白猫の追憶
『何?この毛玉』
それが、未来の主に頂いた、ありがたい初めてのお言葉だった。
■
『は〜いようこそ〜』
知らない景色。
『これからは、ここが貴方のお家よー?』
知らない住処。
そして――
『何?この毛玉』
知らない人間。
ただでさえ、混乱の渦中にあった己の前に新しく現れたのは、黒くて長い毛並みが艶々した、若い女だった。
『んーふーふー…可愛いでしょ?』
『別に。可愛くない』
あの頃の、今日を生きることすら困難だった、思い出したくもないあの人間達ともまた異なる、完全に己という個に興味を持たない瞳。
路傍の石ころを見るかの様な、凍てついた瞳に上から貫かれ、思わず胸の奥底から恐れが蘇る。
『ふーん…』
細い手が、ゆっくりとこちらへと伸びてきた。
瞬間、恐怖が身体を強張らせる。
また、あの時みたいに、訳も分からず叩かれるのか。
頭を下げて、身体を丸めて、ただ無心で耐えるだけのあの時間が、また。
『(………ッ)』
だけど。
『私、しないから。お世話なんて』
『んも〜…』
頭を撫でるその手つきは、驚く程に優しかった。
■
『……何でついてくるのよ…?』
『………み?』
『み?じゃないが』
冷たいのに温かい、この人の変てこな匂いが気に入ったから、何となく後ろをついて歩いていたら、この人は何故かよく分からないけれど、何度もこちらを振り向いては、苦いものを噛み潰したような顔を見せる。
扉の前で徐ろに足を止めると、わざわざしゃがみ込んで、こちらの目を見つめてきたから、自慢のつぶらな瞳で見つめ返す。
負けず劣らずに綺麗な瞳。
なのに、酷く寂しそう。
『………』
自分と同じだ。
『入れないわよ、部屋には。片付けてるとはいえ、面倒だもの。貴方が暴れたら』
『………』
『全く…何も相談せず、急にペットを飼うなんて困ったものだわ。…だから、後からあれこれ考えなきゃいけなくなるのよ』
『………』
『ほら、毛玉。邪魔。しっしっ』
ばたん。
締め出されてしまった。
………。
…開けて。
開けて。
開けてー。
開けてーー。
開けてーーーーーーーーーーーー『分かったから!人の部屋の扉で爪をここぞとばかりに研ぎまくりながら鳴き続けるの止めなさい!!!入れてあげるから!!!』
開いた。
『くっ……!部屋の扉が見るも無惨な姿に……。何がしたいのよ…毛玉……っ!』
自分の奮闘の証が存分に刻み込まれた扉を、大変ありがたそうに撫でる彼女の横をすり抜けて、部屋に脚を踏み入れ、遠慮無く見渡す。
年頃の雌にしては、中々に無骨な落ち着いた部屋。ありきたりでつまらない。
ただまぁ。
人心地…猫心地?つくには、ちょうどいいかもしれない。
『…言っておくけど、勝手にベッドに上がったりしたら、シャブ漬けにして夜の街に放り出……もう上がってる………!!』
お先。
良い毛布使ってんじゃん。ちょうだい?
『この…っ…!こらっどきなさい!毛玉!!ああっ……!布団がフサフサに……!?』
『みゃあみゃあ♪』
『あっ…!?こら!!待っ…!!止まりなさい!騒ぐな走るなはしゃぎ回るな!っ怪我しちゃう……っ!危ないから……!!』
■
『お母さんのお気に入りの花瓶が割れました。怒らないから、割った悪い子は正直に名乗り出やがってください』
『こいつがやりました。こいつのせいです、全部』
『みぃ……っ!?』
『……はぁ……。…この短時間で、随分と仲良くなったわね?』
『な っ て な い』
大変失礼にも、人様…猫様の首根っこを引っ掴んで慇懃無礼に連行されたのは、自分を引き取った人間の御前。
…別に嫌いな訳ではないが、こっちの人間は、何というか、構い方がうっとーしい。
適当に距離をとりつつ、何だかんだこっちを見ていた、こいつの方がまだまし。
『…そう言えば、名前って無いの?こいつ』
『ん〜…実はまだ悩んでてー……。……そうね……お母さんの案では『ゲシュペンスト』。お父さんの案だと『素戔嗚』の二択までどうにか絞ったんだけど、どっちがいいと思う?』
『そう、素敵ね。私がつけるわ。すっこんでて。永遠に』
『ひ〜ん…』
それは助かる。よく分からないけれど、あの二人が自分を見つめてぶつぶつ呟いていた『だいぎんじょー』とか、『しゃとーぶりおん』とか、『おにごろし』よりかは、彼女の考える名前の方が大分マシな気がする。恐らく。
『ほら、来なさい』
『みっ』
ここから逃れられるのならば、是非も無い。連行された時とは打って変わって、柔らかな手つきで自分を抱き抱えると、彼女は再び部屋に戻るべく歩き出した。
廊下に出た辺りでうとうとしていたら、何とも呆れた様な溜息が聞こえ、緩々と面を上げる。何とも胡乱な目付きが、こちらを貫いていた。
『私の落ち度なんて100パー無いのに、怒られたじゃない。貴方のせいよ』
『みぃ〜』
『ふぅ…いつ以来かしら?怒られたのなんて…』
『………』
『ああ、そうだ…。確か、小学生の頃、あの子に怖い話を、…して…………………』
『み?』
『……………………別に。何でもない。気にしないで』
自分を抱く腕に力が込められ、そっと頭を撫でられた。
やはり、その手つきは優しくて、心地よい。
『というか、追い出すことに成功したのに、また連れてきてしまった。結局…』
一度自分の毛に彩られて諦めたのか、再び彼女のベッドの上に放り込まれた。
床に座り、面と向かい合って腕を組み、自分を睨みつける彼女。
『こいつ…いえ、貴方…。どうしましょうか?名前……』
その眼差しは、何だかんだで真剣そのもの。
何と言うか、やっぱりここの人達は、今までの人間とは何処か違う…気がする。
『というか、貴方、オス?』
『………』
『メス?』
『みぃ』
『ふふ…、そ。……となると、やっぱり可愛い方がいいわよね……』
一瞬だけ、彼女は初めて微笑みを浮かべるも、それはすぐに引っ込んでしまう。
顎に指を添えて、静かに考えに没頭する姿は成程、中々に絵になるし、賢そうだ。きっと、それはそれは自分に見合う素晴らしい名前でも考えてくれるのだろう。
『…………白いし、『みるく』ちゃんとか、どう?』
『ヘッ』
『鼻で笑ったか?今』
『みゅ?』キュルン♡
『はあ……その、甘ったれた目。“蓮“を思い出すわ…』
れん。
その二文字を告げた彼女の顔は、辛そうで、なのに幸せそうで。
その意味が知りたくて、ベッドを降りると、彼女の膝に頭を擦り付ける。
『……何?心配してくれたの?』
『みぃ〜』
『……ふふ』
ふっ、と、彼女の身体の強張りが解けて、そしてすぐに、優しい手つきが頭を撫でる。やはりいい。これなら、何度でもやってくれて構わない。
『……“ろーたす“』
『みゃ?』
ぽつり。本人も無意識に口に出していたのだろうか。口に手を当てて、はっとした様に目を丸くしていたが、自分と目が合うと、観念したかの様に息を吐いた。
『…うん、そうね。…ろーたす、なんてどう?…いえ、あの子の代わりみたいにしている様で、良くない、かな…?』
『みゃあ!!』
『え?な、何…?……気に入ったの?』
分からない。
けど、その名を呼ぶ彼女の顔は、確かに安らかだったから。
『そっか。…でも、ごめんね。……やっぱり、あまりその名で呼ぶのは、…辛い、から』
そんな事は無いのに。自分が必死に声を出しても、彼女が気付く様子は無い。
言葉が伝えられない事が、こんなにももどかしいだなんて。
『だから、代わりに…』
『貴方の名前は――――』
■
「おや、“ロロ“ちゃんじゃないか。また脱走したのかい?」
「なー」
あれから、一年近くが経った。
今までにも増して、割と自由気ままに出歩けるくらいになった私は、今日もまた、家族の目を掻い潜って町を流離っていた。
「あ、猫」
「可愛いー…!ふわふわ〜」
「ほ〜ら、おいで〜♡」
何故かはよく分からないけれど、この町の人達は、私を見る度、顔をだらしなく緩ませ、色々と食べ物をくれるのだ。何故かはよく分からないけれど。
素晴らしい。ここはまるで楽園ではないか。
そんな優しい彼・彼女達は、皆一様に私に同じ言葉を投げかける。
曰く、『堪らない』。
曰く、『柔らかい』。
曰く、『可愛い』。
それは、私を褒め称える称賛の言葉。…らしい。
そうか。私は可愛いのか。
私は…可愛い?
私は可愛い。
私は、可愛いのだ―――――!!
「可愛くない」
「………………………………………なぁん…」
「何?そのお腹。何でそんなご機嫌なぽんぽんしてるの?空中でふわふわ漂うタイプじゃないのよ、完全に」
「なー……」
「…少し目を離した間に、とんでもないことになってくれちゃって。これはちょっと許されない駄肉よ」
自信に満ち溢れながら帰った家で、待っていたのは望んでいた言葉ではなかった。
いつもより3割増くらいで苦い顔を見せる我が主は、何か悲しいことでもあったのか、悲痛に頭を抱えている。
「ペッ」
「小娘…っ!」
いや、そういうのいいから。ご飯ちょうだい。早く。
「…これはもう、痩せるまで荒療治しかないわね。覚悟しなさい、“暴食のロロ“。真鶴家に怠惰が跨ぐ敷居は存在しないわ」
「!?にゃあーー!!」
「あ、こら…!!」
伸びてきた手に嫌な気配を感じ取り、自分は素早く距離を取った。…おかしいな。身体がやけに重いぞ。まさか、我が主が何か罠でも仕掛けていたというのか。何て卑怯な。
「はぁー…無駄肉をたぷたぷ揺らして…。いらないのよ、そんな優秀な物理演算…」
「にゃにゃなー!」
「………あっそ。なら、勝手になさいっ」
ぷい。幼子の様に唇を尖らせて、主はそっぽを向いてしまった。見た目は大人っぽいくせに、中身は案外、子供であることを、自分はよく知っている。かれこれ一年、一つ屋根の下で、数え切れない程の喧嘩をしてきたのだ。
こういう時の仲直りの方法は、いつも同じ。時間を置くこと。
「にゃん!」
「ふん!」
同じタイミングで声を上げて、自分達は互いに背中を向けて歩き出した。
そんなに悪いことをしてしまったのだろうか。飢えるよりも、食べる方が余程いいに決まっているのに。
…けれど、確かに昔に比べて身体は重い。あの頃の方がもう少し軽やかだったかもしれない。
「…………」
仕方ない。主が落ち着いて、いつもの様に自分を探しに来るまでの間くらい、食べずに運動くらいはしておいてやるとするか。そうして、主が『言い過ぎました。ごめんなさい』、と、恭しく頭を下げたなら、まあ、もう少しくらいは、素直に。
「……………?」
と、しばらく歩いていた、その時だった。
懐かしい匂いが、微かに鼻腔に漂ってきて、ふと、脚を止める。
食べ物ではない。
これは、かつて主に感じた匂い。
無意識に、脚は匂いを辿っていた。
けれど、どうして。
一緒に過ごしていく中で、この匂いは確かにだんだん薄れてきたはずなのに。
それがこうもはっきりと。
「……」
…ああ、やはり懐かしい。
これは自分達と同じ。
そう。
寂しがり屋の匂い。
「にゃあ!!」
「……何だろう?この毛玉……」
それが、未来の主の番に頂いた、ありがたい初めてのお言葉だった。




