怖いを通り越して、怖い。
「や! ちがくて!」
必死の否定。必死の形相。
それが、ため息たった一つによって引き出された、名前も知らない女の子の反応だ。
スクーターを挟んで反対側、女の子のほうを見ている山口の顔は見えない。
……けれどわかる。今彼女は、ただ無表情で女の子を見ている。何も発さず、ただ。
「誤解! 誤解だって! そういうつもりじゃ……」
ただそれだけで、女の子はすっかりビビってしまっていた。
普通の学校じゃ、多分彼女もスクールカーストの上のほうにいるんだろう。顔立ちだって整っているし、少なくともさっきまでは明るく楽しく会話できる雰囲気だったんだ。僕も、山口と対等に話せる友達がいるんだと少し驚いたくらいだ。
でも違ったんだ。文字通り、役者が違う。
「あ、あの」
何も話さず、何もせず。本当にただ黙って立っているだけ。それだけで女の子の語気は尻すぼみになり、視線もどんどん下がっていく。
山口は、待っている。
「山口」
僕の呼びかけにも応えない。
痛いほどの沈黙。肌寒いほどの温度感。何も主張しないことがこれほどの恐怖を生むことに、僕はそれそのものが恐ろしく思えてしまった。
山口は理解しているんだ。この子には、これが効くんだ、と。
歯の根の合わないような口元の震え。右手を左腕の肘に添え、すっかり縮こまってしまっている。
根負け、というと少し違うけれど、沈黙を破ったのは山口だった。僕のほうをちらりと見て、また向き直る。
「どういうつもり?」
「え」
「そんなつもりじゃなかった、でしょ? じゃあどういうつもり?」
「それ、は」
「わからないかもしれないけどね、私、これでも怒ってるんだよ」
いや、それは見ればわかる。
だからこんなにも震えてるじゃないか。女の子も、それから僕も。
「ごめん……」
「あれ、聞こえなかったかなぁ」
怖い、怖い、怖い。
だって声がまったく変わらない。口調も、抑揚も、平坦を超えて冷淡だ。
「どういうつもり?」
三度の問いかけ。女の子は、ぽっきりと折れてしまった。
「釣り合わない、と、思って……」
「私の友達を決める権利って、りぃにあるんだっけ?」
「ちが、違う……」
「だよねぇ。……違うよねぇ!」
「ひっ……」
ここに来て突然の大声。僕の心臓まで届くような。
「山口、もう」
「あ、うん。そうだね。ごめん、熱くなっちゃって」
申し訳なさそうに、山口は僕に小さく笑いかけた。
「や、失敗失敗。桜庭怖がらせたら本末転倒だ」
「大丈夫だから」
「帰ろっか。お詫びにコーヒーでも奢るよ」
スクーター……リトルカブを押して歩き始める山口の背を、僕はゆっくりと追いかける。
門を出るときに小さく振り返る……名前も知らない女の子は、うつむいたまま立ち尽くしていた。
「ほんとごめんね。あんなふうにするつもりじゃなかったんだけど」
「いや、大丈夫」
僕のために怒ってくれたことだけはわかる。それを僕が責めるなんてそれこそお門違いだ。
あの子には申し訳ないけれど、今は山口のほうだ。喧嘩、させてしまった。
「そっちは、大丈夫?」
「ああ、うん。まぁ、明日には忘れてるよ」
それはないと思う。人を怒鳴るって結構ストレスだろうし、あの子に至ってはトラウマになるよ。
「気にしなくていいから。釣り合うとか釣り合わないとか言ってたらさ、じゃあ私と誰が友達になってくれるのって話になっちゃうじゃん」
「……確かに」
山口と対等な友人……社会的な評価っていう意味で言えば、日本に数えるほど。さっきの子――りぃって呼ばれてたっけ。あの子だって、山口から見れば遥か格下になってしまう。
あるいは山口の怒りかたは、それを叩きつけるようなものでもあった。立場の違いを痛感させるような、彼女の怒ったポイントをそのまま返すような。
だからつまり、僕は守られていたのだ。
出会って三日、ろくに会話もできない男のために、友達と喧嘩をした。喧嘩……いや違うか。一方的に少女を責め立てた。完膚なきまでに、心の折れるほどに。
その上で、それにすっかりビビってしまった僕のケアまでしてくれてるんだ。
正直なところを言えば、怖くなった。だってここまでしてもらう理由がない。義理もない。
――異常、じゃないか。
わからないものは怖い。山口という少女のことが、まるでわからなくなったんだ。そりゃあ、もともと僕は彼女を知っていたわけじゃない。昨日までだって、他愛のない会話ばかりで、彼女の深くまで踏み込んだことなんて一度もない。
知らないものが少し出てきたくらいで、僕は。
「……ごめんね」
ああ、やっぱりだめだ、僕は。
山口がここまでしてくれる理由も、りぃって子のことも、さっきまでの余韻も、もうどうでもいい。
山口のこんな顔を、見たくない。
「明日、話して……みよう、か、とか」
「桜庭……」
「ちょっとした、ほら、軽口みたいなもの、かも」
「うん。そう、だね。私も、言い過ぎたね」
苦い笑みをこぼして、山口はリトルカブを押す腕にぐっと力を込めた。
少しだけの登り坂。何もない田舎道。田んぼと林と、少し先にはのんびりとした住宅街。ほんのりと草の匂い。
全国に名だたる大女優には似つかわしくないこの町も、けれど、大女優には合わせるに容易い。
懸命にバイクを押し歩く少女は、今はただの女子高生だ。小さく見える。
……押そうか、とは、言えなかった。それでもそれはきっと、彼女のプライベートな部分だろうから。
「ほんと、大丈夫だから。帰ったらあの子に連絡もしとくし」
「うん。ごめん」
言えなかった――僕のために、なんて。
「あぁ、もう……ほんと」
そりゃあそうだ、だって、気にしてないわけがない。僕と山口の間に隔たる、明確な差を。
そんな僕に対する苛立ちも、あるいはそれを引き出してしまったあの子への怒りも。吐き出すような山口の無意味な呟きに、僕はまたうつむいてしまうんだ。
けれど。
「行こう! 喫茶店!」
「え?」
僕の顔はすぐに上げられた。
「コメダで爆食いだ!」
「や、あれは」
「いけるいける。シロノワ久々ー」
ああ、わかりやすい。
わかりやすくテンションを上げ、わかりやすく僕を元気づけようとしてくれている。
ありがたい。
……なんて、僕もきっとそれに当てられて、テンションが上がっていたんだ。
だってシラフなら絶対、山口と二人きりで喫茶店なんて、来なかった。
視線が、ざわめきが、つらい。
予想できたことなのに、予想することすら忘れてた。楽しそうだと思ったんだ。女の子とお茶するなんて、僕にとっては夢みたいな話だったんだ。
僕らの案内された店の隅の席。普通なら視線をやるような場所じゃない。それなのに、今この店のどこよりも視線を集める場所になってしまった。
木目調の落ち着いた雰囲気。柔らかな色の照明。それがどこか、色めき立って浮ついている。
さっき注文を取りに来た店員さんすら、ハンディーを見ながらもちらちらと、気になって仕方ない様子だった。そりゃあそうだ、当然の反応だ。
だっていうのに、当の本人は素知らぬ顔で、今にも歌い出しそうな笑顔でこちらを見てる。
ブレザーを脱いだ山口は、緩んだリボンタイが、ちょっと、エロい。
「視線はわかるよー?」
によによと、ついさっき注意されたばかりの愚を犯してしまう僕を笑う。僕はぱっと視線を上げてごまかした。
「ほんとになんか、慣れてる、んだね」
「まぁ。東京とか行くと、お店側もお客さん側も慣れてたりするけど、ね」
「へー。まぁでも、僕も見ちゃう、かも」
「時間が経てば落ち着くよ。いる間ずっと見てるって、見る側からしてもないでしょ」
「あぁ、確かに」
ただ、大丈夫なんだろうか。
お店は信用問題に関わるから大丈夫だろう。けれどお客さんはそうはいかない。人の口に戸は立てられぬ、とはよく言ったもので、SNSに何かしらの情報が上げられるのはもう確定事項のような気はしている。
「大丈夫だよ。結構みんなちゃんとしてるから」
「そう、なんだ」
「人のプライバシーをSNSに上げるって、普通にアウトだから」
「……そっか」
僕がそうしようと思わないように、周りの人たちもきっとそうなんだろう。
希望的観測かもしれないけど、悪意を持った人間なんてそうそう出会うものじゃない。SNSやテレビで見てちょっと身近に感じてみたって、結局僕は、犯罪者に出会ったことなんて一度もないんだから。
それからしばらく、僕の頼んだブレンドと、彼女の頼んだカフェインレスコーヒー、それから普通サイズのシロノワールが届いた。
「……でかくない? あれ?」
「だから言ったじゃん……」
脅威の九百キロカロリーだ。食事管理に大幅の変更を強いられる。カロリー爆弾。
「ま、まぁ、ほら、二人だからほら、ね」
「頑張ろう」
とりあえず一切れずつ、小皿に取り分けていく。
ああ、罪悪感。デニッシュ生地とソフトクリームのコラボレーション。
「ああ、罪な味ぃ」
「わかる」
罪悪感は、おいしいのである。
結局あんなに大きなシロノワールを、僕らはぺろりと平らげた。日頃から食事管理をしているせいで胃が縮んでるかと思ったけど、そうでもなかったらしい。
そうしてコーヒーを飲み終わる頃には、僕らの空気はすっかり元通りだった。
「ね、怖かった?」
だというのに、山口は平気な顔して掘り返すんだ。
「……少し」
嘘。だいぶ怖かった。
「私、本気で怒ったの久々だな。それでもなんか、頭の中すごく冷静でさ」
「うん」
「相手がどうしたら怖がるか、わかるんだよ」
「……そんな感じだった」
「なんかすごい、自己嫌悪」
本気で怒った。理性なんて手放して。なのに、どこまでも理性的に相手を追い詰める。
そんな矛盾が、なおさら山口を突き動かしたんだ。
「止めてくれなかったら、普通に泣かしてたなぁ」
「……あのあと泣いてそうだけど」
「なんだよぉ」
あえて茶化すように、したつもりだけど、うまくいかない。
「正直言うとさ、ほんとに気に入らんかっただけなんだ。桜庭のためとかじゃなくて」
「……そっか」
ああ、その辺はちょっと……いやだいぶ、自惚れてた。恥ずかしい。
うつむく僕を笑い、「ごめん」とまた笑う。
「でも!」
……思ったより大きな声がでてしまった。周りを見回し、頭を下げ、くすくすと口を手で抑えて笑う山口を少しだけにらんで――僕は、少しだけ笑った。
「でも、ありがとう。本当は、ちょっと、ショックだったんだ」
本当は、だいぶ。
埋めようのない差を突きつけられた。わかっていたことを改めて、実感させられた。
そうだ、ショックだったんだ、僕は。わかっていても、納得していても、山口は久々にできた大事な友達だと……そう、思い始めていたから。
例のあの、温かい顔が見える。
緩くたわんだ目と、薄く引き上げられた唇。何より瞳の奥に灯る温度感。涙の滲んだような輝きが。
背筋が凍るほど、怖いくらいに、優しい。
「……かわい」
……怖い。