⑨ side:A 夜のとばりに隠れて
僕は、今まで誰に対してもそうだった。
他人とどう接すればいいのか常に迷いがあって、やたらと踏み込んだら嫌がられるかと、そういうことにしておきたかったんだ。
誰かを愛しいと思うようになってやっと気付いた。そうあることの無神経さに。
彼女がすぐ他人のことに首を突っ込むのは、人と深く関わり合いたい表れだった。誰かのためにすぐ身体が動いてしまうのは、きっと人が大好きだからだ。
しばらく会わないと言った時も、あの時の彼女の顔は……。
────“私としては、特に負担となっているわけでも……”
なんであんなこと言ってしまったんだろう。彼女が弟と対面するのをできる限り引き延ばしたくて、一刻も早く帰ってもらうことで頭がいっぱいだった。
相手の気持ちを考える余裕がなくて、自分のことばっかりだ。
「……エイリーク様?」
こんなふうにいつも君は、僕の目を遠慮がちに、でも真剣に見つめてくる。
きっと僕の真意を探しあぐねていたんだろう。
あの時、急にジークムントと結婚すると言い出したあれは、もしかして引き止めてほしかったんだろうか。
だとしたら。
僕は気が動転して一言も声にできなくて……。いや、僕も待っていたのか? エレーゼが、あんな条件提示してくるあいつを袖にして、僕を選んでくれるのを。
それまでも「君が必要だ」って伝えたことなんかなかったくせに、彼女の方から気持ちを証明してくれること期待してたって? そんな情けない男、捨てられて当然じゃないか……。
「……社会の中で、人に貢献する君はもちろん必要とされる、それは素晴らしいことだ。でもそれだけじゃなくてさ、ただの君を必要だという人もいるよ」
なんて言ったって、今のエレーゼにはジークムントしか思い浮かばないだろうに。僕はまた余計なことを……。
「そうかしら……?」
「ただ君に笑ってて欲しいって人が……」
こんな遠回しに訴えたところで、今はどうにもならない。知られてはいけない横恋慕なんだ。
「あなたはいいですね、好きなことに一生懸命な自分を認めてくれる人に、出会えたんですね」
エレーゼ、心なしかものすごく素直だ。君をこんなふうにしたのはあいつなんだろうか。今、君は満たされてるの?
でも今、「あなたは」って言ったよな……。
「いや、1度会ったきりなんだ。どこの誰か分からない」
「すれ違った人ってこと?」
「そう。たまたま会った人でも、あいつより僕を選んでくれたから。彼女にそんな大した意味はなかっただろうけど、それからの僕は画を描いていると、囚われてた暗い感情から解き放たれたんだ」
「羨ましいです。そんな人にたまたま会えて」
「そうだね、幸運だった。それまではずっと、深い海の世界を想像して、描いて描きまくって耐えていたんだけど……」
「海?」
「うん……」
僕の好きな景色、聞いてくれる?
大きな海が好きなんだ。
どこまでも続く広大な海から、すべての生きものは生まれて還っていく。その巨大な生命の流れの中で、小さな人間の、個体の能力差なんて大したことじゃないんだよ、たぶん。
……柄にもなく熱弁してしまった。まったく抽象的なことを言ってしまったが。
「そうね、大したことじゃないわ! 私たち、いつのまにか生まれてきて、いつのまにか還っていくのだもの」
エレーゼなら分かってくれると思った。だって君はあの子と同じ、僕の画を優しいって言って、選んでくれたのだから。
「海がその人と出会わせてくれたようにも思う。いや、彼女自体が僕にとっての海かもしれない。イメージとして、大きな心で包んでくれる……といった」
「受け入れてくれる人が、海?」
「そう。僕らほんのひと時の魂ではあるけれど、僕は僕のままで、君は君のままで、受け止めてくれる海のような存在がいるんだよ」
イメージだけじゃ心もとない。世界中の誰に認められなくても、君が僕のこと“いちばん”と言ってくれたなら。
気付いて欲しい。僕だって“君が”必要なんだ。今はもう……言葉にできないけれど。
「ジークムント様は……優しいです……」
……そうだよな。あいつは誰とでもうまく付き合えるから、僕よりよほど魅力的な人間だとエレーゼだって思っただろう。
分かってはいるけど辛いな……もっと都合のいい方に乗り換えたって言われた方がずっとマシだ。
「でもひとりで生きていくってずっと心に決めていたから、こんなに事がうまく運ぶなんて、なんだかスッとしなくて。おかしいですよね、あんな素敵な人が、私なんか……」
「君がひとりで生きていこうと肩ひじ張ってやってきたことは、君という人間をより魅力的にしたんだよ。何もおかしくない」
「えっ。そんな、魅力的だなんてっ。……肩ひじ張って? もうっ、なんですかその言い草!」
ぽかぽか叩いてくる。ああこれ間違いなく今までのエレーゼだ。
「どう? 何か思い出した?」
その問いの答えは、彼女の淋しそうな顔。ダメか。もっとヒントを出したいけど、下手なこと言って警戒されたくないから回りくどいことしか言えないんだ。
「あ。でも、そういえば」
「何か思い出したのか?」
「私、どうも……あなたにずっと聞きたかったことが……あるみたい」
「?」
聞いてくれれば分かる範囲で答えるけど。
「何?」
「それが思い出せないんです。思い出せたのは、他の誰でもなく、“あなたに”聞きたいこと……それだけ」
彼女は残念そうにまた俯いてしまった。急かすのは良くないな。
「うん、まぁ、それだけでも今日の収穫だ! 少しずつでも思い出せるんだ」
希望が見えてきた。初めてじゃないか、彼女がこの半年のことを思い出せたの。
このとき窓から優しい風が降りてきて、たったいま気付いたらしい彼女は言う。
「すぐに月が窓から外れていきますね」
ああ、タイムリミットだ。僕は諦観を隠すため、話題を逸らした。
「寒くない? 昼間は暖かいけど、夜になるとかなり冷え込むよな」
「ん……少し肌寒いですね」
「そっちにブランケットがあったから取って来るよ」
そう言って持ってきたら、すぐに彼女に被せた。
「あなたの分は?」
「一枚しかなかった。僕は平気だから。……はっくしゅん!」
言ったそばからなんでクシャミ出るんだよ。ほんっとに恰好つかない……。
「……これ、わりと大きいから……、一緒にかぶりましょ」
「えっ」
断るのも意識過剰みたいじゃないか?
僕らはここの、物が詰め込まれた棚を背もたれにして横に並び、月が隠れゆくのを待っていた。
「あ。そういえば、あなたの画を月明かりで見ればよかったわ」
「そうだね、閉じ込められて焦ったからすっかり忘れてた。向こうにあるから取ってこようか?」
彼女は小さく、首を横に振った。
「眠くて……もう、だめみたい……また明日……」
月は更なる高みへ。星々もゆっくりとそれを追う。なんて静かな夜なんだ。
「夜が明けて……あの窓から日の光が差し込むまでは」
僕の肩に寄り添う彼女の、無邪気な寝顔を横目で見やる。
「君は僕のものだよね?」
こぼれてしまった言葉も思いも、暗闇に隠してもらおう。
エレーゼ、今だけは僕のものでいて。
「このまま時が止まればいいのに……」