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赤き花の魔睡

作者: 雛子

あの頃の僕は、気持ち悪いほどの花畑でまどろんでいた。

いつまでも同じあかるさでここに在り続ける思い出を、僕はいつも夏の青空と共に思い出す。



朝、いつも僕はドアの鍵を締めて学校に向かう。僕は実家からは電車で二時間以上かかる遠く離れた場所にある高校に通っていて、学校近くのアパートを借りてひとりで暮らしている。小さい部屋一つと、洗面所と、台所のついた狭いリビング。生活し始めて四ヶ月ほど経つ家だ。ひとり暮らしをはじめた当初は料理などの家事をこなせるのか不安だったが、今となっては慣れたもので、僕は主夫に向いているのかもしれないと最近たまに思うのだった。

僕は中学に入学した当初から、高校生になったら家から離れたところにある学校に通学し、ひとり暮らしをしたいと思っていた。両親は共働きで二人とも忙しい人だったためもあり、僕の事は放任していた。そのためもあって、自立したいと思っている事、隣の県のもっとレベル高い高校に通いたいと思っている事を話すと二人とも応援してくれ、快い了承が得られた。

べつに自立したかったわけではない。家の近くの中高一貫校に通っていながら、わざわざ外部受験してまで遠く離れたところにあるレベルの高い高校に通いたくなったわけでもない。

僕は両親の不仲に気づいていた。そのため二人と物理的にも精神的にも距離を置きたかったのだ。両親は二人とも普通以上の収入がある人で、最近では家で顔を合わせてはよく揉めている様だった。

僕は他人に必要以上に干渉するのが嫌だったため両親の問題を解決しようはせず、二人と距離を置く事を選んだのだった。この事はもちろん両親には言ってはいない。

偏差値の高い高校でないと両親は僕の受験を納得してくれないだろうと思い、毎年国立大学への合格者をたくさん輩出していて人気のある高校を第一志望にした。そして中学三年間塾に通って頑張って勉強した甲斐もあって、補欠だったがなんとか合格することができた。

僕は学校の寮に入るのが嫌だという事を両親に話した。寮に入ると行動が制限されるし、二人一部屋だと聞いていたからだ。うちはお金には余裕があったため、両親がアパートを借りてくれた。ひとりで生活することは苦ではなく、むしろ気楽なひとり暮らしを満喫していた。


僕は部活動や委員会活動をするくらいなら家で休養したいという考えの持ち主だったので、そういったものにはなにも所属していなかった。だから朝練などもないため、いつも始業ぎりぎりに登校する。今日もチャイムが鳴る直前に教室につき、窓際の一番後ろの自分の席に鞄をおくと同時にチャイムが鳴った。そしていつも僕より早く登校している前の席の西野と挨拶を交わす。

「おはよ。」

西野は振り向き、おはようと言い返す。

「おはよ。守山さぁ、英語の訳やった?」

「やったよ。」

「分からない事があってさ……見せてくれない?」

はい、といって西野にノートを渡した。西野は中学の時受験塾に通っていた頃からの知り合いで、今ではなんでも話すことのできる一番の友達だ。僕の通っていた塾は大手の塾で、週に一回全校舎の優秀な生徒を一箇所に集めて授業をする。そこで西野と知り合った。

西野にノートを貸した時、ズボンのポケットに入っていた僕の携帯電話にメールが来た。その時西野は僕に礼を言って、前を向いて僕の宿題を写し始めた様だった。

この学校は携帯電話の持ち込みが可能なので、堂々と携帯電話をだしてメールを開いた。しかしメールの差出人を見て、僕は手に持っていた携帯電話の画面が周りに見えない様に机の引き出しの影に隠してメールの中身を見た。

メールは、僕の好きな人からだった。


四限終了のチャイムが鳴り、僕は鞄を持って立ち上がった。ご飯持参で来て、とメールで呼び出されたからだ。この高校には食堂がないので、生徒は自分で昼食を持って来なくてはてはならない。僕は割と毎日のように、昨日夜に作った料理の残りものなどを詰めたお弁当を持って登校している。残り物がない日や、朝時間がなかった日はコンビニで買ったりもするが、今日はいつも通りお弁当を持っていた。

保健室のドアを開けて、ベッドの並んでいる通路を歩く。それぞれのベッドには入り口や互いのベッドから見えないようについたてがついている。一番奥の窓際のベッドに近寄ると、そこにいたその人は僕を見て声をかけた。

「ちゃんと来てくれたんだね。」

その人――(あかり)さんは制服のセーラー服を着たのまま、上半身を起こしてベッドに座って足には布団をかけていた。

「今日はなにしてたんですか?」

僕は緋さんに尋ねた。緋さんは整った顔でくすっと笑って

眞夜(しんや)君が来るのを待ってた。」

と言った。僕はちょっと照れくさくなって頭を掻いた。なんでこの人はこういうことをすらすらと口にするのだろうか。

僕は緋さんのいるベッドの端に横向きに座って鞄を床に置いた。保健室に校医兼カウンセラーの直井先生はいなかった。でもそれは仕事をさぼっているからいないのではなく、きっとまた誰かのカウンセリングで生徒相談室にいるか外出しているかだろう。保健室の仕事は、ほとんど緋さんに任せられている状態だ。

「わたし、明日死ぬかもしれない。」

緋さんが言った。さっきまでとは一変した不安そうな表情だった。初めてこの言葉を言われたのは、四月の入学当初の頃だった。体調が悪くなって保健室に入って、ここにいた緋さんにこの言葉を言われたときはびっくりした。そんな突拍子もないことを言う様な人に初めて出合った。そして僕はそんな緋さんに一目惚れして、緋さんが心配で昼休みや放課後に呼び出されてはしょっちゅう保健室に通うようになった。そしてこれがこの人の口癖なんだということを知った。死ぬ気はないことは分かっても、もう四ヵ月近くこの人に付き合わされている今でも、こういうことを言う人を放ってはおけずについつい呼び出しに応じてしまう。

「死なないでくださいよ。」

僕は緋さんの方を見ながら、いつもの言葉を返した。

「明日こそ死ぬかもしれない。ほんとだよ。きっとそうだ。」

言いながら緋さんはぼくの腕を掴んだが、僕は視線を逸らした。緋さんは続けた。

「だから眞夜君を呼んだの。死ぬ前に眞夜君に会いたくて。」

この人はこういうことを言うから、聖がこの学校に入ってからもう関わらないようにしようと決めても、どうしても言う事を聞いてしまう。

「死にませんよ。」

ぼくは緋さんと見つめあう形で彼女の両腕をつかんで、そっと僕から離させた。

「だから落ち着いてください。」

そう言って、僕も緋さんの腕を離した。でも目は逸らさなかった。いや、緋さんの泣きそうな目に見つめられて、逸らせなかった。

緋さんは僕の言葉にゆっくりと頷き、下を向いてうつむいた。自分は死なない、ということに納得はしていない様子だったが、それもいつものことなので僕は緋さんを放置することに決め、再び横を向いた。

この人は名前を香野緋という。この高校の三年生だが、年齢は今年で十九歳になる。二度目の一年生を終えてからは順調に進級し、恐らく最後の学校生活の年を過ごしている。

緋さんは毎日保健室に通っている。この人も僕たちと同じようにこの高校に通うために遠くから引っ越してきて、学校の寮ではなく近くのアパートで一人暮らしをしている。一年生の初めのうちは本人曰く普通の生徒だったらしいが、五月病に罹り登校拒否になった。そのせいで学校を休み続け、出席日数が足りなくなって一年留年した。

そのときに頑張ったのが直井先生だ。先生は緋さんの家にアパートに通いカウンセリングを行い、緋さんの二度目の一年生が始まってまもなく、なんとか保健室に登校させるまでに到った。直井先生は今日もどこかで誰かのカウンセリングをしている。寮があり、親元を離れる生徒が多い学校だとどうしても相談相手を失う生徒が多く、カウンセラーの出番は一般的な学校よりも増えるようだ。

鬱は治ったものの、やっぱりまだ人間が多いところは苦手なようで、人気のない朝早くに登校して夜遅くに下校する生活を送っている。食べ物は食べているのだろうか、わからない。でもたまに昼休みにこうして僕が来てお弁当をあげると放課後には空になったお弁当箱を返してくれることがある。今日もそうなるだろう。

「眞夜君。」

保健室の中を、目の焦点をあわさずにぼーっと見つめていたら緋さんに名前を呼ばれた。

「ああ、これ最近のマイブームなんです、目の焦点を合わさないこと。」

とっさに言葉を取り繕った。緋さんはそんな僕の様子を見てくすっと笑って、

「眞夜君、好きだよ。」

と言った。さっきまで死ぬかもしれないと言っていた人と同じ人とは思えないほど、落ち着いた態度だった。

緋さんの言動は割と解体していて、予想がつかない事が多い。だから話の脈絡が合わないことには慣れてきた、というかむしろそれを楽しんでいるのだが、好きと言われることにはいつまで経っても慣れられずにいる。自分が恋愛感情を持つのは緋さんが初めてだから、耐性がないのだ。

「えーっとー……。」

だからこうしていつも戸惑ってしまう。いつもここで、僕もあなたが好きですと言いたいのだが躊躇っている。この人は初めて僕に会った日に僕に好きだよと言ってきた人だ。だからこの人が僕に恋愛感情を持っていることには期待できない。僕の片思いが露見するのが嫌で、言わないでいる。

だがこの人にとって僕が唯一の話し相手であることは確かだ。この人にとっての話し相手は、この人の世界の全てだ。

「最近学校生活はどう?」

唐突に緋さんは訊いてきた。いつもこの人の発言は唐突なのだが。

「まあ、適当に生きてますよ。」

ぼくは適当に答えて、ベッドから立ち上がった。

「もうすぐ昼休み終わるし、教室戻りますね。弁当よかったらどうぞ。」

食べられなかった手作りの弁当を緋さんに手渡した。緋さんはくすっと笑って、ありがとうと言った。


六限が終わって、僕は弁当箱をとりに保健室へ向かった。保健室には珍しく直井先生が入り口近くのデスクに座って書類と向きあっていた。僕は先生に挨拶をしてからいつも緋さんのいる窓際のベッドに行ったが緋さんはいなく、ベッドの上に僕のお弁当箱が置かれていた。

直井先生は僕と緋さんがよく保健室で話していることを知っていた。緋さんからも、僕の話をよく聞いているらしかった。だから入り口のデスクの前に戻り、僕は直井先生に訊いた。

「緋さんは?」

先生はデスクから顔をあげずに淡々と答えた。

「家に帰した。」

「え、でもまだ昼間ですけど……。」

緋さんは人の多い昼間に出歩けないはずだ。

「寝かしつけてわたしが車で送ったの。」

「え、でも……。」

緋さんのいない保健室が不自然すぎた。食い下がる僕に、直井先生が顔を上げた。そして何か言おうとしたが言葉に詰まったみたいで、少し考えてからこう言った。

「今日はちょっと体調崩したみたいだったから。会えなくて残念ね。」

発言の前の間のせいで、この言葉を信じることは出来なかった。保健室にいても手の施しようのないくらい体調を崩したのだろうか。でも緋さんは精神的には弱いかもしれないが、体力的には結構強い人だ。病気で学校を休んだという話は聞いた事がなかったし、学校を休んだ事のない僕が保健室に来るといつも緋さんがいた。ぼくの保健室には緋さんがいることが当然だった。

僕はすぐにでも緋さんと連絡が取りたかった。緋さんの安否が知りたかった。でもあの人の住んでいる場所も知らないし、メールもあの人がいつも一方的に送ってくるだけで、僕のメールに返信をくれたことは一度もないのだった。僕はこれ以上直井先生から何かを聞きだすことを諦め、おとなしく弁当箱を取り鞄にいれて、直井先生に挨拶をしてその場を去った。


次の日の昼休み、緋さんからの呼び出しメールはなかったが僕は保健室に行くことにして席を立った。

すると西野が声をかけてきた。

「また保健室に行くのか?」

僕と西野は、なんでも話す一番仲の良い友達だ。当然僕が緋さんに会いに度々保健室に足を運んでいることも知っている。僕と緋さんとの関係は、西野以外の全校生徒に秘密だ。緋さんは保健室登校児ということで有名で、全校生徒からの偏見もある。

「行っちゃだめかよ。」

僕はそっけなく答えた。

「そうは言ってないだろ、俺はお前が心配なんだよ。」

「なにが心配だって言うんだ。」

僕は西野に訊いた。

「お前が、香野緋にたぶらかされているんじゃないかってことだよ。」

緋さんの事を悪く言う西野にむっとして、僕は訊いた。

「何が言いたいんだよ。」

僕は早く緋さんに会いに行きたくていらいらしてきた。その様子を察知したのか、西野はため息をついて言った。

「お前が中学の時みたいに普通の恋愛をしているなら何も言わないよ。」

西野は続けた。西野がこんな風に僕のすることに口を出してくるのは初めてだった。

「ただ相手が香野緋だろ……心配もするよ。だってあの人の噂、しらないわけじゃないだろ?」

その噂は聞いた事があった。保健室のあの窓際のベッドで、男子生徒相手に緋さんが売春をして金を取っているという根も葉もない噂だ。

「そんな噂でたらめだ。」

「そうだとしてもだよ。」

西野は食い下がってきた。

「そういう噂がたつ以上、なんかやばい人なことに変わりはないんじゃないのか。危ないよ。」

「危ないってなんだよ。なにが危ないっていうんだよ。」

あの人は危なくなんかない。むしろ僕がいてあげないと、あの人はすぐにでも死んでしまうんじゃないかと思わせるような、そんな脆い人なんだ。

僕の剣幕に押されて、西野は再び軽くため息をついて言った。

「まあ気を付けろよ。」

「……一応ありがとう。」

心配してくれた西野に礼を行って、僕は教室を出た。


保健室の窓際のベッドには緋さんがいて、直井先生はいなかった。僕はいつもどおりの風景に安心した。

「緋さん。」

僕の訪問を予想していなかったのか、びっくりした様子で僕を迎えてくれた。

「眞夜君、よく来てくれたね。」

僕はいつもどおり、緋さんのベッドの端に横向きに座った。

「昨日はどうしたんですか?」

僕の質問に緋さんはちょっと困ったような顔をして、そして答えた。

「ちょっと体調不良で……。」

僕はその答えを信じはしなかった。だってこの人は昨日僕のお弁当を全部きれいに食べていたのだ。でもいつもどおり緋さんが目の前にいて、そんなことはどうでもよかった。

「もう大丈夫なんですか?」

「うん。」

緋さんがそう言うなら、もう気にしない事にしよう。そう思った。それからはいつもどおりの脈絡のない会話をした。

「ねぇ、放課後また来ない?」

昼休みの終わり間近になって緋さんが言った。

「わかりました。待っててくださいね。」

僕の答えに、緋さんはくすっと笑った。


それからの五・六限を僕は適当にやり過ごした。早く放課後になって、緋さんに会いに行きたい。そんなことばかり考えていた。

放課後になって、部活動に行く西野にばいばいと言って僕はまっすぐ保健室に向かった。

そこには昼休みと変わらない様子の緋さんがいた。

「お待たせしました。」

僕がそう言って近づくと、緋さんはくすっと笑った。僕はまたいつものようにベッドに座った。緋さんは訊いた。

「ねぇ、まだ校内にいっぱい生徒いる?」

まだ放課後になって間もない時間だったため、部活動がなく下校する生徒が残っているだろう。僕ははいと言って肯定した。

「屋上に行きたい。」

緋さんの屋上に行きたいは、屋上に行くことに意味があるんじゃないことを知っていた。

「だったらもうちょっと待ったほうがいいかもしれないですね。」

そうね、と言って緋さんはおとなしくなった。

少し時間を空けて、帰宅部の生徒がみんな帰り、部活をしている生徒は活動場所に移った頃僕と緋さんは保健室を出た。

ベッドを出ると緋さんの、スカートとハイソックスの間の白く細い足に目がいく。いつもベッドに寝ているから気づきにくいが、緋さんの身長は僕より二十センチくらい低いがその割に足が長くスタイルが良い。ベッドにいるのがもったいないくらいだ。

三階分の階段を上って屋上の入り口のドアを開けた。そこから三十メートルほどの距離のある屋上の正面の端の三メートルほどの高さのフェンスまで緋さんが歩いたので僕も付いて行った。そしてフェンスに寄りかかって二人で座った。

緋さんはスカートのポケットから煙草の箱とライターを取りだし、箱から一本出した煙草に火をつけた。

この人はいつも全校生徒が下校し終わって、夜になり町に人がいなくなるまで下校できない。だから毎日こうやって屋上で一服している事を僕は知っていた。いつからかは知らないが、毎日ここでこうして時間を潰しているらしい。僕ももう何度か一緒にここに来ている。

「眞夜君もいる?」

そう言っていつも煙草を勧めてくる。一度だけ貰ったことがあるが、僕に煙草の良さは分からなかった。

「いらないです。」

やんわりと断り、僕は屋上に寝転がった。

すると視界にはまだ明るく真っ青な初夏の空が広がった。

 僕はふと気になったことを緋さんに訊いた。

 「そういえば緋さんは、夏休みはどうするんですか?」

 もう期末試験は先週で終わっているから、あとわずか三日で夏休みになる。僕の両親は実家に帰って来いとは言ってきていないので、ずっとこっちにいる予定だった。だから緋さんも帰省しなければ夏休みも会えるのかなと思って聞いてみたのだった。

「わかんない……。」

実家に帰るんですか?とか、ずっとこっちにいるんですか?とか、いくらでも聞く事はあった。でも緋さんにそれ以上言いたくなさそうな気配を感じて、僕はそれ以上のことを聞けなかった。

緋さんは煙草を吸い終えて、ポケットから携帯灰皿を取りだして火を消した。それから少しだけ沈黙が流れた。

「嫌だよ……。」

ふと緋さんの口から言葉が漏れた。

「え?」

なんの話か分からなくて、僕は聞き返した。

 「夏休み嫌だよー……。」

 そう言って緋さんはぼろぼろと泣きだした。

 「え、え。どうしたんですか?」

 僕は慌てて上半身を起こした。その僕に緋さんはすがりついて泣きじゃくった。僕は緋さんの頭を撫でて、この人が泣くのを黙って見ていた。こんな風に感情を露にして子供のように泣く緋さんを初めて見た。この人もこんな風に泣く事ができるのに、僕は物心ついた頃から何かに感動したり悲しんだりして泣いていない。人前で泣くことを恥ずかしいと思うからだ。僕は心のどこかで、こんな風に綺麗に泣ける緋さんを羨ましく思って見ていた。

 たくさんの時間が経った気がした。緋さんは泣きやんだが、まだ鼻をすすっているようだった。

 「死にたい。」

 ようやく口を開いたと思ったら、緋さんは俯いたままそんなことを言いだした。そしてその言葉を口にした瞬間に、緋さんの目にはまた涙が溢れてきた。

 この人は、死ぬかもしれないとはしょっちゅう口にするが死にたいと言った事はこれが初めてだった。

 「なんでそんなこと言うんですか。」

 僕はびっくりして言った。

 「もう死にたいの。」

 緋さんはもう一度言った。僕は哀しくなって緋さんをそっと抱き締めた。

 「だめです。」

 つい衝動で抱き締めてしまったが、ふと我に返って緊張してきてしまった。でももう緋さんのことを離せなかった。緋さんはおとなしく泣き続けた。

緋さんが泣きやんで静かになった頃にはもう辺りは薄暗く、部活動の生徒も下校した時間になっていた。僕はその間ずっと緋さんのことを抱き締めていた。

「大丈夫ですか?」

僕は緋さんを抱く腕を緩めて、小さい声で訊いた。緋さんは頷いたので、僕は緋さんをそっと離した。

「ごめんね……。」

謝る緋さんを横目に、僕は緋さんの隣に座り直してフェンスに寄りかかった。

「いいですよ。」

僕は答えた。

「むしろいきなりごめんなさい。」

そして緋さんのことを抱き締めたことを謝った。緋さんはくすっと笑って、ありがとうと言った。そして僕に寄りかかってきて、肩に頭を乗せてきた。僕はじっとしたまま、緋さんに肩を貸したのだった。

「好きだよ。」

緋さんは泣きながら、消えそうなか弱い声で言った。

「眞夜君が好き。」

僕は緋さんを見る事ができず、前を見ていた。いつもは信じられない緋さんのこの言葉も、こんな風に泣きながら言われると本当な気がした。でも、僕も好きですと言うことで全て僕の片思いだったという事が明確になってしまうんじゃないかという不安がやはりまだ残っていたため、やっぱり言えなかった。この状況で緋さんに言われても信用できないなんて、僕はなんて臆病者なんだと自分を責めた。

そのまましばらく沈黙が流れてから、緋さんはふと立ち上がった。

「帰りますか?」

僕は訊いた。緋さんはうんと言って頷くので、僕も立った。

僕たちは保健室に戻った。

そこには、見覚えのある人がいた。

「何してるんだよ。」

直井先生のデスクに座っていたその人、聖に僕は言った。

「佑介に忠告されたんじゃないの。」

そこにいた人――聖は言った。佑介とは西野の下の名前だ。

「もしかしてあれお前が言わせたのか。」

「そうよ。」

聖は足元に置いていた鞄を掴んで立ち上がって、そして僕たちに近づいてきた。

「眞夜が早く目を覚ますように、わたしが言わせたの。」

緋さんは僕の後ろに隠れるようにした。聖は僕の前に立って言った。

「目を覚ましてよ。そんな人に付き合わされて高校生活を棒に振っちゃだめ。」

緋さんがこの場にいるのに、無神経にもこのような発言をする聖が許せなくて僕は言った。

「帰れよ。」

「眞夜、でも。」

「帰れって。」

語気を荒くして僕は言った。聖は僕の迫力に押されて、走って保健室を出て行った。聖が見えなくなって、僕はため息をついた。そして後ろにいた緋さんを振り向いた。

「大丈夫ですか?」

緋さんはうんと言って頷いたので、僕はほっとした。そしてもう僕も帰る事にした。緋さんはまだ帰るには早い時間だったため保健室に残った。


摘田聖は、僕が中学三年生の時に付き合っていた人だ。聖と西野は幼馴染で、同じ中学で、同じ塾に通っていた。僕と聖は、西野と同じように週に一回の授業で知り合った。そして聖は僕のことを好きになった。聖に告白されて、僕はステータスとして彼女を持ってみたいと思った。それに僕は聖のことは聖が僕を好きなようには好きでなかったが、付き合っていくうちに好きになれるだろうと思って付き合う事に決めた。中学三年生の夏休みの頃だった。

聖が僕のことを好きな事はひしひしと感じとられた。でも僕はやっぱり聖の事を好きにはなれなかった。むしろ付き合っていくうちに、僕とより深く関わりたがる聖の気持ちや、聖からの愛情を負担に思うようになっていった。でも聖に別れを告げることはできず、ずるずると高校受験まで気持ちを引きずったままだった。

そして僕も西野も聖も同じ高校に受かる事ができた。僕は完全に聖を振る機会を逃していた。合格して中学を卒業してから、三月に僕は今の家に引っ越した。その時聖は手伝いに来てくれたから、いい機会だと思ってその時に僕は聖を振った。手伝いに来てくれてありがとう、でももう今までのように付き合っていく事はできない。僕は確か聖にそう言った。そしてそれから、好きじゃないのに付き会った事、聖の事を好きになれなかった事、負担になっていった事をつらつらと述べた。聖はそんな僕に、もうやめてと言って泣きながら帰って行った。僕に罪悪感はなかった。もとはと言えば僕を好きになった聖が悪い、そう思う事にしていた。

高校の入学式、久しぶりに西野に会った時は少し気まずかった。西野は聖から全て聞いているはずだった。でも西野は僕を責める事はなかった。


次の日の朝、登校した僕に西野は普通におはようと言ってきた。僕は聖のことをなにも言わない西野が少し腹立たしかった。

昼休みになって、西野に声を掛けた。

「ちょっと時間あるか?」

よく部活の昼練で教室にいない西野だったが今日はたまたま練習がなかったらしく、大丈夫との返事をもらった。僕は西野の隣の席に移動した。

「昨日なんで僕に聖の事を言わなかったんだよ。」

僕はいきなり本題を切り出した。西野はそのことを僕が知っているとは予想していなかったのか、驚いた様子だった。

「聖が言わせたんだろ、緋さんは危ないって。」

僕はもう一度言って西野を問い詰めた。

「聖がってわけじゃない……俺だって香野緋を好きになったお前を見ていて心配だったから言ったんだよ。」

「ちょっと待てよ。」

西野はまだなにか言いたそうだったが、僕はそれを止めてさらに西野に聞いた。

「なんで聖は僕と緋さんとの事を知っているんだ。お前が言ったのか?」

僕は緋さんとの事を西野にしか言っていないし、保健室の奥に二人でいるところも直井先生くらいにしか目撃されていないはずだった。

「言ってないよ。」

西野はきっぱりと否定した。僕はそれを信じて更に言及した。

「だったらなんで聖は知ってるんだよ。」

すると西野は言いづらそうに話しだした。

「一週間前くらいに聖が、お前と香野緋が放課後一緒に歩いているところを見たんだって。それで後をつけたら屋上で香野緋が煙草吸ってたからって、それを俺に報告してきて。あの二人は付き合ってるの?って問い詰められたから、そうじゃないとは言ったけど、逆にそこからお前が遊ばれてるとでも思ったんだと思う。」

僕が西野の話を聞いて呆れた様子でいると西野は更に話し続けた。

「聖はまだお前の事が好きなんだよ。お前のためを思って、嫌われる覚悟で忠告したんだ。分かってやれよ。」

「分かれってなにをだよ。」

僕と緋さんの時間を邪魔して、緋さんに無神経な言葉を投げつけた聖のなにを分かれというのか、僕には理解できなかった。

「あの人は不安定なんだよ。僕がいないとだめなんだ。」

自意識過剰だとは思わない。僕は本当にそう思っていた。

「あの人は僕のことを好きなんじゃない。僕に依存しているんだ。僕はあの人が生きるのに利用されているなんて事は分かってる。分かっているからそこにはなんの問題もないんだ。」

西野と話すうちに、緋さんにとっての僕の価値が分かった気がした。確かに緋さんには僕が必要だ。でもあの人が僕に言う好きは、愛しているという好きではないという事も再確認できた。

西野は僕の発言を聞いていた。そして口を開いた。

「お前がそういうならもう俺は何も言わない。」

その言い方は僕を見捨てる感じではなく、むしろ見守るという雰囲気の言い方だった。

「聖にあんなに好かれても好きになれなかったお前がやっと好きになれた人ならそれは本当なんだろうな。」

西野は言い聞かせるように言った。僕はそれを頷いて肯定した。


放課後になり、緋さんからの呼び出しはなかったが僕はまた保健室に行った。

しかし保健室には人気がなく、緋さんも直井先生もいなかった。そのことは僕にひどい違和感を覚えさせたが、僕は緋さんに会う事を諦めて帰ろうとして振り返った。

するとそこには聖がいた。視界に聖が入り、僕は嘆息した。

「また着けてきたのかよ。」

「昨日眞夜が追い返すからでしょう。」

聖は怒った様子で続けた。

「なんで。」

そして一呼吸置いて、落ち着いた様子で言った。

「なんで香野緋がいいの。」

「は?」

その質問をする意図がすぐには分からなかった。つまりなぜ緋さんは好きになるのに聖のことは好きにならないのか、そう聞きたいのだろうか。

「なんであんな人のこと好きになっちゃったのって訊いてるの。」

そう言いながら聖は僕の両腕をぎゅっと掴んだ。そして僕を見つめて言った。

「わたしはこんなに眞夜の事心配しているのに……なんで眞夜のこと振り回す人を好きになるのよ。」

聖は泣きそうになりながら言った。僕はその様子を黙って立ったまま見ていた。そして少し時間を空けてから、ぽつっと聖に言葉を投げかけた。

「だから嫌いになったんだよ。」

今にも泣き出しそうな聖の様子を無視して僕は続けた。

「そうやって自分の気持ちを僕に押し付けるから無理だったんだ。聖と付き合っているなら緋さんに片思いしているほうが、気が楽なんだよ。」

片思い、と口にして自分で少し傷ついた。これはさっき西野と話していたときに避けていた言葉だった。依存だの利用しているだのと言って、結局は緋さんへの僕の片思いだという格好悪い事実から僕は目を背けようとしていた。

「そんなこと言わないで……。」

聖は僕の腕を更にぎゅっときつく掴んで言った。

「まだ好きなの……振られてもまだずっと好きだったの。」

言いながら聖の目から涙が溢れてきた。でも僕はその涙に、昨日見た緋さんの涙のような羨ましさは感じなかった。これは、自分を哀れんでいる涙にしか見えなかった。

「ごめん。」

僕は無感情にそう言い、両手で聖を振り払って足早にそこを立ち去った。

すぐにでも緋さんに会いたかった。緋さんのことを好きすぎて、ついに一人の人との関係を絶ってしまった。僕はそのことに少しの自信すら感じていた。

僕の足は緋さんを探して自然と屋上に向かっていた。一人で屋上に行くのは初めてだった。

 屋上のドアを開けると、正面のフェンス越しに一人の人影があった。遠くに揺らめいていたその影が誰だかなかなかすぐには分からなかったが、それは緋さんだと思った。こんなことをする人、ほかにいない。

 「緋さん!」

 僕は叫んだ。振り向いたその人はやはり緋さんだった。緋さんは屋上を囲む三メートルのフェンスを乗り越えて、屋上のぎりぎりの端に立っていた。まだ両手でフェンスを掴んでいたが、少しでもバランスを崩したら下の校舎裏に落ちてしまう。僕は全力でそこまで走り寄った。見ると、緋さんのいるフェンスの手前のこちら側には緋さんの上履きがきちんと揃えて置いてあった。それを見た僕は焦り、フェンスを掴んだ。かしゃん、とフェンスの軽い音がする。今緋さんはこんな弱弱しいものに命を預けているのかと思うと、ぞっとした。

 「危ないです。戻ってきてください。」

 僕はそっと言った。緋さんの体は空を向いたままで、顔だけ振り向いて僕を見ていた。

 「もう死んだほうがいいかなって思って。」

 緋さんは儚げに笑っていた。僕はその笑顔をみて一層辛くなった。

 「なんでそんなこと言うんですか……。」

 僕はフェンスに頭を当て、俯いて言った。自分が泣きそうな声を出していることに気づいた。でも羞恥心などはなかった。ただ緋さんを助けたい、緋さんに生きて欲しいという一心だった。

 「眞夜君は、なんでわたしに生きて欲しいの?」

 その質問にはっと顔を上げた。緋さんは体の向きを変えて全身で僕を見た。フェンスを掴む緋さんの手を、僕は上から掴んだ。

 「好きです。好きだからです。」

 緋さんの小さい手をぎゅっと握って、僕は言った。

 僕の答えを聞いた緋さんは動揺など一切せず、いつものようにくすっと笑って僕に言った。

 「でもそれって、眞夜君の自己中心的な理由だよね。」

 屋上の風に吹かれている緋さんの存在が今にも消えてしまうのではないかと思った。僕からはこの手を絶対離さない。

 緋さんは感情のこもっていない声で淡々と続けた。

「そのせいでわたしが、なんで生きたくもないのに生きなくちゃいけないの。それっておかしいと思うの。わたしは今までそうやって生かされてきた。もう疲れたの。死ぬ権利くらいあったっていいと思うの。ねぇ、どう思う?」

 僕は呆然としていた。確かに緋さんの言う事は正しかった。僕に質問しておきながら、緋さんは続けた。

 「一年生の時だって、死のうと思ったのよ。生きることが辛かったんだもの。でも直井先生はわたしを生かそうとして必死だった。だからそのときは先生と一緒にがんばって生きてみたけれど、今思うとそれって学校が、自殺した生徒がいたっていう汚名を背負いたくなかったからでしょ。そんなことのためにわたしは生き延びてしまったの。」

 緋さんはずっと笑っていた。なにも言えずにいる僕を見つめながら、緋さんは続けた。

 「きっとあの時の病気はずっとわたしと共に生き延び、成長していたんだよ。わたしはつい最近そのことに気づかされてしまった。もう嫌なの。自分の意思の外のことに振り回されるのは。」

 そして一呼吸置いて、緋さんは言った。

 「きっとわたしは、生き過ぎてしまったんだよ。そのせいで眞夜君に出会った。眞夜君のせいで、わたしはまた生きる事が辛くなったの。」

 僕は今の緋さんの言葉を、心で受け止めるのに時間がかかった。僕のせいで、僕のせいで生きたくないなら僕はどうしたらいい。今の僕は緋さんがいないと生きていてもつまらない。僕はどうしたらいい。

 「今年に入ってわたしは眞夜君に依存した。初めはただ、話し相手になってくれそうだったから。それに眞夜君はわたしのこと好きみたいだったから、そんな軽い気持ちで付き合ってもらっていたの。でも段々わたしの生活は、眞夜君が中心になり始めた。わたしは眞夜君に好きと言う事で、眞夜君を繋ぎとめようとしていたの。そうしたらわたしは眞夜君のことを本当に好きになってしまったんだよ。でもそのせいでわたしはまたおかしくなっていったの。」

 緋さんはもう僕を見てはいなかった。僕を通り越して、空を見るようにしていた。

 「好きになればなるほど辛くなった。眞夜君は、本当はわたしのこと好きじゃないんじゃないか。わたしが付き合わせて眞夜君が生きる事を邪魔しているんじゃないかって、そう思うようになった。でももうわたしには眞夜君がいないとだめだったの。どうしたらいいかわからなかったの。」

 昨日泣いていた人とは別人のように、緋さんは微笑みを湛えたままだ。僕は、もっと早く僕も緋さんが好きですと伝えていればよかった、とその事を悔いるばかりだった。

 「わたしは眞夜君を利用して生き延びているってみんなが囁いているように感じた。わたしは前より世界との付き合いを絶ちたかった。けど眞夜君に会いたくて、学校には来ることをやめられなかったの。でも限界だった。全校生徒がわたしを煩わしく思っている。わたしさえいなければみんなが楽しい学園生活を送れる。眞夜君も例外ではない。そう思って生きていたの。」

そんなの被害妄想だ。不安に思う余りに一年生の時の鬱が悪化したのだろうか。緋さんの言った事を全て否定したかったが、緋さんの話は止まらなかった。

「一昨日の午後わたしは直井先生に病院に連れて行かれた。わたしは統合失調症と診断されたわ。病気として表すとなんともあっさりした感じじゃない?なんだ、わたし病気だったんだ、って。だから終業式の日から入院して、病気を直そうって言われたの。でも入院なんてしたら眞夜君に会えないじゃない。だから嫌だった。」

そして緋さんは僕に言った。

「ねぇ、どうしたらいいのかなぁ。どうしたらいいと思う?」

笑顔で尋ねてくる緋さんが哀しかった。救いようのない深い闇のなかにいる緋さんを、どうしようもなく遠くに感じた。

僕はずっと勘違いをしていたみたいだった。僕がいないと緋さんは死んでしまうなんて、そんな自意識過剰な思い込みから緋さんを僕に依存させて、ずっと緋さんに辛い想いをさせていたのかもしれない。そう思うと自分が憎らしかった。

「緋さん……。」

名前を呼んだ。緋さんにとって自分は負担なのかもしれない。けれど、死なないで欲しい。緋さんにずっと側にいて欲しい。これは本当に僕のエゴなのかもしれない、でももうそのことしか考えられなかった。

「緋さんは病気じゃない。」

僕は緋さんを見つめたままそう言った。

「病気なんかじゃない。入院なんてしなくていいんだ。」

緋さんに、そして自分に言い聞かせるように一言ずつ確かめながら僕は続けた。

「僕は緋さんが好きです。緋さんも僕を好きなら、なんの問題もないじゃないですか。僕に会いに学校に来るのが辛いなら、僕とずっと一緒にいればいい。」

僕は静かに笑った。そして言った。

「僕が緋さんを匿う。緋さんに入院なんてさせません。」

僕は一呼吸置き、決心して言った。

「夏休み、僕の家で暮らしませんか?」

緋さんの顔からさっきまでの諦めたような笑みはなくなった。代わりになんだかとても不思議そうな顔をしていた。

少しの間を空けて、緋さんは訊いた。

「いいの?」

僕は力を込めて頷いた。

「もちろんです。」

緋さんはフェンスを握っていた手をずらし、僕の手を握った。僕と緋さんはフェンスを撫でるように手を動かし、フェンス越しに手を握り合った。

緋さんはさっきまでの儚げなものとは違う笑顔で、ありがとうと言ってくれた。僕はそんな緋さんを見て

「だからこっちに戻ってきて下さい。」

そう言ったが、声が震えてしまった。緋さんを助けられるかもしれないという安心と、少しでも緋さんが足を滑らせたら三階分の高さから校庭に落下して死んでしまうという不安からのものだった。

緋さんは僕の言葉にこくりと頷き、フェンスを登り始めた。フェンスに手と足を掛け、腕の力で体をぐいっと持ち上げて少しずつ登っていく。風になびかれている緋さんの髪やスカートが屋上の高さを物語っているようで怖くて、僕は冷や汗を掻いてそれを見守っていた。

フェンスの一番上に着いてそれを跨いで、緋さんの体が全部こっちを向いた時、僕は何もせずにはいられなくなって両手を広げた。緋さんはそれを見てくすっと笑って、僕にむかってそこから跳んだ。僕は緋さんを無事抱きとめることができたが、よろけてしりもちを着き、そのまま屋上に仰向けに転がった。でも僕は緋さんを離さなかった。緋さんの軽さがこの人の存在の儚さを表しているようで哀しくて、緋さんの存在を現実に繋ぎ止めるように僕はぎゅっときつく緋さんを抱きしめた。

僕と緋さんは明日の帰りに一緒に僕の家に帰り、終業式のある明後日、緋さんは僕の家にいることに決めてその日僕は学校を後にした。家に帰って、僕は家を整えた。僕の寝ている小さい部屋を緋さんに使って貰おうと思って、荷物を全部出してリビングや押入れに置いた。緋さんが来ると思うとなんだか妙に緊張してしまって、夜はろくに眠る事ができなかった。


終業式前日の昼休みは保健室に行かなかった。下手に行って直井先生にでも会ったら事だったからだ。そして放課後になったら屋上で待ち合わせていたため、一人で屋上に行った。

ドアを開けるとまだ緋さんは来ていなかった。僕は屋上の真ん中まで行って、鞄を置いて仰向けに寝転がった。空は相変わらず青く広がっていた。僕は思っても見なかった夏休みの訪れに胸を馳せていた。

空を見ながらしばらくぼーっとしていると、屋上のドアが開く音がした。上半身を起こして見ると、そこには緋さんがいた。その手には珍しく学校の鞄を持っていた。

「眞夜君。」

僕を見て嬉しそうに名前を呼んで近づいてくる緋さんを見て安心して、笑った。一日ぶりに見た緋さんが生きていてよかったと思ったからだ。

僕はその日初めて、緋さんが下校できる時間まで一緒に待つ事になった。僕の家は学校から歩いて十五分くらいの所にある。この辺りは学校と住宅街しかないので、人家の少なくなる夜八時くらいになれば帰れるとの事だった。今は学校が終わってから少し経って四時半を過ぎたあたりなので、まだ屋上にいる事にした。

僕たちは屋上に座って他愛もない事を話した。僕の家の間取りの説明をしてみたり、返却された二人の成績の事を話したり。緋さんは保健室登校児だが、試験は一般生徒と同じように受けなくては進級出来ない。でも授業には出られないし、クラスメイトにノートをコピーしてもらったりもできないから、教科書だけを勉強してテストを受けているらしい。それでも僕より成績は良かった。僕は少しショックを受けたが、学年が違うんだし、と自分に言い聞かせた。

それから僕たちは並んで仰向けに寝転がって空を見た。僕は何度も緋さんの名前を呼んで緋さんを確かめた。その様子を見て緋さんは笑っていた。

そんな事をして過ごしているうちに、空は暗くなり八時を回った。僕たちは学校を出て僕の家に向かった。下駄箱で靴を履きかえる緋さんを待つ事や、緋さんと並んで学校の外を歩く事が新鮮で、とても楽しかった。

僕たちは既に人家のない夜の町を歩き、僕の住んでいるアパートに着いた。僕は鍵を開け、どうぞといって緋さんを中に入れた。失礼しますと言って先に入った緋さんは、きょろきょろと部屋の中を見ていた。

「そっちの部屋使ってください。」

僕は昨日片付けた自分の部屋を指して言った。僕はリビングを使うつもりだった。

「え、でも眞夜君の部屋は?」

緋さんは僕に訊いた。

「リビング使うんで大丈夫ですよ。」

そう言って緋さんに使ってもらう部屋のドアを開けた。緋さんはでも……と言い淀んだが、僕が勧めるのでありがとうと言って部屋に入った。

荷物だけ置いて緋さんは出てきた。僕は、料理は得意だからと言って夕飯を作ることにした。ご飯を炊いていなかったので今度食べようと思って買っておいた焼きそばを作ってあげた。前にお弁当で食べた事のある味だと言って緋さんは喜んで食べてくれた。いつも弁当をあげるときは休み時間が残っていない時だから、緋さんが何かを食べているところを僕は初めて見た。

夕飯を終えてから僕はお風呂を沸かした。そして、先にどうぞと言って緋さんにお湯を勧めた。初め緋さんは少し遠慮している様子だったが、僕が勧めるので先にお風呂に入る事になった。

僕は緋さんがお風呂に入っている間に夕飯で使った食器を洗い、それからリビングにある一人用のソファに座った。そこですこし休息していたら、緋さんがお風呂から上がったようだった。リビングに入ってきた緋さんはまだ濡れている髪を上げてピンで留め、タオルを肩にかけて、グレーのスウェットの上下を着ていたため、一層スタイルの良さが強調された。私服の緋さんは初めて見るためとても新鮮で、ついじっと見てしまった。

それから僕もお風呂に入り、上がってからは二人で並んでテレビを見たり話をしたりした。緋さんの家にはテレビがないらしいため、久しぶりに見るテレビを懐かしいと言って真剣に見ていた。

「明日どうします?」

テレビを見ていた緋さんにふと訊いた。

「どうするって?」

緋さんはテレビから目を逸らさずに訊き返した。

「僕は緋さんを残して学校に行ってもいいんですか?」

正直な話、緋さんを残して学校には行きたくなかった。でもそうすると直井先生に僕が怪しまれ、すぐに緋さんが見つかるのではないかという不安があった。

「大丈夫だよ。」

緋さんはくすっと笑った。僕はその言葉を信じる事にした。

夜、僕は一人用のソファで寝ることにした。僕は意気地なしだから、緋さんとお互い想い合っていると分かっても特別何かしようとは思わなかった。おやすみと言いあってから、部屋に入る緋さんを見届けて僕はソファに座った。昨日から今日までが急展開の連続で疲れていたのか、僕は緋さんが家にいるという緊張感をものともせず、あっという間に眠りについた。


朝、僕は携帯のアラームでいつも通りの時間に目を覚ました。椅子で寝たために少し体が痛かった。

台所には緋さんがいた。勝手が分からないであろう台所で頑張って料理をしている様子だった。

「おはようございます。」

僕はまだ寝惚け眼のまま緋さんに近づいて挨拶した。緋さんはくすっと笑って、おはようと言い返した。僕は洗面所に行って着替えなどの支度をしてからリビングに戻った。

「冷蔵庫とか勝手に開けちゃった……ごめんね。」

テーブルに朝食を置きながら緋さんが言ったので、僕は気にしないで下さいと言って座った。

「寧ろ作って貰ってありがたいです。」

そう言って僕は緋さんの作ってくれた朝食を食べた。僕は、もっと寝ていてもよかったのにと学校に行かないのに早起きしている緋さんに言った。しかし緋さんによると、いつも早起きだから起きてしまうとの事だった。確かに緋さんはいつも人気のない朝早くに登校しているため、僕よりもずっと早起きなのだろう。

「じゃあ、行ってきますね。」

やはり心配だった。緋さんを一人残して学校に行っていいものか。でも緋さんは笑顔でいってらっしゃいと言うので、僕はできるだけ早く帰宅しようと心に決めて家を出た。


その日は午前中に終業式をしたらもう学校は終わりの予定だった。

登校して西野と会い、夏休み遊ぼうとかいう事を話しながら終業式の行われる体育館に移動する。終業式では校長や生徒会長などからの話が延々と続いた。

終業式が終わったらあとは教室で担任からの話があって、それで下校だ。担任の話の最中はもう上の空で、西野が話しかけてきているのにも気づかずにいて怒られた。

教室での話も終わり、僕はさっさと下校しようとした。これから部活に行くという西野にさよならを告げ、一人玄関に向かった。

「あ、守山君。」

玄関への廊下を歩いていたら後ろから呼びとめられた。振り向くとそこには直井先生がいた。緋さんのことを聞かれるのだろう。どうしようか、僕は少し焦った。居場所については白を切ればいいということは分かっていた。

「どうしたんですか?」

なにも知らない様子を装って僕は訊いた。

「今日緋が登校していないんだけど、会ってない?家にも行ってみたんだけどいないみたいで。」

直井先生は僕に歩み寄りながら訊いた。僕は会ってないですと答えた。

「最近緋さんの様子おかしくなかったですか?」

僕は直井先生にかまをかけてみる事にした。先生は僕の質問に怪訝そうな顔をして訊き返した。

「どういうこと?」

「そのままの意味ですけど……。」

僕は迷った。緋さんの入院のことを直井先生に聞いてみるかどうか。聞く事が緋さんの居場所がばれるきっかけにならないかどうかを考えた。

「緋さんは、入院を嫌がっていました。」

僕は直井先生に話をしてみる事にした。この話題を口にしたら、先生ははっとした顔になった。

「そのせいじゃないんですか?」

僕は多くは語らず、直井先生に話を委ねようとして質問した。直井先生は話をすべきかどうか迷った様子で、とりあえず保健室に行こうと言って、僕を連れて保健室へ戻った。

「緋の入院のことだけど。」

保健室に着き、直井先生はデスクに座ると言った。僕は近くにあった椅子を運んできて、デスクの前に座った。

「どのくらい知っているの?」

僕は当たり障りのないことだけを話した。緋さんが夏休みに入院するかもしれないということ、病気だと言われたこと、入院はしたくないと言っていたこと。

先生は僕の話を聞いて嘆息して、話しだした。

「病気のことだけどね。あの子には確かに統合失調症の症状があった。だから入院したほうが穏便に病気を治せると思ったから勧めたの。」

そこで僕は直井先生の話を遮って訊いた。

「統合失調症の症状って、どういったものなんですか?」

僕の質問に直井先生はきっぱりと答えた。

「自分の世界に籠もるのよ。」

いまいちよく分からないという顔でいたら、直井先生は更に説明を加えた。

「引きこもりが治った頃から既にあの子にそういった兆候はあったの。人との接触が苦手だったり、話が支離滅裂だったり。だから保健室に置いていたの。」

直井先生の話によると、緋さんの解体した話し方は性格からではなく病気からだという事になる。僕の知っていた緋さんは病気によって成り立っていたという事になる。

「保健室で守山君と触れ合っていくうちに少しずつ人との接触にも慣れてきたみたいで、わたしは安心してあの子を放置していたんだけど。」

直井先生そこで一呼吸置き、続けた。

「でもあなたに依存していくうちに、緋は人間に深く関わり過ぎてしまったみたい。」

「どういうことですか?」

僕と関わったことが緋さんにとってのマイナスだったように話されて、僕は気分が悪かった。

「人間と関わることで得るストレスが原因で、緋の症状は不安や幻聴といった形でより顕著になった。あの子は言っていたわ。眞夜君に迷惑かけているって。みんながわたしのことを、眞夜君を利用する嫌な女だって言っているって。」

屋上で緋さんが言っていた事だった。僕と緋さんとの関係を知っている人なんて直井先生くらいしかいないのにみんなが言っているという事は、それは幻聴だという事なのだろう。直井先生は僕の様子を見ながら話し続けた。

「だからわたしは守山君と緋の遠ざかる夏休みに、治療させようと思ったわけ。それにあの子、今年に入ってから煙草に依存するようになったじゃない。」

「そうなんですか?」

今年に入ってから、という事は知らなかったために、思わず直井先生に訊いた。

「え、知らなかったっけ?」

直井先生に訊き返され、今年に入ってから之事なんですかともう一度僕は訊いた。

「引きこもっていた頃から吸ってはいたみたいだけど、二度目の一年生の時は毎日屋上に行って、というほどではなかったのよ。まあその頃は変わりにここでよからぬ事をしていたみたいだけど……。」

僕は直井先生のその言葉に愕然とした。

「それってもしかして……あの噂のことですか?」

直井先生もため息をつきつつ頷いた。

「でもそれで満たされるならって思って、わたしも何も言わなかったのよ。現場を見たわけじゃないから証拠なんかもなかったし、下手に注意したらまた学校に来なくなってしまうかもしれなかったし。それに、守山君と仲良くしだしてからはぱったりと止めたみたいだったからね。でもそうしたら、今度は不安を紛らわす手段として煙草に依存し始めたみたいで……。」

噂が事実だった事を知って、僕は少し落ち込んだ。でも僕に出会った事で緋さんが変わったという事も知り、僕の緋さんを見る目はなにも変わりはしなかった。

直井先生の話を聞いて、緋さんを匿う事が良いのかどうか不安になってきた。もし本当に病気だというのなら、治療させずに匿う事で緋さんに未来はあるのだろうか。

「もし治療しないとどうなるんですか?」

僕は質問の答えを聞く事が怖くもあったが、興味を抑えきれなくて訊いた。

「幻聴や不安から逃れようとしてまた引きこもるかもしれないし、煙草で体を壊すかもしれないし……自殺する可能性だってある。今のあの子に必要なのは薬と、病気と向き合う事なの。だから、」

ここで直井先生はしかと僕を見つめなおして、諭すように言った。

「もし緋の居場所を知っているなら教えなさい。」

僕は緊張した。僕の家に緋さんがいることを直井先生が知っているはずがない。昨日の下校の時は誰にも見られていないし、僕は誰にも話していない。僕は、白を切り通す決意をした。

「知りません……もし見つけたらすぐに直井先生に連絡しますね。」

僕は精一杯平常な様子を保ってそう言って、帰ろうと立ち上がった。直井先生は、お願いねと言って僕を見送った。

玄関を出て緊張から開放された僕は、大きく深呼吸をした。そして緋さんの待つ家へ急いだ。


夏休みが始まって一週間が経った。僕と緋さんは一日の始まりから終わりまでずっと一緒に過していた。

終業式の日の直井先生とのことは、緋さんには話さなかった。というよりも、話せなかった。僕は緋さんの入院によって緋さんを失うことが怖かったのだ。もしかしたら自殺するかもしれないと直井先生に言われても、僕の目の前で生きている緋さんを見ているととてもそんな気はしなかったのだ。だから、もしかしたらの可能性を危惧して一ヵ月以上も緋さんと離れるという事への覚悟ができずにいたのだ。

ほとんど毎日僕たちは一日中ずっと二人で家にいた。緋さんは昼間に外出する事はできなかったし、僕一人が外出したとしても買出しに近くのスーパーに行くくらいだった。別に二人でどこかに行きたいとは思わなかったし、二人で家にいるだけで幸せだった。

緋さんは日中いつも制服を着ていた。寝巻き以外の私服は持っていないらしく、三着ある制服を洗濯して着まわしていた。だから僕の家に来るのに荷物が少なかった様だ。

僕たちは二人寄り添っている事もあったし、離れて座ってテレビを見たり音楽を聴いたりしている事もあった。緋さんは、朝は毎日僕より早く起きて朝食を用意してくれたし、簡単な家事も自分からしてくれた。代わりに昼食を夕食はほとんど僕が作った。緋さんの食は細かったが、僕の料理を嬉しそうに食べる緋さんを見て僕もとても嬉しかった。夜は適当な時間に部屋に入り、僕たちはそれぞれ休息をとった。あの噂が本当だと知ったところで、僕の緋さんへの態度はなにも変わらなかった。

一緒に暮らし始めてから一週間が経ったが、緋さんにはなんの変わった様子も見られなかった。会話はいままで通り成り立っていない部分もあったが、いつもの事なので気にも留めなかった。急に精神が不安定になったり、幻聴に悩まされたりするんじゃないかという僕の恐れていた統合失調症の症状は見られなかった。

夏休み八日目の昼の事だった。

「学校に行きたいな。ねぇ、屋上に行かない?」

緋さんが突然言いだすので僕は驚いたが、二人で相談してその日の夜九時過ぎに家を出て学校に行く事に決めた。

「なんでいきなりそんな事言いだすんですか?」

不思議に思って僕は訊いた。

「急に恋しくなっちゃって。」

緋さんは笑って言った。僕は深く追求せず、じゃあ行きましょうと更に二人で計画を練った。

夜、僕たちは家を出た。人通りのない町のべたついた空気の中を二人で歩いて学校へ行った。閉まっている校門を乗り越えて玄関に向かった。玄関の鍵は締まっていたが、外から見える警備員室にいた警備員さんに、忘れ物を取りに来たと言ったら鍵を空けてくれた。幸い緋さんが制服を着ていたため、怪しまれなかったのだろう。全て僕たちの計画通りに事は進んだ。

玄関で持参した上履きに履き替えて、人気のない真っ暗な校舎を歩いて屋上へ登った。屋上のドアを開けると視界には夏の明るい夜空が広がった。その日は夏の夜にしては湿気が少なく、屋上には風が吹いていて爽やかだった。

「花火でもしたかったですね。持ってくればよかった。」

僕のその言葉に二人で笑った。

僕たちはフェンスのところまで行って、二人で町を見た。明りの灯っている街は綺麗で、僕たちは屋上の風に吹かれながらしばらくそれを眺めていた。

それから僕たちは屋上の真ん中に、並んで仰向けに寝転がって空を見上げた。僕はふと緋さんの手を握った。握り返してくれた少し汗ばんだ緋さんの手の暖かさは、緋さんが生きているという事を僕に実感させてくれた嬉しかった。

緋さんは僕と繋いでいないほうの手でスカートのポケットから煙草の箱とライターを取りだした。そして一本口にくわえて火を点けた。緋さんから吐き出される白い煙を僕は眺めていた。緋さんは、今日は僕にも勧める事はなく空を見ながらゆっくりと煙草を吸っていた。三回ほどゆっくり煙草を吸ってから、緋さんはその煙草の火を携帯灰皿で消した。

「わたしね。」

そして消えそうな細い声で、でもしっかりとした調子で言葉を紡ぐようにぽつりぽつりと話しだした。

「眞夜君に感謝してるんだよ。」

僕は顔の向きだけを変えて緋さんを見つめた。緋さんは空から視線を逸らさずに話し続けた。

「眞夜君の家で過ごせて、眞夜君といられて幸せだよ。」

そう言って緋さんは目を閉じた。

「僕もです。」

思わず僕もそう伝えた。目を閉じている緋さんがそのままくすっと笑ったのが見えた。それから嬉しい夢でも見ているかの様に言った。

「ありがとう。」

緋さんの手の暖かさを握りながら、緋さんの横で僕も同じ様に目を瞑った。そして夏の空気の中、いつの間にか僕は眠ってしまっていた。


夏の暑さで目が覚めた。どのくらい寝ていたんだろう。辺りは既に明るくなっていて、もうすぐ昼になろうとしている様だった。

僕の手にはまだ緋さんと手を繋いでいた間隔が残っていたが、僕の横にいたはずの緋さんはいなかった。

「緋さん?」

僕は寝転がったまま、そこにいない緋さんを呼んだ。そして緋さんを探して上半身を起こした。

「緋さん。」

もう一度名前を呼んだが、答える声はなかった。

「緋さん。」

呼びながら立ち上がっても、緋さんの姿はなかった。コンクリートの屋上に寝ていたせいで体が軋んだ。

「緋さん。」

屋上を見渡しても緋さんはいなかった。

「緋さん。」

目を凝らして辺りをもう一度よく見た。それでも誰もいない。僕は、世界に僕しかいないような錯覚を覚えた。

「緋さん。」

僕はもう一度あの人を呼んだ。

「緋さん。」

そして不安をかき消すかの様に更に何度も名前を呼んだ。緋さんの存在を繋ぎとめようとして何度も名前を呼んだ。

屋上の入り口の向かい側のフェンスの下には、便箋に書かれた緋さんの遺書と揃えられた上履きが置いてあった。僕はそれを見つけて、ふらふらと歩いてそこに近づいた。

恐怖が僕を襲い、僕はだらだらと汗を掻いた。しかし僕はフェンス越しに下の校舎裏を確かめずにはいられなかった。下をそっと覗き込んだ。そこには、宙を舞った後の緋さんが横になっていた。緋さんの周りには目の覚めるような鮮やかな赤の色の水溜りが出来ていた。それにもかかわらず、緋さんはいつもの綺麗なままの姿で静かにそこに横たわっていた。

僕の足は震えて立っていられなくなり、屋上に膝をついた。なんでこうなったのだろう。ついさっきまで幸せそうにしていた緋さんの顔ばかりが思い出されてくる。まだこの手には緋さんの温かさが残っているように感じた。僕はその手をぎゅっと握り締めた。でもそこには僕の手しかなく、もう緋さんの手の感触はない。その事を実感した僕の目からは涙がぼろぼろとこぼれていた。込み上げてくる嗚咽を我慢した口からは呻き声が漏れているのが聞こえた。僕は体を丸めて小さくなって泣いた。

どのくらい泣いただろう。体中の涙が枯れてしまった様で、僕の気持ちは落ち着きつつあった。

なんで緋さんは死ぬ事を選んでしまったんだろう。いつ死ぬ事を決意したんだろう。僕はその答えを求めて、震える手で緋さんの遺書を取った。字が霞んで見えにくかったが、緋さんによって書かれた丁寧な字を一文字ずつゆっくりと読んでいった。

遺書の最初の行には、眞夜君へと書かれていた。その遺書は、全て僕に宛てた内容だった。

「少しの間でも眞夜君と一緒に暮らせて、幸せでした。」

その文に、昨日の緋さんの声が蘇るようだった。僕は読み進めた。

「でも眞夜君と暮らしても、不安は解消されなかったの。」

一緒に暮らしていくうちに、僕の事を前よりももっと好きになっていって、一緒にいても不安を感じるようになり、逃げ場がなくなっていってしまったのだと書かれていた。きっと僕のように、二人で一緒にいるという目先の幸せに浸り続けている事が緋さんにはできなかったのだろう。

「僕のせいかよー……。」

そう呟いて、右手でフェンスを掴んだ。あの時と同じ、かしゃんという軽い音をたてた。僕の目からは枯れていたと思っていた涙再びぽろぽろとこぼれ落ちて遺書を濡らした。

「でも三年前に生き延びてしまった事を、今では悔やんではいないよ。眞夜君に会えて良かった。眞夜君の事を好きになれて、本当に良かった。あなたはわたしに生きる意味くれた。最期の一週間は本当に幸せを感じる事ができた。」

僕といて緋さんは幸せだったのか。一番心配だったその事をこの文章が解決してくれた気がした。僕は緋さんにとって、辛い想いをさせるだけの存在ではなかったのだと思う事ができた。

「わたしはあなたの事を、ただ愛したかった。それだけだったの。そんな事もできなくて、ごめんなさい。」

もう少し早く、僕が緋さんの好きという言葉を信じる事ができたら。そうしたら少しは結末が変わっていたのかもしれない。考えてもなんの意味もない事は分かっていたが、この言葉にそんな事を考えずにはいられなかった。緋さんには何も謝る事はないのに。緋さんは僕に、充分なほど気持ちを向けていてくれたのに。

「本当にありがとう。香野緋」

遺書はそう締めくくられて書き終えられていた。この世界に残された緋さんの最期の痕跡を読み終えた僕は、依然として泣いているみたいだった。けれども今度は我慢しなくてはならない様な込み上げる嗚咽はなく、すっきりとした涙が頬をつうっと伝って流れていく感触があった。

僕の知っていた緋さんの存在は最初から不安定なものだった。それを必死で現実に繋ぎとめようともがいていた僕を、緋さんはただひたむきに愛そうとしてくれていた。その事が、僕をなんだかとても満たされた気分にしていた。

僕は遺書を小さく破った。どの文字も読めないように細かく破った。そしてそれを屋上に吹く風に乗せて、真っ青でつき抜ける様な夏の空に飛ばした。それは一枚残らず風にさらわれていった。

僕こそ緋さんにこんなにも関わることができて、とても幸せだったという事をもっともっと伝えたかった。ありがとう、と何度も何度も心の中で緋さんに伝えた。


一階に降りると時間は既に十二時をまわっていて、警備員さんが僕たちを探していた。僕を見つけてくれた警備員さんに、緋さんの事を伝えた。警備員さんは多くを訊こうとはせずに、泣き過ぎて放心状態だった僕を警備員室に連れて行き、椅子に座らせて休ませてくれた。

それからしばらく経って警察や救急車が校庭に停まり始めた頃に、直井先生が警備員室にやってきた。直井先生は僕に会うなり、大丈夫かと訊いてくれた。僕は終業式の日からの出来事を、まだ夢の中にいるかの様に伝えた。直井先生は怒ったりする事なく、なにも言わずに僕の話をずっと聞いていてくれた。

「実はね。」

僕の話を聞き終わってから、直井先生は優しく話し始めた。

「あなたたちの事、知っていたの。」

僕は不思議と驚きはしなかった。そしてなにも言わずに黙っていたら、直井先生は続けた。

「あの子には守山君しか繋がりがないから、どこかに行くんだったら守山君のところしかないだろうと思って終業式の日に声を掛けたのよ。でもその日にあなたは言わなかったじゃない。そうしたら終業式の次の日に緋からメールを貰ってね。」

そう言って先生は自分の携帯電話を僕に手渡してくれた。画面には緋さんのメールが映っていた。

心配をかけてしまってごめんなさい。今わたしは眞夜君のところにいるので安心してください。多分もう直井先生と会う事はないと思うので、今までの感謝を伝えたくてメールをしました。本当は三年前に死ぬはずだったわたしを、ここまで生かしてくれて本当にありがとうございました。先生のおかげで、わたしは幸せでした。

メールにはそう書いてあった。それを読んでいる僕に直井先生は話し続けた。

「返信はしたんだけどやっぱりそれきり緋からのメールはなくて……あの子、もう終業式の日に死ぬ決心をしていたのね。」

メールを読んで、僕はまたたくさん泣いた。あの日にもう自殺を決めていたのなら、その後の僕との一週間はどんな意味があったというんだ。そこで僕がどんなに頑張っても、緋さんにとっては全く意味のない事だったんじゃないのか。そう思うと悔しくて、涙が止まらなかった。幸せだったなんて、そんな哀しい事言わないで欲しいとさえ思った。でもその言葉に救われた事も確かだった。

「でも眞夜君と出会えて本当に嬉しかったのね。幸せだったなんて、あの子がそんな事言うなんて、すごいわ。」

直井先生は泣きじゃくる僕の背中をそっと撫でながら言った。

僕はもっと全力で緋さんを好きでいるべきだったと悔やんだ。そうしたらもっと緋さんに生きていてよかったって思わせてあげることができたのに。僕たちはお互いがお互いの気持ちをなかなか信じられなかったあまりに、こんな結末しか選ぶ事ができなかったんだ。僕はいつまでたっても緋さんの言葉を信じられなかった自分に後悔するばかりだった。


僕は次の日に直井先生と一緒に警察の事情聴取に協力した。僕は当たり障りのない事しか話さなかったが、直井先生が補足をしてくれたためなんの問題もなかった。

しかしこの日緋さんの事を言葉にしたら、それは緋さんが死んでしまったという事実に正面から現実味を与えた。僕の初めて愛したあの人の記憶は、この日話したものと変わらないあかるさでずっと在り続ける。僕は緋さんを失っても、緋さんがまだどこかに生きているかの様に平然と生き続けるのだ。それが残された者への使命だと感じた。


僕は残りの夏休み、実家に帰った。緋さんとの生活の面影がまだ残っているアパートにはいられなかったからだ。およそ四ヶ月もほとんど連絡をしないでいた息子の突然の帰宅に両親は驚いたが、喜んで迎えてくれた。

僕は高校で起きた事をほとんど話さなかったし、両親は何も訊こうとはしてこなかった。必要以上に干渉しない事が、この人たちなりの信頼と見守り方なんだという事に初めて気づいた。

実家にいる時に新聞やニュースで緋さんの事が流れると僕はどきっとした。父が眞夜の高校じゃないかと言ってきたので、こんな大変な事があったんだねと傍観者のふりをして見ていた。そしてたまにテレビに映る緋さんの写真を見ては緋さんとの日々を思い出し、感傷に浸った。

相変わらず両親は二人とも昼間は仕事で家にいなかった。僕はひとり暮らしで培った生活力を見せようと家事をして、両親の分も夕食を作ったりしていた。料理が好きと言ったらお弁当も作ってと母に言われたので、朝作って持たせてあげると、とても喜んでいた。僕は母に緋さんの面影を重ねていたのかもしれない。僕の弁当をあげる誰かを、求めていたのかもしれない。


夏休みも最後の日になった。一ヵ月ほどの両親との生活も終わり、冬休みにまた帰ってくる約束をして、僕はまたあのアパートに戻る事にした。

まだあそこには緋さんの荷物がそのまま残っている。まずそれを片付けて、それからあの部屋にまた僕の荷物を入れて。緋さんの荷物は押入れに閉まっておこう。


学校の宿題で書いたのですが、課題から手を加えて投稿しました。もしよかったらアドバイスをお願いしたいです。

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― 新着の感想 ―
[一言] 拝読させていただきました。 眞夜君の感情や葛藤を表現させる一人称がすごく生かされていると感じました。特に、緋さんは本来の緋さんの姿ではなく、眞夜君の眼を通した緋さんの姿であるということが全体…
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