2 疾走使命、微睡む意識
大森林、奥地、魔女の家———
朝日に照らされた木々から風が抜ける。
熱を灯った朝日、涼し気なひんやりといた風がなんと居心地の良いことか。
森の獣達も自然を利用して自身の住処を確立するのはあちらの生態系と変わらないようだ。
「うおおおおおおお」
そんな木漏れ日が見える静かな森の奥地で、正反対な雄叫びを上げる少年、ゴオ・ダンの声が響いていた。
「頑張れ♡、頑張れ♡」
その傍らでは年甲斐もなく応援する魔女の家の家主、エリナ・ウィッチの姿。
「手からゴーって、ゴーって出すイメージ」
魔術の修行を始めると言い、かれこれ一時間経った。魔女エリナからは抽象的な指示しか出されずゴオは一時間も間抜けな姿を晒していた。
それに申し訳ないのだが、少し幼稚な応援に今の状況がバカらしくなってきていた。
エリナも初めはまじめに応援していたが、今はゴオの姿を楽しみだしていた。
「エリナさん!もっとはっきりとした訓練方法はないんですか?!呪文とか、書物とか!」
エリナはダンの言葉を聞き、訓練方法を提示するのではなく、手を合わせる。
返ってきた言葉は魔術に関する知識ではなかった。
「ごめーん!私こんな初級のもの教える機会なんて来るわけないと思って!それに呪文なんてとっくに忘れちゃった!」
「そんなぁ」
「ほら!魔術って実のところ大切なのはイメージだから!呪文なんて必要なのは初めだけで、出し方を憶えたらもう必要ないの!」
(魔術ってそんなおおざっぱで良いの?料理で慣れたら、計量しなくなるようなものなのだろうか?)
そんなことを考えながら両手を前に出し、踏ん張ることかれこれ一時間、これだけでもさすがに疲れたので両手を降ろした。
傍らで腰かけていた(土の魔術で製造した椅子に)エリナは立ち上がり、砂を払うとこちらに歩み寄る。彼女もどう教えたもんか頭を悩ませていた。
「ん~、やっぱり初めからイメージだけは難しいか」
顎に手を当てながら、方法はないかと考えるが、なかなか出てこないようだ。
そもそもゴオにはあれがどういう原理で出ているのかわからないので、出せと言われても困るだけであるわけだが。
「もっとないですか?なんか僕がイメージを感じやすい方法とか」
ゴオの進言を聞いてはっ!となり、何かを思い付いたのか指示を出す。
「ゴオ、ちょっと両手を前に出してくれる」
「?‥‥こうですか」
言われるがまま、再び両手を前に出す。するとエリナは背後に回り込む。
何をするつもりなのかわからず不安になったその時、肩の両サイドから手が伸びてきた。通過し手は、正面に伸びている手の甲に合わせられる。
慌ててその場から飛びのき、距離を取ろうとしたゴオだが、両側から抑え込まれてしまった。
「こ~ら、動かない!今から火、出すからね!感覚憶えて、イメージする!」
(そんなこと言われても集中できない!その…いろいろ当たってる!ていうかこの人!距離感が近い!寝るときだって…昨日はろくに眠れなかった!)
そんなゴオの気持ちとは裏腹にエリナは魔術を発動した。ゴオの掌に熱が発生し、火傷を恐れ意識がそちらに向く。見ると、そこには火の玉があった。
「わあぁ…」
「どう?」
「すごいです!」
「じゃなくて、イメージする!」
「ああ、はい」
注意されて、手先に意識を向ける。
彼女は魔術にはイメージが大事だと言った。であればこの他の内にあるものから何かしらの情報を取り入れなければならないのだ。
感覚的な物だろうが何でもいい。ゴオはとにかく手先に意識を向ける。
(うん、熱くて。それで…うん熱い!)
「熱いです!」
「う~ん、それだけかぁ。まあそうだよね…」
彼女は先ほどと同じ位置に戻り、何か別の案がないか考えた。
ゴオはふと、先ほど感じた感覚がもう一つあったことを思い出し、語る。
「あと、なんか火が出る前に流れ?みたいなのを感じました」
それを聞き、「それだよ!」とエリナが答えた。改めて先程の感覚を思い出し、魔術の発動を試みる。傍らではエリナさんが見守っている。
先程の流れと熱が手から手のひらの中に流れることをイメージする。
先程のお手本から産み出すことをイメージする。
初めはなにも起きなかったが何か掌から熱を感じた。これはいけると思い、続けると火の玉が出現しだした。
「やった!やりました、エリナさん!」
使えたことを喜び、師であるエリナに見せようと後方を振り返ろうとする。
「あ、まずい。ちょっと待って!」
「え」
途中で呼び止められたため、制止する。今向いている向きは道の続く前方ではなく、魔女の住居がある後方でもなく、豊かな自然広がる右方向だった。
ゴオオオオオオオオオオッ!
ゴオが呆気に取られているのもつかの間、魔の前で突然の自然破壊が巻き起こった。
「わああああああああ!」
発射される火炎放射、焼ける森林、響く絶叫。
師エリナに助けを求めるべく叫ぶ。
「どうしよう!エリナさん!これ、どうしよう!」
「お、落ち着いて!手からの流れを止めるイメージ、断ち切るイメージをして!」
言われた通りにする。すぐにでも子の惨劇を止めるべく行動に移す。流れを止める…、流れを断ち切る…。
だが一向に止まる気配はない。それが更にゴオを焦らせる。
「ダメです!止まりません!どうしよう!」
「え⁉ウソ⁉えっと…、じゃあ…ええっと…手を上にあげて!」
今度も指示に従う。今度はうまくいった。火球は供給源を失い、消滅した。
ゴオの前方にあった灯は徐々に弱り、掻き消えてくれた。
「よ、よかった…」
安心していると、ゴオを心配してエリナが近づく。
「大丈夫⁉手とか火傷してない⁉」
ダンの両手を掴み上げ、掌を確認する。皮膚には見たところ異常はないが、彼女はそれでも満足しないのか掴んだゴオの手をジッと見つめる。
「だ、大丈夫ですから!けがはないです…ん?」
恥ずかしくなり、顔を背けた。すると、何か異常を感じた。
(なんか明るくて、焦げ臭いような…)
夜ではないのだから周囲が明るいのは当たり前だ。でもそれにしても明るすぎる気がした。
ゴオは異常を感じた方向を向く。
パチパチ、メラメラ。
目の前では赤黒い景色があり、黒煙が立ちこみ、周囲の小動物は慌てふためくさまは何とも悲壮感を感じた。うん、まあようはあれです。
森林が燃えていた。
「わああああああああ!」
「だ、大丈夫!消すから!」
その後、エリナによって火事は収まったそうな。
ほんと、ごめんなさい。
◇ ◇ ◇
その後、ゴオは火炎の魔術のコントロールを行い、なんとか自身の意思で調整できるようになった。エリナ監修のもと火力が強すぎる毎にエリナの水の魔術を頭から被りながら。
案外早くに一つ目の魔術を覚えたものだから、エリナは次の魔術に取り掛かる。
(あいつが何かした?)
不自然すぎるほどうまくいきすぎるものだから、妙な勘ぐりを抱いてしまう。
自身が意識を戻す前に奴に身体をいじくられているのだ。まだ何かおかしなものをねじ込まれてもおかしくない。
そうして水と風の魔術を放ち終えたゴオを、エリナは次へと進ませる。
「風も水もいい感じね!じゃあ、次は岩なんかも出してみようか!」
教え子であるゴオ・ダンに師であるエリナ・ウィッチが次の魔術を伝授する。伝授と言っても初めに火を出した時と同じように密着して、出し方をフィーリングで覚えるというやり方を繰り返しているだけだが……。
エリナは今度も同じやり方でゴオに魔術を教えようとすると、ゴオがそれを制止する。
「ちょっと待ってください、これ別に後ろからじゃなくても正面から僕の手に触れてくれたら済むことじゃないんですか?」
「……」
「エリナさん?」
師である彼女は少しの間、思案しるとにこやかに笑い、そのまま続行する。
「ちょ、ちょっと!」
「まあ、いいじゃない♪いいじゃない♪」
「これ僕が落ち着かなくて嫌ですよ!」
「え~、私はこの方がいいな~」
「いや、でもッ!」
「…この子たち、ほっといても大丈夫かな?」
「急に話変えないでくれます⁉」
今現在、彼ら子弟は魔獣に囲まれていた。
西の四大聖獣が一角、獣王の眷属であり子である獣達に。
彼らは分離元である親と同じく誇り高く、その俊敏な肉体駆動を持って敵を屠る。
元来誇り高さから人には絶対懐かない。
誇り高いはずなのだが…。
『主!主!主の匂いがする!きっと主だ!』
『ねぇねぇ、主がメスに絡まれてるよ?守ったほうがいいかな?』
『いいんじゃね?主、見た目抵抗してるけど、心は喜んでるし』
『え?でもあいつ主のトラウマじゃん…』
誇り高い彼らは子弟の周りでくつろいでいた。
彼らは元々、一つの生命体だ。それが基盤となる親から分離したものが子である。なので彼らは自身の肉体的損傷と痛覚以外は連結した状態となっている。
だが今は親から子への感覚共有と思考共有は行われていない。
これは以前、子からの情報量が多すぎて煩わしく思った獣王が子から親への感覚共有と思考共有をカットしたからであり、今もその状態が継続されている。
(こいつら襲ってこないけど、本当に大丈夫かな?今のところ無害だからいいけど)
少し前に自身を襲った魔物と同種のものが近くにいて、気が気でなかったが、今の魔物のくつろいだ状態から猫を連想して落ち着いた。
それよりも今は背後にある重量の方が落ち着かない。
「自分は前からでも大丈夫ですから!」
「じゃあ、はじめるよ~」
「聞いてない!」
エリナはそのまま魔術を起動させる。手の甲から伝わる魔術の流れを背中のものに気を取られないように感じる。後は簡単だ、前に火や水、風をだした時と同じく、今の感覚を憶えたまま発現させるものをイメージする。
彼女が手本の岩を作り終えて、離れた後自分も魔術の発動を試みる。岩を生み出すことをイメージする。
彼女の言っていた通り、魔術はイメージが大事らしい。こんな簡単でいいのか魔術。
そんなことを考えているともう手のひらには岩が出現していた。
「うんうん、できてる!君、呑みこみ速いね!……この前は初めてだって言ってたけど、実はどこかで魔術を頻繁に見てた?」
「あ、…えーと。はい」
見てたかと言われれば見ていた。画面や本の中でだけど。
なのでどう答えたものか悩んだが、嘘は言っていないので肯定する。
ゴオの返答に納得しかけるエリナだが、疑問を憶えたようだ。
「ふーん、だからこんなに早く、いやそれでも…」
空気を読んで相手の意見に同調したのだが、それが余計に彼女を混乱させてしまったらしい。
その反応を不安に思ったゴオはエリナを呼び掛ける。
「……エリナさん?」
「ああ、ごめんね。じゃあ、今度は少し難しいのやろうか」
彼女は数歩前に歩き、「見ててねぇ~」と言うと両手を前に出す。
すると先ほど教えられた火と水、土と風が出現し、それぞれが円を描くように集まった。しかもただ集まるだけではない。各属性にきっちりと区分され、宙に四等分された魔術の塊が円状にできていた。
手本を見せ終えた彼女は魔術塊から手を放すと、霧散したり、地に落ちたりした。
「はい!やってみて!」
(エリナさん、これはさすがに出来ないです…)
一属性ならまだしも四つ同時には‥‥。
「・・・やってみます」
英劣思考には自信はないが、とりあえずやってみようと言う事で、両手を前に出し、ダメもとで魔術を発動させる。
当然成功するはずもなく、互いに反応し合った火と水は蒸発し、風は何処かへ飛び、土は地に落ちた。やはりすべてをコントロールするのは難しい。
「…やっぱりだめかぁ」
「難しいです」
先程までの出すだけのものと比べ、ある程度の操作を行わなければならない。
それもエリナは分かっているようで、初めは二つの属性だけにして慣らしていこうという事になった。
そしてゴオは魔術を発動させようとした時に、エリナは手を叩き、こちらの注意を引いた。
「まあ、日も登って来たからお昼にしようか!」
彼女の言葉通り、太陽は真上へと登っていた。もうそんなに時間が経ったのかと、ゴオを驚くと同時に、その昼時の知らせを聞いた時、ゴオはエリナに謝罪する。
「ごめんなさい。昨日もご馳走になってしまって、それに今も」
その言葉にエリナはなんてことはないと手を左右に振る。
「いいのいいの。…あ~、でもそう思うなら水を汲んで来てくれないかな?」
ゴオは当然断ることなく承諾し、エリナが差し出した桶を受け取る。
差しだされると同時に「あっちに行けば川があるから」と彼女が指し示した方角にまっすぐ進む。
吹き抜ける風を涼しく思いながらも、ここが人の寄り付かない場所であること実感する。
人声など聞こえない。耳に入るものは木の葉の擦れ音やこの森の動物たちの声。
この音色はなんとも眠気を誘う。
のんびりと歩みながら聞き入っていると脳裏に昨日の記憶が呼び起こされ、足早になる。
わざわざこのタイミングで思い出すことのなんといじらしいことか。
そこから少し進むと、川のせせらぎが聞こえた。目前にも水面透き通る景色が目に入った。
川辺に立ち寄り、膝を曲げ、桶に水を入れる。
熱を灯った両手でその冷たさに触れると、気持ちよさから力が抜ける。
少しその冷や水を弄んでいると、「頼まれた身で何をやっているんだ」と名残惜しくも立ち上がる。
「………」
その物体が目に入った時、ゴオは珍しく真面目なことを考えた自身に感謝する。
いち早くそれに気づけた幸運が自身の寿命を延ばした。
(……寿命じゃなくて日々か)
冷静に先程までの思考を訂正しながら、それを凝視する。
数分前からの再会なのだから当たり前で忘れるはずもないが、その容姿はよく知っている。
鋭利な牙、四つん這いである姿勢は膂力を感じさせ、警戒は怠っていない。
悲しいことにもう準備は万端なようだ、
これがさっきまでのだらしない姿だったのなら安心していただろう。
だが、目前の獣は目を血走らせ、その牙にはよだれが滴る。
(麻痺してきているな……)
自身がなぜこの危機的状況で焦らず立ち尽くせるのか。
その疑問は湧くことが無かった。
自身には授けられた異能がある。最悪でも自身の命は助かる。
だがそれは同時に問題でもあるのだ。
加えて昨日の経験。あの巨大な獣に内臓を食まれたのだから、この程度では物足りなくなったのか。
自己を解明している内に、その魔獣は目前の獲物に飛びついた。
ゴオは間違いなくそれを視認しているし、避けることも可能だ。
だがそれも一度のみだ。
生前ろくな戦闘経験もなければ、運動経験もない。
なので自身に出来ることはただ飛ぶこと。ゴオは転げながら飛び退く。
真横すれすれで毛むくじゃらのそいつが通過する。獣の牙も爪も、ゴオに当たることはなかった。
「あ………」
ゴオはそこで気付く。もうこの日々に終わりが訪れたことを。
目前の獣は追撃の態勢に入っており、後は飛びつくだけだ。
そしてそれを獣は実行した。その赤色の口内が徐々に自身の顔に迫る。
並ぶ牙は研ぎ澄まされた刃のように煌めき、その分厚い顎は確実にこちらの肉を抉るだろう。
獣にとってはもう簡単だ。地に這う人間を捕食するだけ。だが死ぬのはおそらくこの獣だ。
その傷は確実に自身の異能を呼び起こし、この獣を養分とする。
(なんで……なんでなんだよ……)
ゴオはこの日々が終わってしまうことに嘆いているのではない。
あの恩人とすぐに別れなかった自分を責めていたのだ。
数秒後には、そのこれから背負うであろう後悔は現実に浮上する。
ゴオは、せめてその現実は見たくないと瞳を閉じた。
だが、まだ終わらなかった。諦念によって閉じた瞳の裏側の恩人の顔が浮かぶ。
同時にまだ諦めるわけにはいかないと自身を鼓舞する。
少年は思い出した。自分は何のために彼女から技を授かり、何のために生きたいと願ったのか。
もう目と鼻の先まで迫った獣に手をかざす。
放つのは先程身に付けた火炎
一切の加減も、容赦もいらない。でなければ大事なものを失ってしまう。
そうして獣は少年によって倒された。
「……あああ、…………あああ」
少年は日々を守ったのだ。
「……はは」
恩人を殺めることなく。
「あっはははは、あはは」
後悔を抱くこと、最悪の結末は避けられた。だが……。
「そうか……ぼくはもう……」
少年は自身の肩口を凝視し、頭を抱える。
そこには異形があった。
◇ ◇ ◇
『自分可愛さに誇りを捨てた駄獣が、貴様なんぞ取り込む価値もない。そこで死骸を晒していろ』
少年の肩口の異形、そこより産まれた新たな魔獣は倒れ伏す敵に軽蔑の視線を向ける。
異形の脈動より生まれ落ちた新たな命は、少年に襲い掛かる獣を爪で切り裂き、その牙で掴んだ首を地面に叩きつけたのだ。
「そうか……ぼくはもう……」
少年は動揺からその身体を横たえようとしたが、自身が生み出した獣が彼を支える。
獣自身、主の変化に驚きはなかった。
この種族の感覚共有。
子からの接続はカットされているが、親から発せられる信号は遮断されていない。
つまり、この獣は少年が何を想い、何を考えているのか理解できているのだ、
少年は獣の接近に慌てなかった。
それは異形から出現する瞬間を目撃し、自身を助けてくれたからだ。なにより雰囲気が違う。
少年は自身の肩、そこで徐々に腕へとしぼんでいく異形を、最後まで睨む。
そうして異形はすべて、自身の内に収まった。
支えとなった獣に感謝しつつ、立ち上がったゴオは、今後の身の振り方について考える。
おそらく生きていくだけならば、問題はないのだ。
この呪いがあれば死ぬことはない。だが人間社会で生きていくことは難しい。
なにより、今脳裏を過る結末だけは回避しなければならない。
「ゴオ?」
草木を掻き分けて現れた人物に、少年は動揺を隠せなかった。
少年は自身の優柔不断さを呪う。こんなにも行動が遅いから、執着してしまったから、またも機会を逃した。
エリナはその場を見渡す。血を流し、倒れ伏す獣と、主の傍らで座り込む獣。
その惨状でだいたいの状況を理解したのだろう。
「……行きましょう」
そう言って少年に手を延ばすエリナ、だがゴオはそれを掴んではいけないと理性が躊躇う。
当たり前、むしろこちらから彼女を拒絶すべきだ。
それをしないのは自信の無さを、先行き不透明な自分の人生への不安。
しかし、そんなことは関係ない。
如何に自分に自信がないとはいえ、やらなければならない。でなければこれ以上の惨状を自分の手で生み出してしまう。
論理的に考えて、これから危害を加えるかもしれない未来に向かうわけがない。
覚悟を決めた少年は、目の前の恩人に先に戻っているように告げようとした時、その言葉は背後からの衝撃で遮られた。
エリナによりかかったゴオは彼女に支えられながらも振り返る。
そこには地面に座り込む獣がいた。
「…………」
獣は黙ったままこちらを見ているだけ。
先程その足で主を押し込んだことが嘘であるかのように。
「帰ろ」
エリナは胸の内にいるゴオに優し気に告げる。
「‥‥‥‥はい」
ゴオは、少し自分が嫌いになった。
◇ ◇ ◇
「あなたは来ないの?」
ゴオを連れて戻ろうとしたエリナは、背後で座り込む獣に問いかける。
数刻前に広場でくつろいでいた獣と同種の獣。
エリナは、その獣がゴオを助けたことを知っていた。
なぜ?どうしてこの少年を助ける?その疑問は拭えない。
理由は分からないが、こことあちらにいる獣はゴオに敵対しない。
だが正直エリナにとってはそんなことどうでも良かった。
重要であることは、彼らがゴオに危害を加えないことだ。
「…………」
対する獣はただ座り込み、こちらを凝視するだけ。歩み寄る様子はない。
「……そう」
ついてくることが無いと知ったエリナは、向き直り家に戻る。
その遠ざかる背中を、獣は視界から消えるまでジッと見つめ続けていた。
そして、その場から彼女達が消えた。
見送った獣はそれを合図に立ち上がり、彼らとは反対の方角にその頭を向けた。
繰り返すことになるが、この獣は四大聖獣が一角、獣王の子だ。
なので主であるゴオが何を考え、何をしようとしているのか容易に理解できた。
あの時、ゴオは確かにエリナと共にいたいと願っていた。
しかしあの行動は、食べたいときに食べ、寝たいときに寝る、決してそんな直情的な獣の性ではない。
彼らはただの動物ではない。
主を持ち、忠誠心を持つ、知識ある獣なのだ。
だから少年がエリナから離れるべきと考えたことを理解できたのだ。
しかしこの獣は全てをわかったうえで、それでもそうすべき、と主の背中を押したのだ。
獣は走り出す。
頬にぶつかる風、耳に入る風切り音。
その疾走に獣は自然と口角を上げる。
獣王、主を失い、単独で行動した。あの三首の獣を打ち倒すために。
しかし、三首の獣はあの少年によって屠られた。
彼は無力な自身の代わりに獣王の誇りを守ってくれたのだ。
その恩義に報いるために、新たな主の肉体に戻った獣は、彼を主と認めることに抵抗はなかった。
呼吸が荒れる。疲労からではない。昂る感情から興奮を抑えられないからだ。
失って気付いた。主を戴き、忠を尽くせる、それのなんと幸福なことか。
主の背を見た時、獣は自身の使命を理解したのだ。
主の平穏、その障害となる敵をこの森林から滅するために。
変質し、最新の獣王の子となった獣は地を駆ける。
◇ ◇ ◇
昼食を終え、魔術の習得を再開したゴオは、エリナ指導の下、着実に上達していた。
四つの属性を同時には無理だったので、二つの属性の同時使用を試みたゴオは、時間はかかったが、なんとか火と水の同時使用に成功した。
彼の目の前では、円状で真ん中を仕切りにしたように調和を保った火と水があった。
「今日はもう遅いし、ここまでにしようか」
「はい、そうですね」
二人の子弟の様子とゴオからの思考共有で、彼らの帰宅を感じ取った獣達はくつろぐのをやめ、体を起こす。
『主!主!主の匂い!』
『主帰るって、僕たちも巣に帰ろ~』
『じゃね、主。起きたらまた出るよ』
獣の軍隊が帰る姿に一瞬驚きはしたが、ゴオはエリナの後を追い、室内に入る。
エリナは室内の明かりを灯し、
「あ~、久しぶりにあんな魔術使ったなぁ。疲れたし、お風呂入りたい!」
「…お風呂ってあるんです?」
先に室内に入っていたエリナは体を伸ばし、聞きなれた単語を口にした。
それがゴオの想像しているモノとは違い、こちら独自のモノであるなら話は別だが、おそらく状況的に間違いない。
ゴオの疑問に当然とばかり、逆になぜそんな質問をするのかと首を傾げながら答える。
「?あるよ?」
「え?でも、どこに?」
見渡せども今自分達がいるキッチン兼ダイニングと別室の寝室しかない。
外観を想像するが、そう考えても風呂場が設置してあるスペースは考えられない。
もしかしたらドラム缶風呂のように外で入るのかと想像した時だった。
彼女もゴオの疑問が分かったようだ。
「ああ、それはね。えいっ!」
彼女は床下に手をかざすと、床板がズズズと動き出し、階下へ続く階段が出てきた。
うわぁ、魔法使いっぽい。
エリナを魔女と再認識したゴオを、階段に足を踏み入れた彼女は呼ぶ。
「こっちこっち」
手招きされついていく。それなりに手入れされた地下通路だ。階段を下りていき、彼女はとある一室の前に止まり、扉を開ける。そこに入ったエリナに続き、ゴオも入る。
そこには大きな桶があった。風呂とはこれのことだろう。
「じゃあ、お湯入れるから…いや訓練がてらゴオがやろうか」
彼女の指示に従い、桶の前に来る。
「まずは左手で水を出して、水の中に右手を入れて火を出してね。火は強くなくていい、蒸発しちゃうからね」
指示通り魔術を使う。桶に水を入れ、右手を差し込む。初めは火の調節を間違えて、火傷しそうになった。だが微調整を繰り返し、いい具合の温度になったところで新たな水を出す。
それを続けると桶にお湯が貯まった、なんとか達成できて息を吐く。
「それじゃあ、エリナさんは先にどうぞ。僕は後で頂きます」
家主より先に入るのは気が引けたので、出口に向かうゴオ。
だがその肩に手がかかり、彼を引き留める。
その手を辿り、その手の人物(この場には一人しかいないので当たり前だが)を見る。
そこにはゴオの言葉を受けて、彼女は不思議そうな顔をして首を傾げるエリナの姿が。
「?何言ってるの?あなたも一緒に入るのよ?」
「は?」
この人がなにを言ってるんだ?
あまりにも支離滅裂なことを言われたものだから、間抜けな声を上げてしまった。
普通風呂は一人で入るものだろう?混浴でもなければ、戦闘でもない。ましてや彼女とは年の近い親戚でもなければ、幼馴染でもない。
なにより道徳的にもいただけない。
「いや、それはまずいですよ!」
「大丈夫よ!ほら、脱いだ脱いだ」
裾を掴まれ、衣服を脱がされ始めるゴオ。彼は服を掴み、必死にそれに抗う。
「いやいやいやいやいやいや」
「いや♪いや♪いや♪いや♪」
抵抗を試みたが、無理やり脱がされてしまった。ほんとにこんな細い腕のどこにこんな力があるんだ?
◇ ◇ ◇
「・・・・・」
「ごめんって、ふざけすぎたから」
色々洗われた後、地上の室内に戻り、ゴオは椅子に座って不貞腐れていた。
テーブルの上には先程まで食事(エリナに作ってもらった)が入っていた皿が。今は食事を済ませたところだ。
「ねぇえぇ~」
ゴオが不貞腐れている原因の彼女は背後で自分の頭の上に顎を乗せ、ぐりぐりしていた。
ほんとに悪いと思ってる?煽ってない?
「僕も一様、男なんですエリナさん」
「うん」
「だから異性に…その…いろいろと見られるのは恥ずかしいんです」
「うんうん」
「別にエリナさんのことを棚に上げるわけではないんです。あなたもでしょうし」
「うんうんうん」
まあぶっちゃけ屈辱的だったのは、女性に力で負けたことなのだが、この際同じことだ。
「………今度からは一人で入りますね」
「え?ダメよ。あなたは私と一緒に入るの」
「話聞いてましたかね⁉」
そんな自分の進言に対する彼女は笑うばかり。
嘘だろ、無敵か?今笑う要素あったか?
「もお~、怒っちゃって可愛い。あ~も~、最っ高~」
彼女は自分を胸に抱きよせ、体を揺らす。
自分でも
「ふ、ふざけないでください!…エリナさん?」
「……」
突然背後の人物の動きが止める。その身体の体重すべてがゴオにのしかかる。
彼女の体はまるで支えを失ったように自分から床にずれ落ち始めたのだ。
「……エリナさん⁉」
何が起きたのか理解できずに固まっていたが、現状に気づき声を上げる。
(一体何があったんだ?!こんなまるでいきなり電源が落ちたように…)
彼女の容態を確認するため口周りと首元に手を当てる。
息はしている。脈拍もある。
にわか知識を当てにするのも不安が残るが、とりあえず目の前の彼女がまだ生存していることに息を吐く。
(よかったぁ、生きてる…)
でも一体どうして、さっきまで普通だったのに…。
原因はわからない。だがこのままにしておくわけにもいかない。
なるべくまずい所は見たり、触れたりしないように肩で抱える。
幸運なことにベッドのある別室は目の前だ。そこまで運んで寝かせよう。
さすがに女性といえども自分よりも大きな人間を運ぶには苦労したが、何とかベッドまで運んで寝かせることが出来た。
窓の外は暗く、寝室には月光が差し込むのみ。外から聞こえる虫の音は、平時であれば非常に眠気を誘うのだろうが、今は異常事態だ。
しかし、ゴオは医学知識もない一般市民だ。出来ることなど今終わった。
やることもないので自分も睡眠をとることにした。
さすがにこの人と同じベッドでは寝ない。仕方ないが床で寝よう。
キッチン兼ダイニングのランプを消しに行く。改めて魔女でも日用品を使うのだなと思った。
明かりが欲しいなら消えぬ炎塊を出して、水が欲しいなら地面から湧き上がらせればいいのに。
指先に水を保持して、ランプの中の火に当てる。この作業をすべてのランプに行って光源を消した。
さすがに女生と同じ空間で寝るのは抵抗があったのでその場で横になる。
やはり床は固く、しっかりと寝られるだろうか、と心配になる。まあ寝られたとしても翌日は大変なことになりそうだが仕方ない。腕を頭の下に回し、動きを止める。
そうすれば自然と眠気が…眠気が…。
身体を起こす。寝室の状態を確認する。エリナは寝ていた。大丈夫、生きてる。
元の場所に横になる。眠気を誘う。
身体を起こす。寝室の状態を確認する。エリナは寝ていた。大丈夫、生きてる。
元の場所に横になる。眠気を誘う。
身体を起こす。寝室の状態を確認する。エリナは寝ていた。大丈夫、生きてる。
元の場所に横になる。眠気を誘う。
(……………‥‥‥‥)
ダメだ、眠れそうにない、と体を起こす。隣室の彼女が気になって仕方ない。
どうしたものか……。