1.1 来訪者変質然して異形へ、彼方へ轟け我が誇り
とある都市の工房、その過去記録————
初めまして、親愛なる後継、顔も知らぬ君よ。
君がこれを読んでいるという事は、私は対応を誤まり、君はその成果を獲得したらしい。
まずは、御礼を。君が私の成果を受け取ってくれたおかげで、私の生に意味が生じた。
さて、さっそくだが本題に入ろう。
悪いが私は本を嗜む者でもなければ、詩を謳う者でもないのでね。
まあ、それほど我らが戦う相手が強大だということでもあるが…。
君は〝魔女〟というものをどこまで知っている?
魔術に長けた女性?
男を拐かす魔性の女?
人々に災厄を巻く現象?
悪魔と契約し、堕落した魔術師?
時代に排斥された悲劇のお姫様?
魔術に携わり、その頂きを目指さんとする君には常識であろうが聞いてほしい。
これは重要な事前準備なのだ。
彼女とこれまで相対してきた我ら二十三のウィッチクラフト、その知識を君に正しく継承していただきたい。
未だ解明に至らず、探求を始めた我らが数か月、早くとも数日で絶命させられた事実をよく吟味してほしい。
そして、君はこう結論付けるはずだ。〝高次元の魔術を操る災害〟だと。
人の身、それも単騎で、なんの防護施設も魔術支援も用いず、これまでの侵攻を凌いだ事実が、君をその結論へ至らせるはずだ。
概ねその思考経路に間違いはない。だがまだ足りない。
よし、ここで整理しよう。
まずは誘惑を得意とする魔性、それは違う。我らに催淫の類は効かない。他の術式から自己を守るのは初歩であり、最も得手とするのが魔術師だ。人一人の肉体を一つの世界、情報体と定め、干渉強度を高めた我々には当然のことだ。
魔と交わる者、それも違う。そうであるならば、教会がそれを捨ておくはずがない。奴らの神秘が効かなかった。それがなによりの証拠だ。
そして災厄を巻く現象、時代に排斥された女、それこそ馬鹿げた話だ。だが事実、それが一番近い。
片方、もしくは両方の融合現象。それが単純な技と力で、矮小なる我らを屠った。
至極当然で単純な結果だ。〝魔女〟と恐れられる理由にも納得がいく。
何を言おう、私も彼女と対面するまではそう考えていた。
結論を言おう……
あれは〝魔女〟などではない。
もっと正確に言えば、元〝魔女〟だ。
だからもし君が〝魔女〟について調べていたのなら、それは無駄にはならない。
元を辿れば、〝魔女〟なのだ。感情を無くした人形でもあるまい。彼女の精神構造を解明すれば、自ずと糸口も見えてくる。
もう一度言うが、彼女は元〝魔女〟で、今はそうではなくなったのだ。
彼女は身一つで我らの知識を超え、神域に至った。
しかし、この世界は一神教、大神が障害となる存在を許すはずがない。
‥‥我らが彼女に苦しめられている現状からわかるだろうが。
彼女は大神をも屠り、その使徒すらも退けた。
この世界に彼女に敵う者はもういない。
君の探求心が風前の灯火であり、今まさに掻き消えようとしているのなら思いとどまってほしい。
なぜなら、探求の果てはもうすぐなのだ。
これまで読んできたものは全て、私が生きていた直前までの記憶と記録だ。
なぜ記録できたかって?
それはこれが私の存在と引き換えにした代替魔術だからさ。
ここには私が彼女と交戦した三十二日間の記録が書き込まれ、その特性が記されている。
それも最高の魔術師である私‥‥‥私‥‥わたし…。
不味いな、自身の名すら思い出せないとは。‥‥ここまでとは想定外だ。
まあ、辻褄を合わせているのだから当然か…。
もしかしたらこれを読んでいる君は私を知っていたのかもしれない。
悲しいことにもう君は思い出せないのだろうね。
しかし一縷の望みが出来たからといって、一切の手加減なく挑んでほしい。
なぜなら彼女は正しく〝高次の存在〟なのだから。
君が思うほどより、あの〝円環〟は厄介だ。一筋縄ではいかない。
…君が納得できるのなら、彼女の攻略手段を言おう。
ただ『待つ』ことだ。あとは君の選択に任せるよ。
それでは名も失った私から、名も知らぬ君への賛辞は終わる。その成功を祈っているよ。
これ以降は三十二日間の戦闘記録を記載する。
・空を覆う空圧の圧縮による地盤の陥没。
—————同系統の魔術による空圧の両断。こちらの残存魔力の五割の消費。
・超高度よりの高速落下。接合部からの火炎攻撃。
—————直撃。火炎攻撃による下半身の欠損。治癒魔術による欠損箇所の修復、残存魔力の五割の消費、魔力枯渇。自然回復による残存魔力の回復。戦線復帰。
・拘束魔術による肉体干渉—————・・・・・・
◇ ◇ ◇
大森林、中心地帯———
「痛ッ!」
地面に放り捨てられ悲痛の声を漏らす。神によってこの世界に送り出してもらえた。
立ち上がった少年は辺りを見回す。
見えるのは森林、草、湖。人が住んでいる気配が微塵もない。
せめて、町の近くとかに送り出してほしかったという愚痴が脳裏を過ったが、文句は言ってられない。ここから自分の新しい、今までの人生で夢見た生活がスタートするのだ。
(…まずは、人を探そう。それか町だ)
自分にはまだ何も情報がない。ここに留まって思考を巡らせても良い結果になるとは思えない。行動あるのみだ。
森林内部を探索する。獣道すらない凸凹の地面を踏みしめ、希望を持って歩み続ける。
(まっすぐに進もう、もしかしたら道なりに出るかもしれない…)
微かな音でも取り入れようと耳を澄ましていると、狼の遠吠えのような音が聞こえた。
それが焦りを焚き付け、歩調が早まらせる。
道中、葉や枝が肌に擦り切れ血が出る。服をたくし上げて、抑えながら森を進む。
すると、木々の先に光が見えた。きっと出口だ。
走り抜け、森を抜けた。そこに見えたのは、広々とした平原。
この世界に来る前に見た整備されたアスファルトの街ではなく、人の手が施されていない土地だと一目でわかる。
そして改めて自分が異世界に来たことを実感する。
「おお…」
つい感嘆の声が漏れる。自分の心まで広々とするような感覚、それがとても心地よい。自分はこれからこの大地を駆け抜けるのだろう。
幻想の中で人々に夢を与え、時に現実にさえ感情を伝播させる。そんな彼らが歩んだ冒険譚、その世界に自分も足を踏み入れるのだ。
大きな期待と一抹の不安を抱え、新しい自分の人生を踏み出そうとした時。
「ガウッ!」
突然、自身の右腕に熱を感じた。体のすべてに電撃が走ったような感覚に右腕を凝視する。そこには殺気立つ獣がいた。状況を理解し、激痛が走る。
「うわぁ!」
獣は荒い呼吸を吐き、鋭い牙を自分の右腕に食い込ませる。
「い、痛い!…くあ!離せ!」
抵抗を試み、まだ自由な左腕を振るう。
しかし、その行動は無駄に終わった。
拳が当たる前に左腕が何かに引っ張られ、こちらの腕にも熱を感じた。その瞬間、次に見える光景が容易に想像できた。左腕を見るとそこにも先ほどと同じ獣がいた。
直後、両腕にさらなる激痛が走る。
「うわああああ!い、痛い!やめ、やめてぇ!」
獣は食い込ませた牙ごと頭部を左右に揺さぶる。そのたびに牙が食い込んだ部分から血飛沫が漏れる。傷口をこじ開ける、耐え難い激痛に悲痛の声が出る。
少年は絶叫し、助けを求める。
「た、助けて!誰か!」
しかし、辺りには誰もいない。助けが来ないことを悟った少年は絶望した。
意思の疎通ができようもない生物に対して叫んだが通じるはずもなく、獣の噛む力は一層強くなる。
「あああああ、ああ、へあ⁉」
叫ぶ声に間抜けな声が混じる。右目が急に暗闇に包まれた。何が起こったのか理解する間もなく右目、右の額から血が噴き出る。
頭、両腕を揺さぶられる。耐え難い痛みの連鎖に間抜けな絶叫が漏れる。
未だ抵抗がある獲物に、食欲による焦燥感も相まって獣に少しの苛立ちを与えた。
頭部、両腕を喰らう獣は対象の体力を奪うため、何度も地面に叩きつける。
程なくして、捕食対象は沈黙した。
少年を貪る獣はその体を引きずる。引きずるごとに彼の体から血飛沫が上がる。大量の
血を短期間で失ってしまったためか、体が脱力し意識が朦朧とする。
そして少年は獣により、また森林内部に引きずり戻された。
◇ ◇ ◇
大森林、内部奥地———
そこに人の気配はない。聞こえるのは荒い呼吸のみ、闊歩するは大森林の前支配者たち。
前支配者たちは捕獲した食料を主に捧げる。
食料を持ち込む際に口からの涎が止まらない。しかし食べてしまうことなど許されない。自身が食べるものは主が食べてよいと認めたものだけ。
主の目前で食に走った兄弟は主に捕食された。
逆らおうなど考えもしない。逆らおうと意識したとき、体が、本能が逆らうことを拒んでいる。
だから自分にできることは我慢することだけ、涎を垂らしながら、自身の本能に抗うのみ。本能に負け、主に捕食されるまでが自らの寿命だ。
前支配者たちはそれまで己が主に従い続ける。
そして、中央に位置する小さな崖下、食糧庫に座すのは自分達の新たな主。
欲を駆り立てる物を捨てるのは、何たる皮肉か。
崖下に座すのは獣達よりも二回りは巨大な獣。
その様は、四大魔獣の一角である獣王、その配下である魔獣に逃亡を望ませるほどの恐怖を与ええる。
だが、逃げることなど許されない。逃げようとした仲間は見せしめに捕食された。
以前の自身らの主であった獣王も捕食された。
あんなに足が速かったのに、あんなに強かったのにいとも容易く捕食された。
だから森の支配者たちは新たな主に食料を捧げ続ける。捧げものが獲得できなかった時が自分の死期だ。なぜなら持ってこなかった仲間も捕食されたからだ。
崖下から聞こえる咀嚼音に向けて、今日の成果を捧げる。
珍しく大物を獲得できたのに…。
獣は未練を振り払い、人型の成果を投げ入れる。
◇ ◇ ◇
大森林、崖下———
「ヒュッ!」
体に奔った痛みに、沈んでいた意識が引き戻される。
激痛によって気を失い、激痛によって目を覚ます。これを繰り返し行い、今が起きているのか眠っているのかを曖昧にさせる。
「ひゅーー、ひゅう」
か細い呼吸を繰り返す。喉が熱い、顔が熱い、四肢が熱い、呼吸がまともに出来ない。生命活動を維持出来ない。
(僕はどうなっているんだ?・・・ここはどこだ?)
はっきりとしない意識の中で、まだ無事な左目で周囲を確認する。
崖上には数えるのも馬鹿らしくなるほどに先程の生物がいた。
それだけでも意識を手放したくなったが、さらなる絶望が崖下の中央に座していた。
そこにいるのは三つの頭部を持つ巨大な狼。
自分が生前、何度も聞き、何度も見た神話の生物。それの存在によって改めて自分が別世界に来たことを再確認する。そしてこれから自分に起こるであろうことも容易に想像できた。
三首の獣はその六つの目で自分を視認する。
「ヒュッ⁉」
悲鳴にもならない声が上がる。蛇に睨まれた蛙とはこのことだ。
明らかな格上の相手、敵わない相手、捕食される未来。
獣はこちらに歩み寄る。
ズ…リ、ズリ…‥、ズ……リ…。
逃走を試みるが四肢は動かない。芋虫のように胴体で這う。
(ははっ、そうか…。両手、両足しか傷つけなかったのはこのためか…)
簡単な話だ。手下がボスに向けた捧げもの、それが今の自分だ。
このような状況にも関わらず冷静に思考する。それは諦めか、それとも今もなお助かろうとしている行き汚さか。
しかし、それはコンマ数秒の先延ばしに過ぎない。少年の運命は揺るぎなかった。
「フルルルルルッ!」
獣は喉を鳴らし、舌なめずりをする。奴からすれば少年は新しい餌だ。
そして自身の食事になんの抵抗がいろうか。誰に文句を言われる筋合いもない。
獣の常識。強い者が捕食し、弱い物を捕食する。弱肉強食。
ズシリ……‥。
「ぶッ!」
獣の脚が自分の胸を押さえつける。動くことを不快に感じたのか行動が否定される。
獣は徐々にその体重を少年に乗せ、彼を押しつぶす。まだ痛みを感じて声が上げられることに少年自身も驚いていた。
「スンッ‥、スンスンッ…」
獣は少年の食料としての位の高さを評価するように自身の鼻先を用いる。
食料として評価された少年は、空腹を満たすものだと認められる。口内に広がるであろう鉄の味、甘美の味を想像する。
その巨大な重量感を感じさせる牙が持ち上がり、獣の口が捕食対象の腹部に近づく。
「‥‥あ…‥」
自身の末路を予期し、声が漏れる。
この獣が自身を舐めるだけに止め、懐いてくれないかと淡い期待まで抱く。
しかし、そうなるはずもなく無慈悲に獣の牙はおろされる。
グジュリッ……。
「あ」
熱い。
「アアあ」
熱い。
「あああアああアァああぁあああアアアアアアァアアアアぁアアぁアアアアアアアアアアアあああああああアあああああああああアあああああああああアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああアああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアア」
絶叫。聞く者の耳を不快にさせる音の弾幕。捕食対象は今、その腹を、内臓を、腸を引き出される。
意地の悪いことに捕食者は食事を深く味わうように少しずつ、少しずつ捕食する。
ブチッ!ビチッ!ビチビチッ!ブチブチッ!
腸が引きはがされた。内臓を引きずり出された。腹の中が空洞になった感覚に陥る。
(熱い!痛い!熱い!いた、熱い!痛い!熱い!)
こんな熱さは知らない。耐えられるはずがない。さっきのこいつの手下に嚙みつかれた熱さなど可愛いものだ。
(いたあついたあついあつたあついたついたたうついたいあついいたあついたあついあつたあついたついたたうついたいあついいたあついたあついあつたあついたついたたうついたいあついいたあついたあついあつたあついたついたたうついたいあついいたあついたあついあつたあついたついたたうついたいあつい)
脳に情報が幾度となく錯綜し、正常な意識は即座に手放された。
「ハハッ!」
あまりの痛みに笑いがこぼれる。
気狂う!こんな感覚は初めてだ!正気を保てない!正気でなんていられるはずがない!
「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!」
血交じりの発狂。今確かに一人の人格が破壊された。救いはない。ここに着た時点で救いなどあるはずがない。
しかし捕食者はそんなことなどお構いなし。ただ食事を楽しむのみ。
そのはずだった……。
◇ ◇ ◇
少し時は遡り——————
その獣は生まれながらに勝者であった。三つの頭を持ち、多くの物を屠って来た。
目を覚ますと辺りは自分の知らない景色、知らない臭い、知らない大地。故郷でない事など一目で理解できた。
だがこの獣の行動は早かった。三首の獣は新たな巣を求めたのだ。
森林を視界に捉える。暗い場所はこの獣の趣味であったのか、それとも郷愁の念を彷彿とさせたのか。
獣は森林の奥地に進む。するとある窪みを見つけた。慣れない土地の疲れから休憩を試み、体を丸め眠る。
辺りを支配するは静寂。静かであることも獣の居心地をよくさせた。
三首の獣は安眠を貪っていたその時…。
「グルルルルルッ!」
細胞が突如発生させた警告信号から四肢を駆動させる。
獣は直ちにその場から立ち退き、音から距離を取る。
そこには自身と同じほどの巨躯を誇る獣が一匹。
獣の後ろにはそれと同じ形をした手下たち。
そうか、こいつが頭か…。
そう理解した三首の獣は警戒強度を引き上げ、敵対者の行動に注視する。
次の瞬間、三首の獣に驚愕が襲う。なんと目の前の獣から、そいつよりかは小さくあるが同じ形をした獣が分離した。
三首の獣は知らない。目の前にいる獣こそが人類を脅かす存在、獣たちの王、東西南北に巣くう四大聖獣が一角、獣王であることを。
だがそんなことは三首の獣には知ったことではないうえ、知ったところでやることはあまり変わらない。襲い来るというのなら迎え撃つのみ。そしてこの住処を勝ち取るために。
先手を打つは三首の獣。獣王を狙ったのは数を増やされるのは厄介だと考えたからだ。
三首の一つが目前の敵に襲い掛かり、その牙が獣王に接近する。
三首の獣は己が勝利を確信する。今まで幾度もこの一噛みで獲物を屠って来た。
例え避けられたとしても残りの二つの頭が獲物を追い詰め、屠り殺す。
だがさすがは獣王というべきか。初めの一噛みなど、いとも容易く避けおおせた。
だが三首にとっては想定の内だ。残りの二首の四つの目で獲物を探す。
しかしその目には獲物を視認できない。三首の獣は各々の頭を巡らせる。
自分に死角など存在しない。そう豪語していたが、その六つの目には獲物を確認できない。
逃げたかと考えた瞬間、頭部の一つの後頭部に衝撃が走る。その頭部は痛みに呻きを上げ、衝撃の方に視線を向けるがそこには何もいない。
手下どもが何かしたのかと考え、そちらに目を向けるが行動を起こした痕跡はない。
何が起きているのか理解できず、また理解を起こす前にまたも後頭部に衝撃が走る。
三首の獣はその衝撃の正体を頭部の一つの目の端が視認した。
視野の片隅で瞬時に移動した影。
この時、三首の獣は獣王が消えてなどいないことを理解する。
ヤツはいなくなってなどいない。
ただ自分の死角にその四肢を滑り込ませているだけであるということを。
これこそが獣王を獣王足らしめんとする異能、数々の戦闘経験から獲得した究極の第六感。獣王は今この時、相手がどこを見ていて、どこを見ていないのか理解している。
肌に突き刺さろうとする視線の数々、獣王の皮膚感覚はそれを敏感に察知し、視線を回避していた。
獣王の勝利への核心は揺るぎない。三首の獣の確かに視線が多く、死角も少ない。だがそれだけだ。獣王にとっては相手が増えただけのこと。多対一などすでに経験済みだ。死角の範囲が狭いだけで、そこに体を滑らせることなど造作もない。
崖から崖への跳躍、地面すれすれの滑空、視認を拒む疾走。
これらを駆使し、獣王は対象を殲滅する。
三首の獣は獣王の原理を理解、学習し、行動に移す。
ヤツが死角に入るというのなら死角をなくしてしまえば良い。
獣は三つの頭を背中合わせに配置し、それぞれの頭の死角を補う。そして崖に着地する獣王を視認した。見えてしまえばこっちのものだ。
こちらからは攻撃できない。するとしても頭部の一つで行うしかない。攻撃行動に入っている頭部以外がそれを行えば、たちまち獣王が死角に再度潜り込まれると考えたからだ。なので守りの体制に入り、攻撃を待つ。相手が攻撃を行えば、自慢の三首でカウンターを行う。
自身の行動を決定し、構えている三首の獣に更なる驚愕が襲う。
三首の頭の一つに鈍痛が響く。
確かに三首の獣は視線を巡らせ、確かに死角など存在するはずがなかった。しかし事実として二つの頭の間、その先に衝撃が走る。
よろめきながらも即座に死角を無くす態勢に戻ると、空間に突如獣王が姿を現した。
獣王は相手に死角がなくなったこと、正確には自身の肉体を隠せる死角がなくなったことを理解した。獣王の皮膚感覚が過敏に刺激され、獣王自身にそれを理解させる。
そして、どうすれば相手の視線から外れるかも。
獣王はそれを行える射線位置に着くと後ろ足に力を込める。
今度は走るのではなく飛ぶように。
三首の獣の三つのうち二つの頭部の視線の間、その境目。そこには虫一匹しか入れないような隙間の死角しかなかった。しかし、獣王の跳躍力がそれを可能とする。
獣王の跳躍はその身体を音速の域に到達させ、高速の粒子へと変換させる。そして獣王は三首の獣の死角の隙間に、点と化した自身を跳躍させた。
粒子は弾丸と化し、標的に命中する。対象は自身に何が起こったのか理解できず狼狽える。獣王はその隙を逃さない。間髪入れず同じ手段で攻撃を行う。
苦痛に耐えかねた三首の獣はたまらず攻撃を行う。しかしそれは当て勘に頼った命中性の低い攻撃だ。
そんなものが獣王に当たるはずもなく空を切る。
三首の獣はすぐさま防御態勢に入る。先ほどの手段で死角をなくし、獣王を探すがどこにもいない。
先ほどまではこの手段で黒い影をギリギリ捕えることができたが、今度はその痕跡すら見えない。
三首の獣は相手が未知の攻撃手段を隠し持っているのかと萎縮し、慌てて三つの頭を総動員して対象を捜索する。しかし捕えることはできない。
発見することが出来なくて当然だ。獣王はすでに地上にはいない、いるのは上空。獣王はそこで自身の牙を煌めかせる。
気づいた時にはすでに遅く。獣王の牙は三首の獣の頭部のひとつの首筋を顎で掴み。地面に叩きつけた。
直後、残り二つの頭が痙攣を起こす。分かれていても痛覚は共有されているようだ。
気を失う程の衝撃を受けた三首の獣はそれにより四肢をその場に倒れさせた。
◇ ◇ ◇
「フシュッ!」
体内の空気を入れ替え、獣王は敗者を見下ろす。
自分達の縄張りに座していた侵入者を排除した。
こいつはなんだ?今までとは明らかに違う。見たこともない生き物だ。
対象の容姿に困惑する獣王。
だが問題はなかった。
多少は要領を掴むのに苦労したが、種さえわかればこの通り、いつもと変わらない。
「フシュルルッ…フシュルルッ!」
呼吸が荒い。こいつの死角はなくその範囲は狭かった。
そのため体の全機能を起動せざるを得なかった。
本来であるならば一瞬で片が付いている。絶頂期であればまだしも、今は低迷期だ。獣王は力の半分も出せていない。
自分が弱っているところに付け入ろうとする人間どもを警戒するための体力を多く消費してしまった。
この森を、自分の縄張りを、自分の分身である子供達を守らなければ。
そうしなければならないが今は疲労困憊だ。無理をし過ぎた。
今はこいつで腹を満たし、養分を蓄え、回復に勤しもう。幸運なことに今回の相手は大物だった。これなら自分だけではなく子らの腹も満たせるだろう。
そう考え、身動き一つしない獲物に近づく。
獣王の強者としての油断か、低迷期により万全の状態でなかったためか。
この行動は狼王にとって間違いであったこと、後になって気づく。
足元のそいつを食べやすいように食いちぎろうとしたその時。対象の二つの頭は突如動き出し、獣王の前足を食いちぎった。
◇ ◇ ◇
油断した!油断した!油断した!
三首の獣は歓喜している。この獲物が強者であったことに感謝すらしている。なぜならこの油断は強者の持つ余裕から来たものだからだ。
三首の獣は今まで多くの者たちと戦ってきた。相手は自身の体躯よりも小さな弱者ばかり。しかし、その弱者の中で唯一自分を傷つけたものがいた。
三首の獣がここにくる以前の話だ。弱者は自身に挑み、敗れた。体の下半分を食い千切られ息絶えようとしていた。
残った上半身を食べてしまおうと、その肉塊を口内に運んだ次の瞬間、驚くことに口内で痛みが走った。急いで吐き出し、確認すると捕食対象の手には自身の牙にも満たない小さな短剣が握られていた。
その光景を見た三首の獣は、あり得たかもしれない誇張した未来に僅かながら怖気を感じていた。
この経験から三首の獣は対象が完全に沈黙するまでは攻撃を止めず、食さないことを誓い、また自身も強者とぶつかった時、同じ手段を用いることを学習した。
その罠に嵌ったのが、今二つの頭により掲げられている獣王だ。
獣王は身をよじり、逃れようとするが三首の獣の咬筋力がそれを許さない。そしてその牙は獣王の肉の隙間をかぎ分け体内に侵入する。
獣王から悲痛の声が出る。獣王の配下が三首の獣の足元で己が主のために善戦するが、三首の獣はそれを歯牙にもかけない。注目するのは今自分が持ち上げている対象だけだ。
牙はさらに獣王に食い込む。地面に滴る血は湖と化し、辺りを血の海にする。
血交じりの悲鳴を上げる獣王の目に自身の子らの姿が映る。
獣王は今の自分を恥じた。
三首の獣に敗北しているからではない。自身が痛みに声を上げていることにだ。
今自分が示すべきことは痛みに声を上げることではない。
獣王としての誇りを、子らに示すことだ。
喩えこの牙が、この爪が陰ろうと。喩えこの四肢が砕け散ろうと。この誇りだけは失墜させるわけにはいかない。この誇りを我が子らに伝えなければならない。
獣王は頭部を天に掲げ、最後の力を振り絞る。
あの空を衝くが如く。遠く、彼方の大地に己が存在を轟かせる。
響き渡るは獣王の最後の咆哮。森の支配者である証左。
獣王の子らはその姿に見入るばかり。
すると子の一人が獣王の咆哮に呼応するように咆哮する。この誇りを消さないために、この誇りを受け継ぐために。
今この時を持って、災害四大魔獣の一角、獣王は確かに地に堕ちた。
三首の獣は確かに勝利したのだろう。
だがその誇りまでは穢されない。獣王は最後の時まで咆哮を止めることはなかった。
◇ ◇ ◇
三首の獣は口の中に広がる美味の味に酔いしれる。強き獣が自身の血肉と化している。それだけで力が体の奥底から漲る。加えて、それが勝利の末に獲得したものであるならば格別だ。
足元を見下ろす、そこには獣王の子らがいる。こいつらも腹に入れるのは悪くはないが、有効活用しよう。
しかし獣に意思の疎通などできるはずもなく、その数日間の間、獣王の子らのうちの数匹が抵抗したが、獣たちが三首の獣に敵うはずもなくその畏敬に屈する獣も少なくはなかった。
子らにとって、もちろんそれは簡単な屈服ではなかった。獣王が示した誇り、それが最後の拠り所となり、彼らの反逆心を奮起させた。
だが三首の獣が日々行う暴力に、本能的恐怖に彼らの精神は疲弊していった。
他の子らを服従させるために見せしめに食われた。逃げようとしたヤツも食われた。何匹かは森の奥地に逃れていたが、まあそのうち野垂れ死ぬだろう。そして残ったのは誇りを失ってしまった獣王の子達。
そこから数日は獣王の子らが三首の獣の食料と化していたそんなある日、子の一匹が三首の獣に供物を捧げた。
その獣はまるで褒美だというように何も危害を加えられることはなかった。
その様子を見た他の子は己が生きる道を完全に理解した。
そうして子が三首の獣に食料を捧げる構図が出来上がった。
そして、月日は流れ、今日も獣王の子の餌食となった人間が一人……
◇ ◇ ◇
「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
そして三首の獣の餌食となっている狂人が一人。
よじれる内臓に笑いが止まらない。掻き分けられる臓腑に悦が沸き上がる。食料と化した自身が惨めで滑稽だ。
人格がその端から形を失い、零れ落ちる。
自分の最後はこんなものなのかと。その末路は呆気なく失笑する。
自分の中の黒い部分、その淵に眠る狂気が徐々に正気を蝕んでいく。
三首の獣は自身の食欲を満たすため、目の前の人間の内臓を貪る。その湿り気のある瑞々しい味を堪能する。
「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
頭上で騒がしい。この騒がしさをなくすために頭を食らってしまおうか。そう考えた三首の獣に突然口内に不快感が発生する。
無味無臭の柔らかな物体、獣の背筋に怖気が走る。あまりの不快感に頭部を餌から離そうと試みる。だが、それは実現しない。
三首の獣は後方に退こうとしたが大きな力で引き戻された。自身の口先を確認する。
そこには自身にへばりつく黒い肉塊、黒い蛆。
三首の獣はこの餌を仕留め切れていなかった手下の無能ぶりに歯噛みする。
この者に口をつける前に十分に警戒した。鉄の匂いを確認し、嗅覚による安全性の確認も行った。斬撃による脅威が存在しないことを調べた。
だが事実としてこの餌はまだ脅威を隠し持っていた。口内で黒い肉塊を噛みきる。だが噛み切れど、嚙み切れど肉塊は溢れるばかり。増えてすらいる。
三首の獣は徐々に頭部を、次に胴体を、その手足を徐々に黒い肉塊に飲み込まれていった。
獣は獲物の息の根を止めなかった。それは以前そうあるべきだと誓った在り方を疎かにした油断からだ。この獣は油断によって命を終える。
獣王に変わった森林の新たなる王は今、醜く黒い肉塊によって討ち取られた。
◇ ◇ ◇
「ハハハハハ‥…は?」
狂人は自身の肉体に起きた異常によって正気を取り戻す。
視界は少しぼやけているが正常だ。だがそれだけである。それ以外で自身の肉体が今どうなっているのか認識できない。
(僕は今どうなっているんだ?)
状況の理解に勤しむが全く理解できない。
それに先ほどまで自分を貪っていた獣の姿もない。
(僕は死んでしまったのか?)
目の前の脅威の消失によって、その結論に辿り着く。だがその結論はすぐに否定された。狭まれた視界でも現在自分がいる場所は先ほどの崖下で、崖上には自分をここに連れ去った獣達がいる。
獣達は目の前に現れたそれに恐怖している。あまりの恐怖に失禁している個体までいるほどだ。だが当の本人は気づいていない。
脳に送り込まれている情報量の多さから自分の視界が通所よりも高くなっていることにようやく気づいた。
(なんだこれ⁉…‥‥そうか!わかった!わかったぞ!)
考えを巡らせた少年は自身の生前に読んだフィクション、それと今の状況を照合してとある答えを導いた。
物語の中の主人公達、彼らは危機的状況の中でその力を開花させ、活路を見出した。自身の視界の状況、脅威の消失からそれが起きたのだと、そう結論付ける。
(あの神様も人が悪い。体が傷つかないと発動しない能力なんて…。初めに発動条件を聞いておけばよかったけどしょうがない。今わかっただけでも収穫だ。さてここからだ!‥‥まずはあの平原の先に行ってみよう!あの先に運よく街なんかがあればよいんだけど…)
崖上に視線を向ける。視線の高さからに捩り上れそうであることが伺える。
(僕のこの能力はなんなのかな?体の増大?)
自身の能力を考察する。だが視界が悪いせいで状況が確認できない。
(まあ、それはおいおいで良いか…ん?あれは…)
再度、崖上に視線を向ける。そこには恐怖によって体を強張らせた獣達。何匹かは逃走を試み、もうこの場にはいない。ここにいるのはあまりの恐怖に体が起動しなかったもの、対象のその巨大さに絶望したものの二者だ。
(‥‥‥さっきはよくもやってくれたな、ちょうどいいや)
自身に加えられた傷。それを思い出し、復讐心が芽生える。それに能力を確認したかったから都合が良かった。
(試しに殴ってみるか?・・・ていうか今僕って人間の形をしてるのかな?)
そう考え、体を動かそうと試みる。
(?…?…⁉)
試してみてわかった。自分の体は全く反応しない。自由意志が聞くのは視界だけ。それ以外はびくともしない。
(どうなってるんだ……ぶっあがぁ!)
自分の状況に旋律していると、さらなる事態が自身に襲い掛かる。
突如、猛烈な吐き気が襲い掛かり体の中の物を吐き出した。吐いた感覚は確かにある。だが、感覚だけしかわからない。巨大化した自分の体も連動して吐いたのかはわからない。
視線を下に向ける。そこにあったものにさらなる吐き気が呼び起こされる。あまりの悪寒に目を背けることすら忘れていた。
無数にうねうねと蠢く小さな黒い触手。そして黒いヘドロの海。その集合体は一本ずつがケタケタと笑っているかのように蠢いていた。
(なんだ⁉なんなんだこれ⁉うぅ、気持ち悪い!それに吐き気が止まらない)
頭痛、嘔吐感、肉体感覚の喪失。これらが自身の意識を刈り取るべく襲い掛かる。
(誰か…誰か助けて!)
あまりの苦痛に助けを求める。しかしその声なき救援信号を受け取るものがこの場にいるはずはない。絶望しかけたところで視界の景色が移動した。どうやら言うことの利かない肉体が動きだしたようだ。
肉体は崖上を上り、獣たちの前でその身体を停止させる。
「ギャッ⁉」
獣の悲鳴が漏れる。ヘドロの足は狼を瞬きの間に踏みつぶした。
(おい、何をする気だ⁉)
最悪な予感が頭を過り、それは見事に的中した。視界に黒いヘドロが動き出すのが見えた。ヘドロは獣達の中の一匹を掴み上げ、顔に近づける。
そして次の瞬間‥‥
自分の口の中で感覚が走った。鉄のような血の味、骨の破砕感覚、粗雑な肉の食感、獣の悲鳴。すべてが口の中で暴れだす。
(ああ…あああぁぁ、気持ち悪い!気持ち悪い!気持ち悪い!…んばらがぁが!)
あまりの不快感にさらに吐き出す。先ほどと同じく黒い触手、黒い海が出現する。
驚くことにその触手と海は近くにいた獣をつかみ取り、飲み込んだ。
さらなる不快感が自身の口内を襲う。
(俺こいつらを食ってるのか⁉……あげぁぁっぁぁああああ)
さらに吐き出していた。逃避願望が増し、自身の体であるにも関わらず懇願する。
(ああああああああぁぁっぁああ、もうやめて!もうやめて!もうやめて!お願いします!もう無理です!お願いです!やめてやめてやめてやめやめやあああああああああああああぁっぁああがあああああ)
しかしそんなものはお構いなし、肉体は獣の肉を貪る。
そしてその場から獣達がすべて消失し、苦行の終了を察知して安心する。
荒い呼吸を整える。だが頭痛、嘔吐感は消えない。今もなおあり続ける。
あまりの倦怠感に気を失いかけたが何とか持ちこたえた。
するとその頭痛と嘔吐感は、この力を自身に与えた神への嫌悪感と怒りに変わっていた。
(あのクソ野郎!こんな能力だったなんて。冗談じゃない!冗談じゃない!冗談じゃない!こんなもの恩恵でも、祝福でも、チートでもない!こんなのただの呪いだ!)
怒りの矛先を数刻前に会話していた神に向ける。だがそんな怒りで収まるはずもなく、またこんなものではまだ足りないのが当然だ。
その時、少年は神の手向けの一言を思い出す。
〝『安心すると良い、私は君を常に見ているよ』〟
その言葉に更なる怒りがこみ上げる。
(ふざけるな!許さない!許さないぞ!僕をこうした責任、この苦痛の報いを必ず受けさせてやる!)
異常事態であるにも関わらず苦言を吐く。自分が理想としていた計画が狂い、怒りを露わにする。
そしてここには存在しない神に向けて感情をぶつけていると、突然巨大化した身体が動きだした。
(クソ!また動き出した。止まれ!止まってくれ!)
制御を試みるがもはや自分に自由意志がないのは明白。
そのまま制御の利かない肉体は森林を進む。
それが進むたびに森林から悲鳴が上がる。森林の住人であった動植物たちは己が領域を侵略され、その存在証明が剝奪されていく。まるで大地がヘドロと化した少年に呼応しているかのようだ。
それは森を掻き分け行進する。木々は自ら道を開けるようになぎ倒され、動物は身を隠す。止められるものはどこにもいない。今この瞬間はそれが森の王となった。
(ぼ、僕はどこに向かったいるんだ?)
森林を直線に突き抜ける。この体が思考するとは思えない、ただ機械のように進んでいるだけだと思えた。
しかし、森林を抜けた時、それが違うことを理解した。
自身が進むその彼方、そこには壁に囲まれ侵入を拒む都市があった。
森林から出現したもの、それは黒い怪物であった。形のない異形であった。外見を形成しない流体であった。体躯の長さは森林の木々と大差ない。四足歩行のそれは人々を滅するべく都市を目指す。
怪物は都市を飲み込むべく津波のように行進を止めない。その勢いは増すばかり。
(だめだ!このままじゃあ…)
街に到達してしまう、街に放たれたら自分が何をするかわからない。最悪の場合犠牲が出てしまうかもしれない。そう考え止めようと試みるがやはり言うことを利かない。
頭部に痛みが走る。都市の方から弓が飛んできた。だがそんなものでこいつは止まらない。止めるどころかこいつを興奮させてるようだ。自分の化け物と化した体に意識を向けると雄叫びを上げ、行進速度は増す。
その後も自分を仕留めんと弓が迫り、頭部に命中する。この都市の護衛はとても優秀なようだ。この距離から正確に自分の頭部を射抜いている。
(ダメだ……誰か!誰でもよい!誰か僕を止めてくれ!)
犠牲が出た後の結末を想像し、助けを求める。漫画や小説では怪物になり果てた人間は討伐対象となり、討ち取られてきた。そんなのは嫌だ!せっかく異世界に来たのに自分の望みや目標を何一つ叶えることなく終わってしまうなんて。
すると目の前に一人の人間が現れた。普通よりかは大きな巨躯を誇る男は手に持った大盾を掲げ、体当たりを試みようとしていた。
(ダメだ、来るな!いくら何でもお前じゃ僕を止められない!無茶だ!)
巨躯の男に、見下ろした先にいる小さき人間に忠告するが、声は届かない。冷静になり、自分は声を発することもできないことを再確認する。
もう遅い。男は盾を構え、完全にやる気だ。なんて無謀な男なんだ。たった一人でこの恐ろしい姿、力を誇る怪物に飛び込んでくるなんて…。
実際には確認できなかったが、おそらく今の自分は、自身を食い物にしていたあの三首の獣を倒している。つまりそれだけの力を持っているということだ。
自分以上の巨躯を誇る怪物ならわかる。なのにただの人間がたった一人で僕を止めようと試みるなんて。
不可能だ。
そう結論付け、自分の今の体への抵抗を諦める。ここまでくればもうおしまいだ。
このあとはおそらく、自分は人殺しの怪物として追われる身となるだろう。この姿にならなければ看破されることはないだろうが。もしも看破された場合、この世界の軍事力が僕を撲滅するため躍起になるだろう。身を隠す算段を立てなければ…。
そう考え目の前の男から目を逸らす。人が死ぬ姿なんて好きで見たくもなかったからだ。
グチャッ!
行動意思は利かなくても、体が感じた感覚は受信できる。あの森林で狼たちを貪ったことでそれはわかった。
痛覚のみ感じられないのは、せめてもの慈悲なのか…。
巨躯の男は異形と化した自身の頭部に激突し、その命を終えただろう。
(ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!許して‥‥‥え?)
頭部で男を吹き飛ばした。そのはずだ。だが、受信した感覚が自分に疑問を与える。
自分が受け取った感覚。それは頭部に冷たく硬い鉄のもの。
(そんな、そんなはずは!…でも、もしかしたら)
脳内で起こりえないことを予想する。そんなはずはない。そんなはずはないのだ。だって戦力差は明らかだった。対抗できるはずがない。
恐る恐る視線を上にあげる。
見た景色によって、歓喜と感謝が沸き上がる。
なんと、この人間は生きていた。あまつさえ自分を押し返さんと奮起していた。
拮抗はしていない。ジリジリと盾の男は後退している。このままではどのみち街に到達してしまうだろう。それでも…。
(そうか!ここは異世界!それなら、もしかしたら!もしかしたら!)
愚者は最後に希望を見た。