トマトのことはトマトに聞くのが一番だ
おばあさんは大玉トマトの苗も植えてみました。先輩おじいさんがうまくいかないと言っていた大玉トマトを植えるのはチャレンジでしたが。大玉トマトの苗は大きく育ち、わっさりと木のように茂りました。背も高く、枝振りも立派、わっさりと葉を茂らせた姿は、本当に木です。それを見たお節介な先輩おじいさんたちは言いました。
「剪定しなくちゃいけないよ。そんなにわっさり風通し悪くしておくのは良くない。風通しが悪ければ野菜は病気にだってなるし、繁った葉が虫のすみかになる。下の方の枝は切ってしまった方がいい」
おじいさんの畑の大玉トマトたちはなるほど下枝がきれいにカットされていて風通し良さそうでしたし、余分な枝を落とされた苗木は行儀よく一列に並んで支柱に括り付けられていました。何本もの苗が省スペースにこぎれいに・こじんまりと収まっていました。1本の苗が大樹のように暴れているおばあさんの放任仕立てとは違っていました。けれどおばあさんは、生き生きとした力強い樹勢のトマトの枝を切るのが惜しまれました。この力強いトマトは病気とは無縁に思えましたし、虫たちがわきまえもなく野菜に悪さをするとも思えませんでした。ちゃんとおばあさんに傷のないトマトを残しておいてくれた虫たちです。
「虫が食べたのは虫の分、虫食いでないきれいなのは私の分」
そうしてミニトマトを食べると、虫は10のうちの一つも食べていない、20のうちの一つだって、30のうちの一つだって食べていなかった、何百も生る実のうちのほんのわずかが虫の分で、残りは全ておばあさんの分だった。それに気づいたおばあさんは、虫のことで気を揉むのはやめよう、要らぬ取り越し苦労だと思ったのだった。それに言っては悪いけれど、先輩おじいさんの畑の大玉トマトたちは具合悪そうだった。下がスースー風通しよすぎるんじゃないか、丸裸とは言わなけれど「ふんどし一丁」みたいに具合悪く見えた。屈強な体ならふんどし一丁も男前だろうけど、彼らは枝葉も少なく揃ってひょろっとひ弱男子のようだった。色艶悪く痛々しく不健康に見えたのだ。剪定したり、整列させたり、何箇所もきちりと支柱に括りつけたり、痛々しく、窮屈そう。出来れば余分な世話を焼きたくない、楽したい・怠けたいおばあさんの畑では、野菜たちが奔放に育っていた。
「きゅうりの芯もとめなくちゃならない。芯をとめないとどこまでも長く伸びていく」
野菜作りには色々なノウハウがあるようで、先輩おじいさんたちはおばあさんのやりようを見ては首を振り、あれこれアドバイスをして来た。彼らは広い畑でトラクターに乗る西のおじいさんを拝んでいるのだ、おばあさんは思った。西のおじいさんの畑で大事なのは効率や生産性、管理のし易さだったが、それらは皆人間本位なものだった。西のおじいさんのやり方がいいとは限らない、野菜のことは野菜に聞いてみたらいい、トマトのことはトマトに聞くのが一番だ。試しにおばあさんはトマトの下枝を恐る恐る1本カットして見た。すると、それまでしっかり立っていたトマトの木がバランスを崩したようにぐらっと動いた。このトマトの大樹がさほどの支柱もなく自立できていたのは、自身の枝葉を自身でバランスよく伸ばして来たからなのだ。自身を絶妙のバランスで保っていた木は、不意にその枝の1本を除かれてバランスを崩した。一番ちっぽけな、不要と思われる1本を選んだはずだったが、それをちっぽけ・不要と判断したのは人間である私であって、木にとってはそれがあるかないかでは全体が倒れるか倒れないかほどの大事なものだったのだ、おばあさんは気づき、切ってしまった枝の代わりの添え木を慌てて施した。『怪我をさせてしまったね』、おばあさんは松葉杖を渡したような気持ちだった。このトマトの木が大きければ大きいほどに、それを支えるにこのちっぽけな枝は大事なものだったのだ。人間の世界でもそれは言えるんじゃないか。ちっぽけ、役立たずと思っていた人ほど、全体にとって不可欠だったりして。私たち人間には気づけていない・見えていないことが多い、そんな人間ががしているのは「独善」。人間様が良かれと思ってやることは、独り善がり。
おばあさんは毎日毎朝トマトの木を見ていた。夏が盛りになるにつれてトマトの木はますます背が伸び、枝葉を伸ばし、盛っていった。
「風通しが悪くなると病気になったり虫が来たりする」
と言う先輩おじいさんの言葉が頭をよぎった。ちょっと心配になったおばあさんは葉の茂ったトマトの木の下に入り、しゃがんでみた。小さな子供の背丈になって・子供目線で見ると、わっさり茂った上部に反して、下の方は枝葉が少なくスカスカ、茎と茎の間から周りの景色が透けて見えた。下の枝葉はクシャと縮んで茶色に垂れ下がっていた。そこでおばあさんは気づいた、お務めを終えた下の古枝たちは枯れ落ちて行くのだ。人の手が剪定などしなくたって、努めを終えた古い枝葉は自然に落ちていく、新しい枝葉・新しい芽吹き・新しい命に自身を譲って。彼らは自分を枯らす時を知っていて、時期が来れば・最適の時に枯れ落ちていく。養分は育って行く新しい枝葉に供給され、古い枝葉は朽ちていく、それはトマトに限ったことではない。イチゴも葉が繁り過ぎれば、真ん中の新芽に養分や水分を譲ろうと、自身の一番外側の葉を枯らす。どうして枯れるんだろう、最初おばあさんはイチゴの苗を心配したけど、それは病気でもなんでもなく、彼ら植物の知恵なのだった。彼らはそんな自然の摂理の下に生きているのだ。先輩おじいさんの畑の大玉トマトたちが矮小に、どこか卑猥に見えたのは、その知恵がねじ曲げられ、自然の摂理に反する業が行われていたためであろう。トマトのことはトマトに聞くに限る、野菜のことは野菜に聞くに限る、おばあさんは言った。
おばあさんは大玉トマトの苗を1本しか植えませんだしたが、その1本は何十も、いや百以上も実を生らしました。先輩おじいさんは一畝にずらりと苗を植ましたが、おばあさんほどの収量はなったのではないでしょうか。おばあさんのトマトは大きいものも小さいものもあった。最初の頃の実は大きいものが多かったが、後の方・枝の先端に行くほどに実は小さいものが多くなった。市場にトマトを売りに行く西のおじいさんは、それでは困るのだ。大きい粒揃いのものが欲しいのだ。だから畝にずらりと苗を植えて、1本の苗に多産を許さないのだろう。苗が小さな実をつけるようになると、お役御免と畑から退場させられる。大きな実をつけなくなった苗は速やかに畑から引き抜かれる。次に作付けされる作物が待っているからだった。
「西のじいさんはもう次の作物を植えている。おれも次のものを早く植えなくちゃ」
そう言うと、先輩じいさんはまだ実のついているトマトの苗を引き抜きました。生産性が悪くなった苗は畑の場所ふさぎでしかなかったし、元気なく枯れ葉をつけ出した苗が畑の景観を損なうのも、先輩じいさんは嫌だったのです。枯れたものなど放置されていないこと、スッキリと見場よく片付いていること、雑草を生やしておかないこと、畝が真っ直ぐで野菜たちが整列していること、先輩じいさんたちにとって畑はそうあるべきだった。畝がひん曲がり、雑草が擁護され、虫が放置されているおばあさんの畑は畑とは言えないものだと彼らは言ったが、西のおじいさんを先生にし、教科書通りをやろうとする先輩じいさんたちをナンセンス・馬鹿げているとおばあさんは見ていたのでした。市場に野菜を売りに行く西のじいさんと自家用野菜を作る自分たちとでは目的が違うのよ、やり方だって違っていいはず。先輩じいさんは西のじいさんが作る大きく傷のない立派な野菜に感心し、そのやり方が正解である、そのやり方を真似ようとしていたが、それで生計を立てたいのなら西のじいさんを先生にすればいいわ。始終野菜の出来を心配し、虫に目くじらを立て、気苦労だけでも大変なものだろう。おばあさんはその苦労には預かりたくなかった。売りに出すわけでもない、自分たち家族が食べるものだ、虫食いでも、小さくても、少々形が悪くても、何の困ったこともない、とおばあさんはのんきです。おいしいおいしい野菜たち、と感謝しかありません。
西のおじいさんを拝む先輩おじいさんたちの畑ではトマトたちはすぐに実生り・身なりが悪くなりました。きゅうりもそうです。放任仕立てのおばあさんの庭では、トマトもきゅうりも長い期間実を生らしていました。特にトマトは。樹勢のある生き生きとしたおばあさんの庭のトマトは、木枯らしが吹いてもまだたくさんの実を生らしていました。大玉トマトの苗もミニトマトの苗も2メーターのフェンスを超えて、フェンスの向こう側に垂れ下がっていきました。枝垂れるその姿は、大蛇や龍、何か長物の生き物です。そんな生命の躍動が感じられます。ミニトマトは到頭向こう側の地面に着きました、つまり4メーターも茎を伸ばしたのです。最初の年の経験で知りましたが、寒波が来るとトマトの実は黒く枯死してしまいます。そうなると食べることができなくなってしまいます。そうなる前に、11月の大風の朝、おばあさんは庭のトマトの実を青いのまで全部もぎました。青いものは部屋の中に置いておくと、追熟して赤くなっていきます。次々と赤くなるトマトをクリスマスが過ぎお正月が来ても食べていられます。3月まで部屋の中に置いても腐りません。年を越して置いたものは、皮が固い気がしたのでそのまま食べずにジュースにしていました。中には偶然うまい具合にドライトマトになったものもあって・ミニトマトの干し葡萄バージョンですね、濃縮した甘い味がした、これが上手く作れたらいいな、チャレンジする価値あり、などと思った。そして、3月まで青く残ったものを庭に捨てました、暖かくなると出ました出ましたたくさんの芽が。ホームセンターで苗を買う必要もありません。
要するに、畝にずらりと何本もトマト苗を並べて栽培する、省スペースにまとめるため一つ一つの苗を大きくし過ぎない・コンパクトに剪定する、こうすることで一時にたくさんのトマトが取れるし、長い枝の先の方につく小さなトマトを産させない、最初の頃の大きい実を取った後は場所ふさぎだ、身なりも悪く目障りだと早々に抜き去ってしまう、それは大きな実を一度にたくさん取りたい、畑の回転をよくしたい・次々と作物を植えたい、西のおじいさんに適したものなのだ。4メートルも茎を伸ばすトマトの潜在能力を無視した人間本位のやり方なのだ。少量を長い期間取りたい自家用野菜の栽培には必ずしも適しているとは言えない。先輩じいさんたちは夏の一時期トマトを食べただけで、冬の間も食べ続けていたのはおばあさんの方だった。じいさんたちはホームセンターで一度に何本もの苗を買ったし、夏が終わればスーパーでトマトを買って来て食べた。トマトは脇芽を挿せば、1本の苗を何本にも増やせる。それは苗を多く購入しなくて済むだけでなく、時間差で栽培することにもなる、収穫時期がずれて収穫がいつまでも続くということだ。自家用野菜は一度に少量ずつ長く収穫できるのがいい、おばあさんはそう考えていた。