29.中山時代の負債
「直也って、わたしと一緒にいたときに、わたしのことを彼女って言ってくれたことなかったよね。誰かに彼女って紹介することもなかったし。」
「そうだな。まわりの人間は知り合いがほとんどだったし、俺と香澄の関係も知っている人ばっかりだったしな。改めて紹介し直す必要もなかったしな。」
「そうだよね。そうだからだよね。でも私は、確かめたかった。私は本当に直也の彼女なのかってね。」
俺は香澄の顔を見た。なんとも言えない顔をしていた。悲しいような不安定な表情だ。
「確かめたいって、何をだよ。」
「だから私が直也の彼女なのかってこと。直也が私のことを彼女と思っていてくれているのかどうかってこと。」
「彼女だと思っていたよ。」
「じゃあ、さっき疑問形だったのは、なぜなの。」
「それは自然消滅したからだよな。本当に彼女だったら、あんな形で切れたりはしないだろうと思っていたからな。」
「あんな形でって、直也自身はどうもなかったの。」
「俺には香澄が離れて行った理由が分からなかった。嫌われることをした覚えもなかった。だからちゃんと告白したわけでもなかった関係だったし、どうにもならないと思っていた。」
「そこで、どうして終わったの。どうして理由を聞いてくれなかったの。私のこと好きじゃなかったの。私のこと彼女だと思っていてくれたのなら、直也から聞いてくれたっていいじゃない。」
香澄は悲鳴のような声で詰め寄ってきた。俺は香澄の激しさに戸惑うばかりだった。
「中山先輩、今は砂川先輩と言うべきですね。香澄先輩は、砂川先輩の気持ちが確認したくて距離を取ったんですよ。だから嫌いになったとかではなかったんですよ。」
俺と香澄の会話を聞いていた後輩が補足解説してくれた。
「一緒に居たいと思うのなら、砂川先輩から香澄先輩にもう一度近寄ってくれるだろうと。砂川先輩の言う通りに砂川先輩と香澄先輩はなんとなくから一緒に居るものだという認識がまわりにもありましたからね。そういう認識がなくなってから、どうなるかですね。でも砂川先輩は何も行動されなかった。」
「そうか。それは俺には分からなかったよ。俺は嫌われたものだとばかり思っていた。理由も思いつかなかったし、改めて尋ねる気持ちにもならなかった。そのうち俺の家庭の問題が生じたから、それどころじゃなかったしな。」
少しして香澄が落ち着いてきて言葉をつづけた。
「なんとなく一緒だった状態から離れて、それからは中学時代にはきちんとした彼女にはなれなかった。直也からも声を掛けてくれなかったし。受験もあったしね。」
「だから私は高校に行ったら、やり直したいって言おうと思っていた。そしてちゃんとした恋人になりたかった。」
「だけど入学したら直也は居なかった。誰に聞いても知らなかった。まさか遠くに行ってしまっていたなんて思わなかった。」
「そうだな。俺は受験はしたけれども、ここの高校には来なかったな。来られなかったが正しいけどな。だが、それは香澄にとってはどっちでも結果は変わらないことだよな。」
「卒業する頃に、直也に家庭の問題が生じていたのは、後から聞いたよ。でも、そのときには私は相談もされなかったしね。相談相手とも思って貰えてなかったってことだよね。」
香澄は寂しそうだった。
香澄が俺から離れていった理由は判明した。だが、今更だ。本当にいまさらだ。
「理由は分かったよ。ただ、あのとき理由が分かっていたとして、俺がどういう行動に出たかは分からない。ひょっとしたら俺自身に問題があると思って結局行動しなかったかも知れない。」
「だけど、一つ言えることがある。今は香澄とは歩く道が別れてしまっているから、もう同じ道を歩くことは出来ないよ。」
俺には香織が居る。中山時代には戻れない。瀬沼時代でもない。いまは砂川時代なのだから。香織は瀬沼時代からの付き合いだが、砂川時代の恋人だ。
それまで黙って聞いていた香織が口を開いた。
「ねえ直也。直也はちゃんと香澄さんに、いや香澄さんだけじゃなくて、北脇先輩や後輩さんにも別れを告げなかったのじゃないの。」
「そうだな。中学卒業するときに、ゴタゴタがあったし、俺自身が生きる場所を見つけるのに必死だったから、誰にも挨拶は出来てないね。精神的にも病んでいたから無理だった。」
「やっぱりね。わたしの時と一緒じゃない。」
「いや、おまえの時とは違うな。おまえの時には俺が別れを告げたくなかった。告げる時間がなかったわけじゃない。拓郎には告げたしな。ただ告げなかったそのことは悪かったよ。」
「だったら香澄さんにも謝りなさい。きちんとしなかった直也が悪い。そのときに遠くに行く話をしていたら、結果は違ったかも知れないでしょ。まあそのときは、わたしは直也の彼女になれなかっただろうけど。」
香織の最後の部分は小さい声だった。
北脇先輩がやってきた。
「彼女さんとは仲良くしているか、直也。」
「香織は大事にしていますよ。」
「北脇先輩は、香織さんが、いつから直也の彼女だってことを知っているんですか?」
香澄が北脇先輩に聞いている。
「ああ、地方大会で直也がやらかしてくれたときからだな。」
北脇先輩は笑って地方大会の廊下で起きた出来事の話を持ち出す。
「そんなことがあったんだ。知らなかった。」
「それからだな。俺が香織と恋人になったのは。だから割と最近の話。」
「まだチャンスが残っていたんだ。私にも可能性が残っていたんだ。香織さんより先に直也に再会していたら。」
「悪いけど、それはないな。いまの俺は自分自身の気持ちが理解出来ているよ。俺が好きなのは香織だよ。香澄は思い出のなかに居る。あのとき香澄に再会していても懐かしいと思っただけだろうね。」
そうだな。今なら分かる。俺が暗い思いをしていた瀬沼時代に香織がいたことで、ずいぶん助けられた。だが俺はその事実から背を向けようとしていた。香織と恋人になれたのは、他ならない香織と親友の拓郎のお陰だな。瀬沼時代にも光はあった。
「北脇先輩、香澄、それに後輩も。みんなに挨拶をせずに消えてすみませんでした。俺自身の家庭の問題があって精神的に余裕が全くなかったから、あの当時に無理だったのは事実です。ですが、落ち着いてからでも連絡することは出来たと思います。人間として未熟でした。」
俺は香織に言われたこともあって、きちんと謝った。遅いかも知れないが、出来ることなのなら、今からでもやっておいて悪いことではないだろう。
「まあ。事情は聞いたし、仕方なかったんじゃないかな。それより今のおまえが幸せになっているんなら、そっちの方が重要だろう。」
北脇先輩はすぐに受け入れてくれた。
「高校で先輩と一緒にバスケが出来なかったのは残念ですが、中学のときには濃い付き合いがあったので、それはそれで十分かなと。いまは今で話も出来るし、永遠の別れってわけでもないですからね。」
後輩も簡単に流してくれた。
香澄はしばらく黙っていた。だが顔を上げて俺をまっすぐに見て話してくれた。
「私は直也と一緒にいれたのは楽しかったよ。ずっと一緒にいれるものだとも思っていたしね。私が不安に思って、確かめるにしても、あんなやり方をしなかったら、結果は違ったかも知れないね。」
「でも失ってみて分かったよ。あの時は本当に良かったんだって。もう遅いけど。彼女さんを大事にしてあげてね。」
香澄は涙目だった。
中山時代の負債だった。
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