⑩ あなたを思い出したくて
「お姉様、エイリーク様!」
「「ん……?」」
鳥のさえずりが聴こえる。陽の光が明々と私の頬に差す。
「アンジェリカ……」
これはいつもの朝? 彼女がいつものように……でも、私、身体がものすごく疲れていて……。
「ああ、朝か……」
すぐ横で誰の声? あら? 私が今もたれかかっているのって……。
「ジークムント様?」
んん? あ、違った! これエイリーク様だわ!
私は慌てて彼の肩から離れた。
確か昨夜はここで、この人と夜語りをしていて……。なんでノエラ邸にアンジェリカ? よく分からないんだけど、アンジェリカが私たちのこと探しあててくれたの?
「お姉様、ジークムント様に一報入れましたので、すぐにいらっしゃるはずです」
「そ、そう……」
「エイリーク様も、早くお部屋にお戻りになって、しっかり休まれないと」
彼女は私にそれを伝えると、エイリーク様を立ち上がらせ、ふたりで何かひそひそと話し始めた。
なんだかもう、また胸がぞわっとする。ふたりはこのまま行ってしまうの?
「エレーゼ!」
「ジークムント様」
「立てるか?」
狭いこの場に入って来た彼がすぐ私の肩を抱き、ゆっくりと起き上がるのを支えてくれる。指先から伝わる、彼の思いやり。そして、焦燥感のようなもの。
「大事なかったか? 一晩こんなところに閉じ込められていたなんて……」
彼はエイリーク様の方を見ようとしない、私はそれに気付いてしまった。
「昨夜アンジェリカと、君がノエラ邸にいると聞いてやってきたのに見つからず、すれ違ったのかと……。今またストラウド邸に戻ろうとしていたら、蔵で見つかったと知らせが来て焦ったよ」
「ごめんなさい、心配をおかけして……」
「いや、こうして無事に見つかったから。風邪を引いたりしていない? 何か食べる? それともベッドで寝ようか」
矢継ぎ早に聞いてくる。この一夜のことは何も質さずに。
「……あ、ごめん」
いったん問うのを止めた彼から、こぼれた言葉がそのような。
「コーヒーが飲みたいです」
私は彼を落ち着かせたくて、さっと腕に寄り添った。
「じゃあダイニングへ行こう」
「ええ」
そしてもう一度、遠ざかったエイリーク様の背中を尻目に見た。
どうして私は、エイリーク様に手を取られここを出ると感じていたのだろう。
一晩会話を交わして、情が湧いてしまった? ジークムント様に誤解されるようなことは良くないわ……。
アンジェリカと親し気に屋敷へ戻っていった彼の背中を、私はただぼぉっと思い出していた。
勝手な行動をしたのは私なのに、ジークムント様からは掛けられる一言のたびに気遣いが見える。
「快適な部屋を用意するからゆっくり休んで」
「いえ、むしろ何かをしていたいんです」
動いていないと考え込んでしまうから。
「なら、どこかに出かけようか。君のいきたいところは? どこでもいいよ」
「海……」
ふと頭に浮かんだイメージが。それを声にしてしまった。だって、あの人が言ってたの……。
「海が見たいの? んーじゃあ、そんなに遠くないからノエラ本邸に行こう」
そういえば彼のお爺様、現ノエラ領主お住まいの本邸は、海沿いに建つ静かな屋敷であると以前から聞いていた。
何も不自然でなかっただろうか、私……。
**
さっそく連れてこられた本邸上階のバルコニーにて。
潮の香りのまじる風。目の前に広がる、白銀の瞬く光に満ちた青い海、長い水平線。私はいったん目を閉じて、涼しい風を感じてみた。
「とても心地いいです。でもせっかくなら浜辺を歩いてみたいわ」
「うーん。万一に備えて、使用人を何人か連れてならいいけれど」
「ふたりきりではだめです?」
「俺は泳ぎがあまり得意じゃないんだよなぁ」
この人にも自信のないことがあったのか。それでも通常の人よりできるんだろうな。
「いくらなんでも、海に吸い込まれたりは……」
「あそこを歩いていると、足を水につけたくなって、そして膝まで入っていきたくなるものだよ。ドレスなんか着ていたら大変だ」
他に人がいなければ、薄手の下着のようなものを着て行けば……。
「このお屋敷には泳ぎが得意な人、多いのですか?」
「そりゃずっとここに在住している者はね。そういえば、エイリークも得意だったな。あいつがいちばん上手いのかも、海を泳ぐことに関しては」
「え? それはなんというか、意外ですね」
「俺たち、護身術の一環で子どもの頃、この海で泳ぎを習ってさ」
ここで私の目が、“その話、もっと聞かせて”と訴えたのかもしれない。
「えっと……俺はそれだけだけど、あいつは成長してからも海の底を描きたいとかで、よく潜っていたらしい。何度か死にかけてた」
「そうなんですか」
死にかけていたというのは、言葉の綾よね?
「とにかく海を安易に考えたらダメだ。急に深くなったり、波が高くなったりする。まだ日差しも強い、一瞬の気の緩みが事故を引き起こすことも」
「気をつけます……」
「使用人に声を掛けてみるよ。明日にでもみんなで行こう。今日はやっぱり、もう休んだ方がいい」
「はい」
このとき私の心の内は、好奇心ゆえに言うこときかない子どもと大差なかった。
翌朝、私はジークムント様の目を盗み、ひとり海岸にやってきた。風任せに、さざ波に漂いたくて、チュニック一枚だけを被って。
シャルロッテ様からいただいた翡翠のネックレスも連れてきた。これは守護石? 愛の証……?
そうだ、これ少し思い出した。なんだか恥ずかしくて嬉しかった、という気持ちだけ、思い出した。王子様は言ったの? 世界でいちばん美しいって……だからこんなに幸せなの??
きっと海にヒントがある。記憶を取り戻すための。だって私この海も見たことある。来たことがある? 誰かとこの海を一緒に眺めたのかしら。
どうしても取り戻したい。いつも大事な何かを失ったようで、悲しくて仕方ない。もうあとほんの少し、そんな気がする……。
「潮風が気持ちいい……」
少し強い風が吹く。私は素足になって、波に足をつけてみた。
「本当に気持ちいい」
照りつける太陽の下の、清らかで冷たい水。柔らかい砂の感触。経験したことのない心地よさに酔いしれた私は、誘われるように前へ、足を摺って進む。
ここでふと、誰かの顔が脳裏に浮かんだ。ジークムント様……? 違う。
「あの人はこの海で泳いでたのね……」
膝まで水が浸かり、これ以上は、と感じたその時。
私の首にかかるネックレスの紐が切れ、翡翠が散らばったのだった。
「あっ……」
大切なものを永遠に失くしてしまうかのような思いに駆られ、ひとつでも拾おうとその場の底に手を伸ばした。立ち位置は先ほどより深まっているのだろうが、それに気付きもせず、こぼれた翡翠をすくおうとした。
しかし幾度底の砂をすくっても翡翠は見つからず、気付けばひざ丈のチュニックはずぶ濡れで重みを増し、身体の不自由さを実感する。
更にその瞬間、太陽の熱に煽られ私は目がくらんだ。どちらが岸か沖か不覚となり、前のめりに倒れ、無意識に片足を踏み出したら、
「!!?」
足場がないという衝撃が強烈に私を襲った。
地底に吸い込まれる。全身から血の気が抜けてゆく。
自然の力に、無力な私が逆らえるわけなかった。




