砂の海と天使
空の上には楽園がある。
そう信じられている。
厳しくて人間に優しくないこの世界。
地上に楽園はないと知った人たちは、あの青い空の向こう、白い雲の上にこそ、それがあるのだと信じたがったから。
そんなの信じていない人も多いけど、そんな人でも空を眺めることはやめなかった。
あの青い空に、みんな憧れていたんだ。
昔の人間たちはあの空を飛んだんだよって、そんなおとぎ話を何度も聞かされた覚えがある。
人が空を飛ぶなんて、そんなことあるわけないのに。
それでもきっと僕たちは、あの空に夢を見続けるんだ。
これはそんな世界の話。
そんな世界での、僕のとある一日が始まり。
いつものように酷い、いやいつもより酷かった日。
これから始まる、人生で一番大事な時間をおくることになった日。
あの日、あの時、あの瞬間。
その日、僕は運命を見つけた。
***
もう、すぐにでも死にそうだ。
砂漠のど真ん中、ようやく辿り着いたオアシスの泉を前に僕は倒れてしまった。
もう疲れで一歩も動くことすら出来ない。
腕すらピクリとも動かせないから、泉まで這って移動することすら出来そうにない。
砂漠に入って、そして当たり前のように迷って、それでもここまで来れたのはとんでもない幸運だ。
きっと僕はついていたのだろう。
ふつう僕のような子供が砂漠に入ってしまったら、きっとすぐに死んでしまうと思う。
でもここまで来れた。
それはきっと、僕に幸運がついていたからだ。
そうでなければ、今ここで僕が生きていられるはずがない。
けれど僕の運はここについた瞬間に消えてしまったらしい。
もうあと少しで水が飲めるのに……。
それなのに、もう動けないだなんて。
くやしいな……。
死ぬのが嫌で足掻いた最後がこんな死だなんて、皮肉にすらなってない無様な終わり。
でも、それも当然かもしれない。
この世界で僕のような弱い子供が一人で生きていけるはずがないのだから。
僕のお父さんとお母さんが死んだ。
父さんは誰かに殺されて、母さんは病気か何かで死んだ。
身寄りをなくした僕のような子供は、孤児院に行くか浮浪児になるか奴隷になるしかない。
僕の住んでいた町に孤児院はなかった。
だから浮浪児になるのかな……なんて思っていたら、人攫いにさらわれて。
そして奴隷として売られることになった。
ありふれた話。
誰も助けてなんかくれないから、僕の運命はそこで終わりだと思った。
でも希望がないわけではなかった。
もしかしたら優しい人に買ってもらえるかもしれなかったから。……小さな希望ではあったけど。
けど奴隷を人とも思ってないようなやつに買われたら最悪だ。
間違いなく人として普通の生活は送れなくなるし、おもちゃにされてきっとすぐに死んでしまう。
そしてゴミみたいに捨てられるんだ。
そんなの、嫌だった。
周りを見てみたら、暗い顔をした子供たちがいっぱいいた。泣いてる子も、何人もいた。
きっと僕も泣いていた。
そして僕たちは砂漠の中にある、とある町に運ばれた。
僕たちを奴隷として売るためだ。
そういう場所があの町にあったから。
何人かいた他の奴隷たちと引き離されて、一人で待たされた。
……そこで、僕の最初の幸運。
僕の手を捕まえていた手錠が壊れて、外れたのだ。
古くなっていたのか、元々壊れていたのかは分からなかった。
でも、それがチャンスなんだということは分かった。
だから、僕は逃げ出した。
他の奴隷の子たちを助けよう……って考えはなかった。
そんなことをすれば絶対に見つかって、僕は殺される。
死にたくない。
悲しいけれど、つらいけれど、見捨てて逃げるしかなかった。
そこで僕の二つ目の幸運。
砂馬がいた。
見張りはいなかった。
だから僕は砂馬を自由にして、とにかく馬を走らせた。
馬の乗り方なんて分からなかったから、とにかく馬の背に乗って必死にしがみついた。
馬は走ってくれた。
僕は落とされないようとにかく必死だった。
だからどこを走っているのかなんて見てられなかった。
そして砂馬は砂漠を走っていた。
走って。走って。
疲れたのか、馬が止まって。
でも僕は捕まりたくないって思いで胸がいっぱいで、馬から降りて、今度は一人で走った。
そこから先はよく覚えていない。
たぶん、走って、倒れて、また走って。
砂漠に入ってから、たぶん二日くらい経ってると思う。
昼の暑さ。そして夜の寒さ。
食べ物もなく水もない。
それなのにここまで生きていられたのは、幸運以上の奇跡。僕の三つ目の幸運。
そして僕の最後の幸運。
このオアシスに辿りつけたこと。
……そこで僕は力尽きた
当たり前のこと。
むしろここまで来れたのが奇跡だったのだ。
何も口に入れずに子供の僕がここまで走ってきたのだ。
むしろまだ死んでないのが不思議なくらい。
僕はここで死ぬ。
それで終わり。
悔しい。
嫌だ。
死にたくない、死にたくない、死にたくない……。
ああ、でも。
死ねば、お父さんとお母さんに会えるかな……。
会えると、いいな……。
そう祈りながら、僕はそっと目を閉じて。
暗闇の中に、落ちていく――。
***
落ちていく――。
まるで暗闇の中にいるよう。
空の城からワタシは落ちる。
大地へ。
下界の底へと真っ逆さまに。
もうワタシは二度とあの場所へは戻れない。
でも、どうでもよかった。
どのみちあそこに、ワタシの居場所はもうない。
ならば落ちた先でワタシの何もかもが壊れるまで、ワタシの活動が停止するまで、ただただずっと、それまで待ち続ければいい。
それだけが、今のワタシに出来る唯一のこと。
――落下予測地点予測開始。
――カラリ砂漠G-LL095ポイント、カラリの泉。
――落下予測地点予測完了。
……このまま羽を出さずに落ちれば、少しはワタシの体もすべて壊れてくれるだろうか。
あの出来損ないが行き着く果て。ワタシの墓場。
あそこでワタシは、いつ死ねるのだろうか。
出来ることならすぐにでも壊れてしまいたい。
近づいた地上を見ながらそう思って、ワタシはこのまま、地上に引っ張られる力に体を任せて――。
――生命反応発見。確認中。確認中。確認終了。
――人間の子供。
***
それを確認した彼女は、自分が死にたがっていたことも忘れて、出すつもりのなかった翼を広げる。
落下の速度は急激に減速していき、頭から落ちようとしていた態勢を逆に直して足を下にする。
ゆっくりと緩やかに、彼女は小さな泉の上へとそっと降り立った。
瞑っていた目を開ける。
泉の前、あと一歩のところで倒れているのは一人の小さな少年。
酷く弱っている。
このままでは衰弱して死んでしまうだろう。
彼女は少年を見る。
人間がいると分かった瞬間、体がとっさに動いてしまった。
自分は壊れたかったのに。
いや、このまま完全に壊れてしまいたかったのに。
それと相反する行動を取ってしまったことに、彼女は混乱する……ような心を持っていない。
だから、なぜなのだろうかと疑問を浮かべることしか出来ない。
壊れたワタシ。
何の意味も残されていないワタシ。
自分はもう、存在する意味をなくしてしまったのだから、早く壊れてしまうべきなのに。
それなのに、なぜ助けてしまったのだろう。
――なぜ、助けてしまうのだろう。
彼女は泉の上から大地に降りて、目の前に倒れている少年を見る。
しゃがんで、泉の水を両手ですくい、啜って口の中に含ませる。
そしてそのまま少年の顔を優しく掴んで起こし、そっとその唇を、彼の唇に重ねて口づけて。
口移しで、直接水を飲ませていく。
口元から零れた水がポタポタと地面に落ちて小さなシミを作る。
水を飲まされた少年は、まるで水と一緒に生命力を入れられているかのように活力を取り戻していく。
そして少年は、目を覚ます。
***
死にかけていたはずなのに。
まだ、生きている。
何が起きたのだろう。
あれだけ苦しかったのに、今はちっとも苦しくない。
それに、なんだかあたたかい。
心地よくて、不思議な感じになる。
もしかして、僕は生きているんじゃなくて天の国に来たのだろうか。
もしそうなら、天の国だからあたたかいのかな、なんて。
そう思いながら、僕は目を開いた。
少年が目を開いた先にいたのは、一人の少女。
少年より年は上だろう。
少なくとも頭二つ分は少年より背が高い彼女が、まだ倒れたままの少年を見下ろしている。
だが年や背よりも、少年の目をひいたものが少女にはあった。
いや、背丈などその不思議に比べれば一切気にする要素にはならない。
彼女は怪我を負っているようだった。
外傷はあまりない少年よりも、遥かに酷い大怪我だ。
半身の皮膚は剥がれ、顔の左半分は皮の下が見えてしまっている。
だが、その体からは血は全く流れていなかった。
これだけ酷い重傷であるというのに、そのことが彼女の人間味を奪ってしまっている。
赤い血の代わりにポタポタと流れ落ちているのは、不思議な油。
そんな彼女の姿を見た少年は、当然彼女に大きな違和感を持ってしまっていた。
“この人は僕と同じ人間なのだろうか?”
……少年は知らない、その目に映っている物を。
彼は知らない、それを何というのか、その言葉を。
地上の人々は知らない、それを指す概念を。
もう誰も知らない、それはとっくの昔に忘れ去られてしまったから。
彼らは、機械を知らなかった。
――血管のように体を走っているケーブルが千切れている。
鋼鉄の骨にはあちこちにヒビが入っていて、強い力を加えれば今にも壊れてしまいそう。
左腕は半ば千切れかけており、人工皮膚により文字通り皮一枚で繋がっている状態だ。
覗こうと思えば、腕の中を覗けるだろう。
骨の間には肉が見えて、それが彼女にはまだ人間の部分が残っているのだということを示している。
内臓部分の抉れた部品がポロリと地面に小さな音をたてて落ちる。
瞼もない露出した左目はより効率的に光を集め、見えないものも見ようと試みた技術が詰め込まれた結果、通常のものとは構成が違っていて。
そして何より彼の目をひかせた、彼女の背にある大きくそして美しい、白い翼。
その姿は明らかに普通の人間のものではなく、こんな様になっても平然としている様子もまた人間らしくはない。
未知の体は少年から見れば化け物と映っているに違いなくて、悲鳴を上げても何もおかしくはないだろう。
けれど少年は特に怖がる様子を見せていなかった。
むしろ少女に対して、いいやこの少女がくれたのであろう“あたたかさ”に、今まで感じたことのない感情がわいてくる。
それはきっと、自分がここまで生きて来れた意味なんじゃないかと、そんな風に思えるもの。
そう、心の穴が埋まるような感覚。
これはきっと良いものだ、この感覚はきっと良いものなのだと、そう思って。
だから彼は、まず口を開いた。
自分でも分からない、不思議な心を込めて。
怖いではなく綺麗だなと、そう思った彼女へと。
言葉を、彼女に渡すため。
「お姉ちゃんは、誰……?」
小さな少年。
助けてしまった少年。
大きな外傷はなかったとはいえ酷く衰弱していて、すぐにでも死んでしまいそうだった。
それを見て、彼女は咄嗟に助けてしまった。
なぜそうしたのか、それが彼女には分からなかった。
そのように自分は作られていないはずなのに、そうしてしまったことに深い疑問を抱いている。
けれど、それと同時に彼女は自分でもよく分からない何かも感じていた。
それが何なのかは、検索しても検索しても一向に出てこなかったけれど。
人間風に言ってみれば、悪くない、ということなのだろうか。
やはり自分はもうとっくに壊れているのだろうか。
……いや、もしかしたら最初から壊れていたのかもしれない。
この不良品の体は、もう。
だからこそ、自分は落ちてきたのだから。
彼女は少年を見る。
自分よりずっと小さな男の子。
きっと弱くて脆くて、すぐに死んでしまいそう。
なぜ自分はこの子を助けてしまったのか、彼女には分からないが、それでも、分かっていることは一つあった。
誰、と聞かれたのだから。
機械らしく、求めには答えねばならないだろう。
彼女の冷たい鉄に、不思議な何かが灯り始める。
彼女は彼の問いに答えるため、口を開く。
無自覚のまま、少しでも彼を安心させようと。
ほんのほんの少しだけ、彼女の奥底に眠っていた何かを、言葉に乗せて。
彼女は知らない、その名前を。
彼女は知らない、機械の身にはありえないものと断じられたその概念を。
彼女は知らない、胸に宿るそのあたたかさを。
――心を、彼女はまだ知らない。
「……ワタシは、あなたの味方です」
***
砂に埋もれた四角い建造物があった。
砂中の奥底で人々のかつての生活の痕跡を残しながら、今も眠りについている。
自分の役目はもうとっくに終わっていて、いくら待っても誰も帰って来ないことに気づかないまま。
飛び出た電柱にはもう何かが流れることはない。
巨大だったはずのビルは半分以上が砂の海に呑み込まれて、窓ガラスはほとんどが割れ砕けてどこにも見当たらない。
忘れられた旧世界の残骸は、今も世界のあちこちに沈んでいる。
けれど、彼らがその役目を果たすことはもう二度とないだろう。
八割以上の緑が枯れ絶え、水は貴重品となった。
オアシスは神の住まう場所であり、入る時には感謝を捧げねばならない。
世界のほとんどを砂が覆い尽くし、そこには未知の砂棲生物が住まう。
雨が降ることすら珍しくなり、もし降ったならば天の恵みだと誰もが喜ぶ。
虹は幸運の象徴であり、見れば願いが叶うとされる。
砂の中を泳ぐ魚はもう珍しくなくなった。
四本羽の鳥が空を飛び、瘤を背につけた肉食獣が砂の上を駆け回る。
船は海の上ではなく砂の上を走るもの。
砂馬とラクダは人間たちの友であり、宝。
砂は、今日も風に運ばれる。
人々の世を、砂が支配する世界。
彼らは朝も昼も夜も砂と共に生活し、砂と共に生きていく。
砂のない青い空、雲の上には楽園があると信じられている世界。
砂がすべてな、そんな世界。
そんな世界で、空から落ちた彼女と少年は出会った。
半人半機の天使な彼女と、小さく弱い男の子。
これはそんな彼ら二人のお話。
彼らが出会って、不思議な運命を見つけてからのお話。
彼ら二人で砂の世界を旅して回り、何かを見つけようとする。
これはきっと、それだけの。
小さく優しくあたたかな。
たったそれだけの、お話だ。