1.リセット再び
あと半月程で新年になる。世間ではそろそろ正月を迎える準備をし始める時期だ。だが俺は特に正月の準備をしていたわけでもなければ、準備をするつもりもなかった。正月と言ったところで、いつも通りの生活をするだけだ。祝う相手がいるわけでもない。
だが、何の連絡もなくいきなり女がやってきやがった。俺の住んでいる部屋に突如女が現れたことで状況が変わった。やってきた女の用件は、正月の準備をしろ、ではなくて、引っ越し準備をしろ、だった。夜逃げの準備かよ。俺の冗談は無視された。
女の理由は簡単だ。新年には、ここを離れた場所に住む。転校の手続きもしろと言われた。俺はこんな女の言葉に素直に従う気はさらさらなかった。虎視眈々と俺自身も逆にこの日に備えて準備していたんだ。自分の環境は自分で守らないと良くならない。
「あんたの幸せを邪魔する気はない。」
「だが俺の人生の邪魔も、もうしないでくれ。」
俺は女に向かって言った。かつては母親と呼んでいた女だ。だが今は恋人と結婚したがっている他人でしかない。
父親と別れて、再婚禁止期間をとうに過ぎた女は、新しい伴侶と人生を歩もうとしている。それはそれでよい。だが、そこに前夫との子供である俺は邪魔者でしかないだろう。なんで連れていこうとする。俺からしても義父など不必要だ。義父になる男も同じことを思うだろう。
「直也はわたしと行かないの。瀬沼の名前を選んだから、てっきりわたしについてくるつもりなんだと思っていたわ。」
だから連れに来たんじゃないのと、とげのある言葉が投げつけられた。瀬沼は女の旧姓で現在の女の名字だ。今の俺の名前も瀬沼直也。もとは中山直也だった。
泥沼のような喧嘩をして両親の離婚が成立したのは9ヶ月前のことだ。ちょうど俺は高校受験の真っ最中だった。受験勉強なんか出来る環境じゃなかったが、悟りの境地で頑張っていた。ちなみに俺は一人っ子だ。兄弟はいない。
子供の幸せを少しでも考える気持ちがあったのなら、そんな時期に離婚しなくてもよかっただろう。だがそれは俺視点での愚痴でしかない。両親にとっては自分たちの幸せが優先されたのだ。
父親は若い恋人が出来て母親と離婚したがっていた。母親は母親で好いた男がいた。どっちもどっちだ。お互いの不貞を罵ることは激しかったが、離婚すること自体はすんなり決まっていった。
問題は俺だ。俺をどっちが引き取るかで揉めていた。引き取りたいではなくて、引き取りたくないだった。父親には俺の弟か妹が出来る予定だった。母親は年下の恋人と二人っきりで暮らしたがっていた。
消去法でどちらかマシな選択かということで、最終的に俺は母親の姓を名乗った。だが俺の選択を聞いた女が吐いたセリフは生涯忘れられねえ。
「はあ、産むんじゃなかった。あんたが居なければ良かったのに。」
このとき俺は瀬沼の名前を選んだことを心から後悔した。出来るなら今からでも瀬沼の名前を捨てたい。だが、いまさらもう変更は出来ない。反吐が出ようが瀬沼を名乗る以外ない。だから俺は決心した。早く、出来るだけ早く独り立ちしたい。こいつと縁を切りたい。瀬沼の名前を捨てたい。瀬沼にまつわる記憶を消したい。
俺は女が住む場所とは別の場所に部屋を借りている。一緒には暮らしていない。俺が女の性を名乗るときに付けられた条件だ。女は俺と暮らしたくはない。仕方なく俺が女の姓を名乗ることを認めただけだ。
その女は今度正式に結婚することになった。新しい夫に従って遠くに引っ越しをする。それで俺にもついて来いと言ってきた。引っ越し準備とはそういうことだ。なにも引っ越し準備を手伝ってくれるわけでもない。一方的に通告してきただけだ。
俺は高校に入るときに、これまでの中山の名前を捨て、人間関係を含めた全ての繋がりを断ち切ってきた。そうするしかなかった。だが瀬沼の名前では新しい人間関係は極力作らないようにしてきた。どうせもう一度捨てる予定の名前に関わる人間関係だから意味がない。それも出来るだけ早く捨てたいと思っている。
見知らぬ土地で誰の助力もなく生活するのには苦労したが、それはそれで良い経験になった。もう一度やるときの予行演習だと思えば特になんてことはなかった。それより、今はこの女との関わりを絶って縁を切るほうが重要だ。
「俺は行かん。」
俺の返事は決まっていた。
「直也の親権はわたしにあるんだよ。わたしが監護する権利義務があるんだよ。」
都合の良いことだけは法律を持ち出して来る。普段は電話1本よこすわけでもない。育児放棄と表現するレベルなのにだ。それに求めているのは、同居じゃない。近くに住むことだ。何かのときの保険のような扱いなんだろう。
俺は一枚の書類を出した。
「証人の欄にサインをしてくれ。」
「何よ、それ。」
俺が出した書類を女は見た。一番上に「養子縁組届」と書かれている。養子には瀬沼直也、養親には砂川正毅と書かれている。本当は来年の3月に叩きつけるつもりだった。少し早くなったが構わんだろう。
「ええ、なにこれ。」
「婆さんの再婚相手の砂川さんが、俺を養子にと言ってくれた。」
この場合の婆さんというのは父親の母親だ。婆さんは爺さんが死んでから再婚したんだ。
「これにサインしてくれたら、俺はあんたとは金輪際関わり合いにならんですむ。あんたも俺に関わりあう必要がない。お互いに良い話だろう。」
女はすんなりサインをしようとしない。俺のことを引き留めたいとか思っているわけじゃない。自分の思い通りにならないから、俺の言う通りにするのが嫌なだけだ。
「なんで、こんな勝手なことを。」
「あんたがそれを言うか。俺の都合など関係なく離婚したあんたに文句をいわれる筋合いなんかないわ。」
その後も女は愚痴ぐち文句を言っていたが最終的にはサインをした。俺とは縁が切れたほうが嬉しいんだ。
「ばいばい。」
これで永遠の別れだ。GOOD-BYE。もう二度と連絡してくるな。
役所に書類を提出したら俺は砂川直也になった。直ぐに学校に転校届を出した。女と縁を切っただけではなく、すべての関係を無くしたかった。早速砂川の爺さんの家への引っ越し準備だ。新年からは新しい土地で新しい学校になる。人間関係も再度リセットだ。呪われた瀬沼時代は終わりだ。
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