⑥ 大人になったって、親になったって…
フレーヤ様は寂しそうに語るのだった。
「カトリーヌは17年前、私と喧嘩して家を飛び出した。それから帰って来なくなったの。ずっと反抗期で、ちっともいうことを聞いてくれなくてねぇ」
「私も、母には“ありがとう”も“ごめんなさい”も言えない子でした! なんだか恥ずかしくて……。それでいつも、“もっと素直でいい子になりなさい”って叱られて……」
それから私は私がそんな風になってしまった因果、妹ばかり認められていた不平不満を、病床の彼女に吐き散らした。きっと彼女は、“このところ世話してもらったし”の気持ちで、どうしようもない愚痴をただ聞いていてくれたのだろう。
それに甘えた私は、今まで誰にも言えなかった、心の鬱憤をどんどん吐き出していた。
「私の母はなぜか、人の、顔の造りにすぐ目の行く人だった。化粧やアクセサリーで飾った美しさじゃ不十分なの。元の、素の造りが整っているかどうかが価値基準で、そこに執着のある人……」
幼い私はおかしいと思っていた。人を見ればこの人は綺麗、この人はそうでないって言う母を。そして事有る毎に、私の顔を不憫そうに見る。
「だからと言って、母からの愛情を感じていなかったわけじゃない。大事に育ててもらったと思う。ただ私に、顔立ちが特別綺麗な娘ではないという現実を最初に突き付けたのが母」
「もしかして、恨んでいるの?」
私は静かにうなずいた。
「だって私も、そればかりが気になるようになってしまったんだもの。綺麗な子でなくても愛してくれるのは両親だけだって。きっとそんなことはないのに、そんなふうに思うようになってしまった」
私の話はまったく、娘の偽物でした~、から飛び過ぎてしまっただろう。彼女にとっては急に重い身の上話をされて、更にくたびれたことだろう。それでも彼女は、とても穏やかな顔をしていて。
「きっとそんなことはないのよ、エレーゼ」
それはやはり母親の顔で。
「私は目が見えないけど、あなたを綺麗な子だと思うわ。声は澄んでいて、この肌もさらさらしていて、とても綺麗に見えるのよ。そして他にも必ず、あなたが綺麗に見える人、いるからね。大丈夫」
「いるのかしらそんな人?」
「いるわ。見つけたらすぐ手綱を締めなさいね」
「あ、でも、もう私、婚約してて……」
「そうだったわね。彼は、どう?」
「よく分からない人です」
「まぁ……」
彼の話題はさておき、彼女はそこで少し切ない顔になった。
「これは母親の言い訳なのだけど、子を持っても、人として半人前なところはやっぱりあってね。大人になっても、確実に人間が出来上がるわけじゃないの。私なんて、余命いくばくもない今ですらそうよ……」
「…………」
「あなたがお母様の価値観やこだわりを、おかしい、間違いだと断ずるのは、少しもいけないことじゃない。子どもにとっては難しいことだけれどね。もうこの世にいないお母様の心を、語り合いでより知ることも、または変えることもできないのだし、あなたはあなたの信じる価値観がすべてよ」
「はい……!」
「親のふり見て我がふり直せ。そのうえであなたが母になった時、あなたの子に接しましょう」
「ん、これもある意味、“親の教え”よね。まぁ、私のところに子どもは生まれてこないけど」
「あら、どうして?」
「相手がよく分からない人だから!」
「まぁ……」
今日は彼女をたくさん喋らせてしまった。最後の方は声がとてもお疲れだったし、夜間心配だな。でも、胸に詰まっていた亡きお母様のことを、聞いてもらえて嬉しかった。彼女から聞いた言葉を私は馬車の中で、何度も反芻してみた。
私が今、彼女のためにできることは何だろう。何かしたいんだ。でもさすがに私も疲れた。また明日考えることにしよう。
──ということで、この2日間考えてみた。やっぱり最後に実の娘と会わせてあげたい。離れていた17年間は、確かにすこぶる長い期間であるだろうけど、血の繋がった母と娘なのだ。きっと心通わせられるはず。生きているうちなら、やり直せる瞬間がきっとある。
「おはようエレーゼ。今日も朝から血色が良いね。これからどこかへお出かけかい?」
玄関へと猛進する私に、お父様が爽やかに話しかけてくれる。せっかくですが、ちょっとわたくし急ぎです。
「ええ、オペラ館へ行ってまいります」
「ん? こんな早くから? ……ああもう、せっかちな子だな」
家の名を使って、支配人にディーヴァの楽屋へと入れてもらった。今から私は彼女を説得する。
「……というわけで、あなたのお母様がもう余命一月なのよ。残りの時を共に過ごすことを考えて欲しいの」
「はぁ、そんなこと言われましても、私に母などおりませんわ」
ディーヴァは爪とぎに夢中で私の方を見もしない。
「あなたが17年前に家出した娘・カトリーヌなのでしょう!?」
「確かに私は子どもの頃、母一人子一人で暮らし、その貧乏な暮らしに耐えられず家出をしました。ですがそれからの人生が多分に苦しく厳しいものでしたので、母親の顔すらもう覚えていませんの」
「覚えてないなんて!」
「だって母は仕事仕事で、ろくに家にいなかったのだから」
「あなたのためでしょう! あなたを食べさせていく必要があって……」
「生んでくれとも頼んでないわ!」
だめだ、取り付く島もない。これほど親子間の情に無縁の人もいるなんて。
「あなたのお母様は、今でもあなたを愛してる。この世でいちばんあなたを愛してる人よ。そんな人がもういなくなってしまうの。いなくなってからじゃ遅いのよ。離れてた時間を取り戻すのはあなたのためだわ」
「押し付けがましいわ。私のためって。その人のためでしょ。どういう関係か知らないけど、その人に頼まれて来たの? 頼む立場がずいぶん偉そうね」
確かに私はこのカトリーヌに何の情もないし、もちろんフレーヤ様のためだから。
ここは頭を下げて、下手に出て頼むか……。いつかは平民に紛れて、平民として市井で暮らしていくつもりなんだから、これくらい平気……!
「お願いします。彼女のところに来てください。たったひとつの宝物に最後まで会えず旅立つ彼女が不憫で……」
「あらァ、お嬢様がこんな平民の前で膝をつくなんて、愉快だわぁ」
これくらい平気よ……。山より高い貴族のプライドなんて邪魔なだけだもの、生きていくためには。
「まぁそこまで言うなら、聞いて差し上げないこともないけど?」
「じゃあ!」
「あなた、確か、ノエラ家ご令息のフィアンセだったわよね」
「ん? ああ、そうだけど……」
「あの方、何ていったかしら、私、見目麗しい貴公子のお名前は忘れないのだけど。あぁ、エイリーク様ね。彼に手引きしてくれる?」
「……え?」
手引きって?