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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

マタニティブルー

作者: ヤマカワムラタ

苦手な方はご注意ください


 菜摘が眠っている。

 二十代半ばほどに見える女性が、灰色の寝具に包まれて姿勢よく眠っている。

 菜摘の眠るワンルームでも、少ない家財たちが決まった場所で行儀よく眠っている。

 時計の針がかちりと小さな音をたてて縦に直線になり、菜摘の枕元で目覚まし時計がけたたましく鳴る。

 菜摘はぱちりと目を開き、まるで眠ってなどいなかったかのように滑らかな動作でむくりと起き上がる。

 菜摘は目覚まし時計をそっと止め、スリッパを履いてリモコンを手に取り部屋の明かりを点ける。

 ピッと無感情に音が鳴り、きれいに整頓された部屋と、髪の毛やほこりや何かわからないもので汚れた床が、冷たい電灯に照らされる。

 床にはいくつかの足跡があり、菜摘はそのうち一つをなぞるようにして決まりきった動作で部屋を渡る。特に足下を気にしている様子もないのに、彼女の足は正確に床の埃に空けられた穴を踏み抜いてゆく。

 キッチンに辿り着いた菜摘は、やはり埃に塗れた、羽虫の墓地のようになっている白い冷蔵庫の前で斜めに並んだ足跡を踏み押さえ、扉にへばりついた手形の手垢を正確に掴んで扉を引き開け、ヨーグルトを取り出した。



 全てを遮る厚い雲が地球を覆い、すべての星の光を断つ。曇天は一滴の恵みも零さぬために海面は大きく下がり、地球は天球の星々の熱を失って、世界はそのすべてが極寒の銀世界と化す。雲を通り抜けようとするすべてのものが消失し、雲の上の様子は分からない。


 世界中の火山がほとんど同時に火を噴いて爆発し、周囲に熱と土塊つちくれを撒き散らす。火山の周囲は高温のガスに包まれ、もうもうと立ち上る噴煙はいつまでも噴き出し続けて雲と繋がり、遠目には天蓋を支える柱のように見えた。


 政府はこれを「世界的な地殻変動とそれに伴う気候変動」として公表、世界は恐怖と寒さに震え晴れを待つ。



 菜摘は行きつけのカフェでコーヒーを啜り、静かに読書に耽る。少しだけ膨らんだ腹を撫で、霜の張り付いた窓を眺め、生暖かい空気を吐き出す白い無機物に目をやって、また黒い文字に目を落とす。

 本の上に落ちた眼球はべしゃりと音を立てて黒いインクを弾けさせ、紙面を侵しつつ垂れ下がって菜摘の服の腹の部分に黒い染みをつくった。



 月面で、血とタールを混ぜ合わせたような赤黒い影が蠢いている。影は次第にその容積を増し、終には月面をすべて覆ってしまう。月面をすっかり置換してしまった影は、異常な質量を得て軌道を変え、地球に迫る。



 カフェを出て帰路につく菜摘は、気まぐれにショッピングモールに立ち寄る。菜摘は「セール」と大きく描かれた赤いのぼりの隣に座るセールワゴンに歩み寄ると、いくつかの洋服を手にとっては戻し、乳児向けの洋服を持ち上げた。菜摘はその、明らかに自分では着られない小さな服を、しげしげと興味深そうに、あるいは不思議そうに眺める。


 「ねぇ、お嬢さん」


 横合いから突然声がかかる。

 見ると、優しそうな老婦人が声をかけてきていた。


 「もしかして、妊娠してらっしゃるのかしら」


 「ええ、まぁ」


 「あぁやっぱり。すごいわねえ、いろいろと大変でしょう?」


 「……そうですね、いろいろと」


 「近頃は気候変動だかでひどく冷え込むけれど、風邪をひかないように気を付けてね、大事な体なんだから」


 「はい、ありがとうございます」


 「気苦労も多いだろうけど、頑張って。応援してるわ」


 菜摘は女性と二言、三言話し、にこやかに別れた。



 地球に近づいた月はその引力で海を引き寄せて、水面みなもにこびりつく流氷を引き千切りながら海面を持ち上げ、同時に月面の影を波打たせて二本の黒く巨大な塔を持ち上げる。

 塔はよく見れば小さな赤黒い影の集まりで、蠢くように、あるいは崩れるようにして、ヒトの手のような形を象っていく。

 月の掲げた赤黒い手は地球に引き寄せられるようにして伸びていき、愛でるような手つきで地球を覆う厚い雲に触れる。



 菜摘が自宅の浴室で壁に手をつき蹲っている。

 部屋に比して不自然なほどに清潔な浴室で、着衣のままシャワーを被っている。

 菜摘の喉がゴポリと音を立ててコーヒーに胃酸をブレンドしたものを溢れさせ、口から垂れ流れる茶色い液体が冷水を濁しながら流され排水溝に吸い込まれていく。シャワーの水滴が熱心に床を叩いていて、まるで拍手でもしているように聞こえる。

 菜摘はますます深く蹲り、這いつくばるようだった。



 月から延びる腕が雲に手を突き入れて、雲に大きな穴を空ける。手を畏れるようにして立ち退いた雲は、久方ぶりに陽光の侵入を許した。

 漸く陽光を得た海面は日光を浴びて強く輝き、明らかに潮汐ちょうせきでは説明できぬほどに盛り上がっていく。

 盛り上がった海面に手が近づいていく。海面が蠢き、何か人の顔のような模様を形作る。手と顔は再会を喜ぶかのように近づいてゆき、手は顔を挟みこむようにしてその側面を強く、強く掴んだ。


 手が引き上げられていく。顔が地を離れて往く。

 顔がすっかり引き抜かれてしまうと、表面の海水が形を喪って流れ落ち、元居た場所にできた大きな渦に加わっていく。

 手の中には何か巨大な、赤黒い塊が抱えられていた。


 赤黒い塊から完全に海水が剥がれ落ちてしまうと、月から延びる手がどんどんと縮んでいく。

 地球から引き抜かれた赤黒い塊は空に空いた穴を通って天高く昇って往き、月に引き寄せられていった。



 暫しの時間が流れた頃。赤黒い塊が手に導かれて月に辿り着き、手と共に月に飲み込まれて消えてしまって、月が元の姿を取り戻した後。

 雲はその役目を終えたかのように勢いよく泣き始め、激怒していた火山たちは腑抜けたように押し黙ってしまった。



 菜摘が浴室で這い蹲っている。

 シャワーは今なお菜摘に冷水を浴びせ続けていて、ここだけは外と変わらぬ豪雨である。

 ざわざわとした水音が密室に響く中、菜摘に張り付いた水滴は滴り落ちて赤く染まり、排水溝に飲み込まれていった。




 菜摘が眠っている。

 ベッドの上に正しい姿勢で横たわり、微動だにしない。

 部屋が無音でなければ聞き取れない、あまりに微かな寝息だけが彼女の生命を主張していた。

 部屋の時計が黙って針をまっすぐ縦に並べる。菜摘がぱちりと目を開く。

 ゆったりと気怠げに身を起こした菜摘は、ぼんやりとした目で暗い部屋を見渡した。

 たっぷり30分はそのままぼんやりとした後、ようやく菜摘はもそもそと掛け布団を剥がし、電気を点けて綺麗な部屋を明るくしながら、清潔な床に降り立った。


 一通りの朝の準備を終えた菜摘は、幾分多めに汚れの詰まったゴミ袋を引っ提げ、正しい動作で部屋を出る。彼女の身形は完璧で、スーツには皴一つ見当たらない。

 所定の位置にゴミを放棄した菜摘は、前と変わらぬ正しい動作で、しかし幾分朗々と、規則的なヒールの音を響かせる。



 西の空で名残惜しげに居座っている、前より少し大きくなった月が、じっと、ただじっと、菜摘を見つめていた。

お読みいただきありがとうございます。

楽しんでいただけたなら幸いです。

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