香織のお弁当
「お母さん、明日は、お弁当を作るわ。」
母親の手からコップが滑り落ちた。コップがプラスチックで割れなかったのは幸いだ。だが天変地異が起きるのだろうか。娘の言葉を聞いた香織の母親は我知らず身震いをした。
「突然、何故、そんな無謀な挑戦をしようとするの?」
お弁当を作ると言っただけなのに、娘に対して、ひどい質問だったかも知れない。
香織はこれまで家の手伝いを真面目に良くしてくれている。母親視点、娘として理想的とも言える。だが香織は人間には向き不向きがあることを具現する存在だった。
掃除は特に問題はない。母親としては安心して任せられる。捨てられたり破壊されたりしないように貴重品は隠しておく必要はあるが、綺麗に掃除してくれる。
洗濯は少し注意が必要だ。セーターがミニチュアサイズになったり、白いものが黒くなる危険性がある。でも、事前に分類して声掛けをすれば被害はまだ最小限で済む。
問題は料理だ。無知とは異なる。香織は努力家で知識の蓄積に貪欲だ。気になった料理はとことん調査する。作成者が見知らぬ人でも臆することなく遠慮なくとことん質問する。
結果、古今東西あらゆる時代の、とまでは言わないが、あまたの食材とレシピを香織は知識の本棚に誇っている。それは、ややマニアックとも言えるだろう。クイズ番組ならば負けることはないだろう。
しかし残念ながら、天は二物を与えない。香織には知識を現実化するだけの技術が決定的に欠けている。致命的だ。
香織を参考書あるいは辞書として使うのはいい。だが実践部隊に配置するのは自軍の敗北を意味する。
普通に作ればいいのに、なぜか途中で脇道に逸れるのだ。香織本人は神の啓示だという。はたから言わせれば、キテレツな発想力と行動力だろう。
それとフライ返しが本当にフライする。ステンレスボウルが嵌りこんで取れなくなる。焦げないフライパンが発火する。マジシャンと言ってもいいかもしれない。端的に言えば不器用だ。包丁の場合は、なんとかに刃物だ。
父親が風邪をひいたことがある。香織が、元気になるようにと体に良い食事を合成した。
「古代中国に於いて鶏肉を用いた粥ってのは・・・」
だが出来上がったのは想像を絶する未知の物体だった。食せば再起不能になる恐れがあった。
母親は香織に洗い物だけを担当してもらうことにした。
「少しずつ練習していこうね。」
母親は香織をそう諭す以外なかった。
だが香織は落ち込むことなく気合いを入れていた。
「次はきっと上手くいく。」
ネバーギブアップ。ファイトー。
今回、何故弁当を作るのか、という母親の問いかけに対して香織は言い淀んでいた。
それは、あのね、だから、と意味不明な言動を繰り返していた。
だが突如天啓を得たかのように眼を輝かせて答えてきた。
「家庭科部の遥香と、お弁当を作る競争をすることにしたの。」
理解しにくい。なんで競争をする必要があるのか。遥香と張り合うことがあるのか。
だが細かい事情は聞かないほうがいいだろうと、母親は判断した。娘の顔は紅く上気しているのだから、察するべきだろう。
「お弁当に入れるおかずは何にするの。」
急なことでもあるし、特別な用意はない。
「男の子って、お肉とかの、がっつりしたメニューが良いのかなあ?」
「誰かに作ってあげるの?」
母親はちょっと突っ込みをいれてみた。
「血、違うわよ」
微妙に漢字が違う、ち、が聞こえる。
「遥香とは、彼氏に作るならっていう状況での、お弁当を作ってくるという約束なの。」
限りなく怪しい香織の言い訳を母親は聞き流しておいた。掘り返したところで香織がパニックになるだけだろう。母親は生温かく娘を見つめるのみだった。
「ちがうんだからね。本当に、彼に気にいってもらうとか、振り向いてもらうとかじゃないんだからね。」
何も追及していないのに、自白している香織だった。
涙目になりながら、違うんだからね。直也くんのためじゃないんだからね。と、呟く香織に、母親は、彼の名前は直也くんというのね、と心のメモに書き留めておいた。
御飯を炊くのは炊飯器が担ってくれる。米を研いで水を正確に計っていれれば良い。
「少し硬めのほうがパラっとして美味しいのじゃないかしら。ほらチャーハンなんかそうでしょ。」
水を入れる段階で、香織は分量を1/5に減らそうとした。慌てて母親は香織に知られないように水を足しておいた。
「おかずは冷凍食品も利用したらどうかしら。」
母親の提案に対して香織はとんでもないと言った。
「手作り弁当が条件なの。」
香織は手作りに拘った。
徹底的に拘るなら、牛や豚から育てる必要があるだろう。
野菜も種から育てなければならない。
だがそこまで拘る意味も時間もない。
結局、鳥から揚げだけは冷凍食品で妥協した。
それ以外は、ほぼ二人羽織で作成した卵焼き、湯通しで完成するホウレンソウ、などだった。香織が湯通しの湯の中に塩を山盛りいれたのには、母親は眼を瞑った。食べる人の胃が頑丈であることを願って。
そんな(母親の?)苦労の成果の弁当を、俺は毒入りと否定したんだ。香織が涙を流したのも当たり前だ。香織が気持ちを込めていたのは事実だからな。邪念だったかも知れんが。
しかし、あの時の弁当に、そんな隠された秘話があったことを知った俺は、お母さんに深く感謝した。
俺は、謝罪の意味を込めて罪滅ぼしに、毎日の弁当を作る役目を自ら進んで引き受けた。
もちろん香織に任せると、無意識に自覚なく毒殺される危険性がある。高校生無理心中というニュースの見出しが頭をよぎったのも理由の一つだ。
俺は幸せそうな香織の寝顔を見ながら、弁当を毎日二人分作っている。
ところで香織は、知識の引き出しから持ち出した難しい手の込んだメニューをよくリクエストしてくる。
なんでそんな大変な希望を出すのかと聞いたら、自分では作れないから頼むのじゃないのと、至極真っ当な答えが返ってきた。
俺は納得して、香織のためにピンクの台所でピンクの包丁とピンクのまな板を用いて、毎日弁当を作っている。
香織は、家庭科部の部室で、遥香と拓郎と一緒に、俺の作った弁当をのろけながら食べているそうだ。二人からは胸焼けすると度々連絡がある。
帰ってくると、香織はいつも俺に御礼を笑顔で言ってくれる。
「今日も、お弁当美味しかった、直也。ありがとうね❤」
「お返しに、わたしを美味しく食べてね。」
晩御飯をご馳走になっている実家で、ご両親の前で言うセリフではないが、香織。お父さんの視線が痛い。
もちろん家に戻ってから美味しく頂いている。幸せな毎日だ。
香織は俺に食べられるのが好きなわけではない。いや、もちろん嫌いなわけではなく、好きは好きなのだが、それより、ただ一緒に居るのが大好きだ。
何をするでなく、話をするでなく、俺の腕の中で俺に甘えているのが、香織にとって最高の幸せだ。
そして、とろんとした表情で蕩けるような笑顔でキスをせまる香織に俺は抵抗出来ない。俺は香織を抱きしめて安らかな眠りに二人で堕ちる。
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