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特別な夜のこと。




 ついにやってきたこの日(バレンタインデー)

 その日は朝から落ち着かない。あんまりにもそわそわしてしまうものだから、シャツのボタンを一つ掛け違えたり、ネクタイの結び方を忘れたり、なんだか頭が熱を持ったみたいに働かない。

 どんなチョコを、どんな形で渡してもらえるんだろう。どんな味? どんな形? なんて言おう? ホワイトデーは? いろんなことが頭をぐるぐるぐるぐる、結局何一つ答えなんて出てきやしないんだ。当たり前、だけど。

 僕はふわふわと熱を持った頭で浮足立ったまま、母さんの「行ってらっしゃい」にもぼんやりとしたまま家をあとにした。

 通学路も、校門も、すれ違う他の生徒たちの様子もまるで気にならない。これからこの中に、仲良くなる子もいるかも知れないというのに。

 いつもメタクラには、透子が先について、いつもの席に座って僕を待っている。だからほら、今日もまた、ドアの開く音に応じるように、ふわりと振り返るんだ。

「おはよう。直樹」

「うん、おはよう透子」

 とーこさんから山口に、それからまた透子に。変わったけれど、変わっていない。

「チョコは、学校には持ってきていません!」

 唐突な宣言。

「……へえ」

「なにそれぇ」

 いやちょっと、これまでの動揺を返して欲しいというか。

 がっかりはしてない。彼女が「くれる」と言った以上、くれない、なんてことはないんだから。

 僕のリアクションに不満げな透子も、くるりと表情を変えて笑う。

「だから今日も、お家においで」

「……わかった。あとで、母さんにも連絡しとく」

「おやおや、もうご飯まで食べていくつもりかね?」

「ぐっ……いや、別に」

「んん~。冗談冗談、もちろん、いいよぉ」

 芹音さんの負担になるのはそりゃあ心苦しいし、父さんのいないときに家を空けるのも少し申し訳ない。けど、透子と一緒に食べるご飯は、やっぱり楽しい。

 料理の味については、どっちがどっちと言及するのはやめておこう。どっちも、おいしい。

「……泊まっていっても、いいよ」

「……え」

「お部屋、空いてるし」

「いや、さすがに」

「旅館が大丈夫なら、大丈夫でしょ? 別部屋で、保護者もいるんだよ」

「そりゃ、条件だけ見ればそうかもしれないけど」

 そういう問題じゃない、と思う。

 旅館はやっぱり()で、透子の家はやっぱり、()なんだ。ある意味での緊張感っていうものがなくて、気持ちが少し安らいでしまう。つまるところ、油断してしまう。

 僕がようやくと席について透子を見れば、彼女は身体ごとこっちを向いて僕を見ていた。いつになく、珍しく、いや初めて見るような必死な目をしている。

「どうしたの、透子」

「だって、修了式まで時間がない。それにバレンタインだよ」

「……それは、大事な話に、関わることなの?」

「……直接は、ない。でも、大事なことなの」

 例えば『大事な話』が、『告白の返事』だと仮定して。彼女の家に泊まることで何がわかるんだろう。どこまで気を許しているか? どこまで信用できるか? あるいは真逆の意味として、ダメなことをダメだと言えるかどうか、なんてこともありえる。

 僕はいつでも考えすぎて、透子に「見当外れだ」と笑われるんだ。物事はシンプルなほうがいい、だって配慮なんてめんどくさいんだから。

 シンプルに、考えれば。

「じゃあ、今日だけ。もちろん、芹音さんと母さんの許可が取れたら」

「うん。今度は、反対されないよ。絶対、ぜったい、ね」

 怖いくらいにまっすぐに僕を見つめる透子の瞳。いつも通りに、濡れたように輝いている。

 そして彼女の言う通り、母さんも芹音さんも、お泊りの話に異を唱えることはなかった。


 緊張を超えて、なんだか音が聞こえづらい。風が冷たくない。それなのに身体の芯が凍るように冷たくて、手足がうまく動かないんだ。

 僕はお泊りセットを大きなスポーツバッグに入れて、透子の家への道を歩いていた。

 僕の着替えと僕の歯ブラシセットと、その他私物のいろいろを持って、透子の家に。なんだか非常に良くないことをしているみたいで、意味もなくバッグを抱えて持ってみたり。

 時刻は午後五時。夕食の少し前に来て、ということで、日没からほんの少し、辺りはもうだいぶ暗くなってしまった。林のざわめき、僕だけの足音がぽつぽつと鳴ると、怖いくらいの静けさを際立たせる。

 そんな音もどこか遠く、見えてくる透子の家の灯りに、かえって心臓が絞られるような心地になる。

 門の前、小さな人影がこちらを見ていた。ぶんぶんと大きく手を振って、小走りに僕のほうへやってくる。

「きたぁ。よかった」

「や、そりゃ、来るよ」

「だって直樹、すっごく躊躇してたから」

「そりゃ、そうだよ。でも、約束したから」

「そうだよね。約束、守ってくれるもんね」

 そうだよ。約束は守らなきゃ。

 というかまぁ、行くと決まったなら、誰だって行くに決まってる。そんな栄誉(・・)、誰にだって訪れるわけじゃないんだから。

「入って入って、寒かったよね」

「なんか緊張しすぎて逆に寒くなかった」

「なにそれ」

 笑う透子に、なんとなく、身体の芯が少しだけ温もるのを感じる。

 部屋着にコートだけを着込んだラフな格好だけど、それが彼女というだけで様になる。ぺたぺたと間抜けな音を鳴らすサンダルも、なんだかかわいくて笑みがこぼれるんだ。

 玄関の扉を開くと、なんだかスパイシーな香りが漂ってくる。カレーのような匂いだけど、どこか違う――ドライカレーかな、と想像が膨らむ香り。

「甘いもの、あとで食べるから」

「な、……る、ほど」

 不意打ちの言葉に詰まってしまう相槌を、透子はおかしそうに笑った。

 想像通りのドライカレー。蒸し鶏のサラダにはノンオイルの自家製塩レモンドレッシングを添えて。加えてミネストローネスープで、今日の夕食の献立だそうだ。

「めっちゃうまそー」

「ちょっと早すぎた。また温め直すから、少し時間つぶしておいで」

「や、今食べる。どうせあとで、お菓子食べるから」

「ああ、そっか。そうだな。じゃあ、桜庭くんも、ほら」

「はい、じゃあ」

 リビング横、仕切られていないからリビングダイニング……もっと言えばLDKの食卓、座る位置はもうあらかた固定されている。

 僕と透子が隣に。キッチンに近いほうに芹音さんが腰掛ける。僕らが会話を挟みながらだらだら食べているのを、芹音さんは咎めるでもなく微笑みながら見てるんだ。

 料理に関しても妥協のない芹音さんの仕事ぶりは、やっぱり見事なもので。

「おいしいです。全然ベチャッとしないんですね」

「だろ? 最初はひどいもんだったけどね」

「チャーハンとかも結構練習してたもんね。こっちはしっとり系だけど」

「混ぜご飯系は、透子が好きだから」

「芹ねぇ好き」

「……なんだよ急に」

 わかる。大事にされてるな、って実感すると、「好き」が出るんだよね。

 母さん相手とかだと照れくさくて言葉には出ないけれど、幼馴染だと、まして年上の頼れるお姉さんとなれば素直になれるのかもしれない。

 頬を赤らめる芹音さんを見て思う。

 素直に言葉にするって、大事なことなんだなぁ。冗談めかした言葉でも、それが本気かどうかは見たらわかる。近しい人ならなおさらだ。

「まぁ、雇い主の好き嫌いくらい、把握しとかないとな」

「……かわいくない?」

「僕に同意求めないでよ」

 かわいいとは思う。


 食後、僕は一番風呂に入れと命じられてそれに応じた。そう、命じられたんだ。だからこれは失礼なことではないし、むしろ家主家人の意思を尊重する謙虚な姿勢なんだ。

 なんて言い訳をする湯船の中、ああでもかえってそのほうがよかったなとなんだか納得してしまう、きれいなお湯。お風呂自体はそもそも二度目で、あのときは芹音さんのシャツを借りたりして、なんだかいろいろと衝撃的だった。

 だからというわけではないけど、案外と落ち着いて入っていられたな、と。

 僕の家と同じシャンプーを使わせてもらって、僕の家とは違うボディーソープで身体を洗って、そのギャップにどうしてか背徳感さえ覚えてしまう。

 上がって、自分の持ってきた部屋着に着替えて、廊下に出るとリビングから笑い声。二人はどうやら楽しく談笑しているらしい。

 割って入るのが申し訳ないな、なんて思いながらリビングのドアを開く。

「お、湯上がり直樹。久々な感じだ」

「なにそれ」

「心なしかほかほか感があるよね、人の湯上がりって」

「それはわかるけど」

 それにしても湯上がり直樹って。

「あ、お風呂、ありがとうございました」

「いやいや、そういうのは家主に言ってくれ」

「ありがとう」

「苦しゅうない」

 ふんぞり返る透子を二人で笑い、それから芹音さんが立ち上がる。家主だというのに、雇い主だというのに、透子は最後でいいと言い張った。

 乙女にはいろいろと準備があるんだよ、と僕に微笑むその瞳は、なんだかいたずらっぽく揺れていて。

 二人きりになったリビングで、透子と僕はいつもの白いソファに座る。ピンクのクッションを胸に抱いて、膝を抱えて、潰れているのがどっちなのかわからないくらいに、とろけきった姿勢で笑うんだ。

「ここで並んで座ってると、直樹、いるなぁ、ってすごく実感する」

「確かに。すっかり定位置というか、なんというか」

「ときどきね、ソファに座ってると、『あ、自分の匂いじゃないな』って思うことがあるんだ」

「……それは、ごめん」

「えー、そこで謝る?」

 いや、なんかこう、……エロくて。なんてことはもちろん言えず、熱くなった頬が色づいていないことを祈りつつ、「ごめん」とまた口にする。

「このままずーっと一緒にいたら、だんだんそんな場所も、増えてくるのかなぁ」

「……もしかして」

「うん。それもちょっと、あったかな」

 部屋に呼ばれた理由の一端を知って、また頬が熱くなる。それで全部じゃないっていうんだからなおさらに。

「匂いって、相性があるらしいよね」

「聞いたことあるかも」

「私たち、たぶんいいと思うな」

「……かも、ね」

 僕は透子の、あのさりげない香りが好きだ。肩の触れるような距離にいるときだけ、ふわりと香る爽やかな。

「嗅いだな?」

「いや、……ごめん」

「じゃあ、私も」

 身を乗り出してくるから、思わずのけぞってしまう。追いかけてくる。そうして僕は、彼女に覆いかぶさられてしまっていた。

 普通なら途中で止まると思う。けど、止まらないのが透子なんだ。垂れ下がる髪が透子の頬を通り、僕の頬に。それくらいの距離。瞳の奥が、見えてしまいそう。

「そのちょっと怯んだ顔がね、すっっごく、かわいい」

「……僕は透子のそういうとこ、ちょっと怖い」

「ふふ。もうちょっと楽しんでいたいけど、今はお預けにしよっかな」

 含みのある言葉とともに僕の上からどいた透子は、またクッションを抱え直して人心地。

 元々距離感の近い透子だけど、唐突にこうして詰めてくることがある。心臓に悪いけど、どうしても抗えない。その柔らかさ、温かさ、香り。瞳のきらめき、肌のきめ(・・)まで。その全部に圧倒されて、つぶされてしまいそうな。

「だから、覚悟しておいてね」

 だから、覚悟しておかないと。

 今日、僕は、つぶされてしまいそうな気がする。





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