第1話:出会いは肉の匂い
私の名前はミサキ。高校2年生。
普通の女子高生と違って、私の興味は死体に向けられている。特にゾンビ。
その美しさに取り憑かれているのだ。腐敗した肉体が動き続ける神秘。生と死の境界線にある存在。
小学生の頃、「ゾンビの花嫁」という映画を見てから、私の人生は変わった。蒼白い顔と赤い目をした花嫁が、愛する人を求めて彷徨う姿に胸を打たれた。
「死んでも愛は終わらない」という概念が、当時の私の心を鷲掴みにしたのだ。
それ以来、私はゾンビに関する本や映画を片っ端から漁り、独自の研究ノートを作り始めた。現在、そのノートは27冊目に突入している。
学校では「死体オタク」と呼ばれ、友達は皆無。でも構わない。私には研究がある。
未来の夢は、世界初のゾンビ学者になること。ただの妄想じゃない。いつか必ず実現する。
そんな私の人生が劇的に変わったのは、あの雨の夜だった。
「くそっ、また傘忘れた…」
校門を出たところで土砂降りに見舞われ、近くの公園の東屋に逃げ込んだ。そこで、私は匂いを感じた。
生肉の香り。微かに腐敗が進んだ、あの独特の甘さ。
そして、うめき声。
「ううっ…腹…減った…」
東屋の隅にうずくまる男性。およそ20代後半。ボロボロのスーツ姿で、左腕には生々しい噛み跡。
私の心臓が高鳴った。まさか、現実の世界で…ゾンビに出会えるなんて!
「あの…大丈夫ですか?」
男性がゆっくり顔を上げる。血走った目、青白い顔、しかし…意識がある。
「助けて…ください…俺、おかしくなってる…」
普通の人間なら悲鳴を上げて逃げ出すところだが、私は興奮で震えていた。
「もしかして…噛まれたんですか?いつ頃ですか?症状は?脈は?体温は?」
質問を浴びせながら、私はバッグから体温計と聴診器を取り出した。いつもの習慣だ。死体を見つけたら、すぐに検査。
「え?あ、はい…昨日の夜…公園で寝てたら…何か人間じゃないものに…」
男性は混乱しながらも答えた。私は急いで検査を始めた。体温35.2度。脈拍は極端に遅い。皮膚は乾燥し、弾力性がない。
「典型的な初期症状です!ゾンビ化が始まっています!でも、完全には進行していない…これは奇跡です!」
私は跳ね回りたいほど嬉しかった。男性は困惑した表情で私を見ていた。
「ゾンビ!?冗談だろ…俺、タケシっていうんだ…お笑い芸人で…」
「タケシさん!私はミサキです!あなたは今、人間とゾンビの境界にいます。ハーフゾンビとでも言うべき状態!研究させてください!」
私は両手を合わせて懇願した。このチャンスを逃すわけにはいかない。
タケシさんは呆然としていた。そりゃそうだ。突然ゾンビだと告げられ、さらに研究対象にされそうになったのだから。
「いや、ちょっと待って…俺、ただの風邪だろ…ゾンビなんてあり得ないって…」
そこで彼の腹が大きく鳴った。「ぐぅ〜〜〜」
「腹減った…なんか…生のもの食べたい…」
タケシさんは自分の言葉に驚いたように口を押さえた。
私はバッグから取り出した。特製の生肉ジャーキー。ゾンビ映画の再現実験用に作ったものだ。
「これ、食べてみますか?」
彼の目がジャーキーに釘付けになった。唾液が口からこぼれ落ちる。本能的に手を伸ばし、むさぼるように食べ始めた。
「うまい…うまい!こんなの初めて!」
そして急に我に返ったように、「俺、何してるんだ…」と恐怖の表情を浮かべた。
「大丈夫です!パニックにならないで!」
私は興奮しながらノートに観察結果を書き込んだ。この時、私の人生最大の研究が始まったのだ。
「タケシさん、私があなたを助けます。そのかわり、あなたの状態を研究させてください。これは人類の科学の進歩のためです!」
彼は困惑した表情のまま、ゆっくりと頷いた。選択肢がなかったのだろう。
「わかった…でも、俺を人間に戻してくれるなら…」
私は大きく頷いた。もちろん、その時は単なる研究のためだった。タケシさんがどんな人間なのか、まだ知らなかった。
彼がゾンビ化した芸人であること。夢破れて公園に寝泊まりしていたこと。そして、そんな彼が私の人生をこれほど変えることになるなんて…。
「よし!じゃあ、まずは私の家に行きましょう。研究所…じゃなくて、私の部屋ですけど。」
雨はまだ降り続いていた。私は傘を忘れたことに感謝した。もし傘があったら、この出会いはなかったかもしれない。
そうして私たちの物語は始まった。ゾンビを研究する変わり者女子高生と、ハーフゾンビになった落ち目の芸人の、奇妙でグロテスクな、でも不思議と温かい物語が。
「あの…ミサキちゃん?」
「なんですか?」
「俺、もう一度…生きたいんだ。舞台に立ちたいんだ。」
タケシさんの目には涙が浮かんでいた。私は不思議な感覚に襲われた。今まで死体やゾンビにしか心を動かされなかった私が、生きることを願う彼の言葉に心を打たれた。
「大丈夫です。私が絶対に元に戻してみせます!」
雨の中、私たちは歩き始めた。二人とも、これから始まる奇妙な共同生活が、私たちの人生をどう変えるか、想像もできなかった。
人間とゾンビ。研究者と被験者。私たちの関係は、そこから始まった。でも、それがいつの間にか変わっていくことになる。
私の名前はミサキ。高校2年生。ゾンビ研究家。そして今、初めて…自分の心臓が、死体に向けられていた興味とは違う感情で、高鳴るのを感じていた。