恋愛免疫ゼロ男子、ただ今、課長と奮闘中
「バカやろう!本当にお前は!何度言えば分かるんだ!!」
今日も朝から黒田水瀬課長の罵声が飛ぶ。
また同じ部署の三橋さんがミスをして怒られていた。
「すみません!!」
深々と頭を下げて、大きな声で謝罪する。
「もういい!!この会社はこれからは俺が担当する。今回は先方が許してくれたからいいものを…。納品が間に合わないなんて、前代未聞だからな!とにかく、今すぐ倉庫に行って、あるだけの在庫を確認して来い!!」
黒田課長が、注文書を三橋さんの胸に叩きつけた。
「分かりました!!」
三橋さんは、地下にある倉庫に向かって急いで走り出した。
「三橋さん、また担当外されたわね。これで何回目?」
「黒田課長の負担が増えて、かわいそう」
女子事務員が、ヒソヒソと話し出す。
三橋さんは、課長とは大学時代の同級生で、就職先がなく、課長の紹介でこの会社に入ったと聞いたことがある。
そこに、ツカツカと歩み寄る、長いシルエット。
「笹倉、伝票。すぐに出たいから早く頼む」
何十枚もの伝票を僕のパソコンの横へと置く。
「あ、はい!今すぐ打ちます」
黒田課長が持って来た手書きの金額入りの伝票をパソコンに打ち込んで、受注のあった正式な納品書を出力するのが、僕の仕事だ。
もちろん担当は黒田課長だけではないけれど、受注の伝票の量が他の人とは桁が違う。いろんな会社から、それだけの信頼を受けて、注文が入るのだろう。
伝票入力は、僕と、もう3人の女子事務員でやるのだが、背も高くて、スマートで顔も良くて、何より25歳の若さで、このキャンプ用品や登山用品を扱う大手ブランド会社で課長になったとなると、課長の伝票の取り合いになるのは分かりきっていた。
そこで、あまりにも仕事に支障が出るようになり、しぶしぶ常務が、工場担当の事務を担当していた、男である僕を引き抜いたのだ。
「あれ?課長、これ、単価が960円になってますけど、以前、確か980円だったと思うんですけど…」
「あ、悪い。書き間違えた。直しといてくれ」
言うと、すぐに席に戻った。
めずらしい、課長の記入ミス。本当に忙しそうだ。
「体、大丈夫なのかな…」
僕はボソッと呟いた。
そんな日々が続いていたある日のことだった。
「笹倉君!」
昼食を食べ終わり、事務所へと向かう社内の廊下を歩いていると、背後から声を掛けられた。
振り向くと、工場の事務担当をしていた時に、一緒に仕事をしていた長浜さんが立っていた。
長浜さんは現場の担当で、とても賢くて、1度設計図を見ただけで、どんな製品が出来上がるのかすぐに想像が付くらしく、仕事も早かった。
たまに、社内で会うと立ち話をしたり、今でも長浜さんを含めた何人かで、食事に行ったりもしている。
「どうしたの?何か表情が固いけど、工場内で何かあった?」
「ううん。そうじゃなくて…その、今日バレンタインでしょ?」
「あ、そうだっけ?」
自分には全く縁のないイベントだったせいか、すっかり忘れてた。そう言われれば、朝から女子事務員の子たちが、何度も鏡を見て化粧を直したり、髪型を整えたりして、浮き足立ってる感じだったような…。
「まず、これは笹倉君に。それと、これ…」
綺麗にラッピングされた、箱を渡される。
「黒田課長に渡して欲しくて…」
「え?黒田課長に?」
「うん」
長浜さんの頬が少し赤い。
「自分で渡した方がいいと思うけど…」
「そんなこと、出来るワケないじゃん!お願い!頼める人、笹倉君しかいないの」
「分かったよ。渡せたら、渡しとく」
「ありがとう!!よろしくね!」
そう言って、長浜さんは、工場へと戻って行った。
「どうしよう。黒田課長、こういうの受け取るのかな」
特にプライベートで話したこともなかった僕は、全く想像も付かなかった。
事務所に戻ると、黒田課長の机の上に、山程の紙袋が置いてあった。
「え?何?」
「あ、笹倉ちゃん、初めてだっけ?バレンタインの日は、黒田課長、外回りしないようにしてて。それでも、黒田課長の代理で行った営業先の女の子たちから、みんな各それぞれ黒田課長宛のチョコレートを預かって持ち帰って来るからさ。夕方になると、いつももっと量が増えてる」
「そうなんですね…」
人気があるのは知ってたけど、ここまでとは思わなかった。
「中には、男の子からのチョコレートもいくつかあるみたいで。やっぱ、あれだけのイケメンで仕事も出来るとなると、男からもモテるだろうな~」
押田さんがサラッと言った言葉に、胸がチクリとした。
ん…?何だろう…?
僕は、不思議な感覚に、少し戸惑ってしまったのだった。
「笹倉ちゃん、チョコは?」
「え?あ、さっき、工場で一緒に仕事してた子からもらいました。義理ですけど」
「じゃなくて。誰かにあげないの?俺とかさ」
「僕からですか?どうして?」
僕が言うと、押田さんが、黙って僕の目をジッと見た。
「笹倉ちゃんて、本当に天然って言うか、鈍感って言うか…。まあ、そこがいいんだけどね」
と言うと、僕の頭をガシガシと掻き回し、自分の席へと戻って行った。その机の上にも、いくつかの紙袋が置いてあった。
「押田さんも、人気あるんだな…」
チャラいけど、何だかんだ言って優しいし、顔も良いし…。
そこに、午後の始業開始の音楽が鳴り出した。
「はあ。やっぱり今月も残業か…」
毎月15日の請求書の〆日前日は、必ずと言っていいほど、1人会社に残るハメになる。黒田課長が担当する得意先が多すぎて、請求書の印字が就業時間内に終わらないのだ。その上、コードNo.を入力しても出てこない会社もいくつもあり、新しく住所や会社名を入力してからの発行になるせいで、より時間が掛かってしまう。
「新規でそれだけの契約を取ってくるなんて、本当にすごすぎる」
ブツブツ独り言を言いながら、請求書を出力して行く。
「わあっ!プリンターの印字部分がずれてる!嘘だろ!いつから?」
床に置いてあるプリンターから出力された請求書を見て、思わず声が出た。
「…何か、疲れたな」
はあ…と、ため息が漏れ、つい床に座り込み、椅子に顔を埋めた。
「何だ?まだ居たのか?」
突然声がして、ビックリして顔を上げる。
「課長…」
「どうした?」
「いえ!すみません。少し心が折れてました」
「は?」
「課長こそ、こんな時間まで、お仕事ですか?」
「ああ。工場に、次の製品の試作品を見に行ってた。ちょっと手直しが必要だから、あっちも残業だな」
そして、自分の席へと腰掛けた。
あ!そうだった。工場で思い出した。長浜さんのチョコ、忘れてた。
僕は慌てて自分のデスクの引き出しから、チョコレートを出した。そして気付く。
いつも三橋さんのことを怒鳴っている課長しか見ていなかったせいか、ものすごく緊張して、心臓がバクバクして、変な汗が出て来ていることに。
「あの、これ、工場の長浜さんから、黒田課長に渡して欲しいって頼まれて…」
僕は預かったチョコを課長の目の前に差し出した。
課長が、席に座ったまま、上目遣いで僕を見る。
「悪いけど、受け取れない」
僕はビックリして、机の上に山積みになっているチョコレートを見て、
「でも、こんなにたくさん受け取ってるじゃないですか」
「これは勝手に机の上に置いてあっただけで、俺が受け取ったワケじゃない」
「じゃあ、このチョコも、その中の1つに入れて下さい」
「俺は本命からのチョコしか欲しくないんだ。だから、悪いけど、それ、返しといてくれるか?」
「でも…」
どうしよう。返すなんてこと、僕にはとても出来そうにない。それに、本命って誰のこと?課長、好きな人、いたんだ…。思考がグルグルと回り出す。
「分かった。俺が直接返してくる」
そう言うと、僕の手からチョコレートを奪って、足早に工場へと向かって歩き出した。僕は、黙ってその背中を見送った。
「あ…。請求書…」
チョコの行方も、課長の本命も気になるけど、今は仕事に集中しなきゃ、と思うのに…。
本命…本命か…。課長みたいな人に想われる人って、どんな人なんだろう。きっと、しっかりしてて、大人っぽくて、すごく綺麗な人なんだろうな。
パソコンを打つ手が、自然と止まる。
課長だけは、好きになったらダメな人だと、自分の中で言い聞かせて来た。それなのに…
「理性と本能だと、やっぱり本能の方が勝つのかな…」
頭では分かっていたとしても、心までは制御出来ないのが恋であって、その恋心に気付かないようにしてきていたのに、今の課長の言葉1つで、結局、心の中に閉ざされていた感情が、現れてしまった。手も届かず、相手にもされないって分かっていても、こんなにも惹かれてしまう。それが、僕の胸を苦しめ続けていた。
しばらくして、課長が戻って来た。手にチョコはなかった。本当に返して来たようだった。課長は黙って席に座ると、黙々と仕事を始めた。
課長のことが気になって仕方なくて、息苦しい。
長浜さんだけじゃなくて、何だか僕まで失恋したような気分になった。
慣れない課長との2人きりの時間。つい意識して、緊張してしまう。
「あの、息抜きにコーヒーでも飲みませんか?僕、淹れます」
「ん?ああ。サンキュ」
僕は給湯室へと向かい、お湯を沸かした。
なぜか、ため息が漏れる。
そして、コーヒーを課長の机の上に置くと、
「あの…。さっき言ってた、課長の本命って…?」
失恋した男の強み。思わず聞いてしまった。
「何だ?気になるのか?」
表情1つ変えず、そして書類から目を逸らさずに言うと、コーヒーを口へと運んだ。
「いえ。変なこと聞いて、すみません」
本当はすごく気になるのに、結局引き下がることしか出来なかった。
僕は、自分の席へと戻り、請求書がどこから失敗して印字されていたのかを辿ると、2枚先まではちゃんとうまく印字されていた。
「良かった」
終わりが見えて来て、ホッとする。
コーヒーを飲み、机の中にいつも常備してあるおやつを出して、口に頬張る。毎年、冬限定で販売される、口溶けの良い、特別なチョコレート。
美味しい。幸せだ~。よし!あともうひと頑張りだ。
視線を感じて顔を上げると、課長が頬杖を付いて、こっちを見ていた。
しまった!見られてた…?
「あ…。良かったら、課長も食べますか?冬限定のチョコレートなんですけど、すごく美味しいですよ」
僕が言うと、
「ありがとう。もらうよ」
そう言って、席を立った。
「すみません。仕事中におやつなんか食べてしまって」
言いながら、3袋ほど課長にチョコレートを渡す。
「いや。疲れた時は、甘いものが食べたくなるからな」
そして、課長がチョコレートを頬張る。
「うん。うまい」
「でしょ!?僕、めちゃくちゃチョコレートが好きで、毎年、この時期が特に楽しみなんです!」
「へぇ。コーヒーにも合いそうだな」
「そうなんです!口溶けも良いし…」
そこまで言って、気付いてしまった。
「あれ?でも課長、あれだけチョコレートがあるんですから、そっちを食べたらいいのに...」
「ん?いや、俺は本命からのチョコしか欲しくないって、さっき言っただろ?」
「あ…。そうでしたね。本命さんからのチョコは、今日、もらえたんですか?」
「ああ。今もらった」
「え!?今ですか?僕、ずっと一緒にいましたけど、そんな人…」
そしてハッとする。
「まさか…怖い系の話ですか?」
課長が、拳を手に当てて、吹き出す。
「本当に、天然て言うか、鈍感て言うか…。今、お前からチョコレートをもらっただろ」
「え?」
「俺の本命は、お前だよ、笹倉」
課長の言葉に呆然として、一瞬、言葉を失った。
「…嘘ですよね?だって、あれはただのおやつで…。そんな、ズルい…」
言うか言わないかのうちに、両頬を包み込まれる。
「仕事が終わったら、俺のマンションに来ないか?渡したい物があるんだ」
そう言って、課長が今までに見たことのない、優しい笑顔を見せたのだった。
「お邪魔します…」
高級マンションに、恐る恐る、足を踏み入れる。
あまりにも広くて、思わず足を止めて、息を飲んでしまう。
「これ、やるよ」
ポン、と、高そうなソファーの上に投げられたのは、可愛くラッピングしてある高級店のチョコレートだった。
「今日、これをお前に渡して告白するつもりだった」
「え!?課長がですか?」
「もう限界だったんだ。お前が他の誰かのモノになるんじゃないか…って、ずっと悩んでた。押田とかも妙に馴れ馴れしいし、めちゃくちゃ触るし」
課長が僕のことで悩んでいたなんて、そんなこと、信じられない。
「その…。何で僕なんですか?課長なら、もっとレベルの高い、素敵な人と...」
「笹倉をこっちの事務所に引き抜くように常務に頼んだのは、俺だ」
「え?」
「工場の事務担当に、めちゃくちゃ綺麗な奴が入社したって噂には聞いてたけど、全く興味がなかった。だけど、工場に打ち合わせに行った時に、一瞬で見惚れた。何ていうか、毎日、全然楽しそうじゃなくて、ものすごく悲しそうな表情をしてたのも気になった。そこから危なっかしくて、目が離せなくなって…。笑顔も、未だにほとんど見たことがない」
僕は俯いた。
「…僕、そんなに笑ってないですか…?」
「笹倉…」
腕を引かれ、課長の胸へと抱き寄せられる。
「課長の前では、いつも緊張してしまって」
「緊張?」
「課長は、何もかもが完璧で、そんな人の前で緊張しない人の方が少ないと思います」
「俺は別に完璧じゃないぞ?この前も、単価を書き間違えてただろ?」
「それ以上に、僕は粗相ばかりして、迷惑かけてますから...」
そうなのだ。以前も、郵便局から電話があった時に『《《郵便物》》から電話がありました』とメモを残していたり、「コーヒーにお砂糖入れますか?」と聞いてるつもりが、「お酒入れますか?」と聞いていたり…。何度呆れられたか、分からないくらいだった。
「それが、たまらなく癒されるんだよ…。ピリついた気持ちが、笹倉の粗相で、和むんだ。いつも笑いを堪えるのに必死で、営業車に乗った瞬間に、つい笑い出してしまってる」
「僕って、そんなにひどいんですか?」
「かなりの天然なのに、本人は至って真面目なところが、またいいんだよ」
僕は、課長に抱き締められているのにも関わらず、体に力が入ったまま、ただ、立ち尽くしていた。
「笹倉が好きなんだ。俺と付き合って欲しい」
嘘だ…。これは夢だ。絶対に夢だ。
「僕で、いいんですか?」
「笹倉じゃないと、ダメなんだ」
あまりの驚きに、固まって動けなくなった僕の唇に、課長の唇が、ゆっくりと重なった。そして、その唇がより深く重なった瞬間、僕は課長のことを突き飛ばし、思わずマンションから走り去っていたのだった。
その日、アパートに帰った僕は、課長からの告白や、キスをしてしまったという衝撃の強さに、心臓の音がうるさ過ぎて、一睡も出来なかったのだった。
翌朝、インターホンが鳴る。
玄関の扉まで行き、
「はい」
と、返事をしたが、あちらからの返答がない。
どうしよう。変な勧誘だったら。
戸惑っている所に、もう1度インターホンが鳴った。
「笹倉?俺だ。黒田だけど」
「え!?課長?」
僕は慌てて鍵を開け、玄関の扉を開いた。
初めて見る、私服姿の課長は、細身のシルエットが際立って、いつも以上にスレンダーで、より男前に見えた。しかも、髪が下りていて、いつもの、やり手の自信に満ち溢れたカッコいい課長とは雰囲気が違い、少し幼さの残る、イケメン大学生のようだった。
「昨日の夜は悪かった。気持ちが焦りすぎた」
「いえ。僕の方こそ…逃げるように帰ってしまって、すみませんでした」
昨日のキスを思い出すだけで、まともに、目を見られない。
「その、たぶん、課長に、まだ免疫がなくて…」
「免疫?」
「慣れてないって言うか」
「ずっと一緒に仕事してるのに?」
「課長、ほとんど外に出てますし。だから、その…」
「昨日の今日で別れたいとか言う気じゃないよな?」
「そうじゃなくて。免疫が出来るまで、待ってもらってもいいですか?」
僕が言うと、課長が黙り込んだ。
「今までと同じ状態でいるなら、いつまで経っても免疫なんか付かないだろ?」
確かに、そうだ。
「じゃあ、どうしたらいいですか?」
「それを俺に聞くか?」
課長が、呆れたように、ため息を吐く。
「考えてみます。どうしたら、課長と緊張せずに付き合っていけるのか」
課長が、玄関の扉を勢い良く開き、中へと入る。
「とりあえず、一緒にいる時間をまず増やさないと、だな」
そして、コートを脱ぐと、
「お邪魔します」
と、強引に部屋の中へと上がり込んだのだった。
なぜ、こんなことに...。
1LDK のこの狭いアパートに、あの高級マンションに住んでいる課長がいるとか、理解に苦しむ。
「あの…」
ダイニングキッチンの椅子に腰掛け、腕を組んで僕をジッと見ていた。
「決めた」
「何をですか?」
「しばらく、笹倉と一緒に、ここに住むことにする」
突拍子もないセリフに思わず呆然とし、その場に立ち竦んだ。
「む、無理です!そんなこと絶対に無理です!僕の心臓が持ちません!!」
思わず大きな声が出た。
「じゃあ、週に3日でどうだ?」
「週に3日?」
「火・水・金」
「多いです!」
「じゃあ、火・金」
「せめて、金だけで...お願いします」
「分かったよ。じゃあ、毎週金曜日の仕事終わりは、ここに帰って来るから、よろしくな」
黒田課長が、嬉しそうに笑った。
それからと言うもの、課長は毎週金曜日の夜には僕のアパートにきて泊まるようになり、土曜日は一緒に過ごし、日曜日はお互いに1人の時間を大切にしようと話し合って、とても心地の良い時間を過ごすようになったのはいいけれど…。
月曜の朝、課長から伝票を預かるものの、目を合わせられない。まだ付き合って1ヶ月半ということもあり、体の関係はないものの、同じベッドで一緒に眠り、何度も唇が重なった瞬間を思い出す度に、胸がギュッとなり、未だに必ずと言っていいほど、日曜日の夜は熟睡できずにいた。
「ほんと、情けないよ」
思わず、ため息が漏れる。
「笹倉ちゃん、この伝票もお願いできる?」
押田さんが、僕へと数枚の伝票を手渡す。
「あ、はい。急ぎですか?」
「いや、課長のが終わってからでいいよ。って言うか、顔赤くない?熱でもあるんじゃない?」
そして、コツンと自分の額を僕の額へと寄せた。
その距離の近さにビックリし過ぎて、思わず固まってしまう。押田さんの、この軽いノリに、僕はいつも付いていけないのだ。
「熱はないみたいだね。じゃあ、よろしく~。伝票打ち終わったら、連絡して」
僕は、慌てて黒田課長の方を見た。
黒田課長が、ジッとこちらを見ていた。
押田さんには気を付けるように、言われてたのに、やってしまった...。
その日の仕事帰り、課長がアパートへとやって来た。
「押田には気を付けろ、って何回も言ってるだろ」
「すみません」
「隙がありすぎる」
「でも…」
そこに課長の唇が、僕の唇に重なった。
「ほらな。警戒心をもっと持て」
僕は両手で唇を覆うと、真っ赤になってしまった。
「じゃあな。明日、また会社で」
それだけのために、僕のアパートに寄ってくれた課長の健気さに、胸がまたキュッとなった。
「え?課長の大学時代?」
「はい。どんな感じだったのかな…と思って」
三橋さんと、3月末決算のため、、キャンプ用品の在庫の確認をするように課長から言われ、2人で在庫表を持って倉庫にいた。
「そりゃ、あの容姿だし、頭も良かったから、ものすごくモテてたよ。女なんかも、とっかえひっかえで、かなり遊んでたし。彼女が出来ても、本気で付き合う感じじゃなくて、浮気しては別れるみたいなことも繰り返してたな~。飲み会の時に、かなり酔った時があってさ。男から誘われて、ホテルに連れ込まれたとかで、思わず抱いたって話を聞いた時は、さすがにシャレにならねぇだろ、って突っ込んだけど、思った以上に良かったとか何とか言ってて、軽い奴だな…って感心してたのを覚えてるよ」
そんな話を聞いた途端、注文書を持つ手が冷たくなって、カタカタと細かく震え出し、淡々と話す三橋さんの声が遠のき始めた。
課長、男との経験も、あるんだ…。
やっぱり、聞かなければ良かった。僕もいつか簡単に捨てられてしまうかもしれない。そんな不安がよぎった。何よりも、男を抱いたことがあると言う現実が、僕の胸に突き刺さる。
「まあ、今はかなり落ち着いたと思うけど?1年ほど前までは、営業先の子たちとも関係持ってたみたいだし。さすがに社内の子たちには手は出してなかったみたいだけど」
心臓が、ドクンと跳ね、胸がざわつく。営業先で関係を持った人と会ってるかもしれないんだ…。そう考えるだけで、胸が張り裂けてしまいそうだった。
そこに、
「作業は進んでるか?」
と、ガチャリと、突然扉が開く。
課長だった。僕は慌てて視線を足元に移した。目が合わせられなかった。
「もう少しで終わります」
三橋さんが答える。
「そうか。笹倉、急ぎで打って欲しい伝票があるから、来てくれ」
「分かりました」
自分でも驚くぐらい、低い声が出た。俯いたまま、課長の横を通ろうとする肩に手を置かれ、動きを止められる。
「三橋。お前、こいつに何か言ったか?」
「え?あ、課長の大学時代の話を少し。その、聞かれたので…」
言うと、三橋さんが昇っていた脚立を課長が蹴飛ばした。
「あっぶね!何すんだよ!!」
三橋さんが脚立にしがみついて怒鳴る。
「会社の奴には、俺のことは何も話すなって言っといただろうが!!」
「でも今は本気で好きな人が出来て、真面目に付き合ってるみたいだ、ってフォローする所だったんだよ!!」
「無駄口叩いてないで、真面目に仕事しろ!」
脚立にしがみつく三橋さんの頭を書類で思いっきり叩いて、課長は僕の手を引いて倉庫を出た。
課長は僕の手を握ったまま、階段を昇る。
「何を聞いたかは知らないけど、気にすることないからな。全部過去の話で、俺が今本気で好きなのは、お前だけだから」
僕の手を握る課長の手に、ギュッと力がこもる。
返事をしない僕を心配してなのか、
「本当に分かってるのか?」
と、足を止め、俯いたままの僕を下から覗き込む。
「…はい…」
課長が本気で僕のことを想ってくれているのは、確かに伝わってくる。でも僕は、課長に本気になるのが怖かった。
「それならいい」
課長は、事務所に着くギリギリまで、僕の手を離さなかった。
「ただいま」
ガチャリと、玄関の扉が開く音にハッとする。
今日は金曜日だと言うのに、僕は帰って来てから着替えも、夕飯の準備もせずに、ずっとソファーに座ったままだった。
「何だ?電気も点けずに」
課長が、リビングの電気を灯す。
「ごめんなさい。すぐに夕飯の準備します」
「いいよ。何か買って来る。何がいい?」
「…僕はいいです。課長、自分のだけ買ってきて下さい」
「お前が食べないなら、俺もいらない」
言いながら、僕の横に腰掛ける。
「ごめんなさい。僕…」
涙が溢れて止まらない。自分から課長の過去を三橋さんに聞いておいて、勝手に1人で傷付いて。自業自得なのに、こうやって課長に迷惑をかけてしまっている。
「俺はお前の過去を知らない。知りたくない。きっとすごく嫉妬するし、ショックで仕事も手につかなるかもしれない」
「はい…」
確かに僕にだって過去はある。課長に知られたくない過去だって、ないと言えば嘘になる。
「今までどんな奴と恋をして、デートをして…。そんなことを考えるだけで、たまらなく胸が苦しくなる」
「はい」
「でも、それ以上に、お前への気持ちの方が強いから、過去に何があったとしても、我慢も出来るし、許せると思う。お前は違うのか?そこまで俺のことが、まだ好きじゃないのか?」
課長の悲しそうな表情。
「…分かりません」
「笹倉…」
課長の顔が、辛そうに歪んだ。
「すみません。しばらく1人にして下さい。今日は帰って下さい」
僕は、ソファーから立ち上がり、課長に背を向けて距離を置いた。
「笹倉」
その肩に手を置かれ、
「触らないで下さい!」
と、反射的に、その手を払いのけてしまった。
「誰に触ったか分からない手で、僕に触らないで下さい。気持ち悪い…」
そんなことを言いたかったワケじゃなかった。それなのに、どうにもならない真っ黒な感情がフツフツと涌き上がって来て、抑えきれなかった。
「…悪かった…。今日は帰るよ」
初めて聞く、課長の覇気のない声。力ない足音が遠ざかり、玄関の扉が静かに閉じた。
僕は両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んで、嗚咽をもらしながら泣き続けたのだった。
「泣き過ぎて、頭が痛い…」
憂鬱な月曜日の朝が来てしまった。
朝、鏡を見ると、目がボンボンに腫れていた。
「また押田さんに突っ込まれそうだな…」
僕はボソッと呟いて、歯を磨き始めた。
重い足取りで、会社へと向かう。フーッと大きく息を吐いて、事務所の扉を開いた。
「あ、笹倉ちゃん、おはよう」
押田さんが、伝票を持って僕へと向かって歩いて来る。
「おはようございます」
僕は俯いたまま、挨拶をした。
「どしたの?声が掠れてるけど」
「大丈夫です。伝票、急ぎですか?」
いつもは朝に来ると、黒田課長の何十枚もの伝票が机の上に置いてあるのに...。今日は1枚もなかった。
「黒田課長、まだ来てないみたいですよ」
1人の女子事務員さんが、教えてくれる。
「え?まだ始業前にしても、こんなに遅い出勤、初めてなんじゃ…」
何かあったんだろうか?今までにないことに、すごく心配になってしまう。
「体調悪いとか、ですかね?」
「あ~、実はさ、課長、昨日、アポ取ってたこと忘れてたらしくて、取引先からかなり怒られて、朝一で常務と謝罪に行ってるって」
「え!?そうなんですか?」
「らしくないよな~。というワケで、今日は、黒田課長の分を俺と三橋さんで分担することになったから、笹倉ちゃん、この伝票、よろしくね」
バサッと、大量の伝票が机の上に置かれる。
「昨日、常務から急に電話掛かってきてさ。日曜日なのに、三橋さんと2人して出勤して、全部、単価も調べて伝票の準備して…。マジで大変。今日は絶対に残業決定」
「黒田課長、そんなこと今まで1度もなかったのに。大丈夫なのかな…」
女子事務員さんが、心配そうに呟いた。
「笹倉ちゃん、お昼一緒に食べない?」
押田さんが、コンビニの袋を持って、食堂へと向かう僕へと声を掛けて来た。
「黒田課長、大丈夫そうですか?」
屋上のベンチに腰掛け、お弁当を食べながら尋ねた。
「ん~?何か、無理そう。三橋さん、またミスしちゃって。課長に報告の電話したらしいけど、怒らなかったみたいだよ。三橋さんを怒鳴らないないんて、かなり重症だよな」
僕は黙り込んで俯いた。そして、
「あの…。押田さんも、恋愛経験豊富ですよね?」
「何?急にどしたの?しかも『も』って何?誰と比べてんの?」
言いながら、押田さんが笑う。
「その、僕の友達で、恋人が出来た人がいて。その相手の方が、昔、ものすごく遊び人だったらしくて。その過去を知ったせいで、2人の関係が、うまくいかなくなったみたいで…」
「なるほどねー。まあ、過去を責められてもね、って感じだな。だって、出会う前の話なんだし、過去のことが原因で今の恋愛をダメにすることほど、アホらしくて、もったいないこと、ないと思うけどね」
「もったいない?」
「昔から言うじゃん。過去と他人は変えられない、ってさ。今、付き合ってて浮気されたとかなら、責められたり、怒られたりしても仕方ないかな、と思うけど、過去のこと言われても、今さらどうにもならないだろ?」
「もし、押田さんが、今の彼女に過去のことを責められたら、どうします?」
「そうだな。自分の気持ちだけはちゃんと伝えて、相手に任せるかな。だって、許せないんだろ?」
「はい。気持ち悪い、って言ってしまったらしくて…」
「うわ~。それ、マジでヘコむわ。俺なら立ち直れないかも」
「そうですよね…」
「まあ、許せないってことは、それだけ嫉妬するくらい好きでもあり、逆に、それを受け入れられるくらい、好きでもないってことだな」
「どういう意味ですか?」
「本当に失いたくないくらい大好きなら、過去がどうであれ、絶対にその人を手離さないってこと。さっきも言ったけど、過去は過去。今の恋愛を楽しまなきゃ、もったいないよな。せっかく出会ったんだから」
「押田さんて、たまには良いこと言うんですね」
「俺はいつも良いことしか言わないけど?ま、早く課長と仲直りしなよ。今の課長、マジで使い物になんないから。それと『気持ち悪い』は、かなり傷付くから。ちゃんと自分から『僕に触って下さい』って、ベッドに誘って謝んな」
押田さんの強烈な言葉に、思わず咳き込んでしまう。
「あの!本当に違いますから!あくまで、僕の友達の話で…」
押田さんは楽しそうに笑うと、コンビニのおにぎりと、サンドイッチの空になった袋をコンビニの袋の中に突っ込んで、席を立った。
「午後からも、マジで忙しいんだよな~。黒田課長、今までよく1人でやってきてたな、って改めて感心するよ。今は、課長が1番ツラいと思うよ?仕事に支障出てるぐらいだから、よっぽどしんどいんじゃないかな…。じゃあ、お先」
そう言い残して、押田さんが、屋上をあとにする。
「やっぱり、僕のせい…なのかな?」
大きなため息が漏れた。
結局その日、課長は会社には来なかったのだった。
「ヤバい。緊張する…」
仕事帰り、課長のマンションまで来たのはいいものの、中に入る勇気もなく、マンションの自動ドアの前でウロウロしていると、管理人らしき人に声を掛けられた。
「誰かに用事?用事ないんだったら、不審人物として、警察呼ぶよ」
さすがに警察を呼ばれるのは…
「あの、503号室の黒田さんに…」
「黒田さん?はいはい。ちょっと確認取るから。同じ職場か何か?」
「あ、はい」
しばらくして、管理人さんが、自動ドアを開けた先の、もう1つの扉を開けてくれる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
部屋の前まで来たのはいいけれど、長い時間、インターホンが押せずにいた。
「やっぱり、帰ろうかな」
今さら謝ったところで、許してもらえるかどうかも分からないし。そこに、カチャンと鍵の開く音がして、静かに扉が開いた。
「何してんだ?センサーが反応して、インターホンの画像で、お前の姿が丸見えだぞ」
課長が、僕へと向かって、元気のなさそうな声で言ったのだった。
部屋に上がると、スーツが脱ぎっぱなしになって、ソファーに掛けたままになっていた。いつもなら、すぐにハンガーに掛けるのに...。
「ご飯、ちゃんと食べてますか?」
「…いや。食欲がなくて」
「何か作ります。材料、買ってきたので」
「無理しなくていい」
僕はキッチンへと立った。いつもは自信で満ち溢れて大きく見える課長が、今はとても弱々しく、今にも壊れるんじゃないかと思うくらい、儚げに見えた。
「笹倉」
「はい」
「来てくれて、ありがとうな」
言いながら、ソファーに座っている課長が、前かがみになって、両手で顔を覆った。
「課長…」
「お前とのことで、まさか仕事にまで影響が出るなんて、本当に情けないよな…。周りにまで迷惑かけて…」
その姿に胸が痛み、涙が出そうになった。僕はそんな課長に、背後からそっと抱き付いた。
「僕の方こそ、ひどいことを言ってしまって、すみませんでした。あの時、かなり動揺してて…。僕は、もう大丈夫です。僕のせいで苦しんでる課長を見てる方が、ツラいです。だから、元気出して下さい」
「笹倉?」
「僕に触って下さい。今まで通り、普通に…」
背中から回した手を握られる。
「お前は、一体どれだけ俺を惚れさせる気なんだ…?」
そして、顔を僕の方へと向け、右手で僕の頬を包み込んだ。それなのに、キスをせずに、少し躊躇を見せた課長の唇に、僕は初めて自分からキスをした。唇が離れた時、
「笹倉のことが、どうしようもないくらい、好きなんだ」
課長の右手が、僕の唇に触れた。そして、僕たちはお互いを強く抱き締め合った。
食事を済ませ、2人で片付けをしている時に、
「今週の金曜日、待ってますね」
と声を掛けると、課長がとても嬉しそうに笑顔を見せたのだった。
黒田課長と付き合い始めて、8ヶ月が過ぎようとしていた時だった。季節もすっかり秋に替わり、肌寒くなる日が増えてきていた。
押田さんから配送の準備の手伝いを頼まれ、2人きりで倉庫で作業している時に、
「嘘だろ?まだ課長とシテないの?」
と、かなり驚かれてしまった。
「僕たち、本当にそういう関係じゃないんです」
「でも、一緒に住んでるんだろ?この前、課長が『押田にだけは言っておく』って、これ見よがしに報告して来たからさ」
「はい。僕のアパートの空き部屋が、先月ボヤで焼けてしまって。コンセントからの出火だったんですけど、古かったし、取り壊すことが決まって…。課長が、部屋も余ってるし、自分のマンションに住むといいって」
「でも、付き合ってんだよね?」
「それは、その…」
つい、照れてしまう。
押田さんが、大きなため息を吐くと、
「黒田課長が、気の毒すぎる」
と、呟いた。
「何でしないの?」
押田さんが、脚立を降りて来て、僕へと尋ねた。
「何で…って」
「課長のこと、好きじゃないの?」
背中を壁へと押し付けられ、両腕でホールドされてしまい、身動きが取れなくなる。
「そんなんじゃ、俺も諦め付かないじゃん」
「え?」
押田さんの顔が一気に近付いたかと思うと、唇に温かい感触が広がった。バサバサ、と僕の腕から注文書が落ちる。
嘘…。
唇が離れ、僕は両手で自分の口を塞いだ。
その瞬間、
「倉庫でイチャつくなんて、いい度胸だな」
と、課長の声がした。
「あ、見られちゃいました?さすが、勘がいいですね」
押田さんが、悪びれもなく答える。
「どういうつもりだ?」
「どうもこうも、課長がまだ手を出してないみたいなんで、先に頂いちゃおうかな~って。課長も気付いてますよね?俺が笹倉ちゃんに気があるってことに」
「まあな。だから本人にも気を張るように言ってたのに、このザマだ」
「何で手を出さないんですか?そんな話聞いたら、さすがに俺だって、笹倉ちゃんのバージン、狙っちゃいますよ」
「押田。俺は、そんな挑発には乗らない。甘くみるなよ」
「さすが課長。でも唇はしっかり頂いたので」
僕は、全く2人の会話に付いて行けなかった。
そんな押田さんの腕を勢い良く引っ張ると、こともあろうか、課長が押田さんの唇を思いっきり奪った。
「んうっ…」
そして、
「これで笹倉の唇の感触を忘れられただろ?」
課長が、勝ち誇ったように、ニッと笑う。
「俺にキスするとか、課長、マジでどんだけ笹倉ちゃんのこと好きなんですか?」
「今度笹倉に手を出したら…」
「もう出しませんよ。課長、マジで俺のこと、犯しそうなんで...」
「よく分かってるじゃないか」
「笹倉ちゃん、挑発、失敗してごめんな。でも、笹倉ちゃんに気があったのは、嘘じゃないから。これからも、仕事のパートナーとしてよろしく~」
「挑発?」
そして、押田さんが、落ちていた注文書と荷物を持って倉庫を出て行った。
「本当に軽い奴だな…」
課長が呆れたように、ため息を吐き、そして僕を見た。
「すみませんでした。その…」
言うか言わないかのうちに、唇が重なった。
何度も優しく挟まれ、吸われる。官能的なキスに、体から力が抜けて、思わず床に座り込んだ。
「課長…。職場では、こういうことは絶対にしないって…」
「あいつとキスした唇のまま仕事をさせたくなかった。落ち着いてから事務所に戻れ。そんな色っぽい顔、誰にも見せるな」
そう言って、課長は僕に背を向けて、倉庫を出て行ったのだった。
その日の帰り道、つい口元を緩ませながら、課長のマンションへと向かっていたら、
「おい!蒼羽!!蒼羽だろ!?」
と、急に腕を掴まれた。
振り返ると、高校時代の同級生の、小野瀬陽大がいた。
僕の心臓がドクンと、跳ね、激しく動悸を打ち始める。
「陽大…。どうしてここに…?」
「こっちで仕事があって。まさか、こんな所で会えるなんて…。良かった。みんな、ずっと心配してたんだぞ。少し話せないか?」
「僕は、話すことなんてないから」
「10分でいい!いや、3分でいいから!頼む!!」
陽大の眉が下がり、今にも泣き出しそうな顔になる。
僕は、そんな陽大の目を見たまま、黙り込んだ。
「あの日、賭けをしてたワケじゃなくて、俺が、蒼羽に告白する、ってあいつらに断言してただけで。むしろ、からかわれてたのは、俺の方だったんだ」
高校3年生の時のことだった。陽大を含め、僕たち同級生は、いつも5人でツルんでいた。進路も決まり、あまり学校にも行かなくて良くなった時期に、陽大から突然呼び出され、近くの公園へと向かったのだ。
陽大はいつも優しくて、他の3人が冗談で僕をからかったりした時も、本気で注意してくれ、庇ってくれる頼もしい存在だった。
たまに2人で会う時には、いつも距離が近くて、どちらともなく手を握り合っていた。そのうちに、キスもしたり、恥じらいながらも、お互いの過敏になった部位に、直接触れ合ったりもした。そう。あれは、2人で会う度に、そんなことが続いていた、ある日のことだった。
「何だよ、急に。こんな雪の降る寒い日に呼び出したりして」
「その…。俺たち、もうすぐ卒業だろ?蒼羽に、どうしても言っておきたいことがあって...」
「何?」
「俺と、付き合って欲しい」
「は!?」
「ずっと好きだったんだ。大学進学で、離ればなれになる前に、ハッキリ気持ちを伝えておきたくて」
「陽大」
「俺のこと、恋愛対象として見るのは無理か?」
「そんなこと、ないけど…」
「じゃあ、曖昧な関係じゃなくて、ちゃんと俺の恋人になって欲しい。蒼羽を誰にも渡したくないんだ」
陽大の告白に、嬉しさで、胸がくすぐったくなった。
「…分かった。いいよ」
「よっしゃあ!!」
陽大がガッツポーズをして声を上げると、いつもツルんでいる3人が、どこからともなく出て来た。
「イェーイ!俺の勝ちー。ほら、お前ら、1000円ずつよこせよ!蒼羽なら、やっぱ絶対OKすると思ったんだよなー」
「俺は蒼羽がまさかOKすると思わなかったけどな。マジでビビるわ~」
みんなの声が、ショックのあまり、水の中に入っているかのように、こもって聞こえ始めていた。
「賭けをしたくて、僕のこと、からかってたのか?お前ら、最悪だな、マジで」
僕はそう呟くと、踵を返して家へと帰る道を辿った。
「蒼羽!違うんだ!!」
陽大が追いかけて来て、僕の手を掴んだ。
「離せよ。お前らの顔なんか、2度と見たくない」
俺はその腕を勢い良く振り払うと、涙が零れないように、唇を噛み締めて走り出したのだった。
そして、僕はその日以降、後期受験で別の大学を受け、学校に行くこともせず、卒業式も熱が出たと嘘を付き、欠席したのだった。
「あのあと、LINEのグループも抜けて、全員のことブロックしてただろ?そのあとに、携帯も変えたみたいだし。みんなで蒼羽の家に何度も謝りに行ったけど、いつも家にいなくて…。受かってた大学も断ったって聞いて…」
「だから何?それが、お前らに何か関係あんの?」
「蒼羽…。本当にごめん。俺は、あの時、本気で蒼羽のことが好きだったんだ。まさか、あいつらが、あの日、俺のあとを付いて来てたって知らなくて。そりゃ、うまくいったら、祝ってくれるって言ってはくれてたけど。それが、悪ふざけが過ぎて、賭けをした感じになったみたいで。みんな、あのあとマジで反省してて…」
「そんな話、今さら誰が信じんの?」
「蒼羽!!お前を失って、俺がどんなにツラい想いしてたのか、分かんねぇのか!?傷付いてたのはお前だけじゃねぇんだぞ!6年以上も音信不通で、どこにいるかも分からなくて…」
「離せよ。もう話すことなんかないから」
「会いたかったんだ、ずっと。俺は今も、1日だって蒼羽のことを考えない日がないんだ…。それだけ本気でお前のこと…」
僕の手首を掴む手に、力がこもる。
そこに、
「申し訳ない。私の部下が何か失礼を?」
と、陽大の腕を掴んで、尋ねた人がいた。
顔を上げると、課長が立っていた。
「あ…、いえ。久しぶりに高校の同級生に会ったので、少し話してただけです」
陽大が冷静に答えた。
「そうですか。少し声を荒げてたようなので…」
「課長。すみません。大丈夫です。行きましょう」
僕は陽大に背を向けると、腕を振り払って、足早に歩き出した。
「蒼羽!!」
僕は、陽大の声を無視して、歩いて行く。
「あ~、そうだ、君。1度失ってしまった信用を取り戻すのは、すごく難しいことでね…。仕事にでも言えることだけど。それじゃあ」
そして、課長が僕のあとをゆっくり付いて来たのだった。
「大丈夫か?」
マンションに帰ってから、涙が止まらなくなった僕を抱き締め、その肩を課長がポンポンと叩いてくれる。
僕は声を出せずにいた。悔しさと悲しさが入り交ざった複雑な感情が溢れ出て、止まらなかった。
「笹倉が泣いてるのは、あいつにひどいことを言ったと思っているからか?」
課長が優しく尋ねてくる。
「違います…。でも、どうして涙が出るのか、自分でもよく分かりません」
「泣いてたぞ」
「え?」
僕は顔を上げた。
「あいつも泣いてた。あんな道の真ん中で、恥ずかし気もなく、スーツの袖で、ずっと涙を拭ってた。今でも本当に後悔してるんだろ。少しだけ会話が聞こえてたけど、あいつは悪くないんじゃないのか?」
「でも…」
「友達に断言したのは、怖かったからだろ。だから、勇気を出すために、わざわざ口に出しただけで、まさか、そいつらが、後を付いて来てるとは本当に思ってなかったんだろ」
「怖い?」
「振られたら、友達の関係も壊れる可能性もあるからな。俺だって、笹倉に気持ちを伝えるのは、かなり怖かった」
「課長がですか?」
「まあ、何だ。あいつの肩を持つワケじゃないけど、誤解されたままで、音信不通になって、しかも久しぶりに会ってあんなこと言われたら、かなりツラいだろうな」
「もう終わったことなので」
「笹倉が俺との恋愛に臆病なのは、それも原因なのか?」
「分かりません。でも、恋愛にあまり前向きになれない気持ちは、常に自分の中にあるような気がします」
「そうか…」
課長の声のトーンが少し低くなったのが分かった。
しばらくして、
「話さなくていいのか?」
と課長が聞いて来た。
「誰とですか?」
「お互い、そんなに泣くくらい、しんどいんだろ?俺としては、2度と会って欲しくはないけど、笹倉の泣き顔を見ているのは、かなりツラい」
「連絡先も消去したし、もういいです」
「本当はどうしたいんだ?お前はいつも自分の感情を表に出さないだろ。今日、初めて見たよ。あんな風に感情的になってる笹倉を…」
「だから、もう終わったことだって、さっきから言ってるじゃないですか。課長こそ、何がしたいんですか?」
僕は、初めて課長に対して強い口調で言葉を発した。
「俺か?俺は、いい加減、お前とセックスがしたい」
課長からの唐突な言葉に、言葉を失う。
そして、唇を奪われ、そのまま押し倒される。
いつもは軽く触れるだけのキスなのに、頭を固定され、抵抗を許されない。
何度も激しく唇を重ね合わせ、そのうちに舌が入り込み、抵抗を見せたが、引き込まれて絡み合う。
「や…」
ベルトに手が掛かる。
その手を止めようと必死に抵抗するけれど、課長の力には敵わなかった。スラックスと下着を容赦なく下ろされ、初めて課長の前で素肌が露になった。
「綺麗だな…」
課長が、僕のを口に含む。僕は両手で顔を覆った。
「やだ…!課長…!」
それでも容赦なく僕のモノに貪り付き、課長は愛撫をやめなかった。
「あっ...、やっ…」
限界が来て、課長の口の中で迸り、息を切らす。
そして、僕を抱き抱えると、寝室へと移動した。
「課長…?」
「もう我慢するのはやめだ。いい課長でいるのは、今日で終わりにする」
そのままベッドへと、おろされる。
荒々しく、Yシャツを脱がされ、胸の突起に舌が這う。何度も舐め上げられ、そして吸い上げられ、課長も自分の衣服を脱ぐと、熱を持ったその裸体が僕へと重なった。
激しく唇を奪われ、指先で胸の突起を弄りながら、今、欲望を発した部位をもう1つの手で上下にしごかれる。
「あ...。やだ…。ダメ…」
もう、何も考えられなかった。そのうちに、課長の長くて細い指が、下の方へと移動し、誰にも触れられたことのないところを撫で始めた。初めての感覚に、背筋がゾクリとした。僕はギュッと目を閉じて、胸を弄っていた課長の手を両手で握った。
パチン、と何かの蓋が開く音がして、冷たさを感じたかと思うと、ゆっくりと撫で回され、周りが潤い、そして、指が中に入って来たのが分かった。
「あっ...!」
グッと奥まで入り込み、そしてクッと指が中で少し上の方へと曲がった瞬間、腰が跳ねた。
「笹倉…」
課長の息遣いが荒い。そして、嫌だと思うのに、気持ちが昂って来ている自分がいた。何度も出し入れされ、指に慣れてきた頃に、より熱いモノがあてがわれたのが分かった。
「っ…」
濡れてほぐされていた部位は、ゆっくりと課長を迎え入れた。圧迫感に襲われるものの、それとは別に、快感が訪れる。
両膝を立てられ、お腹の方へと持ち上げられる。結合部位が、課長に見られていると考えるだけで、どうにかなりそうなくらい、恥ずかしかった。最初は優しく緩やかな動きだったけれど、そのうちに課長が激しく腰を揺さぶり、それに合わせて、僕の体も揺れた。
「っ…。ん...!」
僕は喘ぎが漏れないように、必死で自分の両手で口を塞いでいた。
「笹倉…好きだ…」
課長が、耳元で囁くと同時に、中で何度も脈打つ感覚と迸りを感じた。2人して、しばらく息を整える。そして、課長が体を起こし、ベッドの上に座ると、俯きながら、片手で自分の顔を覆った。
「手加減が出来なくて、すまなかった…。押田のことといい、帰りに会った同級生といい、嫉妬でどうにかなりそうだった。嫌がるお前に、無理矢理こんなことして…。結局、押田の挑発に乗ったのと、変わりないよな。大事にしたかったのに、結局はこんな形でお前を傷付けて、何してんだろうな、本当に」
そして、
「笹倉のことになると、冷静でいられなくなるんだ。それが、すごく苦しくて、ツラい」
そう続けて、片手で顔を覆ったまま肩を落とす課長を見て、胸がひどく締め付けられた。
違う。悪いのは僕だ。課長にこんな思いをさせてるのは、いつまでも煮え切らない僕の態度のせいだ。課長の優しさに甘んじて、いつまでも課長に対して本気で向き合わずにいた、僕のせいなんだ。
「ごめんなさい」
僕はそう言いながら、体を起こすと、課長を抱き締め、
「僕が臆病だったんです。過去に対して、わだかまりがあったことに、課長は前から気付いてたんですよね。だから、今までずっと我慢して、手を出さずにいてくれた。それに甘えてしまっていた僕が悪いんです」
と、腕に力を込めた。
「笹倉」
「その…、別に、全然イヤじゃなかったので…」
僕が言うと、課長が頭を優しく撫でてくれる。
「痛くなかったか?」
「はい…」
「そっか…。良かった」
と、安心したように、耳元で息を吐いた。
「あの!課長が安心出来るなら、僕、陽大と話します。名刺、向こうから受け取ってましたよね?」
「見てたのか」
「ちゃんと話してきます。じゃないと、僕が実家に帰る度に、課長が不安になるでしょうし」
「確かに、気が気じゃない。間違いなく、一緒に実家に着いて行くだろうな」
課長が、真剣な表情で答えた。
「え…と」
陽大が、戸惑ったように、課長の方を見る。
「あ、気にしなくていいから」
僕の横に座る課長が、ゆっくり話せるようにと、個室のあるお店を用意してくれたのはいいけれど、なぜか、課長も一緒に付いて来たのだ。
「本当に、気にしなくていい。ゆっくり話してくれ」
課長が言うと、陽大が1度、咳払いをした。
「その…、連絡くれて、ありがとうな」
「課長が、ちゃんと話した方がいいって。さっきの僕たちの会話が聞こえてたみたいで…」
「そっか…。あの、ありがとうございます」
陽大が、課長に向かってお礼を言う。
「みんな、元気にしてる?」
「いや。あの事があったせいか、実は、卒業してから、みんな、誰とも1度も会ってないんだ。蒼羽に悪いから...って、何となく、全員が、心のどこかでそう思ってるんだと思う」
その事実に、かなり驚いてしまった。
「え?じゃあ、みんなどうしてるか、知らないってこと?」
「ああ。知らない。連絡先だけは、一応、残してはあるけど…」
「そんな。僕のせいで、仲の良かったみんなが、バラバラになったってこと?」
「蒼羽のせいじゃない。俺が浅はかだったんだ。みんなに話したせいで、あんなことになって。考えが甘かったんだ。蒼羽との関係も、あいつらの関係も壊してしまったのは、全部俺のせいだ。だから、ずっとずっと苦しくて…。本当にごめん」
「陽大…」
僕なんかより、陽大の方が、今までずっと、よっぽど苦しかったんだと、今になって気付く。僕は、本当に自分のことしか考えていなかったと、今さらながら、思い知った。
「2人の気持ちがラクになる方法を提案したいんだが」
課長が呟く。
「え?」
陽大が涙で濡れた顔を上げて、課長を見た。
「ただし、条件がある」
「条件?」
「今後、笹倉と2人きりで会わないと、約束できるなら、仲を修復する方法を提案してもいい」
「…えっと…?それって…」
明らかに陽大が戸惑っているのが分かる。
「あ、気にしなくていいから!課長、僕に対して、過保護すぎなんだよ。ほら、僕、昔っから危なっかしいって言うか…」
「確かに、放ってはおけない感じだったけど」
陽大が、昔を懐かしむように、少しだけ微笑んだ。
ああ…。変わらない優しい笑顔。一瞬だけ、高校時代の、何も考えていなかった楽しいあの頃に戻れたような気がした。
「いつまでここに?」
課長が陽大に尋ねる。
「あ、明日、少し観光して夕方の新幹線で帰ろうかと…」
「分かった。じゃあ、まずスマホで、その3人の連絡先が変わってないか確認してみてくれないか?」
陽大と僕は、課長に言われるがままに、その提案を実行したのだった。
「お帰り」
お店の外で待っていてくれた課長が、僕へと声を掛けてくれる。
「ただいま」
「楽しかったか?」
「はい。ありがとうございます。何か、支払い済ませてあったみたいで。何から何まで、本当にすみません」
そこに、ワーッと、4人が集まって来た。
「陽大から聞きました。本当にありがとうございます。俺たち本当にずっと悩んでて」
「またこうやって5人で会えるなんて、もう無理だと思って諦めてたんで...」
「会った時に、マジで涙が止まらなくて」
それぞれの思いを各自口にするので、ワチャワチャになる。
「蒼羽。年末年始、待ってるから。また5人で集まろうな」
1番冷静な陽大が、優しく微笑みながら、僕へと声を掛けてきた。
「うん。帰省する時にはグループLINEに連絡する」
「絶対だぞ!待ってるからな!」
また、各自、勝手に自分の思いを喋り出す。
6年以上会っていなかったとは思えない、相変わらずのノリに、僕は思わず笑ってしまう。
そして、昨日の夜に急に集合をかけたにも関わらず、集まってくれた友人たちが、駅へと向かう。僕は楽しそうに話しながら遠ざかるその背中を微笑みながら、見送った。
「良かったな」
「はい。課長のおかげです」
「帰ろうか」
課長が僕の手を握る。僕は、恥ずかしさに、つい俯いてしまう。でも、その手を離すことはなかった。
「わざわざ迎えに来るなんて、本当に心配性なんですね」
「ん?そりゃ、元彼がいるとなるとな…」
「元彼?誰のことですか?」
「いや。聞くと落ち込むから、詳しくは聞かないでおく」
「…はい」
課長は勘が良い。きっと陽大との、ちょっとした関係にも、気付いていたのだろう。
そして僕たちは、しっかりと手を繋いで、課長のマンションへと一緒に帰って行ったのだった。
心にずっと居座り続けた辛い過去から抜け出せたこともあってか、僕と課長の関係は、押田さん意外の誰にもバレることなく、良好に続いていた。
「課長。起きて下さい。今日、朝一で会議があるんですよね?」
「ん...?ああ」
「朝ごはん、もう出来てますから。早く起きて下さいね」
課長を起こす僕の腰に、スルリと課長の手が回ったかと思うと、スエットの上から下半身へと顔を埋める。
「もうシャワー浴びたのか?」
昨夜の行為を思い出して、カアッと全身に熱を持つ。
「あ、浴びました」
僕のズボンに指を引っ掛けると、下へとずらし始めた。
「か、課長!遅れますよ!」
「少しぐらい遅れたっていい…。蒼羽としたい」
「昨日の夜も…その…」
激しく求め合ったのに…。
「シャワー浴びなくてもいいように、ゴム付けるから」
「そういう問題じゃ、なくて...」
流される。そして朝早くから、僕は課長へと身を委ねてしまったのだった。
「笹倉、この伝票も頼む」
会議を終えた課長が僕の机へと、また大量の追加の伝票を持って来た。
「は、はい」
朝からするなんてこと、今までなかったせいか、顔が真っ赤になる。つい、目の前に立つ課長の、いけない部分に目が行ってしまう。
「あれが、今朝、僕の中に…」
と、考えてしまい、1人動揺して、あたふたする。
「あれ!笹倉ちゃん、顔が赤いよ?って言うか、耳まで真っ赤なんだけど」
押田さんに気付かれ、顔を近付けられる。
「大丈夫です!熱はないんで!」
と、即答して距離を置く。
課長はすごいな。動揺することもなく、普段通りに僕と接するところとか…。僕のことになると、冷静になれない、って前は言ってたけど。
そんなことを考えながら、伝票を打ち込んでいると、
「あ…。この伝票、単価が前と違う」
僕は確認するために、課長を探しに行った。駐車場を見ると、まだ課長の営業車が駐車場に止まっていた。きっと、まだ社内にいるはずだ。
「今日の分の、配送手続きかな…」
僕は配達待ちのトラックが止まる車庫へと向かった。その途中の廊下で課長の姿を見つけたが、配送する品を分別している部署の事務員の河村さんと一緒だった。
課長の手が、河村さんの肩に置かれていた。河村さんは、課長の胸に顔を埋めるようにして、泣いていたのだ。
僕は、足がすくんで動けなくなり、立ち止まった。
課長の声が聞こえる。
「決算が終わればそこまで忙しくなくなるし、そしたら、ゆっくり会えるから。もう少し我慢してろ。ちゃんと河村のことは考えてるから、心配しなくていい」
「はい。ありがとうございます」
何?今の会話…。まるで恋人同士みたいじゃないか。課長、もしかして二股かけてた…?
僕は、その場から走り出していた。事務所にも戻りたくなくて、僕は屋上に来ていた。
苦しい。胸が痛くて涙が出る。いつか自分が捨てられる日が来るかもしれないって、そう思ってはいたけれど、まさかこんな形で知ることになるなんて…。
「どうして…?」
泣きながら、小さな声で呟いた。僕のことを最初から騙してた?それとも、心変わりしてしまったのだろうか…。
朝、あんなに愛し合ったばかりなのに、僕は課長が分からなくなった。
そこに、スマホの着信音が鳴り響いた。課長からだった。僕はその電話に出ることが出来なかった。電話が切れ、LINEの通知音が鳴る。
『どこにいるんだ?』
僕はそれを無視して、会社に電話を掛けた。
会社の受付の子に僕の部署へと内線を回してもらい、別の事務員さんに課長の伝票の単価を確認してから、伝票の打ち込みをするようにお願いした。
今は同じ空間にいたくない。顔を合わせるのも辛い。僕は課長に本気になるのが、ずっとずっと怖くて、どこかで一線を引くように心掛けているつもりだった。それなのに...。
課長の営業車がなくなっているのを確認して、事務所に戻り、そしてその日は定時で上がると、急いでマンションに帰った。
確か、今日は取引先と食事会があるって言ってたから、帰りが遅いはず。
スーツケースを準備し、荷物を積め始めたら、涙が溢れてきて、止まらなくなった。
もう、課長とは一緒にいられない…
そう思っただけで、胸が詰まり、息が出来なくなりそうだった。もう、こんなにも課長のことを好きになってしまっていた自分が情けなくなる。
「あんなに、誰からも人気のある人に本気になったって、傷付くだけだって、分かってたのに...」
そこに、ガチャリと玄関の扉の開く音がして、スリッパも履かずに、ズカズカと廊下を歩く音が響き渡った。
「何してるんだ?」
課長は、息を切らしていた。
「荷造りです。僕、マンション出て行きます。課長こそ、今日は食事会じゃなかったんですか?」
「笹倉の様子が変だったから、別の日にしてもらった。何があった?泣いてるのか?」
「課長から別れよう、って言われる前に、自分から身を引くんです。感謝して下さい」
「は?別れようなんて、誰が言うんだ?」
「もう、いい加減にして下さい。僕が何も知らないとでも思ってるんですか?」
「いい加減にするのは、お前の方だろ!理由を言えよ!お前はいつも何でも1人で抱え込んで、俺に何も言わないだろ!そういうの、いつまでも俺の片想いみたいで、本当はめちゃくちゃしんどくて、辛いんだぞ!!分かってんのか!!」
初めて聞く、課長の本音。いつも余裕があるように見えていたのに…。そこで、僕も意を決した。
「今日、河村さんと抱き合ってる所を見ました。会話も聞こえました。課長、二股かけてたんですよね?僕は、いつか課長に飽きられて捨てられるんじゃないかって、毎日怖くて仕方なかった。だから、本気にならないように気を付けて、心から課長を望まないようにしてきました。ずっと一線引いて付き合って来たんです」
「…は!?嘘だろ?今さら暴露か?俺のこと、本気で好きじゃなかったって?ふざけんなよ!!」
課長が僕に対して、初めて荒々しい口調で声を荒げた。少し驚きはしたものの、最後に後悔だけはしないように、伝えたいことだけは言おうと、覚悟を決めた。
「それなのに、今日、河村さんと2人でいる所を見たら、どうしようもなく苦しくなって、息をするのもしんどくて…。僕の頭の中も心の中も、課長でいっぱいで、課長のことが好き過ぎて、どうしていいか分からなくなってしまって…。でも、どうせ振られるくらいなら、こんな気持ちに気付きたくなかった」
零れる涙を抑えることなく、僕は初めて課長に自分の気持ちをぶつけて泣き続けた。
課長は、ドサッとソファーに座ると、乱れた髪をかき上げ、大きなため息を吐いた。
「河村は、三橋の彼女だ」
「…え?」
「知ってのとおり、俺と三橋は大学の同級生で、会社では上司と部下だけど、今でも仲が良いんだ。三橋と連絡が取れなくなったから、何か知らないか、って相談を受けてた。三橋、河村との結婚を考えてるって話してて、最近すごく仕事に真剣に取組むようになったんだ。だから、三橋は河村のことちゃんと考えてるから、心配するなって…そう話してただけだ」
それを聞いた僕は、しばらく呆然として、身動きが取れなくなった。課長はそんな僕の手首を掴むと、自分へと引き寄せ、きつく抱き締めた。
「出てくなんて言うな。俺はお前がいないと、本当に生きてる心地がしない…。今日もずっと不安で仕方なかった」
「…ごめんなさい。僕、勝手に1人で勘違いしてしまって…」
は、恥ずかしすぎる!!
「いいよ。笹倉が俺のことをどれだけ好きか、やっと知ることができたから」
カアッと耳まで赤くなるのが、自分でも分かるくらいだった。
「もう、一線引いて付き合うとかナシだからな。笹倉の全てを俺は受け止めてやる。俺を信じろ。絶対に離したりしない」
「課長…」
僕が臆病なせいで、ずっと課長にものすごく寂しい想いをさせて、傷付けてしまっていた。
「あんな告白聞いたら、今晩は寝かせてやれそうにないな…」
課長が、耳元で囁く。
「僕も、今晩は、離れたくないです」
聞こえるか聞こえないか分からないような小さな小さな声で、答えた。
そして、そのまま初めて一緒にお風呂に入り、課長の寝室へと2人して移動した。
「俺に対して免疫もしっかり付いて、心も許したなら、今日は我慢するなよ?」
「え?」
「いつもしかめっ面してるから、俺とするのは、苦痛なのかと思ってた」
「…ち、違うんです。だから、その、本気になるのが怖くて、つい構えてしまって…」
「今日は、本気の姿、見せてくれるんだろ?」
「えと…」
言うか言わないかのうちに、唇が塞がれた。
「俺に全部、さらけ出してほしい。今日は顔も隠すな」
お互いの指が絡み、握り合う。
激しい口付けのあと、いつもより濃厚な愛撫が始まる。時間をかけて、ゆっくりと味わうように舌を体に這わせ、そして、いつも2人が愛し合う部分へと吸い付いた。
「やっ…」
いやらしい音が響く。執拗に舐められ、何度も吸い上げられたあとに、指で触れられる。
「すっかりほぐれて、柔らかくなってる…」
そのまま、指が入り込んだ。
「ん…」
僕は目を閉じて、顔を見られないように、横を向いた。
「横を向くな。ちゃんとこっちを見ろ」
「無理です…っ…」
「蒼羽の顔が見たい。感じてるところも、イクところも、全部」
中で指が蠢く。
「あっ!」
腰が跳ね、そして、課長が僕の硬くなったモノを舌で舐め上げた瞬間、僕は1度目の精を放ってしまった。
「すごいな…。中がめちゃくちゃヒク付いてる」
あまりの恥ずかしさに、目に涙が滲む。
お腹を濡らした僕の液を課長が丁寧に舐め取る。指はまだ中に入ったまま、抜き差しを繰り返していた。
「課長…、もう、意地悪…しないで下さい」
「ん…?仕方ないだろ」
そして、指が完全に抜けたかと思うと、中に入っていた指を僕の目の前で口に含んだ。そのいやらしい動作と、妖艶で男前な横顔に、僕の背筋がゾクッとした。
「蒼羽が、かわいすぎるから…」
そして、熱を持って硬くなった課長の大きなモノが、僕の柔らかくなった入口を押し広げ、ゆっくりと入り込んで来た。
「あ...っ」
「綺麗だよ、蒼羽」
目を細めて指を絡めて来る。その瞬間、心臓がドクンと激しく弾けた。
こんなに素敵な人にそんなことを言われて、ときめかない人なんて、いるんだろうか…。
キュッとした胸が落ち着かないうちに、課長との行為は激しさを増し、翌日が仕事の日は、いつもちゃんと自分の部屋に戻って眠るのに、その日は、めずらしくそのまま課長の部屋で寝落ちしてしまい、翌朝に、かなり慌てるハメになったのだった。
そして、付き合って10ヶ月が過ぎた、12月24日のことだった。その日の仕事帰りに課長に誘われ、ある場所へと連れて行かれた。
そこは、高級ブランドの宝石店だった。
「好きなのを選べ」
「え…?」
「結婚指輪だよ」
「けっ…結婚?」
「当たり前だろ。年末年始は、実家に帰るんだろ?本当は俺も一緒に行きたいくらいなんだぞ」
「そんな心配しなくても、陽大、もう付き合ってる人いますよ?」
「ダメだ。あいつらと会う時は、絶対に指輪を付けて行け。それと、俺は仕事中も家にいる間も、ずっとしとくから」
「もしかして、僕を安心させるために、ですか?」
「ん?いや。結婚してると思われていた方が、意外と信頼度が上がるからな。取引先ともうまくいきやすいだろ?」
違う。課長が僕と目を合わせずに話す時は、いつも何かを誤魔化す時だ。分かってくれてたんだ。今でも課長に言い寄って来る、たくさんの人たちに対しての、僕の不安と心配を…。
「ありがとうございます。課長」
「そこは、水瀬さん、だろ?」
「この前、会社でやらかしたので、もう課長としか呼びません」
そうなのだ。Hをする時は、せめて下の名前で呼ぶように言われ、そうしていたのだが、会社で思わず課長のことを「水瀬さん」と呼んでしまったことがあり、真っ赤になって1人でうろたえてしまったのだ。
「笹倉は本当に不器用だよな。あの時の、事務所内のざわつき、かなりのもんだったよ」
課長が口元に手を当てて、肩を揺らして笑う。
「でも、いつか絶対にそうなるって、課長は分かってましたよね?絶対に」
僕は、自分の顔が熱を持ち、赤くなるのが分かった。
「まあな。笹倉のことだからな」
そして僕たちは目を合わせると、静かに笑い合ったのだった。
この人を信じて付いて行こう。
僕の心に、もう迷いはなかった。
その翌日から、課長の左手の薬指には指輪が嵌められていて、事務所内が騒然となり、噂はまたたく間に社内中に広がった。ただ、誰にも相手の情報が入っていないせいか、課長担当の僕に「黒田課長の相手、誰か知ってる?」と聞いて来る人も多く、知らないフリをするのに必死だった。
そんな僕に、
「黒田課長のことを聞かれる度に、いちいち耳まで真っ赤にしてたら、気付かれちゃうよ?」
と、押田さんが、おもしろがって、必ずからかって来るのだった。
そして、僕の左手の薬指には、休日だけ指輪が嵌められる。いろんな困難はあったけれど、僕たちは今、本当に毎日が楽しくて、穏やかで、幸せな生活を送っているのだった。〈完〉