天国から地獄へ
夜会会場はたくさんの貴族で賑わっていた。煌びやかで上品なホールにサムエレ殿下と二人、並んで歩く。
(ジャンルカ殿下に婚約破棄されて初めての夜会だから、本当は少し怖かったのだけれど)
わたくしを見ても、コソコソと噂話を始めたり、傷口を抉るような人はここにはいない。皆いつもの様に穏やかに言葉を交わしてくれた。
「楽しんでくれてる?」
「――――すみません。夜会なんて慣れっこの筈なのですけど」
一抹の気恥ずかしさを感じつつ、わたくしはそう答えた。
(不思議)
隣に居るのがサムエレ殿下というだけで、全てが違って見える。
これまでは夜会と言えば、いつも気を張っていた。ジャンルカ殿下が何か失礼を働くのではないか、サポートが必要になるのではないかと気が気じゃなかったからだ。
(サムエレ殿下にはそんな心配がないもの)
彼の応対はいつも卒がなく、安心して見ていられる。嫌味な貴族が相手でも、サラリと躱して微笑むことができると分かっているから、本当にありがたい。
(ジャンルカ殿下はプライドが高い方だから)
そんなことを考えつつ、わたくしは小さくため息を吐く。
サムエレ殿下だって当然、気高いお方だ。けれど、ジャンルカ殿下のそれは、どこか余裕がなく、脆いように思う。誰かに何かを言われれば、すぐに折れるような危うさを秘めていた。
(なんて、わたくしが言えた話ではないわね)
つい先日、ジャンルカ殿下から婚約を破棄されたことで、わたくしは自分というものを思い切り見失った。これまで必死で築いてきたものに価値が見いだせなくなって、辛くて堪らなかった。常に自己嫌悪に苛まれ、己に酷く幻滅して。
(ジャンルカ殿下も、そんな気持ちだったのかしら?)
彼は、わたくしやサムエレ殿下と比べられることが辛いと言っていたから。もしかすると、今のわたくしならば、少しはジャンルカ殿下の気持ちに寄り添うことができるかもしれない。
「ディアーナ、悪い。少しだけ話が長くなりそうだから……」
その時、サムエレ殿下が申し訳なさそうにそう囁いた。彼の掴まったお相手は、社交界では有名な、話し好きで高齢の伯爵だった。
(わたくしはこのまま同席しても構わないけど)
伯爵の方がサムエレ殿下と二人きりで話したそうな雰囲気を醸し出している。過去の夜会を思い返してみると、伯爵はいつもサムエレ殿下と二人きりで熱心に話をしていた。きっと、真剣に話を聞いてくれる殿下のことを快く思っているのだろう。そんな彼の気持ちに水を差すわけにはいかない。
「お気になさらず。わたくし、少しあちらに行ってますわね」
「ああ、また後で」
そう言って殿下は、穏やかに微笑んだ。
(さて、と)
人混みを抜け、バルコニーで佇みながら、わたくしは小さく息を吐く。
何だかとてつもなく幸せな夜だった。こんな気持ちでホールに立てる日が来るなんて、思ってもみなかったから。
(ジャンルカ殿下に婚約を破棄されて、良かったのかもしれない)
星空を見上げながら、そんなことを考える。
王太子妃になれなかったことについては、少しだけ残念に思う。そのために四年間、ありとあらゆる努力をしてきたし、犠牲にしたものも当然あるから。
だけど、ジャンルカ殿下との婚約が破棄されて得たものの方が余程大きい。自分という人間を見直すことが出来たし、肩の力を抜くことが出来た。何より、サムエレ殿下とこんな風に親しくなれたことが嬉しくて堪らない。
(本当の所、殿下はわたくしのことを、どう思っているのだろう?)
彼がくれた『可愛い』、や『好き』の言葉をどこまで素直に受け容れて良いものか、わたくしは未だに計りかねている。信じていた人に裏切られること――――それがどれ程辛いか、身に沁みて分かっているから。
(だけど)
もしもサムエレ殿下の恋人になれたら、きっと物凄く幸せだと思う。温かく穏やかな気持ちに包まれて、笑顔の絶えない毎日を送れるだろう。そんな自分を想像するだけで、自然と笑みが零れてしまう。
とはいえ、サムエレ殿下がわたくしとの関係を、どこまで真剣に考えていらっしゃるかも分からない。
何と言ってもわたくしは、彼のお兄様であるジャンルカ殿下の元婚約者だ。そんなわたくしの手を取ることを、世間がどう思うかは分からない。だから、殿下とはこのままズルズルと付かず離れず……そんな関係に終始する可能性だって無くはないのだけど。
(それでも構わないわ)
夜風がそっと頬を撫でる。少し肌寒いぐらいなのに、心がポカポカと温かい。
サムエレ殿下の気持ちがどうあれ、わたくし自身の気持ちはもう誤魔化しようがない。他の誰にも抱いたことのない、特別な想い。それが、わたくしの中に確かに芽生え、すくすくと育っているのが分かった。
(殿下にお伝えしなければ)
そう思うと、鼓動がトクントクンと速くなる。
「ディアーナ」
けれどその時、わたくしの心は一気にどん底へと引き摺り降ろされた。ドクンドクンと嫌な音を立てて心臓が鳴る。サムエレ殿下によく似た、わたくしを呼ぶ声。怖くて振り返ることができずにいると、大きな手のひらがぐいとわたくしを引っ張った。
「ディアーナ」
責めるような瞳が、わたくしを冷たく見下ろす。
「殿下」
わたくしの元婚約者――――ジャンルカ殿下がそこにいた。