③ 妻には内緒にしてくれないか
後ろから投げかけられた声に、この瞬間、汗が噴き出た。私は現在、第三者から見たら、他人の庭に侵入せしコソ泥の類である。
この声の人物がこの近所の人だとは限らない。サラの友達を押し通せば……いや、そんな希望的観測ではだめだ。近所の住人以外がここを通りすがるわけがない。振り向いたら問い質され、自警団の元に連行されてしまうのだろう。しかし逃げ場はない。
無力な私は項垂れた。
「あ、あの、もうしませんからっ」
反省を見せるしかない。振り向きながら懇願してみた。
「父には連絡しないでくださいっ。父には失望されたくなくてっ……」
「…………」
恐る恐る目を開ける。すると目の前にいたのは、まさかの。
「え、どうしてエイリーク様がここに……」
ものすごく呆れています、といった目をした彼であった。
「今日は僕と会う日だっただろう?」
「そうでしたっけ?」
「いいさ、分かってるよ。君にとって僕なんてその程度の人間なんだ……」
「ええっと、なのにどうしてこんなところに?」
「君を迎えに行ったらまた君が出たばかりだと言われ、慌てて追って来たんだよ!」
「二重尾行ですか!? またなんて高度な技をっ」
「いったいここはどこなんだ!」
「あなたの邸宅の下町でしょう?」
「いやだから、どうしてそんなところに君が?」
あなたの愛人を尾行しました、なんて言えるわけない。
「ちょっと友人の家に遊びに……」
何言ってるんだ、という顔をされているが、そもそも私はこの人に対して怒っていて、口もききたくなくて、本日の逢瀬も連絡は先週受け取ったが返事はしていない。ばっちり無視しましたっ!
「今からこの友人宅へ訪問しますので、失礼いたしますわ。あなたはそんな貴族の恰好でこの辺をうろうろするのもどうかと思いますし、早いところお帰りになったら?」
「ここで待つよ、ひっそりと。庭の奥がいいかな、僕この格好だし」
「はぁ……」
捕まる時は一緒に、ということでよろしいですね?
私はドアをノックした。
「どうぞ」
聞こえてきた声はやや低く、男性のようだ。
「失礼します~~……」
そこは広くないが狭くもない、庶民の家屋にありがちな多目的の一室だった。すぐにも壁際のベッドに座る、寝巻の男性と目が合って。
「「あなたは?」」
声が揃う。
「私はサラの友人でエレーゼと言うのだけど、リンゴが多く採れたから差し入れに……。あなたは?」
「サラの友達か。せっかく来てもらったけど、彼女は働きに出てるよ。あ、僕は夫のケネス。よろしく」
お、夫? 夫がいるのに、エイリーク様の愛人を!?
「よろしく……。あれ、サラは今日、休みじゃないの?」
「聞いてない? サラは僕の分まで働きに出ているんだ。彼女に休みはないよ」
「ええ!?」
私は彼、ケネスをまじまじと見てみた。血色の悪い顔。男性とは思えない細い腕。
病気なのね……。
「ごめん、せっかく来てもらったけど。僕はろくにもてなすこともできなくて……」
「いえ、お構いなく。じゃあ私、このリンゴをすりおろすから、食べてもらえるかしら。おろし金は……」
「そこの台所に」
彼のベッドの反対側に小さな台所が。私は間を持たすために、リンゴをすりおろして出した。
「いつから、あなたは……」
聞いてはいけないことかもしれないけど。でも気になった。だってどう見ても彼、一時的に寝ているという感じではない。
「もう半年かな。僕が血を吐いて、胃痛で仕事ができなくなって……。寝ている僕の代わりにサラが毎日稼ぎにいってくれているんだ。僕の薬代を稼ぐため……」
「…………」
そして無言になってしまった私に、彼は。
「早く死ねたらいいんだけど、なかなか天使の迎えが来てくれなくてね」
「そんなこと言ったら……!」
自嘲気味な笑顔で隠しながら、瞳の奥の哀しい色を見せた。
「サラが悲しむわ……」
その時、ドアを叩く音が。
「どうぞ」
彼が声を掛けたらこちらに入ってきたのは、町人風の、背の高い男性。
「おや、お客人かい? 珍しいね」
「ああ先生、そうなんだ。サラの友達でね」
先生? もしかして薬師?
そしてケネスは棚から取り出した袋を彼に渡した。小さく聞こえた物音から察するに、硬貨が入っていそうだ。
「今回の分、お願いします」
「分かったよ。今日はずいぶん顔色が良いな」
「そう? お客さんが来てくれたからかな」
「いいことだ」
顔色が良い? いつもはもっと悪いのかしら。
硬貨を受け取ったその長身の人はすぐに帰ってしまった。
「……今の人は?」
「薬師だよ。半年ほど前この街にやってきた人だけど、患者を診る腕も薬の処方も、評判いいらしいんだ」
「そう……」
私は彼のその言い方になんだか違和感を覚えた。
「ん? 今あの人、あなたの顔色を見ただけで、他には何も……。薬も渡されなかったわよね」
「うん……」
頷きながら、あからさまに目を伏せる。やっぱりおかしい。
「どういうこと?」
「……僕は薬を飲んだところで、きっともう、どうにもならないから」
「そんなの分からないじゃない」
「だって血を吐いたんだ……。吐血してそれから長く生きた人なんて、見たことも聞いたこともない」
「だったらなおさら薬を飲まなきゃ……。全然ないの? この家に薬は」
「ないよ」
「……あれ? あなた言ったわよね。サラはあなたの薬代を稼ぎに出てるって。さっきそのお金を払ってたじゃない?」
そう、サラは一生懸命働いていた。それは彼の薬を買うためだったのね。少しでも多くの給金が欲しくて……、ってことはそのためにエイリーク様の愛人を!?
「彼女は、僕の病気がきっと治ると信じて、毎日仕事に精を出してくれている」
「それなら……!」
「でも僕が治らなかったら……それはただの無駄金になってしまうから」
「は?」
「だから、薬師の彼に頼んだんだ。妻には内緒で薬代を受け取って、僕が死んだらそれを彼女にそのまま渡してくれって」
「!」
私は雷に打たれたような衝撃を受けた。とんでもないことを聞いてしまった気がする。
「サラは知らないの……?」
「言わないでくれ。僕は長くない。僕が死んだら、彼女が働いて得た銀貨がほぼ戻ってくるから、それを元手に新しい人生を歩んでほしいんだ」
「そんなこと内緒にしていたら! ……彼女は悲しむどころじゃないわ」
「これが、僕が唯一彼女にしてやれることだ。だから君に聞いてもらった。僕がいなくなった後、彼女を励まし、その金で新しい生活を……、また相手を見つけて幸せになってと、説得してくれないだろうか」
その任務は重すぎるでしょう! でもこんな思いつめた人に下手なことは言えない。
「……とりあえず、彼女には何も言わずにおくから……」
「ありがとう」
彼はずいぶん安心したようだ。信頼の笑顔を向けられてしまった。