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4.2 忘れじの記憶、喩え潰えようとも、誇らしく、愛おしい君へ

大森林、奥地、魔女の家、夢の中———


 魔女は夢から目を覚ます。

 顔に触れると熱がほとんどなく、目元には涙が伝ったのか濡れていた。

 彼女はベッドの上で膝を抱える。自身の存在を少しでも消し去りたいという感情から体を縮める。

 窓から差し込む月明かり、部屋の闇が彼女にこれから起こる未来を突き付ける。

 最近はずっとこんな感じだ。一日の近くを寝て過ごしている。もう終わりが近いのだろう。

 魔女は自身に当たる光を鬱陶しく思う。今の自分に光が当たることにどこか後ろめたさを感じたからだ。自分を照らすよりもっと照らすべきものがいるだろう。自分はこれでいい。このまま暗闇の中で……。

 また眠りに堕ちようとした時、月明かりが明滅した。

 何事かと思い、窓に近づき外を見る。

 魔女は外に見えた幻想的な風景に言葉を失う。彼には驚かされてばかりだ。

(このままいけば…)

 新しい魔術を憶え続けるのではないか、その成長に果てはないのではないか、と思わせる。

「ああ、そうだった。彼には魔力が無かった。あれは魔術ではないのか」

 そう考えたが、同時に魔女に危機感が芽生える。彼がこのまますべてを創り続ければ…。

「ありがとう、ゴオ。私にはまだやることが残ってるよね」

 危うく責任を残して逃亡するところだった。そうならなかったことに、魔女は御礼を言う。



                  ◇ ◇ ◇



「よし、そろそろ慣れてきたぞ」

 魔女の弟子であるゴオ・ダンは獣の騎乗を習得していた。

 度重なる失敗から、体重移動や重心の位置の把握を感覚的に理解した。

 高所に飛ぶのに恐怖があったが、師エリナと見たあの光景をもう一度見たくて上昇した。

 あの時も凄まじい感動を覚えたが、空を飛ぶ獣の背から見る景色も格別だった。

 上空だからだろう、身体に当たる風がいつもより強く感じる。

 それにより地面に落下する嫌な予感がして、背筋が凍る。

 視線の先、明かりが灯った都市を見る。

 エリナさんの話では鉱山都市という都らしいが、そんなところがあるんだという程度で強い興味は引かれなかった。

 なによりあの都市の人間を殺してしまった自分には後ろめたいものがある。

 そして、初めて人間の姿であったこちらの住人との邂逅から、ゴオは人と会う事に乗り気でなくなってしまった。

 それよりも今の自分は、師であり恩人でもある彼女を大切にすべきだと考えていた。

 そこで彼女の事を考えて、眼下にある家を見る。彼女は起床したのか、入り口の前にいた。

 すぐに獣を降下させて彼女の下に向かう。

「おはようございます。体調はどうですか?エリナさん」

 最悪な可能性を押しのけて、彼女は健康であると決めつけていたが、心配であったから彼女に問いかけた。

 この人は一見健康そうに見えるので、少しでもその兆候を見逃さないように観察する。

 だがそれは必要なかったようだ。エリナからは望んだ答えが返って来た。

「ええ、良好よ。……飛べるようになったのね」

「結局は自分では飛べなかったですけど……こいつのおかげです」

 自身が生み出した獣を示そうとしたが、空を駆ける獣は自分から主の手に頭を当てて傍らに来ていた。

 獣の体躯はゴオを優に超える。そのため態勢はほぼ伏せをしている状態だ。ゴオはその頭を撫でる。

 その様子を見て、魔女はカラカラと笑う。

「やっぱりあなたにできないことはなさそうね。もう私も御役御免だ」

 その言葉にゴオは肝を冷やした。

 それを認めてしまうと、なんとなく目の前からエリナが消えてしまうような予感がしたからだ。

 だからゴオにしては珍しく、エリナの言葉を否定するのは早かった。

「そんなこと…僕はあなたからもっと色々な事を教えてもらいたいです。もっと……一緒に居たいです」

 ゴオはその言葉を受けたエリナの顔を見て、驚愕した。

 正直な気持ちを話したつもりだったが彼女を悲しませてしまったらしい。

 その表情がどこか泣きそうな顔であったのだ。

「……」

「……」

 沈黙が訪れた。

 エリナは目の前の少年が少し自分と重なってしまった。

 ゴオはエリナの雰囲気から彼女が遠くに行ってしまうことを予感したが、これ以上悲しませたくないという思うから口をつぐむ。

 お互いに言葉を発することを躊躇われる状況となってしまった。

「その子飛べるのよね?あなたと一緒に乗ってみたいな」

「え?」

 あまりにも急な話だったものだから反応が遅れてしまった。

 でもそれはこちらとしても幸運だった。あの重い静寂の中にあり続ければ、エリナに泣いて縋ってしまいそうだったのだ。

 エリナはゴオの横に伏せる獣を指し示す。

「その子よ、横にいる」

 だがその提案には疑問がある。なぜなら彼女にはそれは必要無いはずだ。

 だってきっかけである魔術は彼女が見せてくれたのだ。

「…でもエリナさん、自分で飛べますよね?」

「だから私が乗りたいの。いいでしょ?さ!行きましょう!」

 沈黙の場を破り、魔女は弟子を獣の背に乗せ、包み込むような態勢で獣に騎乗する。

 その騎乗姿勢に弟子が抗議する。

「ダメですよ!この態勢だとエリナさんが危ない!これじゃあ、あなたを支えられない!」

 昨夜、気を失ったエリナを思い出して、その状況を予期する。

 もしも背後で突然気を失われたら、その身体は地面に真っ逆さまだ。

 しかしエリナは、そこを譲れないらしい。

 エリナがゴオの背後に騎乗したのは、弟子の顔を常に確認したいからでもあったが、何よりこれからする顔は師匠のモノではなく、魔術師エリナのモノだ。できればその顔は彼には見られたくない。つまり格好つけたかったのだ。

 私は彼の師匠だ。ならば情けない姿などどうして見せられる。

 師匠とは常に清く、気高く、美しく、弟子の指針とならねばならない。

 そうしてエリナは獣を上空へと進ませる。

「逆の位置に座ったらあなたが前を見えないでしょう?これでいいの!さあ!出しちゃって!」

 獣は自身の主より魔女に従った。二人と一匹は空に浮かぶ。

 空に浮かび上がって、視界に入った光景は昨夜と同じようにとても綺麗だ。ずっとここに居たいと思えるほどに。加えて頬を撫でる風がとても気持ちい。

 その月明かりに照らされる獣が背に人間を乗せて空を駆ける姿は、まるで童話に出てくるモノのようだった。

 そんな美しい景色をゴオは楽しめていなかった。なぜなら彼は背後にいる人物に常に意識をめけているからだ。

 そんな弟子とは対照的に、空中の感覚に浸っている魔女が口を開く。

「ゴオは……外が嫌い?」

「?なんでですか?外には出てますよ、今」

 魔女の質問の意味が解らず疑問を返す。今自分は外にいる。なのになぜゴオが外を嫌いだと勘ぐるのか。

「あ~、そうじゃなくて、何て言うの?家の外側、外の世界とか・・・・・自分以外ってことも言えるわね。ごめん、言葉が足りなかった」

 魔女が丁寧に説明してくれて、その言葉の意味を理解することが出来た。

「僕は・・・・」

 初めてここに来たときは、それは胸が弾んだものだ。

 異能を与えられ、未知の世界に放り込まれた。

 だが不思議と不安は無かった。それは夢見た将来に心躍らせたからだ。

 あの獣に襲われ、現地人と敵対するまでは。

「初めは外に飛び出したいと思った。新しい自分になって、憧れの自分になって新しい人生に飛び込もうと思った」

 自分の目に映った光景とこれから体験する出来事を、生前見てきた物語の主人公達と重ね合わせて、これからの自分の人生に憧れていた。だけど今は……。

「でもあなたと数日過ごしてわかったことがある。やっぱり僕は自分らしくありたい。どんなにみっともなくても、どんなに惨めでも。自分じゃない自分になるなんて疲れちゃいますから。それにおそらく僕は‥‥そうでないと安全ではいられない」

 今までの体験からゴオは外の世界に恐怖を感じていた。

 加えて自身の内に眠る異能もある。

 これを生涯隠し続け、人間社会で生きていくなど不可能だ。

 今の自分の立ち位置は、夢想した物語の英雄でもなければ、正義でもない。

 怪物、完全なる悪役サイド、人類の敵対者だ。

 彼らにとって今の自分は排斥対象。

 だから自分にはもうここ以外居場所がないのだ。

「僕は…ここに居たい。外は怖いです。外なんかより、他人より…」

 ゴオはそこから少しずつ、自身の心を吐き出す。

 それはこの世界で生まれた彼の感性ではない。それ以前の…生前の心だ。

「あいつらひどいんです。僕が痛いって言っても、嫌だと言ってもやめようとなんてしてくれなかった。むしろ僕の反応を見て楽しんでた。あいつらは僕を汚くて見たくないって言ってるのに、僕を見逃さないで僕の行動を見て笑っていた。おかしいですよね。見たくないって言ってるのに見て笑いの種を探してるんですよ」

 魔女はゴオの言葉を無言で聞いていた。今度は間違えないように、あの時は取りこぼしたものを拾い上げるように。

 失敗は繰り返せない。今一度正しい選択をしなければ。

「僕は他人なんて嫌いだ。僕はここでいい、あなたさえいれればいい。外は怖いんだ」

 魔女は目の前の、思い人と似た少年の心を知る。

 それと自分は少し勘違いをしていたようだ。確かにゴオはオーグに似ている。だが、同時にもう一人の人間と彼は似ていた。その心は、過去に置いて行かれた少女と、とても・・・。

(なんだ…こんなに簡単なことだったんだ。ただ言葉にするだけでこんなに…)

 ただ心を晒し、腹を割って話す。それだけでこんなにも思いが繋がるのだ。

 エリナは、自分が彼の師には相応しくないと考えた。

 なぜなら彼はこの時点で、当時の自分をとうに超えているのっだ。

 彼は昔のエリナには出来なかった本音を話すことが出来ているのだ。

 だけどこのままでは彼が大事なものを知らないままになってしまうと魔女は考えた。

「あなたは外に出た方が良いわ」

 偉そうでも、上から目線だと思われても構わない。この少年が私みたいにならないのであれば安いものだ。

「……嫌です」

「あなたの考えが間違いだとは言わない。確かに人間はそうなのかもしれない。けど、違うの。人間の本質はそこじゃない」

「嫌だ!」

「ゴオ、よく聞い———」

 魔女が取り返しのつかないことになる前に、少年に自身の心を明かそうとしたとき異変は起こった。

 魔女の意識はそこで刈り取られ、その身体は獣から落下して地に向かったのだ。

「ッ!行けッ!」

 ゴオは獣にすぐに指示を出す。予期していたことなのですぐに対応することが出来た。魔女の体は落下し終わる前に獣とゴオが受け止めた。



                  ◇ ◇ ◇



魔女の夢の中、——年前、王都付近の療養所——————


「君をッ!ひとりぼっちにッ!」

 魔女の夢の中で、病床につく一人の少年が泣き崩れる。

 魔術師の少女、エリナ・ウィッチは泣き崩れる少年、オーグを見て声を上げる。

「オーグ?何で泣いてるの?」

 それが夢の中であり、先程の続きであると分かった魔女エリナ・ウィッチは心の中で文句を言う。

 それは彼をわからず屋と貶した自分に対してか。

 わからず屋だったのは自分の方だったというのに。

(『ああ、もう最悪』)

 こんなに細かく見せなくても良い、もう知っている、というように文句を吐く。

 夢は覚めず、そのまま続く。

「僕は君に取り返しのつかない事をしてしまった!僕が、ちゃんと君に伝えなかったからッ!ごめん、ごめんッ!エリナ…」

 その少年の謝罪に後方から見守る魔女エリナは、彼の言葉を否定する。

(『違うのオーグ、あなたは何一つ悪くない。私が勝手にやったことなの』)

 魔女エリナは、彼の言葉の意味を理解している。だが当時の魔術師エリナは目の前の意中の少年が何を言っているのか理解できていなかった。

「何を謝っているのかわからないわ。それに取り返しのつかないって何よ⁉〝不老不死〟よ!永遠に生きられるのよ!すごい事なのよ!」

「ッ!…うッ…ぐうぅ」

 オーグはエリナの言葉を聞き、更に嗚咽を漏らす。

 エリナには、なぜオーグが言葉を吐くごとに辛そうにするのかがわからなかった。

 彼の病を治し、そればかりか永遠の命を与える。その偉業を懇切丁寧に伝え、喜ばせようとするが、逆効果になってしまっている。

「どうして悲しむの!これがあればあなたの病気も治せる!なのになんで———」

「嫌だッ!僕はそれを使いたくないッ!」

 少年は突然力強く叫び、少女の提案を拒絶する。

 エリナは初め、目の前の少年が何を言っているのかわからず固まった。

 死がなくなる。その終わりの切除になんの不満があるという。

 離れてしまわず、悠久の時を共に過ごせる。それはとても素敵なことではないか。

 そして、少女は困惑しながらも問いかける。

「なんで…どうしてっ!だって使わないと、あなたはこのまま———」

 エリナが最後まで言い切ることは出来なかった。オーグはそれを言わせてしまえば、彼女がそれを無理やり敢行すると思ったからだ。

 少しでもこちらの言い分が伝わる今のうちに、明かさなければならない。

「僕はこのままでいい」

 少女の説得に少年の回答は変わらない。何があろうとだ。

 少年は続けてポツリと呟く。

「怖いんだ。死が」

 その言葉に更に少女は困惑する。彼はもうじき死を迎える。そしてそれを恐れている。これだけ条件が揃っているのに、なぜ彼は死なずの提案を受け入れない。

「だったら〝不老不死〟になろうよ!そうすればもう怖くなくなるのよ!ずっと生き続けることだってできる!」

 だがエリナの言葉にオーグは首を横に振る。彼は〝不老不死〟を受け入れようとしない。

「僕はもう自分の死を受け入れてる」

 オーグの発言に、エリナは声を上げる。彼の二つの発言の差異を指摘する。

「オーグ、あなた言ってることがメチャクチャよッ!怖いんでしょうッ⁉」

 少女の叫びに少年は答える。

 叫びに臆することなく、少女の顔を正面から受け止めた彼は心を開いた。

「僕はね、自分の死だけじゃない。他人の死も恐ろしいんだ」

 少年は語る。もとはと言えば、自分がしっかりと胸の内を告げなかったから、彼女に〝不老不死〟を作ってしまった。それだけならまだいい、だが彼女は自身に〝不老〟を使ってしまった。いや、使わせてしまった。

 もう手遅れでも、これだけは伝えないといけないと、彼は話す。

「もちろん自分の死も怖いよ。でもね、他人の死を見ると、僕の死がもっと怖くなるんだ」

 初めにそれを感じたのは、彼の母の死だった。

 病で母が亡くなった時、失った悲しみと置いて行かれた孤独感に涙を流した。

 母の葬儀が終わり、父に自宅に連れられ、布団に潜り込んだ時も、涙は止まってくれなかった。

 その時ふと、ある可能性が彼の脳に浮かんだ。もしも死ぬのが母ではなく自分であったならば、と。

 その日から、オーグは死に敏感になった。

 都市からの任務により命を奪った敵の死、先程まで言葉を交わしていた仲間の死、それを避けようと街に籠っても、ふとしたタイミングでそれは耳に入る。

 それを目の当たりにするたびに彼に突き付けられる。まるで次はお前だぞ、というように。

 そしてオーグの死への恐怖は日に日に肥大化していく。

「僕はそこまで強い人間じゃないから…だから“不老不死”はいらない」

「オーグ、あなたは強い人よ。戦争でも何度だって私を助けてくれた…それでも怖いって言うなら、私が皆を死なせないッ!全員私が〝不老不死〟にするッ!」

 エリナの解決策を聞いてもオーグは納得しない。エリナの提示する〝不老不死〟を拒絶し続ける。

 その拒みは静かな実内に冷たく、よく響いた。

「ダメだ。おそらくそれでも人は死ぬ」

 エリナは背中にひやりとした感覚を感じる。もう彼女の意思は折れかけたいた。

 だが、とその崩壊寸前の決意を立て直す。

 やっとここまで辿り着いたのだ。目的を達成しなければ、この成果に意味は…。

 オーグに対して、受け入れられない苛立ちも含めて、怒りが湧くエリナ。目の前で思い人に自身の三年間の研究を愚弄されたと感じたからだ。

「信じてないの?私の話を」

 その怒りを受けて、オーグは勘違いだと否定する。オーグの考えは全く逆だったからだ。

「信じているからだ。君は天才だ、君ならば完成させることが出来ると信じたからだ。をれと僕は君のような、人の可能性を信じているんだよ」

「どういうことよ⁉」

 エリナは必死の剣幕でオーグに迫る。彼の今にも霞んで消えてしまいそうなほど弱った姿がエリナを焦らせる。こうして会話している間にも、彼の体は、その不治の病に侵され死んでしまうのではと思ったからだ。

 オーグはエリナの心配をよそに口を開く。

「君が創ったように、人は未来、〝不老不死〟を殺す方法を創るだろう。いや、必ず造る」

「そ、そんなのいつになるかわからないじゃない!」

 エリナの即座の反応に、オーグはあるもしもを話す。自分がそれを受け入れたもしもを。

「もしも、僕が〝不老不死〟になって、その上で死を見たら…」

 生に執着し、長い時を得る。死ぬことはないと分かって、安心した日々を過ごす。

 そんなある日、突然自分が死ぬ可能性が出来たら。現在忌避している他人の死を何度も見たら。

 生きた年月だけ巨大になった死への恐怖は、その時自身に襲い掛かる。

 そんなことになれば…きっと…。

「きっと僕は耐えられない。壊れてしまうよ。だから僕はここでいい」

 エリナにはわからなかった。まだ十数年しか生きていない彼女には、そんな短い人生で終わっても良いと考えるオーグが理解できなかったのだ。

(そんな…そんな顔しないでッ!)

 彼の覚悟はもう決まっていた。これまでの彼との関りからそれはわかった。

 だけど認められなかった。自分の三年間を無意味に終わらせたくなかった。

三年前も見たその悟った顔に腹が立ったエリナは、彼に食い下がる。

「なら〝不死〟になんてならなくていいッ!」

 エリナは彼の肩を掴み、懇願するようにオーグに願う。

彼がそれを望まないならせめて、その苦しみから解放してあげたかった。

「せめて、せめて〝不老〟になってっ!病気を治してッ!私と一緒に人生を生きてッ!」

 オーグの首はやはり縦には振られない。

 弱った体で行う動作にも関わらず大木のような君臨観を感じさせたのは、彼の意志の強さゆえか。そこからの一挙手一投足には並々ならぬ想いが籠っていた。

「僕は、自分の人生以上のものはいらない」

 彼は自殺願望を持っていない。彼は生を諦めていない、死を恐れているだけなのだ。

 彼は矛盾を孕んで生きていた。生きれば、死への恐怖は強まる。だけどこれ以上それを大きくしたくない。だがそれで自殺をすることは無かった。手放すことは無かったのだ。

「自分の人生を誇りとしたい」

 彼には責任があった。亡き母から貰ったこの命を無駄にすることなんてできなかった。

 自分は一生懸命生きないと、その役目があると、生を諦めなかった。

 そんな中で提示された不治の病。

 それを聞いて、オーグは安堵した。幸運だと思った。不運だとも思った。

 だけど悔しさは無かった。彼は確かに、自分の人生を生きたのだと実感できたから。

 母への責任は果たした。命はもうすぐ終わる。ならば、後は死の恐怖を受け入れるのみ。

 エリナはオーグの言葉と、彼の表情を見て、自身の勘違いに気付く。

 彼の表情から感じた、生を諦め、達観した澄まし顔。先程まではそう感じた。だが彼の言葉を聞いた今では違うものに見えた。

 それはどこか誇らしげな表情だったのだ。

 エリナはその顔を見て、彼の誇りを穢すことはできないと諦める。

 彼の意思を目の当たりにして、顔を俯かせる。何日もまともに寝ていない身体は、その場にへたり込む。全身の力が抜ける。

「だけど、やっぱり怖いし…それに心残りができたな」

 彼は辛さを押しのけて立ち上がり、エリナを労わるように床に座りこんだエリナの手を握る。

 死にそうな人から送られてくる熱は、体温の低下した彼女の体に染み渡る。

「君を“不老”にさせてしまった。魂が死ぬまで生きさせてしまうことになった。どれだけの時間かはわからない。だけど人間の寿命よりは確実に永い」

 オーグはエリナの手を取り、自身の額をエリナの額に当てる。その目からは零れるものがあった。

「僕達が君を置いていくだけでも辛いのに、取り残すだけでも悲しいだろうに、たくさんの人に死を見させることになって、君の死を大きくしてしまった」

 エリナの手を握る彼の手と額は細かく震える。そんな彼を見て、自身の善意が他人を傷つけたことに気付く。

 手と額だけではなく声まで震えていた。彼も抑えているようだったが、隠せていない。

 彼をそうさせたことに、未練を残させてしまったことに、エリナは目頭が熱くなる。

 オーグはか細い声で、だけど振り絞るように告げた。

「ごめん」

 エリナは涙を止めようとしたができなかった。それは際限なく溢れた。

 そして彼女は悔いる。自身の行いを、自身の不始末を。

 私は彼の終わるはずだった人生に悔いを残してしまった。

 最期の最後で、彼に傷をつけてしまった。

 本当であれば、未練があるなら自分と共に生きてと、叫びたい。

 許されるなら、あなたといればそれは怖くないと、叫びたい。

 だけど、それは出来ない。

 これ以上彼に、後悔を、未練を、傷を残したくなかったから。

 だから魔術師エリナは叫びと泣き声を、唇を噛みしめて耐える。

 彼の人生を、もう台無しにしたくなかったから。

 そして残ったのは、寄り添いながら涙を流す少年と、涙を流しながら泣き声と叫びを我慢して唸る少女だけだった。



                  ◇ ◇ ◇



 その三日後に、オーグは亡くなった。

 エリナは彼の最期を看取った。彼の最後は何処か不完全な顔に見えた。

 自分の人生を誇っている表情だった。

 死を前にして恐れながらも、どこか安らかな表情だった。

 だけど何か異物が混じったようだった。エリナには、その表情の機微がわかってしまった。

 彼に、残すものを与えてしまった彼女だからこそわかってしまった。

 エリナはただ彼と一緒に居たかっただけだった。

 だけどその願いが彼を不完全にしてしまった。

 葬儀も終え、自室にて研究の成果と対面する。

 外の風景も、部屋の中の風景も、魔術師の気持ちに比例したかのように暗い。

 月明かりに照らされた机の上に置かれた、三つのペンダント。一つはエリナが着けるはずだった“不死”のペンダントだ。エリナはもう術式としての“不老”を自身に付与している。後はこれを着けるだけで、〝不老不死〟になる。残りの二つはオーグに渡すはずだった“不死”と“不老”のペンダント。これを彼に着けている限りは〝不老不死〟になるはずだった。

 彼との最後の関りであり後悔の証でもあるのはなんて皮肉なことだ。

 せめて形に残そうと考えた自分はなんてお花畑な思考をしていたのか。

 稀代の天才が聞いて呆れる。

 およそ人類が成しえない偉業。彼女はそれを成した。

 世間に提示すれば、どうなることやら。

 だが彼女は、それを世に広める気にはならなかった。

 エリナはそれに、価値を感じられなかったからだ。

 人を思い、創り出した“不老不死”。しかし、それは人に拒まれた。必要とされないこれにそれほどの価値を感じられなかった。

 魔術師は〝不老不死〟を、この世から消し去るために、これを壊す。

 部屋で甲高い音が響いた。ペンダント内部の術式が虚空に解き放たれる。

 エリナはまず、自分が着けるはずだった〝不死〟を壊した。

 躊躇いなく、怒りと憎しみと悲しみ、自身の不甲斐なさ、その破壊行動の感情は自分でもわからないほど混濁していた。

 そして次に、オーグに渡すはずだった二つのペンダントの破壊を試みる。

「……」

 手が動かなかった。

 彼女自身、自分がなぜ躊躇っているのかわからなかった。

 これは汚点だ。オーグの人生を穢した汚点の産物だ。そんなものになぜ破壊を躊躇う。彼女にはそれが、不思議だった。不可解だった。

 手が震える。術式の解除を、体が拒絶する。

 魔術師は確かに、その産物に情愛を抱いていた。

 破壊なんてできるはずが無かった。

 どんなに惨めなものでも、どんなに価値のないものでも、どんなに汚らわしいものでも。

 それは彼との、オーグとの最後の思い出だったのだ。

 嫌いだけど愛おしい。

 魔術師は、その相反する感情に囚われて、破壊を中止した。

 立ち尽くすエリナ、机に置かれた二つのペンダント。そんな自室の状況に新たな闖入者が入る。

「動くな!」

 壊さんばかりの勢いで開かれた扉の先には、複数人の人間がいた。

 部屋の中に三人の人間が押し入る。全員の手には、その式を終えた魔術が装填されていた。

 後はそれを放つだけ、そんな状態でそれをこちらに突き付ける。彼らの恰好から都市の魔術師だろう。装備が潤沢だった。

 扉の外にも、人間はいた。そちらは魔術に精通した人間ではなかった。その手には刃物が握られ、鎧に身を包んでいた。部屋の中の人間と共に行動すると言う事は彼らも都市の兵士だろう。

 その考察は正解だった。魔術を構えた男の一人が告げたからだ。

「我々は都市直属の兵である。貴様の研究の成果を貰う受ける。同行しろ、死にたくなければ抵抗しないことだな」

 目の前の都市の魔術師は尚も一方的に続ける。

「両手を頭の後ろに回せ。その場に伏せろ。妙な真似はするなよ。」

 部屋に更にもう一人の人間が入る。その人間の手には、拘束具があった。それが魔術の行使を防ぐものだと言う事はすぐに分かった。

 だがそれでは彼女を拘束できない。たとえそれで彼女を拘束したとしても、時間はかかるが破壊も可能だ。だが、それではおそらくペンダントは盗られる。

 それはできない。彼との最後の思い出を盗られるわけにはいかない。

 エリナは手を彼らに向ける。魔術を発動させようとする。

 だがここで何をしようと無意味だ。もう彼女は遅れているのだから。

 魔術を強奪するにしても、まだ足りない。

 相手が、その魔術式を完了した時点で、この場面での彼女の敗北は決していた。

「撃て!」

 エリナが魔術を発動する前に、彼らは装填し終えていたそれを放つ。

 抵抗空しく、命を刈り取る衝撃が彼女を襲う。

 その風は彼女の突き出した右腕を切り落とし、水は彼女の胸を水圧で切り裂く。放たれた岩石はその横腹の肉を抉る。

 そして、追撃とばかりに放たれた風は、彼女の残った左腕と頭部を切り落とした。

 一室の床に無残な死体が転がり流血で染まる。戦いを終えた静けさが決着を知らせた。

 魔術を放った一人が、最後に風の刃を放った魔術師に疑問をぶつける。

「殺さなくても良かったんじゃないか?両手を切り落とすだけでも無力化できるはずだったんじゃ…」

 その疑問を問いかけられた人間は否定する。

「いいや、抵抗された時点でダメだ。相手は学堂の秀才だ。こちらが手加減をしようものなら何をされていたかわからん」

 その答えに問いかけた人間は疑念を抱く。だが目の前の人間が告げた回答は正しい。

 もしもエリナに頭部が残っていれば、彼女はその口で魔術を唱えていただろう。

 その場合、この一室の一区画が断裂していた。

「目標を回収しろ、この部屋の物もすべて回収する。一つも残すな」

 その言葉に他の人間たちは動く。各々部屋にあった研究道具や積み上げられた書物の回収に取り掛かる。

 命令を下した男は先程までエリナがいた机の前に移動する。彼女が見ていたこのペンダントを目標だと睨んだからだ。

 一見は普通のペンダント。これに本当に人を不死身にする能力があるのか疑った。

 男は首を振り、無駄な邪念を振り払う。

 自分はただ都市から与えられた任務をこなすだけだ。

 彼はこれが我が都市の戦争での勝利につながると信じ、それを手に取ろうとした時だった。

 突然、男の視界の先で鮮血が飛んだ。

「え?…ぐああああああッ!」

 一瞬の変化に付いて行けず立ち尽くしたが、襲い来る痛みに何が起こったのかを理解する。

「貴様、なぜ———」

 男は視線をそちらに向け、死んだはずの対象を睨む。

 そこにはまるで何事も無かったかのように立ち上がったエリナの姿があった。

 男は今度こそ彼女の首を刈り取るべく魔術を発動させようとしたが、言葉を発し終わる前に、その首は体から離れた。

 室内にいる残る二人もそれに気づき、反撃を試みる。

 だが、エリナの発動の速さについて行けず、うち一人は彼女が放った岩石で吹き飛び、体は壁に串刺しになった。

「ひッ!化け物!」

 残る一人は抵抗を試みたが、その魔術は彼女に奪われた。

 自身が放つはずだった火炎が手の内から無くなり、男の体が火に包まれる。

 火だるまになった人間は絶叫しながら室内を駆けまわる。

 だがその声もすぐに止んだ。

 机にあったペンダントを回収したエリナが全方位に放った無数の魔術によって、そこにあった部屋も、二つの死体も、火だるまの人間も、みんな粉々になった。

(渡さない!渡してなんかやるもんか!これは私のものだ)

 エリナは部屋を粉砕して、思い出を胸に抱えて、その場を逃走した。

 奪われてなるものか、とペンダントを強く握り、身を隠した。

 そこからの数日間は都市の人間に追われる毎日だった。

 都市のどこに身を隠そうとも見つかったのだ。そのたびに彼女は撃退した。

 死んでは生き返ることを繰り返して、敵を、思い出の簒奪者を殺害した。

 数日経って、人間社会にもう居場所はないと理解した彼女は、都市を出ることを決意した。だが他都市に行こうにも今は、戦争の真っただ中だ。よその人間を受け入れてくれる所が果たしてあるだろうか。

 その上、たとえ受け入れられたとしても、自分を追う彼らと同じく、狙われる立場になると彼女は予期した。

 結果、彼女は人の寄り付かない領域に身を置くことにした。

 鉱山都市の南方、その先にある聖獣が生息する大森林の中に居を構えることにした。

 都市を出て、森林に入り、歩を進めた。

 開拓されていない獣道。魔物が通って出来ただろうその道を進む中、森の住人であり、この道の開拓者に遭遇した。数匹の獣がこちらにその眼光を向ける。

 だが襲ってはこなかった。ただこちらを警戒するように伺うだけだ。

 幸運だと思った。移動の形跡は極力残したくはなかった。

 もしも彼らが襲って来れば、自分が歩いた道には獣の血の跡が出来てしまうからだ。

 今のうちに森の深部を目指す。出来るだけ人が入ってこない領域に足を進めた。

 魔女は思い出の品を人から隔絶させるように大森林の奥地を行く。

 そして数時間が経った。かなり奥地に来た彼女は開けた場所に居を造り始めた。

 材料には事欠かない。だって周りにたくさんある。

 魔術で切り取った木を各部分に調節した木材を造作り、住居に必要なパーツを造る。

 後は簡単だ。骨組みとなる木材を物質操作の魔術によって地面に突き刺し、作成した他材料の通し穴にはめ込むだけ。

 魔女は家づくりというよりかは、パズルを組み合わせるかのように住居を完成させた。

 だが、家具も何もない。完成させたのは良いが、目の前には殺風景な部屋が二つだけ。

 持ち物といえば大事に抱えた〝不老不死〟のペンダントと、異空間に保管した今までの魔術成果と都市からの任務で得た資産だけ。それ以外は最低限の衣類などだ。

 ベッドなどもあるはずがなく、仕方がないので住居建築一日目は床で寝ることにした。

 固い感触に身体を預ける。決して寝心地の良くないはずなのに、誰にも狙われないという安心感から彼女は久しく熟睡できた。

 後日から、彼女は限られた資産を用いて、徐々に生活空間を作っていった。

 魔術によって姿を消して門兵の検閲を抜け都市に侵入、そのまま店まで移動、店に入って出るまでの間だけ、姿を明かして変装した。

 そうして購入した家具一式をそのまま持ち帰ると受付に伝える。エリナは家具一式を物質操作ですべて持ち上げた。

 この行動は別段珍しい事ではない。エリナと同じく、人間では持てないだろう質量を運ぶ魔術師はそう少なくないからだ。

 だが、受付はエリナの行動に感嘆の声をあげた。

 なぜなら通常の魔術師が持ち上げられる重量は自身の体重の二倍ほどまでだ。

 しかしエリナはそれを優に超える質量を簡単に持ち上げてみせた。

 受付の反応など気にした様子もなく、店を後にするエリナ。

 ここからは来た時と同じく自身と持ち上げた荷物の姿を消して帰宅した。

 大森林の奥地の住居にまで運び、家具が入れられないことに気付き、家の一部を解体して作り直す羽目になったが、これで最低限の生活感が出た。

 部屋のリフォームと帰宅途中に購入した日持ちの良い食料を収めたところでもう夜になった。

 エリナは充実感に満ちた一日を終え眠りについた。

 だが充実したのは一日目だけだった。後は暇を持て余した毎日だった。

 あまりに暇だったため、つい魔術の訓練などもやった。

 あまりにも自然にした行動に彼女は苦笑する。

 どうやら自分は根っからの魔術師らしい。頭が勝手に術式の研究まで行った。

 彼女は複雑な心情を孕んだ。

 その研究の行きついた先、得た成果が思い人の遺恨だった。

 相手を傷つけておいて、まだその研究に取り組む図々しさに、少し嫌気がさした。

 エリナが後悔を作り上げてから、はじめて過ごした平和な毎日。

 そんなある日…。

 客人は来た。

「なあ、ほんとにここか?ここに標的が?」

「間違いない。こんなところに住む奴が他にいるか」

 家内でペンダントを眺め、思い出に耽っているところに、彼らは現われた。

 その話声には防音魔術が施されていたが、エリナは自宅の半径百メートル圏内に探知魔術を展開しているためその声は筒抜けだった。

 数年の時を掛けて構築したその空間は異界の帝国のようだった。

「話は本当なんだろうな?ペンダントを盗むだけで、あんな大金が手に入るなんて…嘘くさくないか?」

 外から聞こえる複数人の男の声、うちの一人が仲間に怪訝な声で問う。

 彼の疑問は正常だ。

人を殺すことが前提の探し物だとは言え、その額があまりにも破格だったのだ。

 任務自体の信憑性を疑うほどに。

 それほどまでに鉱山都市の上層は、〝不老不死〟の獲得に躍起になっていたのだ。

「都市から提示されたものだ。そこいらの貴族からの依頼より信頼は出来る。行くぞッ!」

 男の掛け声とともに、扉が強く開かれる。

 扉が開くのと同時に何かが家内に飛び込む。それは魔術によって放たれただろう火球だった。

(やめてよ、もう)

 せっかくの新居なのに、燃やされては堪らない。

 エリナはその火球を空中で停止させ、室内の壁すべてに魔術で防御術式を膜のように張った。とりあえずこれで家を傷つけられることはない。

 男たちの奇襲はそれでは終わらない。扉の先からもう一つ何かが飛んでくる。

 その着弾先は先ほどの火球、放たれたものは破断性のない、ただの水だった。

 攻撃性のないその行動に疑問を憶えたが、エリナは次の瞬間、その魔術行動の真意に気付いた。

 着弾した水は火球を蒸発させ、室内が水蒸気で包まれる。目暗ましのようだ。

 予想外の出来事に油断したエリナの背後に男は移動していた。どうやら部屋が蒸気に包まれると同時に入り込まれたようだ。

「動くな。動けばお前の首を切るぞ」

 男は警告の後の彼女の行動に驚く。なんと標的が、相手の首に押し当てた刃物を持つ自分の腕を掴みだしたではないか。

「おい!動くなと・・・何⁉」

 自身に起こった異常に気付く。

 動くなと言った男は、逆に自分が動けなくなっていたことに気付く。

 そしてエリナはあっさりと拘束を逃れた。

 抜け出した彼女は石像と化した敵対者に手をかざす。

「た、たすけっ」

 その言葉と同時に、エリナは背後で魔術の起動が起こったことを察知する。

 エリナは振り向きざまに、岩石を射出した。

 岩石は扉で彼女に手をかざしていた男の腹部に直撃し、吹き飛ばした。

 そしてまた、エリナは動けなくなった男に向き直る。

 拘束された男は抵抗を試みるが、空間を固定されているため動けない。

 エリナは捕虜となった男を物質操作で室外に連れて行った。

 外に出ると、先程岩石で吹き飛ばした男が腹に風穴を開けて、倒れていた。

 地面には血が湖のように広がっている。

 そしてその湖はさらに広がることになる。

 エリナは拘束した男の首を魔術ではねた。

 最後には、二つの死体の前に佇む女が一人いるだけとなった。

 敵対者達の装備を確認する。

 都市の兵士ではない。装備が都市から支給されているものではなかったからだ。

 その二つの死体の正体は回収人だった。

 戦時中である今、都市の兵を割いて、戦場の武具や防具、資源の回収に向かわせるのではなく。志願者が自主的にそれらを回収して、都市の下請けの買い取り屋に売り払う。

 彼ら回収人はそうして路銀を稼いでいる。

 今回、都市は彼らに依頼して奪いに来たらしい。

(……ちょうどいい)

 エリナは彼らの装備を回収する。

 元々人のモノを奪うような人間たちだ。彼らの持ち物を簒奪したとはいえ、罪悪感など一つもない。

 彼女は日夜、食料の定期購入によって、減るばかりの自身の資産に悩んでいた。

 以前であれば、都市からの任務をこなすなり、研究成果を売り払うなりして、かなりの額を稼げたが、今は都市にはいられない。

 だから彼女は新たな収入源として彼らの装備に目を付けた。

 後日、それらの装備品は食料の買いだめのため都市に入ったエリナによって売り払われた。

 その日から彼女は平和な日常と定期的に訪れる強奪者を撃退する毎日を送った。

 〝不老不死〟のペンダントを守護して、敵の装備を奪って、装備を売って、ご飯を食べて、寝て、起きて、また大切なものを守る。

 正直、自分の私利私欲のために〝不老不死〟を奪いに来た人間を殺害することは、特に何も感じなかった。でも、嫌だったのは…。

「お願いだ!娘が!…このままでは死んでしまう!」

 他都市の騎士なのだろう。彼はその片腕を喪失しても逃げ出すことなく身内のために戦った。

 私はその想いを踏みにじった。

「私は愛する者のために!貴様を討ち果たす!」

 勇敢な戦士だった。彼はその頭部が砕かれるまでこちらに這いずりながら向かってきた。

 私はその想いを踏みにじった。

「あの人を助けたいの!だから、助けてよ!」

 愛する者のために非力な腕で懸命に戦う。その気持ちが汲めてしまうからこそ、躊躇いを憶えた。

 私はその想いすらも踏みにじった。

 嫌だったのは、こういう強い意志を持った人間達だった。

 自分にも大切なものがあるように、彼らにそれはある。

(ああああああッ!ごめんなさいッ!ごめんなさいッ!ごめんなさいッ!)

 それを正面から受けて、相手の意思を自分の意思で砕くのは、きつかった。

(でもこれはあげられないの……)

 オーグの言った、他人の死で、自分の死が怖くなるということが分かった気がした。

 〝不老〟になっただけでも、明確に生への執着は強まった。

 そんな状態で意思を持った人間を殺す、さっきまで生きていたそれを見るとある仮定が抑制され、ありもしない現実が脳裏に浮かぶのだ。

 もしも倒れていたのが、自分だったら‥‥。

 オーグへの罪の意識が彼女に生を促す。

 彼らへの罪の意識が彼女に死を予期させる。

 そのような日々を過ごす中で、彼女に意識は確かに摩耗していっていた。

 常人であればとっくに狂っている時の中で、しかし彼女は〝不老不死〟を守護し続ける。

 思い人との思い出が彼女を正気に戻し、起動させ続ける。

 だが彼女の生活はそれだけでは説明できない。その生活は一般的だったのだ。

 普通は、回収人が通常の生活を送れるのは彼らが毎日、装備を回収して売り払っているからだ。

 エリナが装備を手に入れる機会は月に数度。とても人一人の生活を賄えるほどの金は手に入らない。

 彼女の生活が成り立っているのは、彼女に大枚はたいて依頼を出した、筋骨隆々の男から貰った報酬があったからだ。

 それは、暇つぶしに魔術の腕を上げ続け、襲撃者を撃退し続けた、五百年以上がたったある日のことだった。

 とても強い人間だったのだろう。彼は物語に出てくる王子様のように、馬上で繰り出される斬撃は、魔女の攻撃を防ぎ切った。

 そうして〝不老不死〟を奪いに来たのではないと分かったエリナは彼の依頼を受けた。

 その依頼は実に興味深く、彼女は更なる知見を得れた。

 現実逃避を望んだ彼女にはちょうど良いくらい没頭できるものだったのだ。

 そのすぐ後、エリナの前に馬鹿げた存在が現れる。

 どこからどうみても普通の人間、だがその人間は自身を神だと言った。

 くだらないと、いつものように焼き払おうとした。

 しかし、その男に攻撃は当たらなかった。

 神と名乗るだけのことはあった。その男はエリナの猛攻を躱しきり、彼女を殺したのだ。

 だが殺されたくらいで、エリナの生は終わらない。〝不老〟が彼女の肉体的損傷を修復し、〝不死〟が彼女を起き上がらせる。

 丁寧に、エリナが再生し終わるのを彼は待っていた。

 そこから、彼女は油断を捨てた。一切の躊躇いなく、秘宝を奪いに来ただろう闖入者を撃退する。

 戦いは四日続いた。

 戦いの中で、この人間は神ではないと思った。

 だって神だぞ?

 世界の理を知り、人を統べ、天に在る。

 それと自分は戦えている。

 ありえない。

 この世全ての支配者がこんなに弱いはずがない。

 この存在はきっと、ただ他とは強さの格が違うだけの人間だ。

 攻撃を避けられるのは、その並外れた武力が成しえているだけだ。

 自分と同じく空を飛べると言う事はこいつも魔術に精通している?

 その何の変哲もないただの人間の手をした見た目から死に至らしめる攻撃を放てるのはなぜだ?

〝『君の罪は洗われる時が来る!その機会は近い将来必ず訪れる!』〟

 どうやらこちらの心理を読み取ることもできるようだ。

 だが神はミスを犯した。エリナの猛撃の危険度は数段跳ね上がる。

 無我夢中で戦う彼らに決着は訪れた、それが彼女に確信を持たせる。

 やはりこの存在は神ではない。

 勝者は〝不老不死〟の守護者、エリナ・ウィッチだった。

 どうせ避けられるならば、と彼女は敵の逃げ場を無くした。

 外界と隔絶した固定空間を作り、上下左右全方位から地水火風すべての属性の上位魔術、そしてダメ押しに四大聖獣の一角、獣王のために用意しておいた自身を中心とする半径百メートル圏内の全方位にあるものすべてを溶かす超高熱融解型魔術を放った。

 獣王は敵の死角に入り、相手の気づかぬ間に攻撃を繰り出すらしい。なら死角など関係なしにすべてを焼き払おうという、脳筋的な考えと戯れで用意していた(思い付いた)ものだ。

 問題はこの手を誰でも考えることは出来ても、彼女以外は実現出来ないと言う事だ。

 そしてその存在が無になったことを確認して、その場に仰向けになる。

 あたりは無茶苦茶、この爆心地を復元するには一体どれだけの月日が必要なのか…。

 その後、彼女は途方に暮れながらも復興作業に尽力し、何とか元の生活に戻ることが出来た。

 そして秘宝を守り始めてから二百年が経った頃、変化は訪れた。

 彼女が当に人々から魔女と呼ばれ、恐れられていた頃のことだ。

 突然倒れた。なんの前触れもなく、ぷっつりと意識が切れた。

 気を失ってから、数時間後、眠りから目覚める。

 彼女は気づいた。

 終わりが、魂の終わりが近いと、死が確かに自身ににじり寄っていると。

 胸を抱え、うずくまる。歯を噛みしめ、体を抱きしめて震えを抑える。ひたすらに押し寄せる恐怖に耐える。

(ああ、これは確かに……でも良かった)

 魔女となっていたエリナは安堵した。

 彼が、オーグが〝不老不死〟を拒んでくれてよかったと、安堵する。

 彼をこの激情の濁流に晒すことにならずに済んで良かったと、感謝する。

 耐える中で、外に変化が起きたことに気付いた。

 設置している探知魔術に反応があった。反応は一つ。

 それに少しの疑問を覚えた。今までは複数の反応ばかりだったからだ。

 自分に一対一の勝負を持ち込むものなど、無謀な者もいたものだな。あるいは逆なのか。

 だが彼女も、易々と渡すつもりはない。

 死への恐怖に、自身をここまで動かし続けた意思が勝つ。

 立ち上がり外に出ると、そこには反応通り、人間が一人立っていた。

 見た目から、鎧に身を包んだ騎士だった。だが鉱山都市の兵士ではない。装備が都市の物とは違った。

 男はエリナを見るなり、問いかけてきた。

「女よ、貴様が秘宝を守護する魔女か?」

 鎧の男以外に人間はいない。隠れている者もいない。本当に彼だけだ。

 齢を感じさせるこけた顔、しかし熟達の騎士なのだろう。その瞳に宿る闘志はエリナを貫く。

 こちらに剣を突き付ける剛腕には年による衰えは感じられない。彼の掲げる意思は相当に強いようだ。

 しかしそれがなんだ。

「……死にたくなければ、消えなさい。何もしないなら見逃すわ」

 警告したが、相手の闘争の意思は固かった。その兵士は名乗りを上げる。

「我が名はトラザム、東の絢爛豪華なる芸術都市に君臨する女王、あの御方の輝きを絶対のものにすべく、ここに馳せ参じた騎士である」

 鉱山都市の兵士ではないと思ったが、なんと他都市の兵士だった。

「東からよくもまあこんなところまで、戦争中よ?何かの口実に使われても知らないわよ」

 エリナの返しに、トラザムは何を言っているんだと、答える。

 その返答は決して冗談などではなかった。

「?戦争などとうに終わっているぞ」

「……」

 目の前の男の発言に、最近感じた疑問が解消された。

 どうやら自分は時代に置いて行かれていたらしい。買い取り屋に怪訝な表情をされたのはそれが原因だったのか。世の中から隔絶した生活を送っていたのだから当然ではあるが。

 騎士を名乗った男は、口上を再開する。

「不死の魔女よ、永遠を守護する者よ。そなたの永劫を奪いに来た。女王は永遠の美しさを手にすべく、それを求めている!……覚悟ッ!」

 トラザムは目前の魔女、エリナ・ウィッチに斬りかかる。

 不意打ちを仕掛けたはずだが、エリナに驚いた様子はない。

 今までこの手の攻撃は嫌と言うほど受けてきた。

 魔女は襲い来る騎士を消し炭にすべく火炎の発動を試みる。

 その瞬間…。

 空が覆われた。

「ッ!」

 魔女に質量が、倦怠感を襲い来る。魔力は枯渇し、意識も朦朧とする。魔術の発動もうまくできない、断裂的に意識と魔力経路が遮断される。

 空の色が変わったかと思えば、それらが大きな波のように魔女の体に流れ込んできた。

 状況から結界を張られたらしい。それもこちらの認識外から、だがこれだけ巨大なものだ。一体どれだけの人員が、この森を囲んでいるのか。

 戦争中でなくとも大問題ではないか。

 自身の戦力の過信と、長い月日の中での精神の摩耗、たった一人の敵への油断が彼女の敗北を誘った。

 もう目前に迫ったトラザムは魔女の首を刈り取る。

 そして彼女に二百年ぶりの肉体の死が訪れた。だがそれは〝不老〟によって、それは即時に回復する。

 その断面は〝不老〟の修復力によって、待てば勝手に接着される。

 彼女はすぐにこの騎士を止めることが出来るのだ。切断された頭部が残ってさえいれば。

 トラザムはすぐに行動した。

 彼はエリナが不死身であることを知っていた。

 他都市の騎士である自分の耳にも届くほど、彼女の存在は有名だ。

 今までに積み上げた強者たちの死が、彼女の存在を半ば伝説に昇華させていた。

 蘇生される前に、それを実行する。

 トラザムはエリナの頭部を持ち上げて、原型が残らないほど切り刻む。細切れの肉塊となったそれを彼は魔術によって灰にした。

 標的の頭部を焼失させて、即座の復帰を阻んだ。

 騎士は振り返り、残った肉体に目を向ける。その死体は欠損部位の再生を行っていた。このままでは時間はかかるだろうが、生き返るだろう。

 彼とその一団には時間が必要だ。捜索のための時間が必要だ。

 トラザムはこちらに向かっているだろう一団のために残る死体に向かう。



                  ◇ ◇ ◇



「…う…ん」

 気だるげな体を持ちあげる。全身が灰だった状態から回復したエリナはトラザムとの戦闘から起き上がった。

 あの騎士と交戦した時は昼間だったが、辺りを見回すと陽光が森林を包んでいた。

 どうやらそれほど時間は経過していないように思える。

「しまったッ!」

 エリナは意識を手放す前の状況を、騎士によって討ち取られた自分を思い出す。

 彼らの目的から、即座に自宅へと向き直る。

 その廻した視線の中で、一つの異常を見た。

 それは獣に食い散らかされた一つの死体だった。

 獣の正体は獣王の眷属、数匹の獣はバラバラになった死体を運んでいた。

 食い物にされた人間は相当無残な死に方をしたらしい。

 脳裏にそんな事が浮かんだが、すぐに頭の片隅に追いやり、優先すべきことに意識を向ける。

 魔女は開かれた自宅の扉に向かい、走る。

 自宅に入る、内側を確認する。床の一部が破壊されていることに気付いた。

 それは自宅を製造して、少し経ったころに作った地下へ続く階段だ。

 その地下の存在目的は〝不老〟と〝不死〟の隠匿だ。

 この様子から簒奪者達にそれは見つかってしまった。

 慌てて階段を駆け下りる。階段を下り切り、平坦な道に出る。

 魔術による身体強化によって限界まで加速した彼女の肉体はするりとそこに舞い降りた。

 すると地下の壁にある、一つ目の扉が目に入った。

 あそこは〝不死〟を隠した部屋だ。

 〝不死〟と〝不老〟は別々の場所に隠してある。リスクを分散させるためだ。

 もちろん、どちらの扉にも細工は仕掛けてある。並大抵の物理的、魔術的な干渉は受け付けない。これらの扉を開くためには相当な時間と技術が必要だ。

 辿り着いて目に入った光景は開かれた扉、扉への防護は破られていた。

「クソッ!」

 魔女は歯噛みする。自分はおそらく、これを解除するまで殺され続けていた。

 もちろん中に保管してある〝不死〟のペンダントは無くなっていた。

「お願い!無事でいて!」

 魔女は奥に進む。暗がりの中を駆ける。

 魔女の心が焦りで染まる。思い出を失うことを恐れる。自分がここまで存在してきた意味の消失を拒む。

(どうか……お願いだから!)

 疾走を再開して、目的地に走る。魔術によって人の速度を軽く超えた彼女はそこにはすぐについた。

 近づくにつれて人の声が聞こえた。

 それに安心した。人がいると言う事はまだ目的のものを確保できていないということだ。

「なあ、目的のものは確保できたんだ。俺達だけでは扉を解除できるかわからないんだ。いくら魔女を抑えてるからって、開けられなければ意味がないだろう」

 その言葉に呼吸が止まるような錯覚を覚えたエリナ。

 聴覚を拡張した彼女の理性が失われる。

 疾走する中で感じられるか感覚は狭まる。

「いや、成果がいる。魔女の工房だ。奴の魔術理論は欲しい。レッグが抑えてくれてる、時間はあるんだ。必ず手に入れる」

 今も扉の防護の解除を試みるもう一人の男が、相方の意見を否定する。

 だが、彼の発言の事実はもう違う。レッグと呼ばれた男は、自分の拘束をしていない。なぜなら獣の餌になったのだから。

「俺たち以外の人間はもう芸術都市に戻ったんだ。三人だけで何かあれば、やられるぞ」

 扉の前でかがみ、解除に勤しむ男に注意する相方。だがその進言は聞き届けられない。

 〝不老〟が隠された扉が開かれていないのに、奴らは〝不老不死〟手に入れたと思い、帰還してくれた。

 おそらく彼らはその存在を知っているが、それが二個一対の物だと言う事は知らない。だから〝不死〟だけを回収し、都市に帰った。

 エリナにとって最悪の事態は回避された。

(だけど、すぐに取り返しに行かないと…)

 取られたままでいるわけにはいかない。自分には終わりが近い、魂の死が訪れる前に取り返さないと…。

 エリナは自身の不甲斐なさの怒りを込めた絶叫と共に、男達の首をはねて〝不老〟の扉を開く。

 部屋に置かれたペンダントを手に持ち、懐に入れようとする。その時、手が止まった。

 これを持って、東の都市に向かい、〝不死〟を取り返す。

 そう決めた彼女の行動が止まった。

 危険だと感じたからだ。

 もしこれを所持した時に、都市の真ん中で意識がプツリと切れたら、魂の死が彼女の意識を刈り取ったら。

 その場合、〝不死〟だけではなく〝不老〟まで失うことになる。

 最悪を想定して、行動を止まる。

 だがそう予期したうえで、その停止勧告を振り払い行動に移る。

 どのみちここに残っていても、大事なものは無くなったまま。そんな終わり方は出来ない。

 エリナは回廊を駆けて、階段を駆け上がり、外に出る。

 目に差し込んできた光に目を細める。あの騎士と戦闘を行っていた時も、空は明るかった。扉に掛けられた、あの防護を数時間で解除されるとは考えられない。

 少なくとも一日、もしくはそれ以上の時間、殺され続けていたことになる。

 そうなら〝不死〟はもう、芸術都市に向かった。

 自分も早く東に向かわねば、そう考えた彼女が、空に飛翔しようとした時、茂みの向こうで物音がした。

 賊の生き残りかと思い、確保に向かう。

 初めて外に向かう彼女には道案内が欲しかった。

 この人質には自分を盗人の親玉の所まで連れて行ってもらおう、と考えた彼女は草木を掻き分ける。

 物音の正体に歩み寄る。その正体に彼女は目を見開いた。

 探していた者の姿は鎧に身を包んだ兵士でもなければ、魔術師でもない。

 ただの黒髪の少年だった。

 普通ではそれだけで驚かない。こんな奥地になぜ子供が、と疑問には思うがそれでも驚くほどの事ではない。

 彼女は驚いたのは少年の顔と彼の体をうごめく黒い膿だった。

 その姿に、以前自分を襲った人と獣の複合兵器の存在を思い出す。だがそれとは何か、根本から違うように感じた。

「……オーグ?」

 その少年の顔があまりにも似ていたので、思わず名前を告げた。

 だが、少年はそれどころではないらしい。腹部からは血が流れている。こちらに手を伸ばし、助けも求めている。

 理性で考えるよりも早く、体は動いた。即座に少年に治癒の魔術を掛ける。たちまち傷は塞がり、出血は止まる。

 傷が治まるのと比例するように彼の体をうごめく膿も収まった。

 その少年を見つめるエリナ、この二百年間忘れるはずが無かった彼女の罪が浮上する。

 〝不死〟を取り返さなければならないと理解している。だが彼女は目の前の少年に、過去の未練が湧いた。

 そして、魔女は少年を保護した。


 異形を生み出した少年。 

 魔女はその時、自分の使命を理解したのだ。


「……あなたに従うんじゃない。私は私の意思で彼を助ける」


 その記憶の夢を、これまでのすべて見ていた魔女エリナ・ウィッチ。

(『そう、私は自分の罪への未練を優先した。オーグ、私は残り少ない時間をゴオに注いだ』)

 あの時生じた彼女の未練、長い時の中で悔いのない時は無かった。

(『私ってお節介だから、あなたの時のようになるかもしれないのに、あの子を助けたいと思った。あれはきっと良くないものだから。必ずしも善意が相手のためになるとは限らないこともわかってる。だけど助けたい。それに…』)

 思い人と同じ、異常を孕んだ少年。あの時と同じ立場と同じ状況、唯一違うのは自分の心の内。あの時とは違う選択がもしかしたら出来るかもしれない。

(『もしかしたら、やり直せると思ったから。だから今度は間違えないようにしてみせる』)

 夢の中の記憶の彼の言葉を、苦笑交じりに否定する。相手の自分を思っての勘違いに微笑む。

(『あなたは私を置いて行ったと言ったけど、それは違う。あなたはいつも私の中に居た』)

 そして魔女は自身の目覚めを願う。未練を、罪を、晴らすために願う。

(『オーグがいなくなって気づいたこともある。それにあの子、見た目はあなたに似てるけど、中身は私そっくりなの。だからあの子に伝えないといけない。だから眠っている場合ではない!でないと、他人を嫌う彼はそれを知らないままだ!』)

 魔女の視界は光に包まれる。



                  ◇ ◇ ◇



「……」

 魔女は目覚めた。彼女は自分を起こしてくれた、機会を与えてくれた、時間を与えてくれた誰かに感謝する。

 この少ない稼働時間を無駄には出来ない。

(はやくあの子を見つけないと……)

 自分の体が寝室のベッドに横たわっていることを理解する。

 最後に起きていた時に見た景色は、彼が出した飛翔する獣に乗っていたところまでだ。

 どうやら彼がここまで運んでくれたらしい。

 視線を巡らせ、自身の弟子を探す。ベッドの傍らに座る少年を見つけた。

「ゴオ」

 その少年に呼び掛ける。

 すると少年は俯かせた顔を上げる。

「エリナさん⁉」

 エリナの声に気付き、視線をこちらに向ける。

 お互い言葉を交わすことない。

 ゴオは言葉を飲んだ。良かった、なんて言えるわけがなかった。彼は、おそらく目の前のこの世界での初恋の人がもうじき命を落とすことを理解しているからだ。

 エリナは吐き出すはずだった言葉を思いとどまる。彼を前にして、自分の行動が過去と同じく相手を傷つけるだけではないかと思ったからだ。

 沈黙の中、第一声を上げたのはゴオだった。

「死んでしまうんですか?」

「…ええ」

 彼女は真実を告げる。少年の問答は続く。

「助からないんですか?」

「ええ」

 魔女の言葉に、少年の表情が悲痛なものに変わっていく。それに呼応するかのように、彼の体で何かがうごめくのが見えた。

 それを見たエリナは躊躇った自身を貶す。今更何を恐れているというのか、お前はすでに罪人だろう?そんなことを考えている暇があるなら、一刻も早く彼を助けろよ。

「あなたは魔女だ。なんでもいい、何か助かる方法はないんですか?」

「……あるわ」

 ゴオはそれに飛びつく、その希望に彼は縋った。

 しかし、魔女はそれを受け入れなかった。

「あるけど、でも使わない」

「え?…どうして⁉」

 魔女の回答に、ゴオは彼女を説得する。

 彼が必死になるのも当然、彼は生きる意味を失うことを、、居場所の消失を恐れている。

「お願いだ!あなたがいないと、僕は独りぼっちになってしまう!」

「…それは違うわ」

 エリナはゴオに安心させるように告げる。

 彼のその言葉は確実に違うと自信を持って言える。

 なぜなら私の中にはいつも彼がいた。

「あなたが望む限り、一人にはならない」

 だがその言葉はゴオには届かなかった。彼はエリナに呼び掛ける。

「そんなはずない!このままだとあなたは死んでしまう、いなくなってしまう、僕を置いて

何処か遠くへ行ってしまう!そんなの僕には耐えられない!」

「今を生きる人間にともに居たいと思うことは間違いではないわ。だけどこれから死に行く人間を引き留めてはいけない。それは相手を傷つけてしまう」

 エリナもその感情が悪意のない者だと分かっている。彼は善意で自分に生きてほしいと叫んでいる。だが悪意がないとはいえ、必ずしも相手を傷つけないとは限らない。

 彼女がそれを一番よく分かっている。

「じゃあ、僕はどうすればッ!それだと僕には何もなくなってしまう!僕はッ…あなたが、あなたさえいてくれればいいッ!それ以外は望まないッ!」

 魔女は彼の言葉を聞いて、覚悟を決めた。

 その泣き腫れた顔が、嗚咽交じりの声が、彼女の意思を固めた。

「やっぱりあなたは外に出た方が良いわ」

 魔女の発言に、空での会話を思い出す。ゴオは話を逸らされたと感じ、エリナに叫ぶ。

「僕のことは、今は良い!それよりもあなただ!」

「いいえ、私はもういい。覚悟は決めてある。だからあなたの方が重要。だって私はこれを伝えるために目覚めたのだから。さっきも話したでしょ?」

 ゴオは魔女の言葉を拒む。生前恐れていたものが彼の脳裏にフラッシュバックしたからだ。

「嫌だ!他人なんて嫌いだ!外の世界は怖い!皆…皆、汚いッ!」

「ええ、その通りよ」

 てっきり自分の言葉を否定されると思った彼は呆気にとられる。

 彼女はそれを知っているのにどうして己が弟子を外に向かわせるのか。

 エリナは言葉の真意を目の前の弟子に伝える。

「人が意思で他人を蹴落とす時点で、人間の悪性は拭えない。だけど…」

 多くの意思を、傲岸不遜にも踏みにじった彼女だからこそわかる。

 競争性がある時点で、優劣が存在する時点で、清廉であることは不可能に近い。どんな人間でも例外はない。でなければこの生命体は立ちいかない。

「人の本質はそこじゃない。あなたの言う通り、人間が汚いものであったとしても…」

 オーグに悔いが残ったのは我儘を通そうとした私が汚い人間だったから。

 誰かのために〝不老不死〟を奪いに来た彼らが命を落としたのは、その意思を自分の意思で踏みにじった私が、自分本位な汚い人間だったから。

 だが、そんな汚い自分の中でも輝くものがあった。

「人が育む、私たちが作り出すものは美しいもののはずだから」

 そうでなければ、忌々しいあのペンダントが、魔女エリナ・ウィッチの罪の象徴が、彼と関り生じた感情が、あの愛が、あそこまでこの目に美しく映るはずがない。

 幾壮年経とうとも、その輝きは衰えることはなかった。

 何よりそれを否定してしまえば、エリナはオーグを否定したことになってしまう。

 私と彼が作り出したものはきっと美しいはずだから。

「人を拒んではいけない。一人になろうとしてはいけない。それをしてしまえば、ゴオはその美しさに触れることが出来ない」

 たった一人の思い人を思って作られた〝不老不死〟、たった一人だけとの思いなのに、それが彼女に年月を与えた。

 自分はたった一人とのものしか触れられなかったが、これだけの力を自分に与えてくれた。

「それだと君は美しいものを知らないまま、終わってしまう」

 自分にはオーグとの輝きがあったから耐えられた。でもこの子は、自分がいなくなった後のゴオにはそれがない。

「外に出れば辛い事があるかもしれない、痛いこともあるかもしれない。だけど知らないままなのは…」

 美しいものに触れないのは、輝きを見ないのは…。

「とても残酷なことだから」

 ゴオはエリナの言葉を聞いても首を振るばかりだ。

「僕が…あなた以外と関わってうまくいくと思えないよ」

 俯いた彼の視界に異常は飛び込む。

 ゴオは自分の両手に黒い膿が蠢いていることに気付く。

(なんでッ…なんでこんな時にッ!)

 エリナに危害を加えることを恐れたゴオは彼女から距離を取る。

 だが、彼女はゴオとは対照的に彼に近づこうとする。

「大丈夫よ、私もあなたが言う汚い人間なんだから」

 エリナの視界は体を動かすごとに明滅する。体は健康体そのものであるのに、自分の中で何かが砕けるのを感じる。だが、彼女は止まらない。

「そんな、僕を助けてくれたあなたが汚いはずがない」

「いいえ、だって私は今からゴオに酷いことをする。私は最悪を避けるために最悪なことであなたを助ける」

 エリナは左手を後方にかざす。別室の床下が開き、階下からそれが飛来する。

 それが彼女の放つ最後の魔術、ただのものを浮かせる、物質操作だ。

 初歩も初歩、だけどこの魔術は今まで作り上げた、どんな高等な魔術よりも価値がある。

 窓際まで後退したゴオの首に、魔女はそれを授けた。

 それは彼女がこれまで守り続けた〝不老〟のペンダント。

 それを首に巻いた瞬間、黒い膿は引いていく。

 魔女はその膿を見て、告げる。

「だけど、こうするしかない。それはきっと良くない物だから、放置すればきっとあなたをこの世界で独りぼっちにしてしまう」

 〝不老〟のペンダントの効力、それは保持者を常に最善の状態にすることだ。ゴオの肉体の細胞一つ一つは始点から終点に向かい、そしてまた始点に戻る。その原理を利用して、破壊された肉体は即時再生する。それが黒い膿を抑え込む。

 その様子を見て、エリナはゴオの両肩を掴み謝罪する。

「ごめんなさい。あなたを私と同じ苦しみを背負わせてしまうことになってしまって」

 自分の神から与えられた呪いが引いていくのを見て、ゴオはエリナに視線を戻す。

 理由などわかるはずがない。なんの変哲もない首飾りが、あの恐ろしい怪物を抑え込んだ事情など知識を持たないゴオには分かるはずがなかった。

 ただ一つだけわかることがある。

 それは彼女にまたも助けられたということだ。

「そんな、謝ることなんてないよ。だってエリナさんは一度だけじゃなくて、二度も僕を助けてくれた」

「いいえ、私が罪を重ねたのは事実。私は、あなたの…死を…」

 またも意識が断裂した。体から力が抜け、目の前に倒れこむ。

 転倒するエリナをゴオは抱きとめる。そして二人の師弟はお互い床に膝をつく。

 体の感覚が薄れていく中でエリナは呟いた。

「そろそろね」

「行かな———」

 行かないで、そうゴオが叫ぼうとしたが、思いとどまる。なぜなら先ほどのエリナの言葉を思い出したからだ。

 死に行く者を引き留めてはならない、それは相手を傷つける、と。

 思いとどまったゴオを見て、エリナは彼の耳元で彼を称賛した。

「えらいわ、やっぱりあなたは最高の弟子よ。ゴオ」

 ゴオは自身の内から湧く彼女への未練を振り払うべく叫ぶ。目の前で命を終えようとしている師に向かって叫ぶ。

「あなたは僕に苦ませていない!あなたは、僕を!誰がなんと言おうと、僕を救ってくれたんだ!絶対にそうだ!」

 目の前の弟子の気遣いに、魔女は頬を緩ませる。

 それが欺瞞だという事は彼女自身良く分かっていた。彼はいつか必ず死の恐怖に直面する。きっと彼は自分を恨む日が来る。だけど…。

 だけど彼女にはその嘘で、目覚めた価値はあったのだ。

 あの時は相手を傷つけることで終えた一度目の罪、だが今回はこの瞬間の一時的なものだったとしても、確かに救えたものがあったのだと、魔女は胸を撫でおろす。

 そして彼女は最後に残った悔いを晴らす。奪われたままの悔いを晴らす。

 我儘で、自分勝手なのはわかっている。だが自分は初めからそうだ。今更、取り繕ったところで大差はない。それに願わずにはいられないのだ。

「ゴオ…最後に私のお願いを聞いてくれる?」

 あれを置いていくことを、許せないから。

「私ね、大事にしていたペンダントがあるの、二個一対の〝不老不死〟のペンダント。今ゴオが着けているのは〝不老〟のペンダント。だけどもう一つの、〝不死〟のペンダントは東の都市の王に盗まれたの」

 エリナはこちらの反応を伺うように問いかける。

 この願いを彼が聞く義務はない。だってゴオは彼がどう思っていようとも、〝不老〟を与えられた被害者だ。断られれば、そもそもこれは無理なお願いだったと諦めるしかない。

 しかし、彼女の願いは彼にしか託せない。

「私の思い出を…守ってくれる?」

 自分の物を、誰にも渡したくない魔女。

 彼女が望む、自身の死後の最善の形。

 自分に限りなく近い彼になら、預けても構わないと思った。

 ゴオは師エリナの最後の願いを聞き届けた。

「任せてよ、エリナさん言ってたじゃないか。僕には大抵のことはできるって」

 その了承に彼への感謝の念が爆発する。彼女は今の自分に出来る最大限の力を振り絞り、弟子を抱きしめる。決して離さないように強く抱きしめる。

「そうだったわね。じゃあ、うん……お願いね」

 エリナは張りつめていた意識を緩める。もう後悔も、悔いもない。自分は本当にやり切ったのだと、襲い来る死に身をゆだねる。

 薄らぐ意識の中で、彼女は願う。弟子の終わりを願う。

(ああ…どうか彼が幸福な終わりを迎えますように)

 大森林の魔女エリナ・ウィッチは弟子に抱き留められ、命を終えた。

 彼女の腕は少しずつ力が離れていき、落ちた。

 弟子であるゴオ・ダンは師を安心させるように言葉を吐く。

「大丈夫、あなたの大切なものは守るし、取り戻すから。大丈夫だよ」

 部屋には一人の少年の泣き声が響くだけとなった。



                  ◇ ◇ ◇



 数時間後、ゴオは死に人となったエリナをベッドに寝かせた。

 扉に手を掛けて、最愛の人を見つめる。

「僕にはまだ、あなたが良しとしたものはわからない。」

 ゴオは、彼女が言ったことをまだ知らない。彼の中の他人は、自分に危害を加える存在でしかない。

 本当は殻に閉じこもっていたかった。だけどそれでは最後の時を自分に費やしてくれた彼女が無意味に終わってしまう。

「だけど努力はしてみるよ」

 こんな自分にも、彼女が守っていたような、大切なものがあるのなら。

「だってこの生き方はあなたがくれたものだ。なら、頑張って生きないとね」

 保証もない、根拠もない。

 良い事は少ないと思う、悪い事の方が多いと思う。だけどそれが生きることだ。師が教えてくれた生きることだ。

(綺麗なものだと良いな。…いやきっとそうだ。だってエリナさんが大切にしていたものなんだ)

 彼はただ、誰かの励ましだけで、自分の人生を歩き始めた。

名残惜しくはある、未練もある。だが後悔はない。

だって僕は——————

「さようなら」

大切なものを受け取ったのだから。

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