プロローグ2 旅立ち
音のない、静かな世界。
光のない、真っ暗な世界。
そこに俺は立っていた。
記憶が曖昧なせいで、自分が何をしていたのか思い出せない。それどころか、俺がなぜここにいるのかも、何をしようとしていたのかも思い出せなくて。
ただ呆然と、暗闇の中で立ち尽くすだけだった。
だけど、一つだけわかることがある。
『……………………』
白い髪をした少女が、暗闇の中で立っていることだった。
白いワンピースを着た、俺よりもずっと小さい、十歳くらいの女の子。しかし、少女の顔はぼやけていてよく見えない。
『起きて……』
女の子の声が、無音の世界に反響する。
聞き覚えのある、懐かしい声。なのに俺はあの子を知らない。知らないはずだ。
それなのに……胸の中が、苦しくなる。
「お前は……誰だ……」
意識がぼんやりとしたまま、俺は女の子に向かって手を伸ばす。
女の子はくるりとこちらを振り返り、静かに笑う。そして、再び身を翻し、暗闇の中を歩いていってしまう。
──ダメだ。行かせたらいけない。
その時、なぜか俺はそんな思考に囚われていて、慌てて駆け出していた。
歩く女の子に対して、走る俺。すぐに追いつけるはずなのに、距離は一向に縮まらない。
「待って……!」
伸ばした手は女の子には届かず、女の子は暗闇の中に消えてしまう。
その直後だった。闇の中に突然、強い光が現れ、世界を瞬く間に侵食していく。当然、その中にいる俺も例外ではなく──
「……ッ!」
なすすべもなく、光に飲まれたのだった。
***
「………………」
……左手を伸ばした状態で、俺は見慣れない天井を見上げていた。
光に呑み込まれた……そう思っていた。
だがそれは当然夢の中の話で。暗闇の世界にいる時点で気づくべきだったのだろうが、それに気づけないから夢というのであって。
意識が覚醒した俺は、冷静になって辺りを見回す。
真っ白な部屋。だだっ広い部屋の中には、俺が寝転がっているベッドと、小さな棚くらい。すぐ真横にある窓からは、心地良い風と暖かな日差しが。
「……病院か? ここ」
体を起こすと、自分の服装が変わっていることに気づく。患者服を着ているってことは、ここは病院で間違いないらしい……が。
「広すぎ……だよな」
どうも気になって仕方ない。
この部屋、ざっと見渡してもひとり用の病室にしてはやはり広すぎる。軽く六畳近くはあるんじゃないか?
しかもベッドのサイズは個人用だし、まるで隔離されているような……。
「……あら、目が覚めたのね」
と、病室の扉が横に開かれる。すると、金髪の黒い服を見に纏った女性が優しく微笑みながら入ってきた。
「よかった。あれだけの魔力を消費したんだもの。仕方ないと思うけど、あの子がちょっと騒いじゃってね? このまま起きなかったらどうしようって、泣き喚いちゃって」
女は突然入ってきたと思えば、今度はベラベラとよくわからないことを話し始める。
状況が読み込めずに頭がはてなだらけのまま女を見ていると、俺の言いたいことを理解したのか、女性は「ごめんなさいね」と一言謝罪をして、咳払いを一つ。
「マリア。マリア・サンディエルよ。国軍の対霧の魔物部隊で、隊長を務めてるわ」
国軍……確か、日本国軍の略称だったはずだ。そういえば、俺のことを運んだ男たちもマリアが身に纏っている服装と同じように黒をベースに武装していた。そいつらも、多分そうだったのだろう。
「で? その隊長さんが何の用だよ」
「……そうね。ちゃんと話さないといけないわね」
と、棚の横に積み重ねられた椅子の一つをベッドの横に置き、その上に腰掛ける。
「いい? 心して聞いて」
柔らかな笑みから一変、真面目な表情へと変わり、彼女の周囲の空気までピリピリとしていた。
マリアの雰囲気に釣られて、俺まで緊張してしまう。ごくりと生唾を飲み込み、真剣な眼差しで彼女の言葉を待つ。
「貴方、魔法使いに覚醒したのよ」
「…………は?」
たった一言。それだけで、俺の思考は停止した。
──覚醒した? 俺が? 魔法使いに?
魔法使い。
突如として現れた未知の生物である【霧の魔物】。それと唯一戦える力である【魔法】を操る者たち。
この世界で生きている者ならば必ず知っていることだ。魔法使いに覚醒した人間は、魔法学園に通うこと。そして、魔法使いとなった者は、強制的に霧の魔物との戦いの中に駆り出されるということ。
覚醒する条件の詳細は明らかになっていない。よくある例であるとすれば、死の淵に立った時に覚醒することが多いというが──
「…………あ」
死の淵。そう、確かにあの時、俺はそこに立っていた。
獣の姿の魔物によって致命傷を負わされ、死にかけていたあいつの手に触れようとして……そのあとは覚えていない。恐らく、そこで気を失ってしまったのだろう。
「……なるほどな」
覚醒した理由に納得し、頭をぐしゃぐしゃと掻き回す。
ただ、いくつか腑に落ちない点がある。
それは、魔法使いへの覚醒云々よりも重要と言っても過言ではないだろう。
「なあ、一つ聞いていいか?」
「何かしら」
「……俺、何で生きてんの」
確かにあの時、俺は致命傷を負ったはずだ。なのにこうして生きている。
感覚はなかったが、相当な量の血が流れていたはずだし、脚だって折れていた。それなのに脚も体の傷も完治している。
その理由を、覚醒しただけで済ませることはできないだろう。
「……そうね。それについても、まとめて話させてもらうわ」
と、マリアは一度立ち上がると、棚の中から何かのファイルを取り出し、また席に戻る。
「まず、貴方の魔力量のことから話させてもらうけれど」
ファイルの、付箋のつけられたページを開き、そこから二枚の紙を抜き取って俺に渡す。
その紙に書かれて、というより印刷されていたのは、手のひらのレントゲン写真のようなものだった。
一つは、手のひらの輪郭を太く白い光が覆っているような写真。
もう一つは、真っ白な手の上に、黒い歪んだ線がいくつか入っている写真。……この写真に関してはレントゲンとは呼べないな。
「これは、キルリアン法というやり方で、魔力量を測定した時の写真。この白い線は、その人の中にある魔力なの」
マリアは、真っ白じゃない方の写真を指さしながら説明する。
「こっちのは私の魔力を取った写真。で、そっちの白い方が──」
「……まさか」
もしマリアの言っていたことが本当なら、この俺の手の輪郭まで埋め尽くしている白いモヤモヤが、俺の魔力量ということになってしまう。
マリアの手の写真と比べて見ても、やはり異常なくらい白い。俺の方の写真は、目を凝らさないと手の輪郭がはっきり見えないレベルに白い。
「嘘だろ……?」
「それ、こっちのセリフよ……」
マリアも呆れた様子で、目元を押さえていた。
これだけでも十分情報が多いってのに、まだ俺が何で生きてるのかとか、あいつの安否とか、まだわかってないことがいくつかある。
頭痛で頭がどうにかなりそうだ……。
「……それで、さっきの質問の答えだけど」
俺から写真を預かると、マリアは咳払いをして話の話題を変える。
ずっと気になっていたことだったんで、俺も思わず体勢を変えて真剣な表情に切り替える。何があろうと、その事実を受け止めるために。
「あの日、あの場にいた私たち国軍の部隊、救護班の人たち、そして避難していた貴方を含めた一般人の合計八十三人。実は──」
……だが、俺が思っていた以上に、事は大きかったらしく。
「全員、一度死んでいるのよ」
「……………ん?」
言葉の意味が理解できず、リアルに首を傾げる。
死んだ? 一度? それも全員だって? そんなことあるわけが……。いや、だが事実として俺が生きている。
「だけど、貴方が覚醒した直後、あの場にいた全員が生還している。不思議なことに、全ての傷が癒えた状態で」
「……ってことは、あんたも?」
「……悔しいけどね。上半身全部持ってかれたのよ。なのにこうして生きている。絶対にありえないはずなのに」
軍の人間がわからないことを俺みたいなやつが知るわけないだろう。
あまりにも情報量が多すぎて頭がどうにかなりそうだ。だがそんな俺のことは知らずに、マリアは淡々と話を続ける。
「……死んだはずの人々が生き返った。貴方が覚醒したタイミング的に、原因は貴方である……と、私は考えてるわ」
そこまで言い終えると、マリアは気怠そうにため息をついた。
「……異常な魔力量。約八十名の同時蘇生。前代未聞の出来事が連続で起きたせいで、色々と混乱状態でね」
そう言いながら、マリアは手持ちのファイルから一枚の紙きれを取り出した。それを渡され、俺はその紙に書かれた内容に目を通す。
「入学案内……?」
その紙に書かれていた内容は、ある学園へ編入する際の案内について書かれたものだった。
──私立グリモワール魔法学園。
必ず一度は耳にする、日本で唯一の魔法学園。覚醒した魔法使いは、この学園に入学、魔法の使い方なんかを学ぶという。
東京にあるのかと思っていたが、実は違うらしい。埼玉県にある風飛という場所にあるというが……この入学案内を見るまで、そんな地名があることすら知らなかった。
未知の学園に未知の街。さらには俺が持つという異常な魔力と、前代未聞だという蘇生魔法。
覚醒したってだけでいっぱいいっぱいなのに、こうも未知が連続して起こると、頭がパンクしそうになる。
だが、そんな状況でもわかることが一つ。
「一応聞くが、入学を拒否することは?」
「無理ね。魔法が暴発するリスクがあるし、貴方みたいな“イレギュラー”を放っておくほうが難しいもの」
俺はこれから強制的に、魔法学園に入学させられるということだ。
……わかっちゃいたが、やはり嫌だとは思う。人がわちゃわちゃしているような学園に行って、そこで魔法を勉強するなんてこと。
俺の生活的に、勉強とは縁がないようなところにいたし、何よりも人間のことが嫌いな俺に、学業なんて務まるとは思えない。
だが、メリットはある。
魔法の使い方を学べば、何かを守るための力を得られる。
加えて俺は他の魔法使いと比べて、桁違いの存在になれる可能性もある。まだ断言はできないが、ある種の方向では、規格外の存在になれるかもしれない。
そうすれば今度こそ、あいつを守ることができるってわけだ。
「……オーケー。わかった」
しばらくの沈黙の後、俺はため息混じりに口を開く。
その一言だけで、マリアは俺が何を言いたいのか理解したようで、次の段階へと話を進める。
「学園側にはすでに申請を終えている。退院のための準備も進めてあるし、あとは貴方の意識が戻るのを待つだけだったの」
マリアはニッコリと笑いながら、棚の影から大きなキャリーバッグを引っ張り出した。
ケースの中身は、適当な衣服や生活用品。服のサイズ的に、おそらく俺のものだろう。いつの間に準備したんだか……って、なんで俺の服のサイズ知ってんだこいつ。
「さ、あとは着替えて退院準備! 病院の先生呼んでくるから、少し待ってなさい」
そう言って、マリアは病室を後にする。
残された俺は、キャリーケースの中身を確認しながら、医者が来るまでの時間を潰そうと……したのだが。
「……あ!」
横から聞こえてきた声が、それを許さなかった。
扉の影から現れたのは、一人の少女──俺が守ろうとしていた人物だった。
黒茶色の髪の少女は、俺の姿を見るなり満面の笑みを見せると、俺の元へと駆け寄る。そして、
「レイくん!」
「うごっ!?」
俺の腹に、頭を突っ込んできた。
傷はないはずだが、見事に頭突きが直撃した箇所がズキズキと痛む。そこに、彼女は追い打ちをかけるように自分の頭をぐりぐりと当ててくる。
「痛ぇから頭突きすんな!」
「だって……だってぇ!」
俺のことを見上げた時の彼女の表情は、さっきまでの笑みとは一変、目に涙を溜めていた。
「このまま起きなかったらどうしようって思って……!」
「…………」
それはこちらのセリフだ。もしお前が死んでしまったのなら、俺は……。
「……安心しろ。こうして生きてる。俺も、お前も。無事で良かった」
俺の言葉に、少女──刹那鈴は、目に涙を溜めたまま何度も頷く。
「ぐすっ……レイくんも無事で良かった……」
涙を拭いながら、刹那は俺から離れる。
俺よりもずっと酷い怪我を負っていたはずなのに、刹那は何事もなかったかのようだった。
「お前、体は平気なのか」
「うん……なんともないよ。マリアちゃんがね、レイくんのおかげだって言ってた」
「マリ……そ、そうか。ならいい」
とりあえず無事で何よりだが……。
マリアちゃんって、俺が眠ってる間にどんだけ仲良くなったんだ。
しかも俺、変なあだ名で呼ばれてるし。
「レイくんってなんだ、レイくんって」
「え?」
何かおかしい? みたいな顔の刹那。多分だが、純粋に思い付いたあだ名を使ってるだけなんだろうが。
「だって、レイくんの方がいいじゃん。苗字呼びより」
予想通りすぎる回答に、思わず顔が引き攣る。しかもあだ名の付け方が安直。
「…………まあ、いいけど」
いちいち文句を言うのも面倒だ。こういうのは、大人しく受け入れるに限る。
しかし刹那は俺が承諾したことに対して嬉しそうに笑う。
その顔があまりにも無邪気だったもので、無意識のうちに、つい口角が緩んでしまっていた。
コンコン、と二回ノックする音が俺たちのことを遮り、俺たちの意識はお互いから音のした方へ向けられる。
そこには、刹那とは別の意味であろう笑みを浮かべているマリアの姿。
「あら? お邪魔だったかしら」
なんて言ってるが、邪魔する気満々だったのだろう。あの笑みがそう言ってる。
しかし刹那はそれにすら気づかずに──
「大丈夫だよ! ただお話ししてただから」
と、答えた。純粋にも程がある。
その純真すぎる返しに、マリアも思わず吹き出していた。
「ごめんなさいね。先生を連れてきたから、席を少し外しててくれるかしら?」
マリアの後ろに立つ、白衣の男。マリアが呼びに行った医者だろう。
刹那は、マリアに言われた通り、病室を去っていった。去り際に「また後でね!」と目配せをしていたが。
「さて……と、始めましょうか。入学準備」
ゆっくりしている時間などないのだろう。それは、マリアの表情の変わりようから理解できた。
***
話を聞く限り、やはり俺は本来の魔法使いと比べても相当特異な存在らしい。
つい一週間前、俺と同じような魔力量を持った人間がグリモアに現れたと言うが、その使える力もまた特殊だったという。
その前例があるため、俺もまた特異な力を持つ存在である可能性が高い──とのこと。
詳しいことは学園にて調べるが、この病院では調べることは無理だと言われた。無闇に魔法を使って、他の患者に影響が出てしまう恐れもあるからだという。
まあ、判断としては間違いじゃない。未知の力を恐れるのは当然のことだ。俺ですらこの力がなんなのか把握できていない。
だからこそ、少しでも早く監視できるように目覚めてすぐに退院できるよう手続きを進めていたのだろう。
「それじゃあ、これでいいわ」
受付であれこれと手続きを終えると、俺はマリアが手配していた車の前に立っていた。
「学園にはこちらで送るわ。目を覚ましたばっかりなのに、色々と押し付けちゃったし」
「別にいい。着替えに日用品まで揃えてくれたんだ。文句を言う方がおかしいだろ」
キャリーバッグを積荷を乗せ、風飛市とやらに行く準備を済ませる。
「……なあ、変じゃないか?」
患者服からマリアがくれた服に着替えたのだが、思ってた以上に洒落てる服にかなり驚いている。
白のシャツに黒のアウター。ジーンズもだが、まさか靴まで揃えてるとは。色合いも良い感じに合わせてるし、俺みたいなやつが着るような服ではない気がする。
「そんなことない! カッコいいよ! すっごく!」
だが、刹那はどういうわけか目を輝かせ、超がつくほどの至近距離から俺のことを見ていた。
その光景を、マリアが微笑ましそうに後ろで眺めているのが気になって仕方がない。
「……ほら鈴ちゃん。時間だから」
「えー……」
「えー、じゃないの。彼だって困ってるわよ?」
マリアに言われて、刹那は本当に残念そうにしながら、ようやく俺のそばから離れる。
……何をそんなに残念がってるんだ、こいつは。
「それじゃ、行きましょう」
「ああ」
別れの挨拶に、刹那に軽く手を振ってマリアは車に乗り込む。俺も乗り込もうとドアノブに右手をかける。
だが。
「……待って」
刹那の手が、俺の左手首を掴んでいた。
ドアを開けようとしていた手を離し、俺は刹那の方を振り返る。
気まずそうに笑いながら、刹那は俺の手首をそっと握っていた。
「……行っちゃうんだね」
その声には、色々な感情が混ざっていたのだろう。悲しみとかだけじゃない。心配しているのも、その一言に込められていた。
その笑顔は、とてもぎこちなくて。俺のことを笑って送り出そうとしてくれているんだろうが……。
「……ああ」
仕方ないことではあるが、やはり寂しいのは当然あるだろう。
俺がこの街に来てからずっと、刹那とは一緒にいた。幼馴染のように。
両親が共働きでそう簡単に帰って来られない彼女にとって、共にいられる存在が遠くに行ってしまうことは辛いかもしれない。
……でも。
目を閉じると、脳裏にあの時の刹那の姿が浮かぶ。
流れる血。光を失った虚な瞳。今のこいつと比べて、生気をまるで感じなかったことに俺は……恐怖していた。
もう二度と、あんな目に合わせたくない。
もう、こいつを苦しませないためにも。辛い思いをさせないためにも。
そのために俺は。強くなる。
「──刹那」
彼女の手を、包むように握る。そして、
「必ず帰る。だから、待ってろ」
できる限り、微笑んでみせた。
大丈夫、そう思いを込めて。
きっと不器用なのだろう。俺の笑みを見て、刹那はおかしそうに笑っていた。
「……笑うところじゃねぇだろ」
「だって……レイくんの顔が面白いから」
刹那に笑われて、急に恥ずかしくなってきた。
無理に笑ったりするもんじゃないな。そもそもの話、人前で笑うことなんて滅多にないわけで、こうやって安心させようと笑おうとすれば変になるってわかってた。
……けど。
「……わかった」
刹那は空いているもう片方の手で俺の手に触れて。
「待ってるから」
優しく微笑んで、そう答えた。
……まだ、不安は消えていない。
だけど、逃げることはできない。それは、刹那もきっとわかってる。
それでも俺は、こいつの笑顔を守りたい。そのために、行かないと。
「……ああ」
たった一言。素っ気ないし、気の利いた言葉ですらない。当然、この状況に合う言葉でも。
だけどこいつには、俺の思いが僅かに伝わったのか、明るい笑顔で一言。
「──いってらっしゃい!」
不安や心配を押し殺して、彼女はこれから旅立つ俺に一番合うであろう応援を送る。
……それを受け取った俺は、やっぱりぎこちない笑顔で、
「……いってきます」
そう答え、握られた手を離した。
***
車に乗り込み、刹那に見送られ、俺は病院を去った。
車の速さじゃ、刹那が見えなくなるのなんてあっという間で。すでに俺たちの乗る車は、高速道路の上を走っていた。
「いやー、青春ねー」
流れていく窓の外の光景を眺めていると、隣から声をかけられた。
「……何が」
少しだけ横目に声をかけてきた女の方を見ていたが、俺は振り返ることなく、窓の外を眺めながら女に言葉を返す。
「だって、あのやりとりは完全に恋人じゃない。なのに付き合ってないんだものね……。友達以上、恋人未満。うん、青春だわ……」
一人で楽しそうに何度も頷いている。そんなやつに、呆れてため息しか出てこない。
……外の景色を呆然と眺めながら、これからのことを考えていた。
新しい生活が始まる。けど、大して胸が躍るようなこともなく、期待に胸を膨らませることもなく。外の景色を眺め黄昏れているようだが、実はそうでもない。
あるとすればそれは……羞恥。
刹那に言ったあの言葉が。伝えていないが、心の中で思っていたことが。最後のあのやりとりが。今になってぶり返す。
頭を横に強く振って、恥じらいを消そうとする。それで、心の中で必死に何度も自分に言いかける。
『あれは刹那の不安を消すため。決して勢いとかで言ったわけじゃない』
そうやって、何度も何度も言い聞かせていたのだが……。
“必ず帰る。だから待ってろ”……ねぇ。
「……ハッ」
なんてクセェセリフだよ。漫画やアニメじゃあるまいし。まるで主人公みたいな……そんなセリフ。
「似合わねぇ……」
自分で言っておいて自分で苦笑する
……でも、その言葉は決して嘘ではない。
あれは俺なりの“誓い”だ。
二度と刹那をあんな目に合わせないために。守ることのできる力を得て、胸を張ってあいつのところへ帰る。
そのために……俺は、グリモアに入る。
そこで魔法を学んで、そこで強くなって。
あいつを守るという誓いを果たすために。
あいつからもらったものを返すために。
「(……ああ、約束だ)」
待っていてくれ、刹那。
必ず、帰るから──。
「ああ、そういえばだけど」
俺が振り返らなかったからか、今度は俺の肩を二回叩く。
「貴方の名前、聞いてなかったわね」
「は?」
マリアの言ったことの意味がわからず、思わず振り返ってしまった。
思った通りの反応をしてしまったからか、しかめっ面になる俺を見て、マリアはいたずらな表情になっていた。
「聞いてないって、お前な……」
手続きやら何やらをしてたんなら、俺の名前くらい知っているはずだ。
それなら、わざわざ名前を聞く意味なんてない。
「あら。初対面の人にちゃんと名乗るのは人としての礼儀じゃない?」
「……それは」
正論に何も言い返せない。
確かに、初対面に対して名乗るのは当たり前のことだろう。嫌いなやつならともかく、世話になったやつに名乗らないのも失礼な話だ。
特にマリアには、これから先も、きっと世話になることになる。だったら、そこら辺のことはちゃんと済ませておくべきだ。
「──麗矢だ」
「ん?」
「黒金麗矢。俺の名前」
俺の自己紹介を聞けて、マリアは満足そうに笑う。俺としては、自分の名前を知ってるやつにわざわざ名乗るなんて面倒なことだが。
そういえば、こうやって名前を名乗るのも刹那と会った時以来だ。
「……それじゃ、改めてよろしくね。麗矢君」
さっきまで貴方呼びだったのが、名乗った途端に名前呼びになった。しかも下の方。この女、最初からそのつもりだったな……?
「……たくよ」
「うふふ……」
楽しそうに笑うマリア。そんな彼女に呆れる俺は、特に何か言うような気力もなく、視線を外に戻す。
そんな俺たちを乗せた車は、魔法使いとしての生活を送る学園──私立グリモワール魔法学園へと、向かうのだった。
***
……これより始まる、新たな物語。
本来は存在し得ないはずの、もう一人の転校生。黒金麗矢。
彼より一足先に学園に編入した、黒金麗矢とは別の力を持った転校生。
彼の持つ魔力譲渡が、魔法使いに希望をもたらす“光”ならば、黒金麗矢は、それとは対をなす“影”となる力を宿す。
光と影、対となる二つの存在は──本来の物語とは全く異なる、新たな物語を紡ぐこととなる。
しかしそれは、その世界に暮らす誰もが知ることはなく、麗矢と魔力譲渡を持つ少年も、それを知ることはない……。