第6話
図書室での自習を終えた帰り道、学院の回廊は夜の静寂に包まれていた。
ガラス張りの天井を濡らす霧雨が、灯りに照らされてきらきらと光っている。
貴族生はとっくに寮に戻り、教師の姿もない。
平民であるわたしがこの時間まで残っていられるのは、王子の推薦を受けた“特待生”だからにすぎない。
けれど、この優遇が、わたしを孤独にしていた。
冷えた廊下を歩きながら、心の奥では任務のことを繰り返していた。
(感情は捨てて。仮面を崩さない。王子を信じさせて――婚約を壊す)
そのためにわたしはここにいる。
優しいふりをして、天使を演じて。
そうして、あの王族を地に引きずり下ろすために。
――そのとき。
「ルミーナ嬢?」
声に、胸が跳ねた。
振り向けば、そこにいたのは第二王子セディリオ。
制服の上に羽織った王族専用の漆黒のマントを軽くはたきながら、優しく微笑んでいた。
「この時間に帰りか? ……図書室か?」
「ええ、少し補助魔術の復習を」
「えらいな。俺なら途中で眠くなる」
そう言って、彼は肩をすくめる。
「……寮まで送るよ。雨も降ってきた」
断る理由はない。仮面をかぶるなら、むしろ自然に受け入れるべき場面だった。
「ありがとうございます。……とても助かります」
二人並んで歩く回廊。
魔石灯の光が静かに揺れ、影が交差する。
「君は、いつも頑張ってるよな」
「……いえ。頑張らないと、生きられなかっただけです」
言ってから、しまったと思った。
仮面にほんの小さなひびが入った感覚。
だが、セディリオは怒るでも、不審がるでもなく――ただ、わたしを見つめた。
「……そういう人、俺は好きだよ。誇りに思う」
不意に、胸が熱くなった。
そのときだった。
風が吹き、わたしのポケットから薄桃色のハンカチがふわりと舞い落ちた。
「あっ――」
同時にしゃがみ込み、二人の指先がハンカチの上で重なった。
その瞬間――心臓が大きく跳ねた。
温かい。
やさしい。
まっすぐな彼の手。
指先に触れただけ。たったそれだけなのに。
どうしてこんなに、息が苦しくなるの?
彼も驚いたように息を呑み、けれど目を逸らさない。
わたしたちは、数秒の沈黙の中、ただ――見つめ合っていた。
「……す、すみません」
「いや、俺の方こそ」
言葉を交わしながらも、視線は合わなくて。
でも、わたしはその目の奥に“揺らぎ”を感じた。
わたしと同じ、困惑と、戸惑いと――そして、ひとかけらのときめきを。
そのまま並んで歩いた道のりは、ほとんど会話のない時間だった。
けれど、静けさが心地よかった。
寮に戻って扉を閉めたあとも、胸の高鳴りは消えない。
(だめ。これは仮面の外にある“わたし”の感情……)
でも、その想いは否定できなかった。
ほんの一瞬でも――素顔で彼と触れ合ってしまって感じた熱を。