プロローグ2
「アリシア様、準備が整いました」
「……ええ、ありがとう」
アリシアと呼ばれた少女は、まだ幼さの残る顔に似つかわしくないほどの緊張と覚悟を貼り付けて祭壇を見上げる。
『召喚の儀』
それがこれから行われる儀式の名称である。
魔族の王たる者の魔力を捧げて魔族に勝利をもたらす魔神を召喚する儀式だが、そこに込められた意味は重い。
長らく続く人間との戦争の歴史。
その中で物量に劣る魔族は人間側に現れる勇者の存在もあって何度も種族存亡の危機に立たされた過去がある。
それでもその都度巻き返し、勇者と互角の戦いを繰り広げて魔族の窮地を救ってきたのが召喚の儀によってこの世界に顕現した魔神なのだ。
言わばこれから行われるのは魔族という種族の存亡を賭けた、絶対に成功させなければならない召喚魔法。
(大丈夫……『召喚の儀』は成功する、皆の力があれば必ず!)
内心で気丈な言葉を吐きつつ、それでもアリシアの顔から不安の色は拭えない。
それもそのはず、召喚の儀は一度しか行えないからだ。
魔族の王にしか行えない召喚の儀はその成否に関わらず、魔方陣が発動してしまえば術者は魔力をすべて失うことになる。
そしてアリシアは若く、王の座に就くにはあまりに幼い。
それでも彼女が王として在るのは先代王とその妃であったアリシアの両親がすでに他界しているからだ。
腹違いを含めた兄弟もこの世を去ったか、言葉も話せぬほど幼い子しか残されていない。
つまりアリシアが召喚の儀に失敗すれば後を託せる者はおらず、それは魔族という種の絶滅か人間への隷属に成り下がることを意味する。
その重すぎる命運がアリシアの双肩に圧し掛かっているのだ。
それでも彼女は顔を上げて魔族を導いていかなければならない。
アリシアは例え年端のいかない少女だとしても、魔族の王――魔王なのだから。
「リア、リン、宜しくね」
「「は、はいっ!」」
湧き上がる恐怖と緊張を押し殺して、アリシアはリアとリンという2人の魔導師に歩み寄る。
どちらもアリシアよりさらに一回り以上小さな体躯を緋色のローブで包んでおり、誰が見ても分かるほどその華奢な体を震わせていた。
その緊張をほぐすようにアリシアは柔らかな微笑みを浮かべる。
「大丈夫よ。貴方達の力を借りるんだもの、絶対に成功させてみせるわ」
だから安心して。そう囁いてリアの肩に置かれた細く白い腕は誰に気付かれることもなく、微かに震えていた。
◇
その姿をアリシアの腹心であるレイチェルは悲痛な想いで見つめていた。
不甲斐ない。
それがレイチェルの内心を支配している感情だった。
魔王とその配下。
そこに立場の違いはあれどレイチェルにとってアリシアは幼い頃からお互いを信頼し合える唯一無二の親友なのだ。
だというのにアリシアに全てを背負わせなければいけない現状に歯噛みし、手助けもできない自身の力の未熟さに言い知れない怒りを覚えていた。
「ずいぶんとおっかない顔をしておるな。アリシア様の門出だぞ」
「黙りなさいオリバー……いえ、脳筋」
「なぜわざわざ言い直す?」
「『召喚の儀』の危険性を理解していないほど馬鹿だからよ」
「違いない!ワシには危険性などさっぱりわからん。なんせアリシア様が失敗するなど微塵も思っとらんからな!」
2メートルを優に超える巨漢のオリバーは、丸太より太い腕を組んでガハハと豪快な笑い声を上げる。
「私だってそうよ!でもね、物事には万が一があるの」
召喚の儀は本来ならば魔力に恵まれた者が優秀な魔導師のサポートを受けてようやく成功するかどうかという、非常に高難易度の魔法である。
対してアリシアは歴代の魔王に比べて魔力量は乏しく、サポート役の2人も年齢を鑑みればかなり優秀ではあれどその幼さゆえ魔力の流れを制御する細かな技術は不足しているというのが実情だ。
しかしそこまで分かっていながら召喚の儀に踏み切らなければならないほど事態は逼迫している。
人間側は既に勇者の選定を終えた。
ここから人間達との戦争はより激しさを増して行く。
「なに、もしアリシア様が失敗してもワシが自慢の筋肉でぶっ飛ばしてやるわい!」
「だからアンタは脳筋だって言ってるのよ」
殴り飛ばそうとして返り討ちに合うような魔神を召喚できれば良し。
たとえ失敗してもそれが周囲に露見しないように担ぎ上げ、召喚の儀に応じた者を利用し尽くせばいい。
それを筋肉の錆びにされてはアリシアを救うための計略が破綻してしまう。
「とにかく黙ってなさい。アリシア様の集中の邪魔よ」
「うむ、そうしよう」
その言葉を最後に2人は口を閉ざした。
視線の先ではアリシアが大きく、ゆっくりとした呼吸を繰り返す。
やがて意を決したように詠唱を開始した。
変化はすぐに現れる。
「あれが……」
薄紫の光の膜の向こうに、人らしき形の影がかろうじて確認できる。
(あれが魔神、なのか?)
失敗して元々とさえ考えていたのに、驚くほどあっさり何者かが召喚された。
しかしレイチェルの考えはアリシアの声によって否定される。
「そんな……どうして!?」
絶望を孕んだアリシアの悲鳴にも似た絶叫。
レイチェルもすぐさま理解し、戦闘体勢に入る。
(この気配は人間!!)
召喚の儀に応じたのは、光の膜の向こうにいるのは、紛れもなく自分達の敵であるはずの人間だった。
レイチェルは警戒心を高め、隣にいたオリバーも拳を構える。
周囲に控えていた他の従者達も迎撃の体勢を整えていた。
やがて魔方陣の輝きが弱まっていく。
そうして光の中から現れたのは黒髪の男が1人。
レイチェルの――否、その場にいたすべての魔族の背中に冷たいものが走った。
なぜならその男は自分に向けられた殺気など気にも留めることなく、魔族よりも圧倒的に脆弱な人間であるにも関わらず
自分を取り囲む魔族を見渡して、確かに笑っていたのだから。