうか」
100年間再生されなかったデータは破棄される定めだ。
「死んでしまえばかんけいないか」
データが残ってようと、破棄されようと、死んだ本人にしてみれば関係ないことだ。マイクロチップは遺された人のために在る。
人間は死ななくなった。
再生医療が発達し、細胞の老化から解放された人間は永い時を20代の姿で永遠と過ごす権利を手に入れた。
不老不死は古代から人類の夢だった、らしい。だが、実際手に入れてみると案外ありがたみは薄れるようで、人間はただ単に長い時を漫然と過ごすようになった。
不死は良かった。ただ、不生じゃなかったのがまずかった。
死なないが、増えていくのだ。
不老化社会以前からすでに政治機能を任されるようになっていたAI達は、爆発的な人口増加、それに伴う資源の枯渇・食糧問題に頭を悩ませた。そこで考案されたのが、「寿命」の概念だ。
『200年を限度に、人は死ななければならない』
これが国際法として施行されてから、もう500年になる。
細胞を操作し、不老となった人間は、再生力が強すぎて、普通の怪我や病では死ぬことができない。
唯一、水死させることだけが、寿命を迎える手段だった。
――死は否応なく訪れるものではなく、自ら向かう安寧の地となった。遺された者も、望めばいつでも会える。死は特別なことではなくなった。
死がどうでもいいことになったから、生もしがみつくものではなくなったのだろう。いや、逆か。
今しがた水の底へ沈んでいった彼女の安らかな顔を思い出し、老年期型アンドロイドの墓守は、処理スピードの落ちてきたCPUでそんなことを考える。
―――どうしようもなく流れていく時間。かつてそれは必死に泳がなくてはならない激流だった。それが今は、ゆるゆると流されるままに、漫然と生きて…それは本当に生きているといえるのか。
死に訪れる生者と死者に会いに来る生者の対応をする毎日。データの保管と、破棄。そのうちに、破棄するデータの方が多くなってきて、そして…
「ここはお墓だよ」
墓守は、困ったように眉を下げて、無邪気に笑う女の子に手を差し伸べた。
のびのびと生え繁る草花の中に尻もちをついた、いたずらが見つかって少しバツが悪そうな顔で笑う女の子が、泥だらけの顔を手で拭って顔をさらに黒くした。
「あなた、アンドロイド?」
不老化社会では、アンドロイドの外見は旧時代で言う40代以降に設定されている。区別がつきやすいから、というのと、彼らに管理される人間たちが心理的に反感を抱きづらい、というのが理由だ。
「ええ。ここの墓の管理をしています。」
「お墓?さっきも言っていたけど、ここはお墓なの?」
「国際機関に認定されている記憶人格保管機構第78基地というのが正式名称だがね」
ふーんと不思議そうに、女の子は首を傾げた。
「私、ここに来ればおばあちゃんに会えるって聞いて、来たの。私のおばあちゃんは私の生まれる前に亡くなったのだけれど、みんなが似てる似てるって言うもんだから、一度会いたくて」
「なるほど。おばあちゃんのお名前と、没年月日を教えてくれるかい?」
おいで、と少女に手を差し伸べ、少女の話を聞きながら管理小屋に向かった。
管理小屋に着くと、墓守は保管庫のロックを解除するためのパネルキーを空中に展開させた。
「…?」
空中に青白く浮かび上がった映像はしかし、ブ…ブブ…とノイズを立てて乱れ、数秒後にはプチンと消えてしまった。
「おかしいな…」
「………」
すると、少女が急に「ごめんなさい」と小さく言った。
「みんな、言ってたの。この花畑にはね、お化けが出るって。でもね、知ってるよ。死んだ人には会えないの。…だから、おじいさんも無理して私のわがままに付き合わなくていいんだよ。お芝居してくれなくても、分かってるから」
―――私のCPUもだいぶ錆付いてしまったようだ、少女の言っているこが、よく理解できない。
「ホントは今日はね、お母さんの風邪に効く薬草を採りに来たの。この前急に寒くなったでしょ?お母さん、体調崩しちゃって」
風邪。薬草。
「じゃぁね、ありがとうおじいさん。あ…それからね、おじいさん。首のトコ、皮膚がめくれて機械が覗いちゃってるよ。直してもらったほうがいいかもね。旧時代の遺物はシュウリはできないけどシュウゼンならできるって、道具屋さん言っていたから」
墓守が首を触ると、滑らかな皮膚の感触の代わりに機械の無機質な感触が手のセンサーに感知された。
あぁ、そうか。
墓守は目を閉じた。自分の役割が終わったのを知って、CPUが自動的に休止モードに入ろうとしている。
―――人間は、自分の時間を取り戻したというわけか。
最後に見た少女の姿は、春陽に照らされて、生の輝きに満ちていた。