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1.2 人であり孕みし者、現れた後悔

鉱山都市、大森林、中間地点—————


 城壁に囲まれた街、鉱山都市を容易く視界に収めることが出来るほどの広々とした平原。

 その穏やかな大地を捲りあげるほどの力のぶつかり合いが、そこでは起きていた。

 片や異世界からの来訪者、まだ幼さも残り無知で愚かな少年。

 片や守護を使命とする鉱山都市の屈強なる衛士。

 衛士は黒く邪悪な巨躯と化した少年を押しとどめる。

 少年が数刻前まで望んでいた人を殺したくないという願いを、衛士は確かに叶えていた。

 しかし、それも時間の問題のようだ。

 確かに目の前で大盾を掲げた衛士は最初こそヘドロと化した少年と拮抗していたが、その身体は徐々に押し込まれている。

 少年は衛士の顔を確認する。歯を噛み砕かんばかりに噛みしめ、額に血管を浮かばせ脂汗も浮かんでいた。

 客観的に見ても相当な無理をしているのは明らかだ。

(僕もこいつを何とかしないと…)

 そう考えたが、まだこの能力の仔細を知らない少年にその手段はわからない。

 あれやこれやと行動を起こそうにも、肉体は拘束されているように動かない。

 そこで自身の黒き肉体は行動を起こした。

 この異形もただ突進するだけの間抜けではなかった。異形の体表が流動する。

 少年はそれに焦りを憶えた。なんと異形は、体色と同じ複数の触手を生やしたのだ。

 触手は少年を食い止める衛士を値踏みするしているようだった。

 それには衛士も気づいているようだ。彼の視線は触手を捕え、その目には微かに恐怖の色が見えた。

(逃げて!)

 異形の肉体の呑まれた少年の声は、もちろん衛士には届かない。まるで存在を世界から消去されたように。逆にそんな人間の言葉がどうすれば届きようものか。

 少年の必死の抵抗を嘲笑うかのように、触手は動き出した。

 衛士は回避行動をとろうとしない。なぜなら彼はこの触手を回避すれば、勢いをつけた異形を止めることが出来なくなると理解したのだろう。

(そんな‥‥‥‥)

 少年にまたも諦念が駆け巡る。やはり無茶だったんだと顔を降ろした時、大盾の衛士の後方から更なる助っ人が現れた。

 その助っ人は大盾を掲げた衛士に迫る触手を、手に持った剣で切り落として見せた。

 大盾の衛士は仲間の到着に笑みを浮かべる。

 少年が安堵したのもつかの間、肥大化する異形は彼らに襲い掛かる。

 肉体となる膿から新たなる触手を出現させたかと思えば、再度大盾の衛士にそれを伸ばす。

 だが仲間への攻撃を、剣を持った衛士が許すはずもなく、その脅威は先ほどと同じように阻まれる。

 その対応に迅速さもあったのだろうが、彼らの行動は少年に安心感を与える。

 なぜなら彼らは目前に脅威が襲い掛かっているにも関わらず、会話すらしてみせているのだ。

 その余裕の持ち様に、少年の希望は現実感が増す。

 だが、その希望に新たに疑問が湧く。

(もしこのままこの人達が僕を倒したら…‥)

 彼らがこの異形を見事鎮め、自身の能力がその力を失えば、そこから現われるのはただの人間である自分だ。

 そうなれば自分はなすすべもなく捕らえられ、一生を檻の中で過ごすだろう。

 いや、もしかすればその場で即刻殺される可能性もある。むしろそちらの方が可能性は高いのではないのか…。

 起こりえるかもしれない未来に少年は、自身の能力を操れるのかは一先ず置いておいて、成すべきことを考える。

 その直後、異形と衛士達の交戦に変化があった。

 異形は何度も剣を持った衛士に攻撃を防がれるため、攻撃対象を彼に変えたのだ。

 五つの触手が剣を持った衛士に迫る。

 瞬きの間に放たれた触手群、初めのうちは剣を持った衛士も対応できていたが、それも次第に付いていけなくなっていた。

 その結果、四つ目の触手を切り落とすのではなくいなした彼の胸に五つ目の触手が近づく。

 だがさすがはこの世界の防人と言うべきか、剣の衛士は自身の胸に迫った触手を、身を捩り回避したのだ。

 そして現在、彼の右側方には日本の触手がある。衛士はそれを切り落とすべく掲げた剣を振り下ろす。

 だがここで異常が起きた。

 少年がその冷静な対処から、自身の暴走は確実に彼らに抑えられると確信し、どうすれば彼らから姿を隠しながら逃走できるのか考えていたその時、剣の衛士に切り落とされるはずだった触手から、新たな触手が出現したのだ。

 これにはさすがの剣の衛士も対応できず、その身体は後方に吹き飛ばされる。

(僕はなんてことを考えているんだ‥‥‥)

 目の前でこの世界の人間に危害を加えたという事実が少年を自責に追いやる。

 少年は、都合の悪い未来を避けるために彼らを犠牲にしても構わないなどという愚かな考えを、一時といえども巡らせたことを恥じていた。

 やはりこの怪物は止めるべきだと再認識した少年は、再度この能力の停止を試みる。

 だが、そんなこと異形はお構いなしだと言うように、目前で進行を阻む障害の排除を実行する。

(やめろ!)

 大盾の衛士に左右から三つの触手が突撃する。

 大盾の衛士は、その攻撃を視界に収めているが回避は取らない。異形が止められなくなってしまうことを理解しているからだ。

 そして異形の攻撃は、大盾の衛士に直撃した。

 少年はその時、自分に伝わった信号に寒気を感じた。

 異形はどういう原理なのかはわからないが、痛覚以外を少年に伝播させる。

 つまり、少年は感じ取ったのだ。

 触手の先から伝わる、温かな湿り気のある感触に。

 そこからの大盾の衛士の対応は迅速であった。

 もう押し合いでは拮抗できないと考えた彼は、前から圧し掛かる異形の力を横に逸らし、都市へと進ませたのだ。

 その行動に、少年の彼らに対する侮蔑はない。むしろ望んですらいた。

 ここで彼らを殺してしまうよりかは、都市に向かい増援部隊に異形を倒してもらう方がはるかにマシだと思ったからだ。

 そしてその後、異形の体内から出てきた自分が殺されることも…。

 しかしそんな現実は起こらなかった。なぜなら大盾の衛士は異形の対応を諦めていなかったからだ。

 異形に包まれた少年の視界が逆さまになる。

 異形を進ませた大盾の衛士は、自身の目前に露わになったその横っ腹に突撃し、異形を横転させたのだ。

 異形の肉体はとてつもなく巨大な重量を有するのだろう。その証拠として、大地が捲れあがっていたのだ。改めて盾の衛士の力量が伺える。

 尚も抵抗を続ける少年の視界は数秒後には正常に戻っていた。異形は体内にある少年の体の向きを変えたのだろう。その回転はまるで揺りかごのようだった。

 少年は気付いていない。異形が少年の向きを直した時、外側の異形の手足はその向きを変え、位置は体表を波立たせながら移動させた。

 手足を定位置に配置した異形は、超重量の肉体を持ち上げる。その視線の先には、傷を負った盾の衛士と剣の衛士がいた。

 剣の衛士は軽傷だ。おそらく体に接近した触手を直前で防いだのだろう。しかしその纏った鎧の胸部はへしゃげている。

 その鎧の変形に自らの放つ触手が見た目のわりにとんでもない威力を持っていることを理解する。

 一方で盾の衛士の負傷は甚大だ。肩、左脇腹、右太股から出血が見られる。

(もういい、もう戦わなくていい!逃げてくれ!)

 少年の懇願は届かない。二人の衛士は勇敢にも異形に立ち向かう。

 まるで彼らが物語の主人公達に見えたのは何たる皮肉か。

 異形の視点が変わる、その視線は都市に向いていた。

(…!今のうちだ!逃げてくれ!)

 少年は、自身の暴走した能力は都市に固執していると考えた。なのでせめて彼らの命は助かると踏んだのだ。

 だが実際には違う。異形はただ都市から放たれ自身の顔面の側面に刺さった矢に憤慨しているだけなのだ。

 またも視界が動く。その視線の中には剣を持った衛士がいた。それも目の前にだ。

 異形は自身を切りつけた剣の衛士によって視線を戻した。

 向き直った異形を見ると一度距離をとった剣の衛士に、異形は無数の触手を放つ。

 もちろん剣の衛士も胸部の鎧の変形から、これは受けてはいけない攻撃だという事は分かっている。黙って受けるわけがない。

 剣の衛士の体は瞬時に左に移動し、異形の、少年の視界から消える。

 異形は剣の衛士を視界で追う。それに付随するように触手も射出された。

 しかし剣の衛士は駆け抜けながら、その攻撃を躱し、いなす。

 だがその対応ができたのは初めだけだ。時期に触手のうち数本が剣の衛士に迫った。加えてその姿の完全に視界に収められている。

 必死にこの能力を止めようと尽力した少年でもこれは確実に当てると予感したが、その予感は外れる。

 視界に先ほどの大盾を持った衛士が入り込み、その触手を自慢の盾で吸い込んだからだ。

 彼ら二人の衛士は二体一対となって、異形の周囲を駆け巡る。

 正面から戦っても分が悪いと考えたのだろう。彼らはその姿を捕えさせまいと動き続け、異形と少年の視界から逃れる。

(ッ!…止まれ!止まってくれ!)

 彼らを見た少年は己を鼓舞する。

 そうだ。そうであった。

 少年は彼らを見て、敵うはずのない者に必死に抗い、立ち向かうその姿を見て、自身は何をすべきであるのかを痛感した。

 彼らのような英雄はいつもそうであった。立ち止まらず、諦めが悪く、泥臭くとも、今できる限りをもって歯を食いしばりながらも不可能に挑む。

 だから彼らはその末に勝利を掴むのだ。

 だから自分がそこに至りたいのなら、やるべきことなど初めから一つしかなかったのだ。

 少年と彼らは抗う、自分達の力量を優に超える存在に。その先へ行くために。

 衛士達は異形の周囲を踊り狂う。その姿は確かに少年の支えをなり、希望となっていた。

 そして新たな希望がそこに訪れる。

 なんと二人の衛士の後方から、複数に人間が都市より駆けつけていた。

 その数は十八名ほど、全員が完全武装だ。

 少年は増援の到着に胸を撫でおろし、安堵する。

 可能性が消えたわけではない。だが少なくとも先ほどの状況よりかは場が好転した。

 これでうまく事が運べば……、



 少年はそれに気づいた。


‥‥‥熱い。


自身の能力、それも内より現われたものなのだから当然と言えば当然だが。


‥‥‥怖い。


 原型からかけ離れているとはいえ、少年自身の肉体だ。


‥‥‥痛い。


 だから少年は異形が次に何をするかを、この場の誰よりも早く容易に理解できたのだ。


 少年は視界の下方から熱を感じていた。

 少年の脳裏に先ほどの触手の威力が浮かぶが、そんなのは可愛いものだと、理性が失笑する。今下方より感じるものこそが本当の恐怖である。

 下方、異形内部に出現した力の奔流、その凝縮。

 こいつは確実に目前にいる剣の衛士を一撃のもと葬るつもりだ。

(やめ———)

 遅かった。

 剣の衛士も増援の到着に喜んでいるのか、それに気づいていない。

 異形より、その大質量は放たれた。

 通常の触手とは比べるのも馬鹿らしくなるほど、肥大した肉塊は高速で剣の衛士に向かう。

 視界に変化が起きたが少年にとっては変わらない。結局は人殺しだ。剣の衛士にとっては

幸運であったのだろうが‥‥。

 大質量の一撃は剣の衛士には当たることはなかった。なぜなら盾の衛士が剣の衛士を庇ったからだ。

 絶対に生きていない。助かるわけがない。

 次の瞬間に少年の視界に入った光景がそれを確証づける。

 盾の衛士はその一撃により、その身体は彼方へと吹き飛んだ。

 盾の衛士の体は都市に飛ぶ、その姿が点になるほどにだ。そして最終的には都市の壁場付近に落下した。

(ああ)

 悲劇はまだ終わらない。異形にまた熱がたまる。

 その対象は仲間の死に憤慨している剣の衛士だ。

(あああ)

 少年はここまで諦めることなく抗った。それは彼ら二人の衛士がいたおかげでもある。その二人を自分自身の手で葬ることによる絶望は計り知れない。

 そしてそれは放たれた。先ほどと同じく、人を殺す一撃、助かることのない理不尽、それは剣の衛士に直撃した。

 剣の衛士は空を舞い、その身体は先ほどの盾の衛士と同じ末路を辿り、都市に向かう。

(アアアアアアアアアアアアアッ!)

 目に映る悲劇、再形成された希望の崩壊、異界の容赦なき現実が少年を壊す。

 少年を包む異形は、彼の絶叫を喜ぶようにその肉体をさらに肥大化させる。

(ごめんなさいッ!ごめんなさいッ!ごめんなさいッ!ああッ!ああッ!あああああッ!)

 少年が悲しもうと、異形は止まらない。少年を更に狂気の淵に落とすために更なる犠牲を追い求める。

 異形の肉体が、混乱していた増援部隊に突進する。

(もうやめてッ!もうこれ以上はやめてッ!)

 懇願する少年の願いとは対称に、異形は人々に襲い掛かる。

 仲間を彼方へと吹き飛ばされた衝撃は、都市の防人である増援部隊に混乱を招いていた。

 慌ただしい様子の集団の渦中に猛進する異形。それに対応できた者がほとんどであったが、逃げ遅れた者が一人いた。

 このままでは異形は少年の正気を完全に破壊し、その四肢は世界を包み、大地を犯すだろう。

 しかしその未来は回避された。集団の中で唯一冷静であった熟達の衛士が逃げ遅れた衛士を拐取したからだ。

 熟達の衛士の号令の下、集団が彼を中心に陣形を形成する。

 盾は前衛で壁となり、その後方で鋭利な剣がその刀身を煌めかせえる。最後方では弓兵が矢を番え、熟達の衛士の合図を待っている。

 陣形の再形成の早さに、彼の統率力が伺える。

 異形の突進を壁となる盾が圧しとどめ、背後で剣を構えていた衛士が斬りかかる。直後、盾と剣が異形の頭部を中心に左右に分かれたかと思えば、そこに後方からの矢が降りかかる。

 矢による攻撃に憤慨した異形であったが、その身体は前方に進まない。

 左右から後ろに押し戻そうとする盾がそれを阻むからだ。そしてその盾は次第に頭部を包む。

 彼らとて、先ほどの大質量の触手攻撃を目の当たりにしている。それがいつ自身に飛んでくるかわからない。もとよりこの異形と押し合いなどしたくはないだろう。

 だが熟達の衛士は押し返すべきだと判断した。なぜなら異形が突進する先、彼らの後方には自分たちが守るべき都市がある。

 その条件が熟達の衛士の選択肢を狭めたのだ。

 だがこの対応手段は現状で最善といえるだろう。

 もしもこの異形に限界というものが存在するのであれば、この手段であれば鎮めることは可能だ。こちらは負傷せず、着実に攻撃によるダメージを与えている。

 触手による攻撃も問題ない。なぜなら‥‥。

 熟達の衛士はそれに気づき、声を上げる。それを聞いた集団は異形から一度距離を取り、盾達は異形の行動を注視し、回避または後方の味方を守るためその盾を掲げる。

 彼らが防御態勢に入ったその瞬間、立ち止まっていた異形は複数の触手を放った。

 触手は衛士達に当たることはなく、盾に吸い込まれた。

 熟達の衛士は先ほどの二度の惨劇で理解していた。この異形は攻撃をする直前、体表が流動することに。

 だがそれが分かったからといって安心はできない。いかに防御が可能になったからといって、先ほどの二名を彼方へと吹き飛ばした触手と同等のものを繰り出され得れば、こちらは壊滅だ。そうでなかったのは幸運であった。

(うぅ‥‥ううぅ‥‥)

 少年は嗚咽を漏らす。自身の意思とは関係がないとはいえ、人を殺したのだ。そのショックから少年の抵抗する意思は砕かれていた。

 少年に出来ることはただ後悔することだけ。何一つ出来ることなどない。

 でもそれは当然だと思った。

 生前に世界に何かを残せたわけでもない。ましてや誰かに影響を与えたことすらない。

 ただ日々をのうのうと生き、社会と人々から乖離し、苦を避け、楽に浸った。

 彼らにとってその姿は酷くいびつに映っただろう。こんな人間を誰が好いてくれるというのか。

 与えられたものを教授するだけで、傲慢にも何一つ還元しない。

 だから自身の今生での許される行動も、生前と変わるわけがない。

ただ頭を抱え、うずくまり、行動を起こさず、世界など求めず、視界すら遮断し、息絶えよと。

(初めから無理だったんだ‥‥‥)

 視界の中で、増援部隊が幾度となく奮戦しているが、少年の気力はもうここにはない。

 そうしてすべてを諦め、視界を閉じかけた時、微かな救いが現れてくれた。

 少年は目を見開く。

 なんと先ほど吹き飛んだはずの剣の衛士は現われてくれたのだ。

 彼の生存に感激するが、即座にまたそれは沈んだ。

 剣の衛士の横に立っている一人の人間、それは自身と戦った盾の衛士ではなかった。ということは、彼はもう‥‥‥。

 そんな剣の衛士と現れた新たな一人の増援に、熟達の衛士が動揺する。 

 感情の変化のない少年とはえらく対称的だ。

 熟達の衛士は即座に指示を出す。

 その行動に少年の理解は追いつかなかった。

 なんと彼らは道を空けたのだ。そのもう一人の増援へ差し向けるように。

 そして障害のなくなった異形は彼へと突撃する。

 それに少年は絶叫する。

(もう嫌だッ!もう殺したくないんだッ!やめてやめてッ!こんな…こんな…)

 異形がその人間に迫る。少年は彼を視認する。

(こんなことなら…)

 少年はその人間に期待などできなかった。

 その身体は筋骨隆々で頼りがいのあるものではない。通常よりも肉付きが良いくらいか。

(こんなことになるなら…)

 髪も整えられず乱れ、着ている服装は正しておらず胸元が見えている。

 そんなダメ人間のような見た目の者に何ができるというのか。

 そのだらしない人間は右拳を握り、振り絞る。

 あいつらだって武器を持って相手をしていたんだぞ。イカれてる。

(生まれてなんてこなければよかったッ!)

 その願いは至極真っ当だ。誰だって好き好んで他人を傷つけたくなどない。

 だが願ったからといってもう遅い。


 ビキリ‥‥‥‥


 破砕音が少年の脳に伝わる。

 その衝撃はよく知っている。生前に何度も体験した。

 強者から弱者に振るわれる暴力、理論も筋道もない、ただ意思だけで振るわれる冷たき力。

 何度も嫌気が差した力、何度も嫌った力、何度も恨んだ力。

 それがまさか異世界に来てまでついてくるとは…。

 (…⁉……⁉………⁉!!⁉?⁉?⁉⁉!)

 ただ少年にとって予想外なことがった。それは立場が逆であったこと。

 だらしない人間という強者から、異形の弱者から振るわれた暴力であったということだ。

 少年は空を仰ぐ。せっかく異世界で見た初めての空が、こんな汚い視界だなんて。

 少年の理解が追い付かない。先ほど彼らにあれほどの危害を加えた異形が現在横転しているのだ。

 数秒前、目前まで迫った人間は、その振り縛った拳をこちらに放った。

 比べるという行為も必要ないほどその体躯の差は明らかなのに、彼は迷うことなくそれを振り向いた。

 少年は予言した。次の瞬間に挽き肉に変わる目の前の人間を。

 だがそれが現実となることはなかった。

 彼の拳が当たる瞬間、今まで伝わることのなかった痛覚が少年に伝わった。

 生前感じたことがないほどの痛覚に、少年は視界を明滅させていた。

 それを傍から見ていた人間はさぞや驚いたことだろう。いや、彼らにとっては特段驚くことでもなかったのかもしれない。

 まるで物理法則が歪んだように、小さき者が巨大な者を、無手で圧倒したことを。

 少年の視界で空が輝く。

 それを認識した時には、視界の下には矢が刺さっていた。

 おそらく弓兵が露わになった腹部に攻撃を仕掛けたのだろう。

 しかし、弓による痛覚はない。それがさらに少年を混乱させる。

 そんな慌てふためく少年の背筋を寒気が駆け巡る。

 いつの間にか異形の腹上に移動していただらしのない強者が、振り上げた踵を突き刺さった矢に振り下ろそうとしていた。

 少年は異形の体内で自身の腹部を見る。そこには異形より突き出た矢尻の先が少し見えた。

(待っ———)

 これだけの材料が揃えば、少年にも次の出来事が理解できる。

 少年の制止が、だらしのない人間に聞こえるはずもなく、その鋭利な踵は降ろされた。

 踵は異形の腹部に突き刺さる矢を、杭を打つ要領で打ち込み。少しはみ出ていた矢尻は異形の肉を抜け、少年の腹に突き刺さる。

 腹部に走った激痛は、これまで体験した非日常による影響か、容易に少年の意識を刈り取った。

 核となる少年の沈黙に付随したのか、異形もばたつかせていた手足を手に降ろした。

 少年は朦朧とする意識の中で、自身の運命に呆れていた。

 何が夢見た異世界だ。何が物語の主人公たちのようになりたいだ。結局は変われない。

 自分が成ったのは彼らのような正義ではなく、醜い悪だ。生前と変わらない。

 こんな劣個体は早々に命を終えるべきだったのだ。

 なによりもう誰も傷つけたくなどなかった。

 少年はその事実から逃避を望み、すべてを終わらせようと瞳を閉じる。その刹那、彼の脳内に神託が響く。


〝『私が宣言しよう。君は誰よりも幸福になれる』〟


 その言葉に少年は手放しかけた意識を取り戻す。

 自身の愚かさが嘆かわしい。そんな言葉でこうも諦めが悪くなるのか。

 その言葉に保証はない。なによりこんな能力を与えたあのクソ野郎の言葉だ。

 だが仮にも奴は神、世界を収める天上の者だ。

 そんなあいつの言葉を信用するなら、その結末を知らずにここで命を終えることに少年は納得が出来なかった。

 数分の沈黙から少年は息を吹き返す。都合のいいことに少年の生きたいという意思に、異形は反応してくれた。…もしかしたら異形自身も死にたくなかっただけかもしれないが。

 突然行動を起こした異形は腹上にいる強者を振り落とし、闘争を試みる。

 その行先は都市とは反対方向である大森林。

 手足の位置を不規則に入れ替え、最短経路で森林へと入った異形は進み続ける。

 追手がない。衛士達は異形を見守るばかりだ。

 都市への攻撃がなくなったと分かったからなのか、森林内部を警戒しての事なのかはわからない。

 異形は命からがら、森林に身を隠した。

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