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1.3 すがりつく救いの手、逆さまの選択

大森林、奥地———


「はあ、はあ、はあ———」

 そこに異形の紛い物があった。人と怪物の境界、人ではなく怪物でもない。

 それに目的地はなく、ただただ走るのみ。逃げるように、隠れるように走り続ける。

 驚くことにその異形は徐々に人間になりつつあった。身体の端々にある黒いヘドロのようなものが身体を揺らすごとに零れ落ちていた。

 それは先程まで鉱山都市と呼ばれる街、人界を強襲した者の正体。

 怪物であった頃の肉体駆動は起こせず、逃走速度はみるみる落ちていた。

「あ、ぐう———」

 万全であった頃の身体能力はもはや見る影もなく、躓き転ぶ人間。

 少年は人間に戻ったことによって怪物時に受けたダメージが呼び起こされる。

「ガッ、ガハッ!」

 口からは血が零れ、もはや虫の息だ。少年の腹部には矢が刺さっていた。

 最後に受けた一撃。そこで納得できた。

 怪物である自分が逃走した理由、怪物であった頃の自分は本体である自分に危険が及んだため逃走を開始したのだ。

「だれへぁ、たすけ———」

 少年は助けを求めるが、そこは森の奥地。人が通らぬ未開の地。人間がいるはずがない。

 瀕死の人間はそれを理解する。

(ああ、いやだ。こんな終わり方。僕は‥‥僕はまだそれを見ていないのに)

 人間は心の中で悔いる。夢を達成できない、望みを叶えることができない。与えられたものと言えば、発動条件が外傷を受けることの異能とここまで来るのに感じた痛みだけ。

 しかもその異能まで発動するとひどい目にあうと来た。

(僕はただ‥‥幸せになりたかっただけなのに)

 生前の世界はそうではなかった。だが死後の、この世界ならもしかしたらと考えた。だが、実際に感じたものは苦痛だけ。幸せなどどこにもなかった。

(僕は幸せになれないのか‥‥何度生き返ろうとこうなるのか‥‥)

 少年は生に絶望する。このような苦痛を、精神への傷を、生きている限り与えられる。

 それは良い、生きているなら当然のことである。だけど、その対価として幸せにすらなれないのなら自分の生きている意味は‥‥。

 少年は生きることを諦めようとする。だが心のどこかでまだと、もしかしたらと、夢想する。絶望はしている、しかし同時に希望を夢見る。

 するとその望みが叶ったのか目の前に救いの手が、自分以外の人間が現れる。

 おぼろげな意識のなかで、重りと化した身体を動かす。だが身体はもう限界だ。なんとか動くことのできる手を伸ばす。だがそれだけの行動で自分の意識はそこで途絶えた。



                  ◇ ◇ ◇



 グツ、グツ、グツ———

 なんの音だろうか‥‥。

 人間は付近に生じた物音で意識を覚醒する。自身を包む暖かさによって再度微睡みに身を投げようとしたが、周囲の状況が不明であるという不安が彼を引き戻す。

 重い瞼を持ち上げる。目線だけで周囲を確認する。

 木製で出来た天井、壁。自分は室内にいるようだ。目測であるがあまり大きな建物ではない。窓の外を見ると木々の幹が見えることからあまり高所の場所でないこともわかる。

 音がする方に目を向ける。だがそこは壁に阻まれ一部分しか見えない。

 吹き抜けの部分から臭いが流れ込む。その香りは鼻孔をくすぐり、空腹感を掻き立てる。

 こちらの世界に来てからまだ何も腹に入れてなかった。

 その音によって、家中の者に気づかれるのではと考え、慌てるが腹の音で気づかれるはずがないと落ち着く。

 隔てりから頭を出し、壁の向こうに目を向ける。

 そこには後ろ姿だけであるが、一人の女性が立っていた。黒い装束に長い黒髪、その長い黒髪は一本一本がさらさらとしており、まるで絹細工であるようにきれいだった。

 おそらく女性だろう。これで振り返った実は男でした、なんてトラウマになってしまう。女性であってくれ。僕はそっちの人ではない。

 その人物の前には鍋がひとつ。臭いはおそらくそこから発生しているのだろう。

 この状況、向こうの世界で経験がある。正確には見たことがあるが正しいが、こういう森の奥地にある家は魔術師、魔女、怪物の家というのが定番だ。

 そしてそれらの可能性を持つ彼女の目の前にある鍋、想像するにあの中には恐ろしく、そしてドロドロな紫色の液体が入っているに違いない。

 童話でもよくある話だ。

 森の奥地で、女性がたった一人で、人目を避け、何かをしている。

 誰もわざわざ悪事を人前ではしないという当然の思考が少年に駆け巡る。

 その可能性に少年はこの場から逃げ出したくなった。

 だが焦ってはいけない。この状況で焦った人々(物語の中)は例外なく餌食となっていったのだ。いくら周りが普通の民家に見える家だからって油断はできない。外側は取り繕っても、地下には恐ろしい工房、壁の中に危険な罠があるのも定番だ。ここは相手の反応を見て冷静に行動しなければ。

 すると目の前の家主はこちらに振り返ることもなく声を掛ける。

「‥‥そんなところで隠れてないで出てきなさい。バレバレよ」

 もう作戦が失敗してしまった。この家のお尋ね者はおとなしく姿を現す。この状況で隠れ続けて良い目に合うとも思えなかったからだ。

「ちょうどよかった。お腹空いてるでしょう?さっきお腹もなってたし!」

 さっきの腹の音までばれていたらしい。この家主は相当な使い手のようだ。決して僕の腹の音がでかすぎたわけではない、そのはずだ。

 それよりも、それよりもだ。

「‥‥‥‥‥‥」

 僕はその家の振り返った家の主を正面から見据え、言葉を失った。

 


 彼女は男だった———





















 ————ではなく。

 彼女が男だったからでもなく、醜悪な姿をしていたからでもない。その逆だ、彼女の姿はあまりにも美しく、その姿に目を奪われ、言葉を失ってしまったのだ。

 端正に整った目鼻立ち、とてもきれいで済んだ色をしたガラス細工のような青い瞳、見る者を魅了する佇まい。そのすべてにおいて完成された個体であると豪語するような艶やかな美しさに少年は呼吸も忘れ、見つめていた。

「ほら、こっち来なさい!ほらほら!」

 室内の中央にあったテーブルの椅子の縁を持ち、引き寄せる。そこに座るように縁を叩く。たったそれだけの動作だけで、もう少年は彼女に心を奪われていた。

 そうなってしまえば逆らうことも、これが罠だと考えることもできない。自然とその考えを忌避してしまう。

 テーブルには先程彼女が皿によそった鍋の中の物が。彼女に魅了された少年は言われるままにそこに歩き出し、座る。

「はい!どうぞ!食べて食べて!」

 目の前にあるものを見て、その匂いが空腹感を掻き立てる。そこには湯気が立ち込める白いスープと、バケットに添えられたパンがあった。

 白いスープにスプーンを差し込む。スープにはとろみがあり、ある程度の重力感が手に伝わってくる。どうやらシチューのようだ。

 状況もわからず、彼女が笑顔と両手で指し示すものだから、すくいあげたものを口に運ぶ。すると口の中にまろやかな味わい、旨味が広がった。

 口内から脳へ、そして身体へとその温かさが広がる。その旨味が、その温かさが次から次へと体中に押し寄せ、憑りつかれたようにスプーンを持つ手を動かす。

 今度はシチューのなかにあった具材を口に放り込む。それはまるでシチューに呼応したかのようにその旨さを引き出す。

「そんなに慌てないの、逃げたりしないから」

 そんなことを言われてもおいしいのだから止まらない。たちまち皿にはすくえるほどのシチューはなくなった。僕はまだ足りないのかバケットの中にあるパンを持ち、皿に残った微量のシチューを残さず食べるためにかすめ取る。

 それを口に運ぶとパンとシチューの絶妙なマッチに唾液が口の中で溢れかえる。シチューは微量であるにも関わらず旨味を損なわず、パンは空腹への満足感を与える。

 ある程度満足したところで我に返る。

 さすがにこれは意地汚かったと思い、不安になって家主に目を向ける。だが家主は軽蔑するでも引くでもなく、にこやかに佇んでいた。

「良かった~。味に確信がなかったのだけど、そんなに一生懸命食べてくれてうれしいわ!」

 どうやら不快に思っている様子はない。むしろ喜びすら感じられる。

経験はないが、料理を作った人間はこの意地汚い光景を見て喜ぶものなのだろうか。

 皿もバケットも空になり、夢中になるものは腹に収まった。満腹感が心地よい眠気を誘う。今眠れば最上の安眠を貪ることができるが、それはできない。僕はここがどこかも知らない。目の前の家の主によそよそしく尋ねる。

「あ‥‥あの、ここは?」

「ん?」

「僕は…倒れていたはずじゃ…!」

 自分から出てきた言葉で思い出す。

(そうだ!僕は傷を負って、そして…)

 少年は最後に見た光景を思い出す。傷を負った自分は朦朧とする意識の中で助けを求めた。そこには誰かがいたはずだ。自分はその者に手を伸ばした。

「もしかして、あなたが‥‥うっ!」

 腹部に生じた痛みに顔を歪める。そうだ、そうだった。僕は傷を負ったから倒れたのだ。体を座ったまま横に向け、そこに視線を向けると手当されたのか血が滲んだ包帯が巻かれていた。

「傷が開いちゃった?ごめんね!…おかしいわね?ちゃんと治癒は掛けたはずなんだけど…」

 家主は少年の正面に回ると、しゃがみこんだ。

 いきなり目の前で美女が現れるものだから、心臓の鼓動が速くなり、息を顰める。

 彼女は少年の腹部に手をかざす。すると手から黄緑色の光が出現した。光はとても暖かくとても安心した。そして少し待つと痛みはたちまち引いた。

 彼女は満足そうに腰に手を当て、胸を張る。その動作が可憐であったため、またも視線を奪われる。

「よしっ!これでもう大丈夫!」

 少年は彼女を見て先ほどまで考えていた自身の考えが核心に変わる。

 もはやこの目の前の美女が敵であるかもしれないという可能性はなくなっていた。

 少年は、自分を治療してくれたのだから、そう違いないと考える。

「あの…ありがとうございます。僕を助けてくれたんですね」

「ええ、いきなり出てきて倒れたんだから。ビックリしちゃった」

 彼女は間を置かず答える。やはりそうだったか‥‥。

 そして彼女の行動とその手で起こした軌跡で、ある推測が浮かぶ。

(森の奥地で人間には起こせない軌跡を行う…定番だけど…)

 その推測の成否を知るために彼女にまたしても問う。

「‥‥あなたは…魔女?ですか?」

 生前、子供の頃に見た子供向けの映画を思い出し、その推測に至った。

 この言葉を受け、仮称魔女は表情を変える。その顔には先程のやさしさなど微塵もない。冷酷な、残酷な、恐ろしくもやはり美しい表情に変わる。

「…そう、やっぱりあなたもなのね。私も過去に縋って…らしくないことをしたわ」

 彼女は立ち上がり、少年の顔に手をかざす。

「私を魔術師ではなく魔女と呼ぶということは、あなたも奪いに来たのね。それとも近づけば勝ち目があるとでも思った?ならそれは無駄よ」

 彼女の雰囲気が変わったことに驚く。少年は、何かは分からないが、彼女の逆鱗に触れてしまったことを理解した。

 そのことに慌てて自身の潔白を証明するためにこれまでの経緯を正直に話そうとするが、一度口をつぐんだ。

(だけど…それで本当に助かるのか?…いや、悩んでいてもしょうがない!)

「ち、違います!僕は何も知らない!僕はただ死んで……それから神に生まれ変わらせてもらって…」

 両手を前に突き出し、彼女を止めるように促す。一方彼女は少年の話を聞き、怪訝な顔をする。

(だ、大丈夫かな?まあ誰だってこんな話をされたらこうなるか。僕だってこんな話されたら信じるわけがない!…ああ、でもどうしよう⁉手からなんか出てるし、鼻が火傷しそうだ!)

 彼女の手から放出されかけている熱量によって焦りが生じる。

(今から別の言い訳を考えるか?…だめだ!そんなこと今すぐになんて思いつかない!)

 焦りが冷静な判断を阻害する。思考できないため無意識下に出る言葉を並べる。

「それで森の奥地に飛ばされて、それでけ‥‥もの‥‥に」

 彼は自身の言葉で気付いた。獣に連れ去られ、三首の獣に捕食されかけて、それで…。

「そ‥‥うだ、僕は‥‥‥怪物に」

 途切れに途切れに言葉を吐く。憶測だが自身は外傷を受けたことによって暴走する。もしも今ここで彼女の攻撃を受けて、傷を負ってしまえば…‥。

 少年は最悪な予測をして、か細い悲鳴を上げる。もしも自分が怪物になって彼女を傷つけてしまえばと。制御の利かない身体に姿を変え、人間の姿に戻った時、彼女が自分の足元に転がっていたら…。

 そこからの彼の行動は早かった。即座に扉に向かい、室外に出るべく走り出す。見たところこの建物もあまり大きくはない。なにより扉はすぐそこに見えていた。

「ちょ、ちょっとあなた、待って!……うっ!」

 苦悶の声が聞こえた。心配になったが、自分が彼女の近くにいること自体が不安だ。

 外に出て、目的地もなくまた遠くに逃げる。しかし心の片隅に先ほどの彼女が発した声がこだまする。

(ダメだ!振り返ってはいけない!逃げろ!逃げるんだ!取り返しのつかないことになる前に!どこか!遠くへ!)

 しかし逃亡者の決意は弱く。一瞬閉じかけていた扉に目を向けてしまった。

 そこには…。

 何もなかったのだ。

 先程までの彼女はいない。

 その代わりに視界の下方にある手が一つ。

 振り返るのをやめて前を向く。今見た状況を察するに彼女は追ってこない。今のうちに早くここからはなれなければ。

「はあ、はあ、はあ」

 今いた建物を離れる。

(ごめんなさい!ごめんなさい!)

 心の中で謝罪する。それは自分を助けてくれた彼女に、見ず知らずの自分に手を差し伸べてくれた彼女に、この世界で自分に初めて暖かさをくれた彼女に…。

 いやだからこそ少年は自身があの場に居てはいけないことを決意する。

 息が苦しい。

 だが止まらない。

 生前に運動なんてものはしてこなかったせいかすぐに息が切れる。

 だが止まらない。

 なりふり構わず薄汚い咳を吐く、呼吸が苦しい。 

 だが止まらない。

 愚者は逃れるように森の奥地を駆ける。



                  ◇ ◇ ◇



「はあ、はあはあ。ゲホッゴホ!」

 薄汚く咳をしながら愚者は立ち止まった。今までこれほど走ってきたことが無く、息も絶え絶えだ。

「はあ———、ここまで来れば」

 森の奥地で尻もちをつき、呼吸を整える。

「…これで良かったんだ、これで」

 呼吸と自身の気持ちを落ち着かせ、自分の行いを肯定する。あのままでは僕はもちろん相手も傷ついてしまったかもしれないんだ。これが正しい選択だ。

 そう自分に言い聞かせる。他に選択肢などなかったのだと。

「うううううう」

 周囲に誰もおらず今のこの状況に嫌気がさす。ここに来てから良いことなんて一つもない。手に入れたものは苦痛と悲しさばかり。

 僕はただ幸せが欲しかったのだ。生前たくさん苦しんできた。だからせめて異世界では幸福になりたい。幸福になれると希望を持った。

 だが現在の少年はそんな言葉とは真逆の状況にあった。こんな幸せとは程遠い異能まで与えられてだ。

「ぐうぅうぅぅう」

 歯を食いしばる。周囲にあの狼がいるかもしれないという懸念を抱く余裕も彼にはなかった。少年は苦悶の声をあげる。

(もう嫌だ…こんな目に合うなら異世界になんて来たくなかった!)

 確かに向こうの世界で読んだ本では、序盤に主人公が最悪な状況に陥ることもあった。主人公の意思や強さの裏付けにもなる大切な過程だ。だけど読むのと実際に体験するのでは訳が違う。こんなもので強くなれるのであれば誰も苦労しない。こんな苦痛で強さを手に入れるなんて無理だ。

 異世界からの来訪者は悲しみの声を上げる。

 すると、微かな物音が聞こえた。

「⁉」

 先程の獣か、と考え息をひそめる。だが物音がした方向からは何もない。

 恐怖はあったが確認することにした。近づいてみると、人間の話し声が聞こえてきた。

「——————だぜ」

「———殺———ろ」

「生け——————」

 向かう足を速めるが、本来は人が通りことを想定されていない森の中だ。だが歩きづらくはあるが、着実に近づいてはいる。

 そして声は完全に聞こえた。

「いや、絶対に殺した方が良いだろ?」

 その言葉を聞き、声を求めた者は慌てて木々の裏に姿を隠した。

 少年の起こしてしまった間違いは、その時に物音を立ててしまった。

「‥‥おい、向こうになんかいるぞ」

 両手で口を塞ぐ、意味もなく身体を最小限縮める。

 少年の気と肉体とは反比例したかのように、殺伐とした言葉を吐いた人間の声が大きく聞こえた。

「人間だったら殺すけど、問題ないよな!鉱山都市の衛士かもしれねぇし!」

 その言葉を聞き、身体が震えだす。絶対に見つかってはいけないことも明らかになった。

 数の不利は理解している。一瞬ではあったが彼らは三人組であった。最悪能力で自分は生き残れるが、あんな状態になるのは二度と御免だったので身を隠す。

 すると仲間の一人が話し出す。

「こんな森の奥地に鉱山都市の衛士がいるはずがない、理由もないだろう。我々だってここまで来るのに苦労した。小動物の類だろう。それか獣王の子だ。まあ子なんて我々には問題ないがな。行くぞ、早く目的地を目指す。秘宝を何としても我々が手に入れなければ」

「なんだよ、ケチ臭いこと言うなよ、先輩!魔女と戦う前の準備運動だっつの!」

「……お前はもう少し目の前のことに集中しろ。余計なことをするな。そんなだから弟に先をいかれるんだぞ」

 その言葉に口調の軽薄な男の動きが止める。表情も先程の剽軽としたものではなくなっていた。

「てめぇ、なんつった?俺があいつより下だって?あんな革命派に寝返った雑魚と?ハハッハァ!……冗談でも殺すぞ?先輩」

 そんな言葉と殺気を孕む視線を浴びせられた先輩と呼ばれた男に動揺は見られない。冷静に激情した彼と向き合い、言葉を放つ。

「事実を言ったまでだ。貴様は少し遊びに傾く気がある。レクス坊を少しは見習うんだな」

「ふざけんな!俺はあいつより上だ!まだそんなことほざくんなら顔の皮を剥いでやる!」

 その怒りと共に仲間へと斬りかかる。いつの間にか彼の手にはナイフが握られていた。

 そんな突然の見方からの攻撃にも先達の男は冷静に対処した。

 素早く腰の剣を剥き放った先達の男はナイフを受け止める。

 少しの間、剣とナイフが震え、拮抗したが、先達の男が剣を振り切り、怒りに呑まれた男を後退させる。

「人員を減らすわけにはいかない。お前にも働いてもらう。余計な手間を取らせるな、行くぞ」

「……へーい」

 一先ずは脅威が去ったことに安心する。

 改めて自分の運のなさを痛感する。そしてやはり自分は幸福になれないと理解してしまった。

 しかし、一つ気になることがあった。彼らが向かった方向、それは先ほど少年が逃げてきた方向だった。

「…‥‥‥‥」

 彼らの仲間のうちの一人が言った発言、加えてあの家で最後に自分が見た光景が繋がる。

 よくある、夢のある話だ。森の奥地にお宝があり、それを盗む賊軍。

 良くある構図だ。お宝は大体、洞窟の奥地にあったり、竜が巣を作った場所、そして自分が先程いたような魔女の住居だったり。

 賊軍にとっては今が好機だろう。なんせあの家の主は今、床に横たわっているはずだ。お宝を盗む絶好のチャンスだ。

「‥‥‥‥‥」

 脳内にある不安が残る。あの賊軍は殺すと言った。もしもあいつらの持つ凶器が自身を救ってくれたあの人に危害を加え…‥。

「いや、もう無関係だ。無関係であるべきだ。あの人がたとえ‥‥」

 その先の言葉に詰まる。艶やかな黒髪が、あのどんな宝石にも勝る綺麗な瞳が、少しの間であったが僕に向けてくれたあの笑顔が、もしも‥‥‥。

 その場を右往左往する。喩え助けに向かったとしても奴らに殺されるだけかもしれない。それにせっかく生まれ変わらせてもらった命だ。無駄にはできない。今度死ねば、どうなるかわからない。

 だけど‥‥‥。

「クソ!…単純すぎるだろ!僕は!」

 助けてもらっただけで、一時の安寧を過ごしただけで、あのどんな女性よりも美しい姿に目を奪われただけで…‥。

 これはあれだ。そうあれだ。

 目を覆い、自分の愚かさを妬む。

 だが今更同じこと、彼が愚者であることは変わらない。愚者は愚者であるがゆえに実に愚かで数奇な行動をとる。

「行かないと‥‥」

 愚者は賊の後を追う。



                  ◇ ◇ ◇



「ここか、周囲の確認を行え。罠が仕掛けられているかもしれん、注意しろ」

 賊の一人が森の奥地にある民家を発見し、仲間に指示を出す。

 彼は世界の東にある芸術都市の兵士である。彼は都市の主の勅命を受け、ここを訪れた。

 命令の内容は単純、森の奥地に住む魔女から不老不死の秘宝を奪取しろ、というものだ。

 そのためにこうして部下を二人見繕われた。一人は気楽な男。だがこいつは若いながらも腕が立つらしい。なんでも初戦で多くの武功を挙げた兵士だとか。

 だが勅命を受けた兵士は彼にあまり良い印象を持っていなかった。

 多くの武功を上げた、一見素晴らしいようにみえるが、その内容が問題なのだ。

 彼の初戦、それは芸術都市の貧民街の殲滅だ。

 芸術都市は美しさを重視する。そのため都市の主は薄汚い貧民街を疎ましく思っていのだ。

 だが貧民街には番人がいた。〝掃きだめの巨人〟と呼ばれる部類の力を持つ番人が。

 番人は貧民街の住人を募り、都市の兵士の進行を退けてきた。だがそれも彼が鎮めた。

 彼も力では敵わないと理解していたらしい。なので精神的に番人を殺したのだ。

 番人の男児を殺し、妻と娘たちも犯したのちに殺した。

 守る者もいなくなったせいか、番人の抵抗は見る影もなくなった。そこからの惨殺は実に簡単だったらしい。

 もう一人は魔女の居城であるために魔術師を手配された。

(確実にここに不老不死の秘宝があるはずだ)

 疑う余地もなく、魔術師の部下に指示を出す。

「罠の探知を頼む。出来れば取り除け。相手に察知されるものであるのなら手を出すな」

「了解した」

 魔術師の部下が地面に手をかざす。大地の触れ、魔術の残滓を伺う。

 少しの間を置くと。

「魔術が展開されている様子はない。…ここは本当に魔女の居城か?」

 あまりの不要人さに違和感を覚えた魔術師は兵士に問いかける。

 対する兵士は…。

「そのはずだ。こんな森の奥地でただの人間が居を構えるものか」

 魔術師の部下は確かにと納得する。するともう一人の部下が‥‥。

「罠はねぇんだろ!だったらさっさと宝を頂いちまおうぜ!」

 不用心に家に近づく部下に警戒心を解いていない兵士は注意する。

「おいバカ野郎!そんな乱暴に近づく奴があるか!もっと慎重に‥‥」

「ダイジョブ、ダイジョブ。なんもないっすよ、センパイ♪それに罠はないんでしょ?だったら魔女もいませんって」

 新人の兵士は扉を開き、中で見た光景に興奮を覚える。

「おっほ~、凄いっすよ!センパイ!中に美女が、美女がいるっす~。」

 新人の兵士は先輩の兵士と仲間の魔術師に手招きをして、こちらにくるように促す。

 警戒心を解かず、近づく二人。そして二人は扉の先で見た光景に目を奪われる。

 そこにはなんと今まで見てきた中で最も美しい女性が、その雅な四肢を横たえていたのだ。その艶姿に二人は思わず言葉を失ってしまった。

「この者以外に人はいないのか?」

 恐る恐る確認しようとするが、それよりも早く新人の兵士がズカズカと住居に侵入し調べる。彼は奥にある部屋にも入り、周囲を確認し、見たところ誰もいないことを確認した。

「誰もいないな~、それよりも俺こんなきれいな女見たの初めてだぁ」

「忘れるな、我らの目的は秘宝だ」

 浮かれた様子の新人の兵士に真の目的を告げる。しかし、新人の兵士は任務などもうどうでも良いとばかりに目の前に横たわった女性に注目する。

 その視線は女性に突き刺さり、上から下へ、また上へ。舐めまわすように視線を向ける。

「‥‥魔女とは聞いていたが、こんなだったとはねぇ~、俺頂いちゃっても良いです?」

「警戒を解くな!まだこいつが魔女だと決まったわけではない!それに任務中だぞ!おい!」

 新人の兵士は聞く耳など持たず、魔女を抱きかかえて奥の部屋のベッドに運ぶ。彼の手際は早く魔女の両手はもう縛り付けられていた。

 その様子を見た魔術師の男が顔を顰め、発言する。

「お前…魔女に欲情するのか?」

 それを受けた新人の兵士は、関係ないと笑う。

「当たり前だろ♪こんな美人、食わねぇ方がもったいねぇ」

 上機嫌に答え、彼は無造作に魔女の胸元を空ける。その二つの双丘が上下し、露わになる。

「やめろ!本当に魔女だったらどうする!殺されるぞ!」

 興奮した雄に距離を取るように忠告するが、聞く耳を持たず、彼は魔女の服を脱がし始める。

「魔術には発動までに時間がかかるんだろ?だったら起きても首元にこれを当てて魔術を使うなって脅せば良いんっすよ♪それか殺すか」

 新人の兵士は腰に着けてあったナイフを持ち、起用に回しながら答える。だが二人は聞いていない。彼らの視線はもう跨る男にはない。その視線はあられもない姿となった魔女に向いている。

 跨る男ももう邪魔者はないと分かり、自身の下にいる女性に目を向け、口角を上げる。

「はあ、はあ‥‥こりゃあすげぇな」

 改めて彼女の姿に感嘆の声を上げ、これまで呼び起こされたことのない興奮を憶える。この欲望を開放すれば、一体どれほどの快楽を得られるのか。想像しただけで達してしまいそうだ。

 魔女も起きる気配など微塵もない。誰も自身を止める者はいないと理解した獣は欲望を忠実に解放しようとしたところで‥‥。

「う、動くな!」

 その場にいた全員がそこに目を向ける。

 そこには調理用のナイフを持った少年がいた。



                  ◇ ◇ ◇



 少年は焦っていた。目の前の家に今、三人組の賊が入っていったからだ。

 おそらくこのままでは自身を助けてくれたあの人は死んでしまうだろう。

(それはダメだ!それだけは・・・、でもどうすれば・・・・)

 自分が行ったところで無駄死にするだけだろう。最悪暴走して全てを壊すかもしれない。

 だけどなにもしなければあの魔女が死ぬ。僕をこの世界で初めて助けてくれた恩人が死んでしまう。

 とりあえず、家に移動し、側面に張り付く。中から‥‥。

「誰もいないな~、それよりも俺こんなきれいな女見たの初めてだぁ」

 抵抗の声が、抵抗の音が聞こえない。おそらく彼女は自分が最後に見た光景のまま、意識を失っているのだろう。

「‥‥魔女とは聞いていたが、こんなだったとはねぇ~、俺頂いちゃっても良いです?」

(⁉)

 最後に男が放った単語に反応する。頂くということはつまりそういうことだろう。

「お前…魔女に欲情するのか?」

「当たり前だろ♪こんな美人、食わねぇ方がもったいねぇ」

(いけない!このままだと取り返しのつかないことに!)

「やめろ!本当に魔女だったらどうする!殺されるぞ!」

(そうだ!その男の言うことを聞け!)

 少年はその意見に賛成するが、魔女を襲っているだろうもう一人の男そんなことは意に介さない。

「魔術には発動までに時間がかかるんだろ?だったら起きても首元にこれを当てて魔術を使うなって脅せば良いんっすよ♪それか殺すか」

 全く聞く耳を持っていなかったのだ。

(……どうしよう)

 壁の向こうで無抵抗の恩人が襲われている。

「はあ、はあ‥‥こりゃあすげぇな」

 その恩人が壊されるのは、もうすぐだ。

 だがここで何もせず、恩を仇で返すことは出来ない。

 あの人が助けてくれたのだから僕も助けなければ。

(‥‥‥あの時、あの一瞬に僕に初めて幸福を与えてくれた彼女に報いるだけの行動をしなければ)

 あの暖かさが、恋心が、彼女の笑顔を見た時の胸がいっぱいになる感情に報いるだけの行動を。

 そして少年は行動を起こした。開けたままの扉に入り、賊たちを視認する。幸運なことにこちらに気づいてはいない。目の前の魔女に夢中なようだ。

 しかし、その魔女の姿を見て、冷静さを失う。魔女はその衣服を脱がされ、裸に近い恰好をしていた。

 周囲に目線を向ける。数刻前、魔女が調理を行っていた場所に目を向ける。そこには先程の鍋と調理に使っていただろうナイフが。少年は迷わずそれを掴み、声を挙げる。

「う、動くな!」

 少年はナイフを突き出す。男たちの視線がそこに集まる。その視線に身体が強張るが、恐れている場合ではない。

「そ、その人から離れろ!」

 ナイフを持つ手は震え、声は上ずっていた。自分の知っている主人公たちとはあまりにもかけ離れた姿にガッカリする。

 すると、魔女に跨っていた男が起き上がる。一番魔女に危害を加えそうなヤツが向こうから移動してくれたので、喜んだが、それもつかの間…。

「あ~、パイセン。こいつ俺が殺して良いっすか?」

 明確な殺意と視線をこちらに向ける。言葉の端々からは明らかな怒りが感じ取れた。

 その行動に手だけではなく、身体中が震え上がる。両足は自分でも笑ってしまうくらいにカタカタと震え、顎も開閉し、口を閉じることができない。

 すると、問いかけられた男は静止に入る。

「待て!魔術師!ヤツを調べろ!魔力反応はあるか?」

 魔術師と呼ばれたもう一人の男はこちらを一瞥し、手をかざす。その手を降ろし、首を左右に振る。

「彼からは魔力の反応はみられない。一般人だ」

 それを聞くと仲間を制止した男は、少年を殺すと言った男に命令をした。

「そいつの処理はお前に任せる。適当にバラして土にでも埋めておけ。ないとは思うが、鉱山都市の衛士に見つかると面倒だ」

「うっす!おい、坊主!お楽しみの落とし前はきっちりつけてもらうからな」

 命令を下された男は腰にあるナイフを取り出しこちらに歩き出す。

「う、ああああああああ!」

 戦い方も、刃物の使い方もわからない。ましてや生前は喧嘩すらしたことが無い。だけど、殺されるという恐怖に身体が反応し、動き出した。

 それは攻撃と言えるものではとてもなかった。ただ両手で握ったナイフを前に突き出し、突進するだけ。

 ナイフが目の前の男に捕まる瞬間、男は自分のナイフを持った両手を片手でつかみ上げる。そして、露わになったみぞおちに向けて拳を放つ。

「ぶっ!」

 それを食らった瞬間、頭から下の血の気が引いたのを感じた。生前いじめられているときに何度も感じた痛み、これはやばいと感じた時、痛みが先に来るのではなく、痛みが発生するという予感が先に来る。そして腹部に苦痛は生じた。

「う、ガハッ、ゴホッ」

 片手でつるし上げられた少年は咳き込む。呼吸がうまくできない。

 この持ち上げられている態勢は苦しい。早く床に降ろしてほしい。

 だが、そんなことを言う余裕もなく、相手は聞く耳も持たないだろう。

 すると先ほど、命令を下した男が発言する。

「ナイフを使うなら外で使え、家の中に血痕は残したくない」

「‥‥うっす」

 命令された男は無愛想に答え、少年をつるし上げながら連れ出す。

「我らは秘宝の獲得にあたる。そのために主も貴様をあてがったのだ。師より聞いているのだろう?さあ、入り口を開け」

「了解した。だが、解明には少し時間がかかる」

 そうして室内に残った二人は調査を始めた。

 少年は無造作に運ばれ、地面に叩きつけられる。

「ぐふっ、うあ」

 先ほど食らったみぞおちの攻撃から回復できず、次なる腹部への追撃を食らい、仰向けになる。そして更に、目前の敵はその鋭利な踵を振り上げ、落下させる。

(やめて、もう無理…)

 そんな懇願は届かず、容赦のない一撃がまたもみぞおちに振り下ろされる。

「かひゅっ!」

 腹の中で何かが砕けたのを感じた。肋骨をやったのだろう。

 そして少年を痛めつける男は、もう止めとばかりに少年を前方に蹴り上げた。

 宙に浮き、砂埃を巻き上げながら平行落下した。

「ひゅう、ひゅ」

 呼吸はもうまともに出来ない。するとそんな自分を見て楽しんでいるのか男は先ほど少年が持っていたナイフを目前に置き、呟く。

「おら、どした?もっと根性見せてみろ。言っとくけどまだこんなもんじゃねぇぞ。俺は優しいからなお前に抵抗のチャンスを与えてやる。ほら、取れよ」

 男は少年の髪を掴み上げ、ナイフを取るように促す。震える手でナイフを掴む。その反応に歓喜を憶えたのか男は自分を降ろす。

 そして立ち上がり、数歩離れたところから声を掛ける。

「よし!良いぞ!今から、正々堂々勝負してやる。立てよ!切り殺してやる!」

「あ‥‥‥」

 少年の体は立ち上がることを拒んでいた。恐怖により先ほどの意思はもう砕け散っていた

 ここで立ち上がれば殺される。身体の痛みが、細胞が、本能が立ち上がることを拒否する。お前には無理だと、諦めろと説得しているように。

(怖い!怖い!立ちたくない!逃げたい!)

 心ももう折れていたのだ。ナイフを握ったのは戦う意思があったからではない。喩え微々たるものであろうと、対抗手段がないことに忌避したからだ。戦おうなんて思うはずがない。

 いつまで待っても立ち上がらない少年に嫌気がさしたのか、男は振り返り吐き捨てる。

「雑魚が!根性もねぇんなら邪魔すんなよ!白けたわ!動かずにそこで震えてろ!」

 男は踵を返し、室内に戻ろうとする。少年は自分から視線が逸れたことによって安心する。

(やっぱり僕なんかには無理だったんだ…このまま)

「俺はこれからあの女とお楽しみだからよ!今度邪魔したら本当に殺すからな」

 その一言で意思が呼び起こされる。あの恩人に危害を加える。少年は目の前の男に感謝する。彼は恐怖で忘れようとした行動原理を呼び戻してくれた。

「ま…まへ…」

「あ?」

 男は振り返る。獲物を狩る二つの双眸は立ち上がった対象を捕える。

「おまへは‥‥ぼ…ぼふが…あひへだ」

 恐怖と苦痛でろくにしゃべることができない。だがそれだけで目前の男の熱を稼働させるには十分だった。

「ハハ、良いねぇ!良いねぇ!そうこなくっちゃ!女のためにヒーロー気取れよ!ご褒美にバラバラにしてやるよ!」

 男は少年に向かって走り出す。その動きはあまりにも早く目だけで捕らえることがやっとだ。反応なんてできない。

 少年の視界を右に左へ移動した男はたちまち何処かへ消えた。

(どこ行った⁉)

 周囲に視線を向ける前に左足に生じた違和感に気づいた。

 身体の細胞が、それを視認する前に正確にその熱と痛みを脳へと伝える。

「あ、があああああああ!」

 左足から血が噴き出す。切り口から熱が零れる。

「オラオラ!次は右だ!」

 一瞬また視界に男が映ったと思ったら、また消えた。そして、右足から血が噴き出す。

「あああああ、っぐあああああああ」

 両足に生じた痛みに悲鳴を上げる。あまりの痛みに先ほどの決意がもう砕けかけている。

「危ないぞ~、次は正面だ!」

 その言葉通り男は目の前に現れる。破れかぶれに手に持ったナイフを男に向けて振り出す。

 ナイフは男に当たったように思えたが、空ぶったようだ。感触がまるでない。

 すると今度は背中に激痛が生じた。

「————————————」

 もう声にならない。ただの空気を吐き出しているだけ。

「残念!後ろでした!」

 どうやら男はナイフを振った瞬間、頭上に跳躍し着地する直前、空中で自分の背を切りつけたようだ。

「う、うう、ふぐっ、ううう」

 あまりの激痛に涙と死への恐怖が止まらない。その様子を見て男は爆笑する。

「あ~、可愛そうに~、痛いねぇ~、ギャハハハ!」

 奇怪な笑い声をあげながら今度は膝の裏側を切りつけられた。立つことを維持できず、その場に背中から倒れる。背中に衝撃が走ったため苦痛に声を上げる。

 切り裂かれた少年が立ち上がることができなくなったことを察し、男は少年に近づく。その足は少年がナイフを持つ手を踏みつけ、抵抗を許さない。

「ふー、まあこんなもんだろ。後は‥‥」

 男は自身が踏みつけた先、少年の腕、関節部分に刃を振るう。

「ああっ!」

 神経が切られたのか手からナイフが零れ落ちる。その様子を見た男の表情に呆れが浮かぶ。

「おいおい、こんなので声を上げるのか?今から肉を一つ一つ、筋線維の一本一本を切断いていくのに‥‥。まあいっか♪最初に叫ぶのも最後に叫ぶのも変わんねぇもんなぁ!ギャハハハ!」

 男は足元にいる人間を殺してしまわないように、だけど苦痛だけは与えるように、斬撃をその身体に打ち込む。するとこの後のことを思い出したのか、男は身を捩る。

「この後が楽しみだぁ~。あの女!あの女だ!あの女を貪れば一体どれだけの…」

 想像する。妄想する。男は恍惚な表情を浮かべ、この後に待ち受ける甘美に、快楽に、欲望の解放に身体が歓喜する。

(このままじゃあ‥‥)

 あの人が危険だ。喩えあの一時だけなのだとしても、自信に幸福を与えてくれた相手がこんな男に犯されるなんて、胸糞が悪いにも程がある。

「その後は…ああそうだ!その後も楽しみだぁ!」

 次に帰って来た男の答えに少年の精神が凍結する。

「あいつを殺した瞬間の快楽が楽しみだぁ!」

 この男は狂人であった。今まで幾度も女を犯し、殺してきた。女を犯し、自身の絶頂と同時に相手の喉を掻き切る。殺害欲と性欲を同時に満たす、その普通では得難い状況にこの男は囚われていた。

 少年は初め、その言葉を理解することが出来ず、惚けていた。そして整理がつき、ようやく男の言葉を飲み込むことが出来た。

(あの人を殺す?…‥僕の恩人を‥‥僕の‥‥)

 これから起こる光景を想像する。

(そんなのは‥‥)

 自身にこの世界で初めて安寧を与えたあの聖域が、夜のような見た目をしたあの太陽が、血に濡れ、地に伏したその姿を。

(いや…だ!‥い…やだ!)

 身体が拒絶反応を示す。これから自身が見るだろう光景を拒否する。

(嫌だ!嫌だ嫌だ!)

 その結末は受け入れられない。その最期は見たくない。

(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ!)

 それを想像しただけで頭がおかしくなりそうだった。

 自身の太陽が地に堕ちる。無惨にも蹂躙された後に。それに正気を保てない。

「ヒャハハハハハハハハハハハハ!・・・・は?」

 突然、自身の真下のゴミが動き出し、疑問の声を上げる。この先の出来事を熱望していたため忘れていた男は少年にナイフをかざす。

「そうだ。まずはお前だ!メインの前に前菜は必要だよなぁ!・・・・あ?」

 男は違和感に気づいた。自身が押さえつけていた左足、それが動かないことに。引き上げようと、横にスライドさせようと、ビクともしない。

 その理由は分かるが、理解はできなかった。

 男は目の前に広がる景色が幻で夢ではないかと疑う。

 傷を負っていたはずの少年から、優位に立っていたはずの男に向けて、少年の傷口から突如湧いて出てきた黒い膿が足に張り付く。

「うええぇぇぇ!気持ちわりぃ!」

 あまりの気持ち悪さに距離を取ろうとするが、膿はそれを許さない。離さないとばかりに男を引き寄せる。

「このッ!…」

 切断しようと手に持ったナイフを切りつける。

 ガシッ!

 なんとナイフを持った腕すら動かなくなった。目の前に少年の右腕から発生している黒い膿から黒い触手が現れ、男の行動を抹消したのだ。

「ガッ!…は…なせ‥よぉ!」

 抵抗するが黒い触手が包む手首への圧迫感は増すばかり。そして…。


 ボギャキッ!


 男の手首は通常ではありえない方向に折れ曲がる。まともな信号命令を手首より先が受け取ることができなくなったのかナイフが零れ落ちる。

「ヒャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」

 奇怪な絶叫があたりに響く。

「痛い!痛い!いた‥‥だ、誰かぁ!」

 両手は触手で抑えられ、下半身から徐々に黒い膿がせり上がり、男の身体を呑む。

 男は助けを求める。次の瞬間、異常を察した室内の二人が屋外に飛び出してくる。

「どうした⁉…これは⁉」

 二人は驚きに声を上げる。そこには黒い泥に下半身を飲まれた仲間がいた。

 それを見た魔術師の賊は冷静に分析する。

「……魔物と人間の複合体?では魔力反応はどうやって隠した?いやそもそもこれは本当に魔物か?こんなヘドロのような魔物は見たこともないが」

 いくつかの仮説を魔術師は立てるが、答えは見つからない。

「た、助けてくれぇ……」

 もう先程までの狂気を無くした男が仲間に向けて助けを求める。その状況を見るに、このままでは……。

「考えている暇はない!まずはあいつを助けるぞ!おい、新人!待っていろ!今助ける!」

 先達の兵士は新人の兵士を助けに向かうため、その黒い膿に接近する。

(足は…ダメだ!吞まれ過ぎている!まずはあいつの手を自由にしてやらなければ!)

 先達の兵士は腰に下げた剣を抜き、一本の触手で押さえつけられている右手を自由にしてやるために剣を振る。

 触手はその一本だけ、その上細かったためか、簡単に切断できた。黒い泥にとらわれた男は

自由になった右手をこちらに伸ばす。

 その右手は手首から先は直下にぶら下がっていた。

(何があったんだ⁉…考えている暇はないか!)

 先達の兵士は迷わず彼の手を取り、引き寄せる。だがビクともしない。動く気配などまるでなかったのだ。

 視界の横で倒れ伏している黒いヘドロを吐き出す少年に、先達の兵士は視線を向ける。こいつを仕留めればこの現象も止まるはずだ。そう考え、彼は行動を起こした。

 剣は少年に向け振られた。これを阻むものは周囲には確認できない。彼を切り伏せ、仲間を助けようとするが、その行動で得られたのは仲間の生存ではなかった。

 剣は少年に触れる直前にその軌道を停止させた。

 剣は、少年の右腕から発生した触手によって呑まれ防がれたのだ。剣を引き戻すことができず、先達の兵士は焦る。

 バキッ!

 徐々に剣からはいびつな音が聞こえ、そして砕け散った。

 リーダーの衛士はこの新人の兵士に起こった出来事を理解した。こいつはこの触手にやられたのだ。

 この新人を助けるべきか、自分は逃げるべきかを考える。武器はまだある。自身の腰に取り付けたナイフだ。だがこんなもので何ができるというのか。

「くっ!‥‥‥待ってろ!今助けてやる」

 新人の兵士を見て、焦燥感が増す。彼は下半身の圧迫と自身が飲み込まれる恐怖から痙攣を起こしていた。

 先達の兵士は今も彼を飲み込んでいる黒いヘドロの最前線、彼の腹部付近に張り付く泥を削るようにナイフを振るう。

「アへッ!」

 失いかけていた意識が擦れたナイフによって呼び起こされる。新人の兵士は抗議の声を出す。

「…それ!グっ!‥‥それやめて!俺も…俺も削れてる!」

「我慢しろ!まだ飲み込まれていない接着面はいくらか削れやすい!ほら!」

 先達の兵士、彼が言う通りへばりついた黒いヘドロはいくらか削れていた。だがそんなもの微々たるものだ。それにすべて削りきる頃に彼はもう…。

 黒いヘドロは自身が削られていることを知ったのかその浸食速度を急速に早める。

「ああああああ、死にたくない!死にたくない!」

 新人の兵士は自身の半身を飲み込む圧迫感、切削の痛みに気をおかしくしていた。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥あ」

 先達の兵士は、これはもう無理だ、と気づきの声を上げた。

(……すまない!)

 そこで彼は自身の命と彼の命を天秤にかけ、自らの命を選択した。即座に撤退を試みたかれだったが、囚われの新人兵士がそれを妨害する。

 新人の兵士はその口角で、先達の兵士の肩の肉に、その歯の下にある衣服に噛みついた。その咬筋力から絶対に離さないという意思が伝わる。

「おい何をやっている!このままでは二人とも死んでしまうぞ!」

「ひにはふない!ひにはふない!ひにはふない!」

 器用に噛みながら声を出す。その顔は涙や鼻水で濡れ、懇願が窺える。

「お前!俺も道ずれにする気か!やめろ!」

「たふへへ!たふへへ・・・・」

「やめろッ!くそぉぉおおおおおおおッ!」

 そして賊の三人のうちの二人はヘドロに飲み込まれた。

 まるでそこに初めからいなかったかのように。

 二名の痕跡は跡形もなく消えたのだ。



                  ◇ ◇ ◇



(な、なんとか二人は排除できたのか?)

 自身の右腕の異変に驚きながら、状況を理解する。

 神から授かった異能によって三人のうちの二人を排除することができた。

 右腕を見る。少し前は全身が異形と化して、良く確認することができなかったが、今は改めて見ることができる。

 黒い肉塊、流動する塊、ヘドロのような見た目。なるほど、敵対するの理解できる。自身から生じたものであるが、これに対して不快感が止まらない。追い出したくて仕方がない。

 最後に残った賊に目を向ける。彼は二人の仲間が取り込まれているにも関わらず、扉の前に立っていた。

(あとはあいつだけ‥‥‥うッ!)

 身体を立ち上がらせようとしたが、両足が切り裂かれているためにそれはできない。

 何とか向こうから近づいてくれないだろうか。あの男が何か攻撃行動を起こしてくれれば、後はこの黒いのが勝手にやってくれる。

 しかし、扉の前に立つ男は両手を前に出す。正確には自分が今立っている地面に向けて。

 すると驚くことに自分の足元、地面がせりあがった。巻き起こった大地は少年の体を飲み込み、固定する。だが右腕は無事だ、まだ何の拘束もされていない。

どうにかしてこれを奴に差し向けることは出来ないか、少年はその方法を模索した。

 しかし扉の前に立つ男はその思考を読んだのか、同じ動作を繰り返し、異形と化した右腕も固定する。人間の身体と異形の接合部が露わになった状態で身体と異形の右腕が固定された。

 男はクツクツと笑い、自分の存在について考察する。

「‥‥‥秘宝奪取の任を受け、来てみれば。まさかこんな物に、巡り合うとは」

 男は少年を見て、その口角を吊り上げる。その表情は確かに歓喜により歪んでいた。

「永遠の命などに興味はなかった。私が欲しいのは圧倒的な戦闘能力だ。敵を葬る魔術式とその理論だ。だが……」

 彼は東国の芸術都市、優秀な魔術師であった。実力だけならば芸術都市随一であったが、実績がなかった。そのためにこの任務に参加した。

秘宝を守護する魔女、秘宝を求めた数々の猛者たちを屠って来た彼女からそれを奪取しろというものだ。

 彼はその言葉通り秘宝に興味はない。

いくら永遠の命、死なずの体になったからといえども、敵を殲滅できなければ意味がなく。人々を支配できないと考えていたからだ。

 いつの時代も頂きに立つ者は他の追随を許さない力を有していた。なので自身もそれを手に入れるためにこの任務に参加したのだ。

(秘宝なぞくれてやる。私は任務達成の報酬とここからかすめ取った技術を用いて、更なる極みに達する)

「だが貴様のような稀有な存在を見つけることができた。人間でありながら人ならざるものを内に秘めるその力。見るに…貴様はまだその力を自由に行使できないようだな。そこまでの傷を負っても能力を発動しなかったのがその証拠、魔女が配下を統べているなどの情報も知らされなかった」

 男は手を頭上に掲げ、こちらに振り下ろした。すると空気が圧縮され、刃と化してこちらに迫る。その着弾点は異形と人間部分の境目。

魔術を放った人間の表情、それは人に向けるかではなかった。

冷酷、残忍、だが感情がない。

あくまで作業とでも言うかのように、その行いに罪や罰の意識が欠片も感じられなかった。

そこで少年も理解したのだ。それがただの解体であることを。

少年の直感と同期したのか、異形の部位はまるで意思を持っているかのように肉体部分の腕を守る。しかし、異形の肉厚は覆われたばかりで薄いのか砕ける。

 黒いガラスの破片が零れる中で流血が共に地に滴り、防ぎきれなかった攻撃が少年の肉を削ぐ。

 痛みに声を上げた少年の様子を観察する魔術師は異形と少年が離れなかったことを興味深く思う。

「……存外に頑丈だな。だが耐久力があるのは良い。取り込みがいがあるというものだ」

 男は追撃とばかりに炎、水、土の斬撃を放つ。それは敵を倒すためではなく、まるで性能を調べているような。

「……属性に関与しないのか?それとも即時に再生しているか……だが耐久力と再生力、それらだけでも価値はあるか」

 傍から見れば彼らの状況は変わっていないように見えるが、異形の中身、少年の腕は違う。

 腕は確かに異形に守られているが、その下の人間部分の肉は千切れかけていた。

実験者に気付かれていないのは、異形が傷口を隠しているおかげだ。

しかし次はない。このままでは次の一撃で異形と自分が離れてしまう。

 そうなってしまえば、自身の武器、神から授けられた忌々しき異能は無くなってしまう。

 この場に彼は止める者は誰もいない。男は今にもその手を振り下ろそうとしている。

「それはもう私のものだ!」

 その手に荒ぶる風が発生する。他の攻撃とは比べ物にならない風がそこに起こる。その手は自身の頭部に向けられ、放たれる直前‥‥。

「いいえ、あなたになんかあげない…」

 男は突然背後に出現した気配に驚愕する。

 なぜなら、ここに彼女が何事もなく現れることはあり得るはずがないからだ。

(バカな⁉どうやって抜け出した⁉)

 彼は初めに悲鳴が聞こえた時点で、魔女の動きを封じる結界、魔力を枯渇させる結界、魔術を妨害する結界、これら三つを破った後に魔力反応と彼女の行動に反応する結界を重複して掛けた。

 さすがの魔女もこれを解くのには時間がかかり、たとえすぐに解除できたとしても探知魔術が彼女の行動を教えてくれる。

 これらの結界魔術をすべて破るような規格外とは戦っても勝ち目はない。探知魔術が発動次第、行動指針を逃走にシフトするつもりだったが、そんな猶予はこの男に与えられなかった。

 振り返り手に秘められた魔術の放出を試みる。だがこの行動は無駄に終わった。魔術はその原理を砕かれ、霧散する。

(魔術の無効化だと⁉ありえない!形成前ならまだしも、私の魔術はその式を形成していた!)

 魔女が左腕を振り上げる。その引き絞られた手には先程に男が掌握していた風が蠢動していた。

 その光景を見て魔術師は理解する。自らの手に形成した魔術と結界魔術が破られたのではなく…。

「ははっ!なるほど、魔術への干渉ではなく強奪か!」

 魔女の左手が男の胸の中心に打ち込まれた。風は男の体内で暴れだし、内部を切り刻む。

 男は体を痙攣させ、さび付いた人形のように不規則に体を動かした。

そして風が収まり、魔術師はその身体を地に落下させる。

 術者である男が命を落としたためか、少年を縛る岩は崩れる。支えを失った少年は重力に従い、そのまま落下する。

 落ちた衝撃に声を上げられなかった。そんな余力はもう少年にはもう残っていなかったのだ。

 声を掛けられた気がしたが、少年はすでに限界だ。敵対するものが消失したことによって警戒が安心に移ったのも、その理由だろう。

 異形の者は静かにその意識を手放した。



                  ◇ ◇ ◇



「‥‥んん、…ん?」

 心地よい微睡みから目を覚した少年は視界に入る景色から周辺の状況を取り入れる。

 数刻前に見た景色と同じ、木製の天井と壁。

 どうやらまた彼女に助けられたようだ。

 ベッドに横たわった自身の体を確認すると、傷は初めから何も存在していなかったかのように消えていた。

 先程の盗賊達との件から時間もいくらか経過したのだろう。窓から見える外の景色は暗い。

 すると吹き抜けの部分から彼女が現れた。

「あら、起きてたの」

 彼女はその視界に自分を確認すると、近くにあった椅子を手に取りこちらに近づく。ただ歩いているだけなのに、その挙動に、揺れる黒い長髪と衣服に、優雅な様に目を奪われる。

 彼女は椅子をベッドの横に設置し、腰かける。少年は真横に美女がいることに落ち着かず慌てそうになったが取り繕う。

 誤魔化したのは、それにより相手に気付かれることを勘ぐったのか。

 少年は懸命に表情を誤魔化すが、次の瞬間にその鉄面皮は簡単に剥がれた。なぜなら彼女は少年の体をまさぐったからだ。

「な、何を⁉」

「傷が開いていないか確認してるの、さっきも血が噴き出して大変だったんだから」

 少年は自身の周りを確認すると、シーツが赤く染まった箇所があった。おそらく自分のものだろう。

 初めは自身が暢気に寝静まっている間に看病してくれたことに感謝していたが、今は彼女に迷惑をかけたことの方が大きくなった少年はすぐに謝罪する。

「ごめんなさい!汚しちゃって」

「大丈夫、洗濯すればいいだけだから」

「いや、でも染みになります…とりあえずすぐにどきますから!」

 これ以上汚してしまうわけにはいかず、立ち上がる。しかし、その意思とは裏腹に体は膝から崩れ落ちた。少年が痛みに苦しむことはなかった。床に落ちず、ベッドが下にあったからでもなく。目の前の彼女が少年を抱きとめてくれたからだ。

「無理しちゃだめよ。倒れそうじゃない。私がやっておくから君は寝てて」

「そんなわけには・・・・え?」

 彼女は少年を抱える。女性に抱えられ、羞恥で顔がみるみる熱くなる。その態勢はいわゆるお姫様抱っこだ。

「ちょっ⁉降ろしてください!重いでしょう?自分で歩けます!」

「いいの♪いいの♪任せて!」

 そんな華奢な腕のどこにそんな力があったのかわからないが、彼女は足取り軽く、軽々と少年を持ち上げた。

「…それと、ごめんなさい。私はあなたを敵と勘違いしてしまって、怖がらせちゃった。その上、助けてもらって…」

「そ、そんなそれは違う!」

 申し訳なさそうに言う彼女に反応して声が出た。

「助けてもらったのは僕の方だ!あのままだったら僕は‥‥」

 少年は自身の言葉を止める。その先を言ってしまうことに恐れを抱いたからだ。

 生前、自身が望んで手放した命。そして神から与えられた二度目の命。

 過去に未練があるわけではない。少年は望んで一度目の命を手放した。

 だけどどんなに望んだからと言っても、死は死だ。

 少年は一度体験してしまっているのだから、彼の中で死は明確に大きくなっている。

 あの時少年は神から授けられた異能を失うばかりか、この二度目の命まで失ってしまうところだったのだ。

 しかし彼女は少年への恩義にも報いたいようだ。

「でも助けられたのも事実、私も死んでたかもしれない。それに私が大切にしているものも盗まれていたかもしれない。この御礼はちゃんとしたいと思ってる。考えておいてね!」

「御礼って…ッ!」

 急に揺れが起きて驚く。彼女は少年を抱えて動き出したからだ。そのまま吹き抜けを通り、少年をテーブルの椅子に座らせた彼女は部屋に戻り、汚れてしまったシーツを抱えて出てきた。両手いっぱいに抱えたまま、扉の方向に向かう。

 このままでは扉にぶつかってしまうと思い、自分が扉を開けようと試みる。しかし、扉は彼女が通る前にひとりでに開いた。

「え?」

 目の前で起きた現象に呆気にとられて呆ける。そんな自分の様子はお構いなしだというように彼女はそのまま室外に出る。

 なにもせずここにいることが心地悪く、自分もゆっくりと室外に出る。その後、少年の視界に入って来た光景に彼は目を見張った。

 そこには彼女の前を浮遊するシーツの姿があった。それだけでは止まらず、彼女がかざした左手から発生した水はシーツを覆い、右手で水を操作する。

 シーツを覆った水は回転し、汚れを落とし始めた。しばらく経って汚れを落としきった水は役目を失い、地面に落下した。シーツは今、彼女の手から発せられている風によって乾かされている。

 目の前の光景に改めて自身が来訪者であることを実感する少年に彼女が声を掛ける。

「魔術を見るのは初めて?」

 動揺を隠せず口をうまく回せなかったが、何とか回答した。

「…さっき体で食らいましたけど。間近でこんなじっくり見るのは初めてです」

 生前に物語の中でこういう場面は見たことがあったが、実際に自分の目で見ると便利だなと思った。

 目前に非現実的な光景が現れて、ある気持ちが湧いた。それは初めて、物語に触れた時、この目で、頭でその存在を認知した時に自分の内から湧き出た期待と高揚。知らない世界があり、知りたいと思った。現実に嫌気がさした自分はそこに引き込まれたのだ。そしてそれが実際に今、目の前にある。すると、ある気持ちが湧き上がった。

「———たいです」

「ん?何か言った?」

 良く聞こえなかったのか、彼女が問い返す。今度は聞き返されないよう声を大きくして宣言する。

「さっきの御礼ってやつ…僕、魔術を憶えたいです」

 その言葉に彼女は一瞬戸惑う。彼女は悩んだのち言葉を発した。

 その様はなんだがもの悲しいように見えたのは、少年の気のせいだったのか…。

「教えるのは構わないけど使えないかもしれないよ。そういう人、今まで何人も見てきたから」

「その時は諦めます、才能がなかったということで」

 彼女は自分の言葉を聞き、頭を悩ませる。

(やはり、これは無理なお願いだったか…)

 そう考え始めたころ、彼女は決心し答えを出した。

「わかった!でも教えるのは明日からね!君、結構無理してるでしょ?今日の所はもう休みなさい」

「ありがとうございます!えーと‥‥名前は…」

 彼女は言葉を詰まらせた少年の様子を見て、首を傾げる。まだ大事なことを聞いていなかったのだ。

「あー、そういえばしてなかったね」

 彼女は改めて、こちらに向き直る。こんな美人と正面から向き合って緊張するけど大事なことなので我慢する。彼女は自身の胸に手を当て…。

「私はエリナ・ウィッチ、よろしくね!あなたは?」

「僕は…」

 自分の発言を考えて、言葉を飲み込んだ。

 あっちの名前は名乗ることは不自然に思われると考えたからだ。

 その時、ふっと文字が湧いてきた。何でもない、ただの思い付きだ。せっかくなのでこれを使おう。

「僕は…ゴオ・ダンです。ゴオって呼んでください」

「ゴオ?珍しい名前ね。まあよろしく」

 不自然に思われないように考えた名前だが、意味はなかった。センスないのかな、僕。

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