⑧ side:A 共感と後悔
少々埃立つこの場の暗がりに、今は彼女とふたりきり。
先ほど出し抜けに蔵の扉が閉まった。僕がそう慌てていないことはエレーゼも気付いただろう。
扉を閉じた犯人に僕は心当たりがあるから。
今朝からのこともそう。“あの子”の助力あってのことだ。
────「貴重な画集を何度もお借りしていますし、何かお礼をしたいのですが」
つい3日前。彼女、アンジェリカは僕のアトリエの本棚を物色しながら話す。
「別にいいよ。美術に興味を持ってくれるなんて、僕としても嬉しいことだし」
「ええ、素敵な方とのご縁は失せてしまいましたけど、深く知り得た芸術への関心は薄れずに済んでホッとしていますの。でもお礼はさせてくださいませ」
「意外だな」
「何か?」
「君は人の厚意を受け取るなんて日常茶飯事だろう? 借りなんて思うんだなって」
「私に好意をお持ちの方には、私の微笑みや労りの言葉でお返ししていると思っていますが。あなたにとってそれは価値がないのでしょう?」
「そうだね」
「……あなた、おモテにならないでしょう」
何て返事すればよかったんだ?
「私があなたのためにできることと言えばそうはありませんが、きっとあなたがいちばん望むことをして差し上げられます」
「何のことかな……」
露骨に目を逸らしてしまった。「ほらやっぱり困り果てている」とばかりに彼女はにやりと笑う。
あ、もしかして今の、カマ掛けた?
「あなたはどうするおつもりですの?」
どうするって……どうにかエレーゼとまた話せないかと考えてはいるのだが。
ジークムントに面会拒絶されてるんだよな。殴りつけたあの日から。
「時間だけが過ぎていきますわね」
どうせ意気地のない人間だよ。あの時も……エレーゼがあいつと結婚すると言い出した時も動転して、何も言葉が出なくなってた。
ばったり会ってもケンカ腰になってしまうし……。
「君も意外にお節介を焼く性格なんだ?」
「まぁ、あなたのためだけではなく……お姉様にも借りがありますの」
「うん?」────
こうして彼女がエレーゼを連れ出す手引きをしてくれたのだ。そして今、彼女もここノエラ邸に来ている。何らかの理由を付けてジークムントも連れてきているはず。
きっと彼女の指令でこの扉は閉められて、朝、素知らぬ顔で迎えに来るのだろう。しかしまさかここまでやってくれるとは。最後は自宅に来てエレーゼに描いた画を見せるべきと言ったのは、こういうことか。
僕に与えられたチャンス……タイムリミットはエレーゼが眠りにつくまで。
どうしたら記憶を取り戻せる? 何を話せばこの半年間、一緒に過ごしたのは僕だってこと思い出してくれるんだろう。
ええと、彼女と初めて会った時……
「君の第一印象は……“世間一般の令嬢と違うな”って」
「そ、そうですか」
「だって料理が上手だなんて。基礎から違うって思ったな」
この言葉に彼女は分かりやすく照れている。
「料理人になりたかったの?」
「ええっと……」
いや知っている。エレーゼの将来の夢は医療者なんだろ。それもジークムントから聞いたことだ。
エレーゼはそんなこと一言も話してくれなかった。確かにご老人の面倒をみたり、希少な薬を扱ったり、今思えば片鱗を見せていたけれど。僕がちゃんと踏み込めなかったしくじりだ。距離を測りかねてた……なんて言い訳にならない。
「じゃあ先に、僕の将来の夢について話すから、良かったら後で君も教えてくれ」
「……ええ!」
彼女の顔が少しほころんだ。
何から話せばいいのかな。将来の夢どころか、その土台となった僕の憂鬱な根っこについて話そうか。
「兄弟って同じ両親から生まれたのに、違うんだよな……。何を当たり前のことを、って感じなんだけど」
彼女は伏し目がちになって一度、首を振った。
ずっと劣等感で苦しかった。隣で弟ジークムントがすべてにおいて一歩先をいっていたから。
努力なんて実らない。だっていつも敵わなかった。あちらは努力してるふうでもないのに。
「分かりますっ!」
「うん?」
彼女の語気が意外と強い。
「あ……えっと、でも絵画は続けていったのですね」
「うん、美術は好きだったんだよ。でもこの道を定めたのは、認めてくれた人がいたから。それが大きい」
そう、あのスミレ色のドレスの子は言ってくれた。「僕の方が好き」って。
その一言が欲しかったんだ。コンクールの審査員は、みんなあいつの方が好きだったんだろう?
「それまでは上達することよりもあいつを倒すことばかり考えてたんだ」
「でも、ジークムント様はあなたを敵視したりなど……」
「そうだよ。僕なんて全然眼中になくて。だから余計悔しくて、ずっとそれに囚われていた」
こんなこと言ったら、なんて小さい人間なんだって幻滅されるよな。でも、君にはそんな自分を受け入れてもらいたいんだ。
「あなたのような、すべてにおいて恵まれていそうな方が……」
信じられないと言った様子だ。僕はなんだか哀しくて笑った。
「……私もなんです。私も、いつもアンジェリカばかり褒められるから……」
過去をさかのぼり遠い目をした彼女が言いながら顎を引く。その俯き加減、なんか見覚えある……気のせいかな。
「私の方がいっぱい練習してたんですよ。勉学も」
分かるよ。君は人知れず頑張れる人だよね。
「でも私はきっと貴族の世界で認められることはないから……認めてくれる唯一の人、お父様とずっと一緒にいて……いつかは平民となって、ひとりで生きていくと心に誓いました」
「え? ひとりで?」
「もちろん暮らしは市井の人たちとの協力の中で、ですが、結婚はしないで自立して、という意味です」
「…………」
「無謀なこと言ってるなぁって今、思ったでしょ?」
「いや、まぁ」
だって無謀だよな。
「だから医療者になりたかったんです。元々医療に興味があったからではなくて。生きていくためにどうすればいいかって考えた末に。料理もそう。ぜんぶ自由に、思うがままに生きていくため」
こんないいところの令嬢がそんなふうに思いつめていたなんて。それだけ不自由さを抱えていたのか。
「最初はなんでも良かったんです。でも薬師の元に弟子入りして、その仕事を垣間見て感じたの。誰かに必要とされるのっていいなって。当然厳しい仕事だけど、親しまれて必要とされて感謝されて、とても素敵な職業だと思いました……」
エレーゼも必要とされたかったんだ。君も、そうなんだ。
────“あなたは私を必要としてくれなかったじゃないですか!”
「あ……」
君の、あの叫びは……。
でも君は別に、僕の気持ちがどうとか、なんて……。
ここでふっと、僕の記憶が半年前まで巻き戻る。
“干渉しない約束……”
僕が最初に壁を作ってしまったんだ。君とのあいだに線を引いて、歩み寄りに釘を刺したのは半年前────その浅はかさを今更、自覚したのだった。




