真鶴凪沙も風邪を引く
「38.4℃。完全に風邪ですね」
「…そんな馬鹿な。ワンチャン無い?君が隣にいる恋する乙女のとき☆めきで体温上がっちゃった可能性」
「無いです」
未だ寒さの引かないとある朝。
何故か妙な肌寒さを感じて目を覚ませば、毎朝目の前にいつもあるはずのだらしないニヤけ面が無い。
別に落ち着かない訳でもないけれど、決してないけれど、何気なく身体を起こせば、ベッドから少し離れた場所で恋人が俯せで力無く倒れていた。
『凪沙!?』
血の気が引く、とはまさにこういうことを言うのだろう。
一瞬で目が覚めて、慌てて駆け寄って抱き起こせば、彼女は真っ赤な顔で苦しそうに浅く呼吸を繰り返していた。
『…れん…』
『大丈夫ですか!?どこか具合が……!!』
『ぎぼぢわ゙る゙い゙…』
『………え』
『ぅ゙』
直後、脳裏に過ぎった惨劇は間一髪回避出来たものの、漸くお手洗いから出てきた時の顔面の蒼白具合ときたら。
常日頃から完璧・完全なお姿ばかり見てきたせいで、すっかり忘れていた。
真鶴凪沙は紛うこと無く人の子なのだと。
「…いつ以来かしら…風邪なんて…」
「先に気づけて良かったです。もし遅れたら、凪沙、何てことの無い表情無理矢理作り出して学校行きそうですし」
「…よく分かったわね。…花魁もかくやという白粉で演じ切るつもりが、二、三歩踏み出した瞬間、回ったわ…世界…」
「気づけて良かったぁ〜」
凪々どすえ〜お越しやす〜。じゃないよ。何でそこまでして無理しちゃうかなぁ。
…いや、まだまだかつての名残は残っている、ということか。
抱き上げて運んだ彼女の自室のベッドの上で、依然として凪沙は苦しそうな呼吸を繰り返している。どれだけ心配しようと、代わることすら出来ない己が何とももどかしく、そして歯がゆい。
「…俺、やっぱり学校休みましょうか?」
「…失礼ね。…確かに心はいつだって恋する少女でも、そこまでしてもらう程お子ちゃまではないわ…君は君の役目を果たし…なさい…ちゃんと…」
「……分かりました。薬とか、ゼリーとか置いていくので、何かあったらすぐ電話してください。帰りに消化に良さそうなものを見繕ってくるので、欲しいものがあれば都度、連絡を…」
「…強いて言うならそこのクローゼットに白衣入ってるからそれ着て看「ああ、シートも取り替えますねー」ままぁ……ばぶぅ……」
「やめてね」
風邪のせいなのか、誤魔化す為の演技なのか定かでは無いが、今日の凪沙殿は些かネジが緩んでいるようで。…今日の?今日も。
…けれど、俺の裾を弱々しく握るその白い手だけは、嘘をつけない様だ。
頭を撫でれば、心から安らいだ顔で凪沙が深く息をつく。こう言うのも何だけど、こうして安心しきった姿を見せてくれることは、やはり嬉しかったりする。それは、彼女が真実、自分らしくあることの証明だから。
…どうか、俺と2人きりの時くらいは、ありのままで。どんな姿だろうが、愛する自信はあるのだから。決して口には出来ないけど。
―――――
制服に着替え、玄関で念の為の荷物の確認をしていると、背後から小さな物音が。
振り返れば、僅かに開いた扉から白い顔だけを覗かせる形で、凪沙がこちらに小さく手を振っていた。
「寝てなきゃ駄目でしょう」
愛する恋人のいじらしい献身。だというに俺は、つい顔をしかめてしまう。
…あれ程、安静にする様に言ったのに。この大きい子供は相変わらず聞き分けが悪い。お願いだから、自分は大切にしてほしい。
「…お見送りくらいはさせてちょうだい。…したいの」
されど、そんなか細い顔で寂しそうに見つめられたら、強く出られるはずもなく。
「………行ってきます」
「うん。……行ってらっしゃい」
小さく溜息をつくと、俺もまた手を挙げて応える。
嬉しそうに微笑む笑顔に、けれど影を感じ、今日は絶対に無用な寄り道をせず、なる早で帰還することを心に刻むのだった。
「…………………………」
「…………行っちゃった……………」
■
「はっ!?」
嫌という程聞き馴染んだ鐘の音が耳に届いた事で、俺は漸く意識を覚醒させる。
しまった。寝ていた訳でもないが、あんまりに心配でいっぱいいっぱいだったせいで、知らぬ間に1日が終わっておられる。なんてことだ。今日の授業何一つ頭に入っていないぞ。
まあ、でも、終わったというならば御の字か。急ぎ帰り支度を整えて…
「藤堂」
「うん?」
鞄に荷物を詰め込んでいるところで名を呼ばれ、手は止めぬままに振り返る。
見れば、よく3人で共につるんでいるグループの一人であるfげっほごっほぉっ(モノローグ噎せ)が、チャラそうでチャラくない、隠しきれない真面目さが滲み出た笑顔でこちらに手を挙げていた。
「どうしたの?」
「この後暇か?またゲーセンかボウリングでも行かね?」
「あー……」
気兼ねしなくて済む気安い関係。いつもであれば、『いいね』と即答しても良いのだが、今日は流石にタイミングが悪い。
「ごめん。今日は、ちょっと…」
手を添えながら軽く頭を下げる。
普段から雑に扱われているせいか、『どうしたどうした?』、と言わんばかりに目を丸くする友の姿に、流石に申し訳なさが芽生えた。次からはちゃんと名前を呼ぶとしよう。ごめんねふ「と、藤堂くん…」
「ん?」
『いやいや全然気にすんなよ』。そう言って下がった友と入れ替わる様にやってきたのは、おずおずとした一人の女子生徒。
大人しそうな外見に違わず中身も大変奥ゆかしい文学少女・藤井さんである。
よくつるむ3人グループの最後の一人。何故、この様な清楚系少女がファッション眼鏡とファッションチャラ男と共に行動するのか。それには海よりも深い理由がある…訳でもない。小さな共通点から話してみたら、何となく気が合った。それだけである。だがそれがいい。
「わ、私…、藤堂くんがいてくれたら、…嬉しい、な…?」
赤らんだ頬、潤んだ瞳。
可愛らしい少女がそんな熱の灯ったお顔でこちらを見つめているというのに、脳裏に浮かぶのは、寧ろ。
「…藤井さん………」
急くような気持ちと、申し訳無さの滲み出た声色で、俺は口を開く。
その答えは恐らく、彼女が最も望まない、そして最も残酷なもの。
「いい加減、あいつとのデートで緊張するからって俺を同伴させようとするのやめようよ…」
「どぅえっ!?ど、で、でぃんっ!デートじゃないよっ!?まだそんな関係じゃないもん!!」
「そうだね。『まだ』ね」
「っと、藤堂くんの意地悪!!」
「ごめんごめん謝るからお得意の合気道かますの止めて痛だだだごめんなさいっ!!」
奴めの何が彼女の琴線に触れたのか。これまでも何度も相談を受けているが、未だに分からない。世界は謎に満ちている。
まあ、彼がいい奴である事はよく知っているので、どうかお互い後悔の無い結末を迎えてほしいものだ。俺が言うのも何だけど。
■
「…ただいま〜……」
音を出さない様にそっとドアを開けて、自宅に入る。
無いとは思うが、『お帰りなさい、ご主人様♡』みたいな感じでまた裸エプロン同然のお姿で出迎えに来られても困るし…、あ、いや何でもないです。
しかし、幸いとも言うべきか。帰り道で買ってきた諸々を床に下ろしても、特に反応は無かった。
「(寝てる、かな?)」
彼女の部屋の前まで来た。物音はしない。
「……凪沙?」
一応、小さくノックだけはして、一声かけてから扉を開ける。
一番、望ましいのは大人しくベッドで寝息を立てていることだけど、さて、どうか。
「………え」
思わず掠れた声が出る。
部屋には、誰も、いなかった。
「…いや、落ち着け」
靴はあった。トイレに行っているだけの可能性もある。
途端にばくばくと暴れ始めた心臓を静める為に深く、深く深呼吸をしようと
「な〜」
「っ!?げっほっごほぉ!?」
したところで、すぐ足元から突然の聞き馴染んだ鈴の音。全然、気配も音もしなかったのに。というか、どうやって?凪沙が迎え入れたのか?
思わず今度は現実で噎せてしまい、たまらず涙を滲ませながら口を覆った。
「ろ゙、ロロ、来てたの…?」
「にゃん♪」
くしくしとご機嫌そうに足に顔を擦り付けてくる白猫。そのふくよかなお身体を抱き上げようとすると、いつもなら素直に収まるはずの彼女はするりとそれを躱すと、俺の部屋へと歩き出す。
「………」
「…?」
じっ。扉の前で立ち止まったロロが振り返る。
静かに俺を見つめるその双眸。ここに来て、彼女が何を言いたいのかを漸く理解した俺は、先程と同じ様にして足音を殺しながら歩を進めると、そっと自室の扉を開けた。
朝、家を出る前と何ら変わりの無い、面白みの無い部屋。
そのはずだった。
けれども、朝には無かった姿が、ベッドに一つ。
「……すー………すー……」
「………いないと思ったら…」
言うまでもなく、凪沙。
朝、自室に寝かせたはずの彼女が、何故かこちらのベッドで安らかそうに。
シーツを顔に寄せ、丸くなって眠り込むその姿は、常とは比較にならない位の幼さを覗かせている。最近は寧ろ自室で眠ることの方が少ないから落ち着かなかった、ということだろうか。
その姿を目の当たりにした安堵で、驚愕と心配で鳴り響き続けていた鼓動が漸く静かに収まっていく。
「…にゃ」
「あ」
俺よりも一足早くするりと部屋に入りこんでいたロロは、そんな眠り姫のベッドの傍まで歩み寄って彼女が大人しく寝ているその姿を暫く見つめると、満足した様に一鳴きしてから少し離れたところで丸くなった。
………これは、もしかして。
「見守っててくれたんだ?」
「…………」
からかう様な声色の俺の言葉に、ロロは耳をピクリと反応させて不機嫌そうにこちらを睨むと、尻尾で床を叩いてぷいっとそっぽを向いた。
なんて頼りになる騎士殿なんだろうか。今日はお高いご飯をあげよう。彼女には秘密で。
「………」
眠る彼女の枕元に近づいてしゃがみ込むと、滾々と眠るそのご尊顔に手を伸ばす。
長い前髪をかき分け、額に手を当てる。…熱は、下がったみたいだ。また一つ、心が軽くなり、そっと胸を撫で下ろした。
なら、起きた時に備えて今のうちにお粥でも作ろうか。生憎、味や見た目は保証出来ないが、無いよりはマシだろう。
「ぉ、…っと」
けれど、そっと立ちあがったその時、背後から弱々しく裾を引っ張られる感触。
振り返れば、凪沙が薄く目を開けて、手を伸ばしていた。
「…れん」
「…すみません、起こしちゃいました?」
「…ううん、いい。気にしないで。……お帰りなさい…」
「はい、ただいま帰りました」
丸まっていた身体を正面に緩々と直す彼女に返事を返して、身体を戻す。裾を引っ張っていた手は相変わらず伸ばされたままだったので、その手をとった。しかし、それは直ぐに離されたと思いきや、今度は指を隙間無く絡ませる。
「びっくりしましたよ。部屋にいないんだから…」
「…ごめんなさい。……寒くて、つい…」
「?毛布足りませんでした?」
「……そういう訳では、無いけれど…」
俺の問いかけに、何故か彼女は気まずそうに目を逸らして、シーツを口元に寄せて顔を隠す。
「…ぉい………」
「はい?」
「……寂しかったの……君の匂いが……しないから…」
「………………」
とんでもない破壊力を秘めた爆弾を投下したその顔は大変赤い。そして瞳は潤んでいる。それはきっと、風邪だけのせいではないのだろう。それを素直に口にしてしまうのは、風邪のせいだろうけど。
「れん」
「…はい」
「れん」
「はい」
「れん」
「ちゃんといますよ」
うわ言の様に何度も何度も俺の名を呼びながら、凪沙が絡ませた指を握り直す。
呼ばれる度に、俺もまた返事を返して力を込めた。
何度繰り返されただろうか。どちらのとも知れないじんわりとした汗がお互いの熱を交換し始めた頃、漸く彼女の手が離された。
「…ん」
そして、今度はその手を己の口元まで引き寄せて、小さな口付けを。
更には、普段ならば絶対に見られないであろう、ふにゃふにゃとした無垢な幼子の様な微笑みを見せるものだから、もう、どうすればいいのかと。
「温かいね…」
「そう、ですか」
「…うん。これ好き…」
「………」
「…大好き」
ただそれだけを口にすると、凪沙はまた目を閉じて、静かに深い眠りへと戻っていった。
俺の手を己の胸元まで引き寄せて、強く抱いたまま。
「……………」
大変柔らかい温もりに包まれた手をどうすることも出来ず、俺は力無くその場に座り込む。
…もう、どうすればいいのかと。
どうすればいいんでしょうか。
どうしてくれようか。
誰か教えてください。
胸の奥底で燻るあれやこれやを必死に決死に抑えつけ、先程かき分けたおかげで曝け出されたままの彼女の頬を唯一自由なもう片方の掌でそっと撫でると、そのまま顔を覆って天を仰ぐのだった。




