プロローグ
「僕の申し出を受け入れてくれるなんて、心の底から嬉しいよ。エレーゼ」
壁一面の大きな窓の前にすらりと立ちつくし、マリンブルーの瞳で、射抜くように私を見つめてくる彼。西日が差し込み、美しく流れる髪がより煌めいて見える。その見目は実に、絵画から抜け出てきたような優美な貴公子だ。
ここはシャングリラホテルの一室。格調高いホテルの寝室に、彼と私、たったふたりきり。
私は今、知り合ったばかりの、この辺境伯家ご令息に求婚されたところ。これを、病み上がりで本調子じゃなかったせいか、“まんまと乗せられ”お受けしてしまった。
「君はなんて懐の深いご令嬢なんだ。この出会いに感謝しよう」
あなたはそうおっしゃいますが、私はまだこの出会いに感謝するほど、気持ちが釈然としていない。だって、なんでこんな素敵な人がわざわざ私をって、きっとみんな不思議がる。
「君はいつまでも、どこまでも、自由に生きていってくれて構わないから。敬愛する父君との暮らしを、僕はけっして邪魔しないからね」
釈然としてはいないけど、それがなにより重要だ。このように好条件な結婚、他にないだろうな。
「また細かい契約内容を、これからふたりで詰めていこう。どうぞよろしく」
「ええ。末永くよろしくお願いいたします」
私は差し出された彼の手を取った。
契約結婚。私たちはそれぞれの、気ままで自由な人生のために、仮面夫婦として協定を結ぶことに決めたのだった。
*** さかのぼること3週間前――。
「お父様、ごきげんよう。本日もうららかで、絶好のティータイム日和ですわね」
青空の下、私は長いドレスの裾をつかんで軽やかに会釈する。
「ああ、この晴天のもと光を浴びる君も健やかで美しい、私のエレーゼ。そのミュゲの髪飾りもよく似合っているよ」
そう手の甲にキスをして、お父様は私を優しくエスコートする。ここは我がストラウド家邸宅の庭。よく手入れされた垣根の奥の、誰の目も届かない静かなテーブルで、私はお父様と2日おきのアフタヌーンティータイムを穏やかに過ごす。このせわしい日々の中、柔らかな空気たゆたう、もっとも幸せなひと時だ。
「先日、隣のルーベル地方の友人に呼ばれてね。日帰りで出かけてきたのだ。君に土産だよ」
「まぁ、いい香りの茶葉クッキー! ありがとうお父様」
お父様のにこにことした顔を上目で見て、私は嬉しくなる。
お父様は美しい。精悍な顔立ちに気品あふれる仕草、もう四十路だというのにその肌のつやめき、それは日々を生き生きと充実させて過ごしている賜物だろう。兄に家督を譲ってからは時間に余裕ができたのもあるだろうか。なにより、大らかな気性が温かな微笑みと共にこぼれ広がり、これほど整った男性的な面立ちにも関わらず、少しも威圧的なものが感じられない、器の大きさというものが感じられ、そばにいると安心できる。ああ、もう、お父様大好き――。
「それでね、エレーゼ。君ももう18なのだし、そろそろ真剣に結婚を考えてみてはどうかと思うのだが」
「は?」
幻聴かしら。
「実はぜひ君にと、いい話をいただいたのだが」
幻聴ではなかった。お父様が私をこの家から追い出そうとしているだなんて。
悪夢だ。
「嫌です! 結婚なんて。私は永遠にお父様のおそばにいます! 何度もそう申し上げているではありませんか」
「でもねぇ、父は永遠に君といてはあげられないんだ……」
「お父様が天国へと旅立たれた後は、ひ、と、り、で、お父様の菩提を弔って生きていきます!」
「菩提はちょっと宗教が違うかな……」
その時、軽快な足音が。
「ごきげんよう、お父様、お姉様。私もご一緒してよろしいです?」
「ああ、アンジェリカ。君もこちらへおいで」
あら……。はぁ、どうして見つかってしまったのかしら。2日おきの貴重なひと時を邪魔されたくないのに。
一つ下の実妹アンジェリカ。私の大切な家族。「大切な」、そこに嘘はない。でもこの子といると、胸がいつだって重苦しくなる。
彼女がお父様のすぐ隣に座って談笑する。ああ、このふたりは親子なのだな、と、額縁に飾られた絵画を見るようにして私は思う。
アンジェリカは、千人に聞けば千人ともが「これは美しいご令嬢だ!」と認める正真正銘の美人である。
整った顔立ちにありがちな、とっつきづらそう、お高くとまってそう、という先入観を一瞬で蹴散らす、可愛げ満載の美人である。
父と母のいいとこ取りをした、スレンダーな骨格の持ち主でもある。
ブロンドの父とブロンドの母から生まれた当たり前の金髪だ。これは兄もだ。なのに私は、いや私だけ、ブラウンの髪なのだ。この世にブロンド人口は1.8%しか存在しない。ブロンドでない方が当たり前なのに、私は私の優性遺伝が異常に思える……。
眼の色だって、妹はキラキラと透きとおるエメラルドなのに、私はまるで翡翠のような……。私はなぜか父と母の外見をこれといって受け継がなかった。先祖のどこからもらったのか知らないが、私の外見は何をとってもごく並である。
そんな私たちは、物心ついた時からふたり揃って社交界に送られた。となると、彼女と私がそこでそれぞれどういった“もてなし”をされたか、想像つかない者はいないだろう。
人々に囲まれ褒められ喜ばれ、彼女はどんどん華やかになっていく。自信が彼女を美しくする。私は逆に、身に着けるドレスもアクセサリーも地味になっていくばかり――。
それでも。そんな私をお父様だけはいつも、可愛い、美しいと言ってくれる。
「あら、お姉様にご縁談ですか? どちらのお方です? お相手のお歳は? 私の知っている方なのかしら」
彼女はどうでもいいことにもとりあえず首を突っ込む性分だ。そこが男性に「この子、僕に興味を持ってくれてるのかなソワソワ」と勘違いさせる、無欠の天然魔性女なのだ。