⑤ 胸の脈うつ速さにまかせて
踏み込むとギィギィ鳴る短い階段を上がったら、そこは──。
天井の低い小部屋に、簡素なベッドと木机、丸椅子……。仮眠のための場所でした。
「良かった。雨漏りはなさそうだ」
ランプを机に置いたら彼は、私をベッドに座らせました。
この時にまた、空を鋭く走る稲光の響きが。
「っ……」
身を縮める私の隣に座り、彼は一度だけ背中を撫でて。子どもをあやすような声で言いました。
「何も考えずに寝てしまえば怖くない。朝が来る前に台風はいってしまうから大丈夫だよ」
そしてさっと立ち上がるのです。
「……どこへ?」
「俺は下にいるから、何かあったら呼んで。でもすぐ寝てしまうのがいちばんだ」
言葉尻で背を向けた彼。
1歩2歩と遠ざかってしまう。
────待って。
私はベッドに手をつき弾みを付けて、駆け出していました。
「!」
体当たりして、驚かせてしまったでしょう。
その背にしがみつくと私も、胸の鼓動が早鐘を打ち、代わりに胸よりほかの、身体のすべてが硬直してしまった。
「アンジェリカ?」
彼は振り向きもせず、その声はどうも困惑の色を含んでいます。
──でも聞こえる。あなたの背中から、私と同じ速さで高鳴る鼓動。
「……行かないで」
「そういうわけにも」
「雷が……風も強くて、怖い……。あ、朝まで、一緒に……いて」
──夜をあなたと超えたいの。
そうよ。
結婚がしたいわけではないの。ただ、心から“この人だ”と思う相手に、一度でだけでもいい、つよく求められたい。
生まれてきてよかった、って、この人と運命が重なり合うこの時のために私は生まれたんだって、実感する瞬間が欲しいのです。
触れあって抱きしめられて、一瞬一瞬の幸せを身体に刻みこんで。これからひとりきりになったとしても……さみしいときも逃げたくなるときも、その思い出を宝石箱から取り出すように大事にすくい上げて、晴れやかな感情で満たされたら……
この先の人生を穏やかにも強かにも生きていけるんじゃないか、って……。
「っ…?」
急に振り向いた彼が私の腕に触れました。そして、その表情を私が確認する間もなく──。
彼は私の両肩を支え前進します。まるでダンスのステップ。彼の優しいリードで水面を滑る感覚。
私たち“ふたりで一体”であるかのように重なって、踏みこむその先は。
「あっ……」
私のふくらはぎがベッドの淵に当たりました。
次の瞬間、どさっ…と一緒に倒れこんで……。
私を潰さないようとっさに身体をずらした彼が、おもむろに上半身を浮かせたら。
……私を閉じ込めるように覆いかぶさってきて。
私は今、この顔を覗く彼をぼうっと見上げています。
「こんな」
ん……?
「ベッドしかない小さな部屋に引きとめるなんて。どうなるか分かるよな?」
「…………」
なんだか困り顔?
────どうなるか……
それを求めてるの。言わなければ。言葉にしなければ、ずっと閉じこめていた思いは伝わらない。
でも怖くて、唇が震えてしまって声にならない。今にも壊れそうな勇気が、伝えたくて碧の瞳をじっと見つめているけれど、どうしても言葉にならない。
震えだけが伝わってしまう、どうしよう……。
「かわいいな、アンジェリカ」
……ええ?
次に彼は私の横髪をふわりふわりと撫でるのです。その手が愛しくてたまらなくて、思わず指に、頬を寄せて口づけました。
すると彼は小さく笑ったよう。
「なぜだか分からないけど、君はすごくかわいいんだ。俺にとっては、ずっと前からどうしようもなく」
そう言いながら彼は、私の真上に降ってきて、私は瞼を閉じていないのに視界が遮られて──。
────唇って……あたたかいのね。
「も……」
っと……
ぼんやりふれ心地をたしかめていたのに、すぐ離れてしまいました。
「し」
て。
あら? やっぱり、微笑ん……
「ああ、俺の人生で最高の誕生日だ」
「…………」
彼の奥から湧いた朗らかな声音は、薄暗いこの空間に円やかな光を灯し、その屈託ない笑顔を私の目に鮮明に映し出したのです。
初めて見る、誰かのこんな顔。
人は幸せを感じるとこんなにも、子どものように無垢な表情になるの?
そして私は……、私なんて、結局何も特別なんてことはなくて、別に何も持たない、平凡な人間だけど
この人をこんな顔にすることができるんだ。
私に生まれてきてよかった。
きっと今、私もあなたと同じ、そんな顔になっている────。
***
目が覚めると、ここは薄明りの木造りの部屋。朝がきたようです。
「もう雨風の音はないわね……帰れるかしら。……!!」
私、裸です!! そして隣のこの人も裸!! いつものように起き上がろうとしてやっと気付くこの事実。
このように一糸まとわぬ姿で明け方目覚めたのも、生まれて初めてです、この歳で。
ブランケットの隙間から空気が入ると寒いから、隣で熟睡している彼にぴたりとくっついてみる……と、もうものすごく恥ずかしいです!
────でもあたたかい。
幸せ。このままずっとこうして微睡んでいたい。
けれど、だめよ。いま彼が目覚めたら、きっと私は言ってしまう。
“どこにも行かないで。ずっと私と一緒にいて”
今までは言葉にできない勇気のなさを、自分のふがいなさを振り返っては、見ない振りしたり……それは自分を守るためだった。
今こそ自分を守るのよ。私が何を言おうとも、彼は行ってしまうのだから。彼には彼の譲れない道があって、そんなすべての要素でかたちづくられる彼を……
私は選んだ。……私が、選んだの。
「早く支度しなくては……」
彼が起きる前に。よたよたとベッドから出て、昨晩雑に脱ぎ捨てた衣装を拾いました。大切なドレスをこんなふうに扱ったのは本当に生まれて初めてです。
急いでコルセットを身に着けたら、壁に掛かった丸鏡をのぞきこみました。
……ああもう、起き抜けっていやね。いかにも30になる女の顔です。
私はともすれば自身の姿を二十歳前後の、もっとも美しかった私のままでイメージしていて。こういう時にがっかりしてしまう。
でも今の私には、10年前には手に入れられなかったものがある。そんな呪文を心に唱えると、鏡に映る私があの頃よりも綺麗に見えてきました。
ううん、綺麗というより……。彼は私のこと「かわいい」って……。真夜中にも……
ああ、いけません、思い出している場合じゃないわ!
もう髪もくしゃくしゃです。整えたくてもブラシも何もない……。
このなりでは誰の目にも明らかだけど、すぐにここを出て馬車を用意してもらわなくては。
彼を起こさないように、ふれるかふれないかの小さなキスを頬に落とし、音を立てることなくこの小さな部屋を後にしました。




