⑥ とてもうれしそうにおはなししてる
雪がしんしんと降り積もり、霜の声が聴こえてくる今は2月の終わり。私は30歳の誕生日会を終え、今後の身の振り方を考えながらゆったりと過ごしております。
そんなある朝。目が覚めても身体がやたら気だるく、めまいもあり起き上がれなくて。
「アンジェリカお嬢様。お気分でも?」
「ええ……。お願い、たらいを、持ってきて……」
**
はぁ……。
そういえば……。決定的ですわね……。はぁ……。
はぁ、じゃないですわ!
どどどどどどどうしましょう!!
新しい、命!? ほんものの命が私の、ここにっ……。
はああああどうしましょうっ!
こんな、浮き草のような立場で、子どもなんて育てられますの!?
お父様に相談しなくては! ……いえ、ただでさえ調子のすぐれないお父様の負担になるわけには。
お姉様はっ……こんなお忙しい時に……。なにより私は、未婚の身で……。
生まれてくる子に何も用意してあげられない。身分も、将来への支度も、……父親すらも……。
でも、なんとしてでも育ててみせます。だから……
無事にこの命と出会わせて────
ん? ドアをノックする音がしたけど、メイドではないみたい。
「お父様……」
そこを開けたらパリッとしたお衣裳を着こなす彼が。
「お父様、ご気分は」
「気遣いありがとうアンジェリカ。今日はだいぶ調子がいいんだ。だから久しぶりに君とティータイムを過ごしたくてね」
お父様の微笑みがいつものとおり優しくて、胸に安心感が広がります。
でもやっぱり言えない。心労を掛けるようなことは。
「晴れていたらテラスで楽しみたかったのだが。春はまだ先だな。じゃあ談話室で待っているよ」
「はい、お父様」
ここで、いったんは出て行こうとした彼がふっと立ち止まりました。
「?」
「そうだ、君に手紙が着ていたよ」
「手紙?」
メイドに持たせていたそれを、私にさらりと手渡しました。
「ジークムントからのようだ」
「!!」
「心配は尽きないが、君が彼の無事を祈っている限り、神のご加護があるからね」
お父様を扉の向こうへ見送ってから、私は少々震える手でナイフを封筒に差し込みました。
「ジークムント様の字……。無事で、いる……」
冒頭に書かれた私の名を目にしただけで、愛しくて。
この名を呼ぶ彼の声が聴こえてくるようで。
私は目を凝らして、その流麗な字を追っていきました。
────親愛なるアンジェリカ
連絡が遅れてしまってごめん。あまりの慌ただしい日々に、このたった一言すら書いて送る時間を見つけられなかった。とまぁ、言い訳は捨て置いて。
結婚しよう。
まだ先になってしまうけど、必ず無事に、君のもとに帰るから。
そうしたら命の終わるときまで、ただ当たり前に俺といて。
同封した小切手と同じ額のそれを毎月送るから、それで、ふたりで暮らす家を準備しておいてほしい。
足りなかったら言ってくれ。それではよろしく。────
「なんて言うのでしょうこれ……」
ぽたりとこぼれた涙で、彼の署名が滲んでいきます。
ああ。“人生はすばらしい。”
生まれて初めて、嬉しくて涙がこぼれるのです。そんな自分がまた嬉しくて、あとからあとから、あふれてきて止まらない。
この広く暖かい幸福の庭で、想いの種は新しい命の花を咲かせて
その花もまた、美しい花とふれあい生をことほぐの。ああ、人生はすばらしい……って。
その年の夏空がまぶしい季節に、私も人の親となりました。それからの月日は光陰矢の如く過ぎ去って……。
今年も梅雨が明け、晴れ渡る青空に夏の訪れを感じるこの頃。
「マーサ、リンデを見なかった?」
「お嬢様でしたら、庭先で遊んでおられましたよ。もう5つになられるのですものね、ひとり遊びも得意げなご様子で」
「そう。私はあちらで絵を描いているから。あの子を気にして見ていてくれる?」
「はい」
流れる季節の中、私は娘とノエラ邸近くの田舎町にて穏やかな日々を過ごしています。
彼に用意しておくよう言われた家は、王都の方で目星を付けたのですけど。今は小さな家屋で充分です。にしても、田舎暮らしなんて性に合わない? いいえ、地元ストラウド領もほぼ田舎でしたし、私の生活上あんがい都合が良くて。
出産後は挿し絵師業務の傍ら経理を学び、大店で実習させてもらうなどの修業を始めました。もう後悔はしたくないですから。彼の生涯のパートナーとして、大きな夢を実現する支えになりたいのです。
娘はというと、定期的にノエラ邸に通い、勉学と芸事に励んでおります。やはり貴族の娘として恥ずかしくない、素敵なレディとなるために、怠ってはならないことが多くありますものね。
「ママ!」
扉をダンっと開けて娘が豪快に飛び込んできました。この子、素敵なレディになれるかしら。
「リンデ、慌ててどうしたの?」
「おおおお、おーじきた!」
「ん?」
「ちょっとおとしよりだけどきっとおーじさま! とってもかっこいいもん」
「お年寄りのお爺様??」
怪しいですわね。良い気候だし、変質者かしら。
「話しかけられたの?」
「うん。だけどびっくりしたからにげてきた」
「そうね、すぐ逃げなくてはだめよ。連れ去らわれてしまうわ」
「でもリンデのなまえよんだよ」
その時ギィ…と音を立て、扉がゆっくりと開きました。
「…………!」
私は無意識に絵筆を置き、その場ですっと立ち上がりました。
「ただいま、アンジェリカ。ジークリンデ」
間違いなく、とってもかっこいい王子様。……私の王子様。
思わず駆け出して、子どもみたいに、その胸に飛び込みました。
「ジークリンデを毎日健やかに育ててくれて、ありがとう」
彼はそんな私を強く抱きとめてくれました。
「あなたのご帰宅を、ずっとずっとお待ちしていました!」
「うん。待っててくれてありがとう」
彼が長い指で私の涙をぬぐいます。
瞳の涙が薄れたら彼の顔がはっきり見えてきて、ああ夢じゃないんだわと、瞬く暇もないほどに目を見つめてしまいました。
そのまま、再会の口づけを交わしたのですが──。
この時リンデが慌てて部屋を出て行ったのを、私はまったく気付かずにいて。
夜、彼女のテーブルの、開きっぱなしのノートをのぞいたら。
覚えたての文字で
「おーじがママにキッスした!!」
と書かれていたのを見つけました。
パパがパパになる前の、ほんの短いひと時のことでした。
~ FIN ~
アンジェリカ編、完結までお読みくださいまして、ありがとうございました。
評価・感想など、常時お待ちしております(* . .)⁾⁾