暑い日は汗を流すに限ります
暑いよぅ。
「何だかここ数ヶ月ずっと風邪を引いていた気がするわね。気の所為かしら?これ」
「それはもう違う病気でしょうし、恐らく気の所為では?」
「そうよね…」
暑さが熱くて熱々お熱の夏真っ盛り…一歩手前。そのはずなのに、梅雨という存在が強大な夏の手によって滅されたある日のこと。
「ほーら、情けないわよ?蓮。暑いからといって寝転がってばかりいては」
「だって暑いし…」
エアコンをガンガン稼働させて尚、暑さでへばって床に突っ伏す貧弱虚弱な弱者の俺を上から涼しいお顔で見下ろすのは、ご存知心頭滅却火属性の真鶴凪沙殿。
とはいえこの灼熱の日。流石の彼女も平然としてはいられないのか、その手に団扇を持って整ったお顔を扇いでいる。
「入る?お風呂にでも」
「う〜ん……」
汗を流す行為自体は大変真っ当なものではありまするが…。
ここで軽率に『入るぅ』とか言ったら、身の危険を感じるんだよなぁ。
団扇で顔の下半分を隠して愉しそうに俺を見ているその視線から感じる良からぬ気配がその証拠。
「…また君の大好きなここで身体洗ってあげるわよ?隅々まで」
ほら来た。
どことは言わないけれど、持ち上げて楽しそうにニヤニヤしている恋人から、ぎこちなく目を逸らした。
ナニとは言わないけれど、先日お風呂場で体験したとあるアトラクションを思い出すから。
「…本当に色々耐えられないんで勘弁してください」
「今日のところは?」
「………今日の、ところは………」
「ふふふ」
「…………」
「別にいいのに。耐えなくたって」
…もう本当、あれを何度も体験させられたら俺、今生でもし仮にそういうお店行ったとしても何一つ満足出来なくなっちゃいそう。いやもう手遅れか。それだけの破壊力と快楽が津波の様に押し寄せて、あっという間に脳を融かされる。
すんごいあっさり『やってみる?』とか笑顔で言われたから深く考えずに『ぇ……あー…、じゃあ……?』とかほざいたあの日の俺を褒めて、いや、ぶん殴りたい。
取り敢えずその後どうにかこうにか主導権は取り返せたからおあいこだとして。
「ならやっぱり、プールとか、海とか?」
「う〜ん……」
細い指を一本一本立ててうきうきと提案する凪沙とは打って変わってこちらは苦い顔。
まあ、確かにそれが健全というか、正統派だとは思うけれども。
陰キャとしては人前で肌を晒す行為は拷問に等しいと思うんですよね。
ほら、多少鍛えているとはいえ僕白いし、細いし、体育の着替え中、クラスメイトに『薄目で見たらワンチャン女の子』とか言われてぞっとしたし。
………後、凪沙の水着姿を他の男が見るっていうのも……いや、凪沙がどうしても行きたいというのなら、それは別に構わないんだけども――
「そろそろすーちゃんの過激イメージビデオ撮影回とかあってもいいと思っていたのよね、私的には」
「あってたまるか!絶対に行きませんからね!?」
堪らず起き上がった。目にねじ込んでも痛くない可愛い我が妹がとんでもない目に遭わされようとしている。
「いやいや、大丈夫よ?カメラマンは私だから」
「何処に大丈夫の要素があるというんだ」
胡座をかいて下から睨みつける俺に、誤解だとでも言わんばかりの顔で手を振っているが、何一つ誤解じゃないです。すーちゃんの貞操が危ない。
「なら君が撮る?」
「撮る訳なくない!?」
「私相手でも?」
「撮rら、ない…です」
「ふふふのふ」
何でそこはかとなく嬉し恥ずかし、といった感じで可愛らしく身体をもじもじさせているんだ…。仄かに頭痛がしてきて、堪らず眉根を押さえた。
ちょっと最近、『何となく一度足を踏み入れてみたらそれ以降気軽に通える様になりましたてへぺろ』、みたいな感覚で多種多様なプレイにはまりつつある恋人の桃色頭のネジをどう締め直すべきか、本気で考えた方がいい気がする。それでいてテクニックの上達の速さが尋常ではないのだから、男という立場的に耐え続けなければいけないこちらの辛さときたらもう。多分、いや絶対、向こうも分かってて愉しんでる。外道。
「んもう、失礼ね。好きな人には何だってしてあげたいし尽くしたい健気な乙女心じゃない、どこからどう見ても」
「心を読まないで…」
「…………君は、嫌、だった?」
「………それはずるいでしょう……」
途端にそんな不安そうな声を出されて、否定出来る男が存在するとでも?
堪らず肩を落として溜息をつく俺に、途端にご機嫌そうに抱きついて『可愛い可愛い』とか言って撫でてくる恋人を宥めすかして引き剥がそうとすると、それよりも早く、特に機嫌を損ねる様子も無く素直に離れてくれた。
あまりの手応えの無さに思わず凪沙の顔に視線を向けると、唇を人差し指で押さえられる。彼女は何処か悪戯っぽい顔で片目を瞑って微笑んでいた。
「プールも嫌。海も嫌。そんなわがままなイヤイヤ期の藤堂君に恋人兼お姉さんからプレゼントがあるのだけれど」
「………何ですか」
「ふふ、拗ねないの。はい、これ」
「?」
「じゃじゃん」
凪沙が何やらごそごそと胸元を探れば、豊かな谷間からするりと出てくる細い紙。
決してツッコむ事はせず、何処か子供の様にはしゃぐ彼女から手渡されたそれ(ちょっとしっとりしている)を大人しく受け取り、そこに描かれた字面を読めば、何とオドロキ。
「ついこの前当たったの、商店街の福引で。避暑地の一泊温泉旅行券〜」
「…あれって当たりとか存在するんだ…」
「言いたい事は分かるけれど止めておきましょうね?」
全部都市伝説だと思ってた…。そんな感情を隠しもしない俺に苦笑しながら、膝で躙り寄った凪沙が下から俺の顔を覗き込んでくる。
「ね、どう?行かない?期限、切れちゃうから、もうすぐ。…ね?」
顔を傾け、おずおずとこちらの様子を窺うその目からは隠しきれない期待がちらちらと見え隠れしている。家族以外の前で見せる事の無い『凪沙ちゃん』の面が表に出てきているということは、本当に行きたいのだろう。
「そうですね…」
ならば、俺に断る理由などあるはずも無い。凪沙の喜びは、俺の喜びでもあるのだから。
「行きましょうか、せっかくだから」
「やったっ。新婚旅行♡」
「ちゃいまんがな」
その認識は俺の認識じゃないから否定はさせてもらうけれどもね。
そもそも結婚してないし、どうせなら日帰りじゃなくて何泊かするし……あ、いや、もしもの話ね、もしもの。…将来の。
「藤堂くん?おやつは300円までよ?」
「先生ーバナナはー?」
「先生が食べる用ならそこに…♡」
「この人は一体何を言っているんだ…」
これバナナとか言った俺の責任なの?恥じらう乙女みてーな顔で恥しかないオッサン極まりない台詞言うんじゃないよ。
「さてと、そうと決まれば、善は急げ、ね」
暑さをものともせずに軽やかに立ち上がり、すぐさま準備に取り掛かろうとする凪沙。弾むその背中に思わず苦笑いしてしまう。
「そんなに楽しみだったんですか?」
「うん。楽しみしかないわ。だって君と行くのだもの」
「………そうですか」
素直な言葉がぶつけられて、また一段と熱くなった火照りを冷ますべく下を向いた。
「……?」
その視界に、たった今去っていったはずの足が映り込み、面を上げれば
ちゅ。
待ち構えていた手に捕まって、唇に柔らかな罠が。
目を丸くする俺を、気温とは違う熱さで頬を色付かせた凪沙が恥ずかしそうに、けれどもそれ以上に嬉しそうに見つめている。
「言ったでしょう?『好きな人には何だってしてあげたい』って。それと同じ。『好きな人とは何だってしたい』の」
「………うん」
「些細なことでも、そうでなくとも、何だって楽しいよ。君が隣にいれば」
そう言って、凪沙は今度こそ立ち上がり、部屋を出ていこうとする。
「凪沙」
その背中に声をかければ、凪沙は振り向かずに足を止める。
振り向かない理由は聞かない。聞くまでもない。きっと俺と同じだ。
「俺も、凪沙とすることなら何だって楽しみです。…いつもありがとう」
「………………、そ。良かった」
返って来る素っ気ない言葉。
けれど一瞬、僅かに垣間見えた耳は、さっきよりも遥かに真っ赤で。
こそばゆさが途端に顔から込み上げるのを、頭を振って霧散させる。
さて、戯れの時間も過ぎたことだし、俺も早速旅行の準備に取り掛かり――
「お風呂」
「え?」
立ち上がりかけた俺の耳に届いた固い声に、動きを止める。
見れば、部屋の出口の扉に手を掛けた状態のまま、凪沙がこちらを見つめていた。その熱の籠もった濡れた瞳に、知らず俺の身体が強張る。
「………汗、かいちゃったから。旅行より一足先に、入る、お風呂」
「あ…、はい。…行って、らっしゃい?」
「………ん」
「待ってるから」
ぱたん。
「………………」
静かに閉められた扉を、無言で暫く見つめていた。
…どうやら、旅行の身支度は明日以降になるらしい。
フリーダムな恋人様の本気のお誘いに、これから待ち受けるであろう展開が容易に頭に思い描かれ、ありとあらゆる感情が複雑に入り乱れた深い溜息をつくと、俺は天を仰ぐのだった。
…ああ、本当にあつくてたまらない。
「あ、因みに家族風呂だから」
「…………」
「……じっくり、まったり、ねっとり、たっぷり、…ゆっくりしましょうね?あ・な・た♡」
「(また志乃先輩から栄養ドリンク貰おうかなぁ……)」




