歪な器
「久しぶりだな、ディアーナ」
ジャンルカ殿下は真顔でそう口にした。わたくしは唖然としたまま、その場から一歩も動くことが出来ない。殿下に掴まれたままの腕が、強く痛んだ。
「ど……どうして…………」
言いながら声が震えてしまう。今後自分に関わるなと言ったのは、ジャンルカ殿下の方だ。
(それなのに、わたくしに声を掛けてくるなんて)
彼の目的が分からず、わたくしは立ち竦むことしかできない。婚約を破棄された時の記憶が鮮明に蘇り、胸が強く痛んだ。
「君に用事がある。大事な用だ」
そう言ってジャンルカ殿下は、わたくしのことを冷たく見下ろした。憎しみの見え隠れするグレイの瞳に、心が凍り付くような心地を覚える。彼はわたくしの顎を掬うと、小さくため息を吐いた。
「ディアーナ……僕ともう一度、婚約してほしい」
「…………え?」
その瞬間、わたくしは大きく目を見開いた。
(この人は一体何を言っているのだろう?)
あまりの驚愕に、今しがた聞いたばかりの言葉が理解できない。呆然としているわたくしに、
「君との婚約破棄を取り消したいんだ」
と、ジャンルカ殿下は言葉を重ねた。
(ジャンルカ殿下が、わたくしと婚約……?)
考えながら、わたくしは小さく首を横に振る。言葉の意味は分かっても、その理由や真意が一切理解できない。彼は相変わらず、憎々し気な表情でわたくしのことを見下ろしていた。ジャンルカ殿下にわたくしへの愛情がひとかけらも存在しないことは明白だ。
何度か大きな深呼吸をした後、わたくしは意を決してジャンルカ殿下を見上げる。心臓がドッドッと変な音を立てて鳴り響いていた。
「どうして今更そんなことを? 殿下はロサリア様と――――聖女様と婚約をなさるのでしょう? そのためにわたくしとの婚約を破棄したことをお忘れですか?
第一、殿下はわたくしと一緒に居ると疲れると――――そう仰っていたじゃございませんか」
努めて冷静に口にしながら、わたくしは唇を真一文字に引き結ぶ。
ジャンルカ殿下は大きなため息を吐くと、クシャクシャっと腹立たし気に髪を搔いた。
「父上――――陛下に叱られたんだ」
「……え?」
「勝手にディアーナとの婚約を破棄したこと。四年も婚約していたのに、聖女が現れたからという理由で一方的に破棄するなんて間違っている。王族との婚姻が伝統なのだから、相手はサムエレで良かっただろう……って。
そもそも、婚約破棄自体が事後報告で――――僕の口からではなく、サムエレから報告を受けたってことで、大層な怒り具合だった」
「そ、れは……」
それらの可能性についてわたくしは、ジャンルカ殿下に事前にお伝えしたはずだ。けれど殿下は、まるで『指摘しなかったおまえが悪い』とでも言いたげな表情で、わたくしのことを睨んでいる。
「――――それでも陛下は、一応矛を納めて下さったんだ。既に破棄したものは仕方がない。ロサリアと婚姻を結べれば、責任は不問にすると。
だけど今度は、ロサリアの方が問題だった。驚くことに、彼女には密かに結婚を約束した恋人がいたんだ。王太子であるこの僕の……僕のプロポーズを…………あの女は無下に断った」
そう言って殿下は声を震わせる。怒りのせいか、瞳が真っ赤に血走っていた。荒く呼吸を繰り返し、ニヤリと口角を上げた彼は、酷く狂気じみている。反射的に数歩後退ると、ジャンルカ殿下はすぐにわたくしを追いかけた。
「待てよ。僕は君の返事をまだ聞いていない。僕にはもう、君と婚約を結び直すしか、方法が無いんだ」
そう言ってジャンルカ殿下はわたくしの肩を掴む。指が肌に食い込んで、鈍い痛みが走る。首を横に振ると、ジャンルカ殿下は笑顔を浮かべ、更にわたくしとの距離を詰めた。
「ねぇ知ってる? このままじゃ僕は父上に勘当されてしまうんだ。弟に……サムエレの奴に全てを奪われてしまう。こんな形で玉座を奪われるだなんて、そんなの納得できるはずがないだろう?
僕の方がアイツよりもすごい。僕の方が皆に認められるべきなんだ。なぁ、ディアーナもそう思うだろう? なぁ?
僕と婚約すると言え。僕の妃になると言うんだ!」
ジャンルカ殿下の言葉に沸々と怒りが込み上げてくる。わたくしは意を決して、ジャンルカ殿下を真っ直ぐに睨みつけた。
「わたくしがあなたと婚約をすることはありません」
「――――――何?」
ジャンルカ殿下はそう言って大きく目を見開く。心臓を抉るような声音。けれどわたくしは、もう迷わなかった。
「何度でも言います。わたくしがあなたと婚約することはあり得ませんわ。
あなたが今後、国王になることも――――ジャンルカ殿下は王の器じゃございませんもの。
わたくしは、次の国王にはサムエレ殿下こそ相応しいと思います」
キッパリとそう言い放ち、わたくしは大きく息を吸う。
(ここまで来てようやく分かった)
ジャンルカ殿下は承認欲求と劣等感の塊だ。努力も碌にしない癖に、誰かに認められたい、一番になりたいだなんて――――そんな人が王になれる筈もない。
(サムエレ殿下は『わたくしは何も悪くない』と言ってくださったけれど)
わたくしは婚約者として、彼を正しく導くことが出来なかった。歪で空っぽな彼の器に必要なものを注ぐことが出来なかった。それこそがわたくしの、最大の失敗だと気づく。
その時、ジャンルカ殿下が腕を大きく振り被った。月明かりを背に、彼の影が大きく動く。わたくしは静かに目を瞑った。
(サムエレ様……!)
恐怖心を胸に、わたくしはグッと歯を喰いしばる。
「ぐぁっ」
けれどその時、痛みの代わりに低い唸り声が上がった。バタバタと数人の足音が鳴り響く。恐る恐る目を開けると、ジャンルカ殿下はギリリと腕を捻り上げられ、床に尻もちを付いていた。
「遅くなってゴメン、ディアーナ」
その瞬間、目頭がグッと熱くなる。わたくしを助けてくれたのは他でもない――――サムエレ殿下だった。ジャンルカ殿下を騎士達に引き渡し、彼は急いでわたくしに駆け寄る。涙がポロポロと零れ落ちた。張り詰めていた緊張の糸が切れて、堰を切ったみたいに止まらなくなる。
「サムエレ様」
まるで迷子になった子どものように、わたくしは殿下の――――サムエレ様の名前を呼び続ける。彼は目を丸くし、わたくしをギュッと抱き寄せた。優しくて温かいサムエレ様の香りがわたくしをそっと包み込む。二人分の鼓動の音を聞きながら、わたくしはギュッと目を瞑った。