意識してほしい
夜会の当日。サムエレ殿下は馬車に乗って、わたくしを迎えに来てくださった。
クラシカルな黒い紳士服に、青色のクラバット、夜の闇と金に輝く彼の髪色のコントラストも相まって、何だかとても神々しい。
(すごい……素敵すぎる)
そんなことを思いつつ、わたくしは努めて平静を装う。
本当は心臓が飛び出しそうな程、ドキドキしていた。キッチリと着こなした正装や、いつもよりも強い香水のせいだろうか?同い年だというのに、色気がすごい。普段の爽やかな制服姿とは違った魅力がそこにはあった。
「綺麗だよ、ディアーナ。よく似合ってる。
今夜のドレスはこれまでの夜会で着ていたものと雰囲気が違うね。すごく……可愛いよ」
そんなことを思っていると、サムエレ殿下はそう言って眩しそうに目を細めた。途端に胸がキュンと甘く疼く。頬のあたりで髪の毛をそっと掬われて、一気に思考が停止した。
(社交辞令……殿下にとってこれは社交辞令なのよ)
心の中でそう唱えつつ、わたくしはそっと俯く。
貴族社会において、社交辞令は基本中の基本。息を吸うぐらい当たり前に口にできなければならない。サムエレ殿下もそれを行動に移しただけだ。
(というか)
そんな風に思っていないと、とてもじゃないけど冷静な自分に戻れない。殿下の一言でこんなにも舞い上がっている――――そんな自分が恥ずかしくて堪らなかった。
「本当に……可愛いよ、ディアーナ」
けれど、殿下はもう一度、噛みしめるように言葉を重ねる。
ふと顔を上げれば、サムエレ殿下は真剣な表情でわたくしを見つめていた。これを『ただの社交辞令』だと思いこむのは中々に難しい。
(こういう時、なんて返せば良いんだっけ)
そんな当たり前のことすら分からなくなるほど、思考回路がおかしくなっている。胸の中で小さな火種が燃え上がって、心の中をチリチリと焼くような、そんな心地がする。チラリと殿下を見上げれば、彼はとても嬉しそうな表情で笑っていた。その瞬間、先程までの逡巡が嘘のように、ストンと言葉が降りてくる。
「あっ……ありがとうございます」
素直にお礼を口にすれば、サムエレ殿下は更に嬉しそうに目を細めた。その表情に、何だかこちらまで嬉しくなってくる。
「ねぇ……ディアーナは今夜、俺のためにオシャレをしてくれたんだよね?」
殿下はそう言って小さく首を傾げつつ、そっとわたくしの顔を覗き込んだ。
尋ねている癖に、彼の瞳は確信に満ちていた。キラキラと熱を纏って揺れる青い瞳から目が離せない。恥ずかしさのあまり、わたくしはギュッと自分を抱き締めた。
今夜のために用意をしたのは、青と黒を基調としたフィッシュテールタイプのドレスだった。
これまでのわたくしは、婚約者であるジャンルカ殿下に合わせて、大人っぽく、落ち着いた雰囲気のドレスを選んでいた。未来の王太子妃に相応しくあろうと、上品で隙のない女性を演出していたのである。
けれど今回、夜会に同席するお相手は同い年のサムエレ殿下だ。おまけにわたくしはもう、王太子ジャンルカ殿下の婚約者ではない。他の令嬢方と同じ――――無理して背伸びをする必要はない。
そんなわけで、今夜はこれまでと全く趣の異なるドレスになった。サムエレ殿下の好みを想像したり、流行りのデザインを調べたり――――ドレス選びを楽しいと思ったのは、これが初めてだった。
「嬉しいな。俺もディアーナのために頑張ったから」
そう言って殿下は、心底嬉しそうに微笑む。返事がないことを肯定の意味で受け取ったようだ。正しいけれど、何だか物凄く居た堪れない気持ちになる。
(わたくしも何か言わなければ……!)
そう思うのに、普段なら自然と口を衝く社交辞令が、何故かサムエレ殿下にはちっとも機能しない。どんな言葉も陳腐に思えてしまって、唇が動かないのだ。
「何だか……殿下と一緒に居ると調子が狂います」
ようやく口にできたのは、自分でも貶しているのか褒めているのか判じづらい、そんな言葉だった。
ジャンルカ殿下の婚約者だった時、心がこんな風に揺れ動くことは無かった。いつも淡々と必要なことだけをし、必要な言葉だけを交わして、気高く凛とあることが美徳だと思っていた。誰からも責められないよう、自分を取り繕っていた。
それなのに今のわたくしは、必死になって身に纏っていた脆いメッキを全て剥がされたような、そんな状態のように思う。
(ジャンルカ殿下から打ち明けられた婚約破棄の理由が、最初のキッカケではあるけど)
恐らく、一番の理由はそれとは違う。チラリとサムエレ殿下を覗き見れば、彼はゆっくりと目を細めた。
「そう? ――――そんなディアーナが俺は好きだけど」
サラリとそう口にして、サムエレ殿下が笑う。その途端、心臓がドキドキと脈打ち、頬が真っ赤に染まった。
「そっ……~~~~殿下も人が悪いです。揶揄われて調子の狂った人間がお好きだなんて」
言えば、サムエレ殿下は大きく首を傾げつつ、クスクスと笑い声をあげた。
「揶揄ってるつもりはないんだけどな。ディアーナに俺のことを意識してほしいとは思っているけど」
そう言って殿下はゆっくりと跪き、わたくしのことを見上げた。あまりにも直球な欲求。直球過ぎて、それが彼の真意なのかよく分からなくなる。
(なんにせよ、この状態で意識するなって方が無理があると思う)
跪き、わたくしを真っ直ぐに見上げるサムエレ殿下は、本当に世の女性が想い描く理想の王子様だ。殿下はわたくしの手を握ると、そっと触れるだけの口付けをした。心臓を直接撫でられるような心地に、肌が粟立つ。
「そろそろ行こうか」
サムエレ殿下はそう言って、腕を差し出した。その途端、先程までとは別の緊張感がわたくしを襲う。おずおずと彼の腕に手を伸ばすと、殿下は嬉しそうに微笑んだ。