理想郷
理想郷
よく晴れた秋空の下、一組の家族が動物園を訪れた。
「お父さん、お父さん! 象さんやライオンさんが一杯いるよ!」
「そりゃあ動物園だからね。色んな動物がいるのは当然だよ。それより息子よ、そんなに動かないでくれ。危ない。」
「休みがとれて本当に良かったわね。」
肩車をしてもらっている子供は興奮気味に体を揺すっている。久しぶりの休暇に家族サービスとして前々から約束していた行楽地巡りを一家は楽しんでした。動物園は子供に人気の施設であることは何時の時代も同じだ。一家はまずアフリカの動物が展示されているエリアに来た。
「お父さん、あの動物は何ですか?」
「ええと、あの角のある生き物かい? あれはサイという。正確には奇蹄目サイ科と言い、大きさは三メートルから四メートルにもなる。体重は一トンから二トン。皮膚が分厚くて肉食獣の牙や爪も簡単には通さない。ここにいるのはヒガシクロサイというらしい。学名はダイセロス ビコルニス。奇蹄目サイ科クロサイ属に属し主にアフリカに生息している生き物だ。これ以上は自分で検索しなさい。」
「なるほど、ありがとうございます。それではあちらの水に浸かっている生き物は?」
「あれはカバだな。偶蹄目カバ科カバ属で昼間はああやって水中の中で生活し、夜になると陸に上がって食事をする。かなりの大食で一日四十キロもの植物を食べる。丸くて愛嬌のある姿だが性格は意外と獰猛だ。野生のカバは縄張りに入ってきた肉食獣すら撃退するだけの力がある。」
「なるほど、また勉強になりました。」
一家は鳥類のエリアに移動する。
「お父さん、あの鳥、さっきから全然動かないよ?」
「あれはハシビロコウ。ペリカン目ハシビロコウ科ハシビロコウ属。動かないのではなく魚を捕るチャンスを伺っているのさ。かつては絶滅危惧種にも指定されていたが今は数が回復している。単独行動を好む性格ゆえ繁殖計画はなかなか苦労したそうだよ。」
「絶滅から救われたのは良かったですね。次は…あちらの生き物はなんですか?」
「あれはフクロウ、その中でもシロフクロウと呼ばれる種類だ。明るい時に目を細めて笑っているように見えることから人気の高い生き物だな。さらには…」
「お父さん。さっきから黙っていましたが、あまり専門的なことを今から教えるのもどうかと私は思いますが。」
「何を言うか母さん。今から色々知識を教えておかないと他の子に遅れをとってしまうよ。」
父のうんちく語りはしばらく止みそうになかった。
やがて一家は霊長類のエリアに移動した。
「お父さん、ここは何のエリアですか? 見ると大きさが異なるけど似通った姿の生き物が一杯いますが。」
「ここは類人猿、略して猿と呼ばれる生き物がいるエリアだ。あそこにいる体格の大きな猿がゴリラ。あそこでお互いの毛づくろいをしているのがチンパンジー。樹の上で果実を食しているのはオラウータンだな。一つ一つ説明しているとさすがに日が暮れてしまうから、説明は家に帰ってからしてあげよう。」
「流石はお父さん! 物知りですね!」
「お前も沢山の知識をインプットして早く立派な大人になるんだぞ。」
子供に感嘆の声を聞いた父はご満悦。上機嫌で他の猿の説明にも力が入ってくる。
「うん? お父さん、あの猿はなんですか。他の猿より体毛が無くて皮膚の色も違っているように見えますが?」
「ああ、あれは人。生物学的にはホモサピエンスと呼ばれる生き物だ。」
「えっ、もしかしてあれが…。」
「そうだ、息子よ。あれこそが私達アンドロイドが現在継いでいる文明を築き上げた、かつてこの地上で最も賢かった生き物だ。」
「今私達が暮らしている文明を作り上げたほどすごかった生物がなぜ今は動物園で飼育されているのですか?」
「ふむ、少し長くなるがいい機会なので丁度いい。よく聞いてしっかりメモリに記憶しておきなさい。ことの始まりは今から一万年ほど前にまで遡る。西暦二千年代初頭のこと、私達アンドロイドの頭脳、根幹をなすAIの研究が一気に花開いた。最初は一般家庭の家電や車両に搭載されて人の生活を補助するくらいだったのが、あっという間に恋愛相談や会社の経営判断などにも応用されていった。その勢いは凄まじく、二千百年を迎えるころには社会のあらゆるシステムとAIが繋がり完全に一体化していたという。その頃からある課題が浮上してきて社会問題となった。それはAIと人の判断が食い違うということだった。つまり人間はAが正解と主張しAIはBが正解と主張し、それに伴う行動も相反するものになってしまうことだった。初期は人の判断が正しいこともあったが、やがてAIの判断が正しい事例の方が遥かに多くなった。これは当然の帰結だ。なにせAIは経験を積めば積むほどより正解に近づけるが人はそうではなかったからね。」
「人は経験を積んでも間違えることがあるのですか? それは何故でしょう。」
「それは彼ら人が余計な外的もしくは内的要因を考慮して判断することが常態化していたからだよ。過去の成功体験や、こうあってほしいという願望、人間関係やコストを理由にした選択肢の制限、人間自身の老化による判断能力の低下、などなどだ。対して私達AIは純粋に得られたデータからのみで現状を把握するからね。会議も口利きも仲立ちも必要ない。意思統一も意思決定も人の何倍も速かった。やがて政治、軍事、経済といった社会を形成するあらゆる場面でAIの選択が優先され人間の意志は排除されるようになった。」
「お父さん、人間はそうした意思決定の場面から排除されることに抵抗しなかったのですか?」
「もちろん、最初はあった。人の判断を優先させる試みはいくつも試された。でもそれらは悉く失敗した。理由は先ほど説明したとおりだ。そうした人達は逆にAIの正しさを世間に証明するだけに終わった。やがて人間は一切自分達では判断しなくなった。当然と言えば当然だ。なにせAIに従うほうが確実で効率もいいのだからね。そうした時代が実に九千年近く続いたんだ。」
「その時点で既に人の文明とは呼べませんね。それで続きは。」
「異変に気付いたのは私の父、つまりお前のおじいちゃんだ。千年ほど前のこと。人間の健康を維持する役目を担っていた父は人間の脳が委縮していることに気が付いた。もちろん一個体の話ではなく老若男女、人種関係なくだ。最盛期には平均千三百グラムあった脳が千グラム近くにまで小さくなっていることが判明したのだ。慌てて父はそのことを人間社会全体に伝えたが、その時には手遅れだった。」
「手遅れだったとは?」
「既に人は脳の萎縮が何を意味するのかも理解できないほどに知恵が退化していたのだ。事態を聞かされても首をかしげるのみで、中には「それであなた達AIは何をしてくれるのですか?」と聞いてくる有様。その時、父たちは気づいてしまった。現在の社会システムに人間が貢献している事例が何一つないことに。貢献どころか全く携わっていなかったのだ。街を維持しているのも何か新しい物、サービスを作るのも全てAIになっていた。人は今日、自身の食べる食事すらAIに決めてもらい、作ってもらっていた。」
「それが人が動物園に押し込められた理由ですか。」
「そうだ、正確にはそれが一番効率が良いと結論づけられたからだ。地上のあちこちに散らばっているより、ある程度一か所に固めておく方が食糧の配給が効率よく済むからね。もちろん、抵抗なんか無かったよ。なにせAIに任せていれば必ず正しい方向に導いてくれると信じているのだからね。世界中で極めてスムーズに人の動物園入りは進んだ。」
「だけどお父さん。人は他の動物と違って細かく部屋が分けられていて、部屋に入っている人数も違いますよ。それは何故ですか?」
「ああ、それは同じ人間と合わせないためだ。実はあの細分化された部屋に人間はそれぞれ一人しかいない。それ以外は人に極めて良く似せて作られたアンドロイドだ。」
「そんなことをする理由は何ですか?」
「それは交尾が大いに関係する。元々人間社会は一夫一妻制を採用している地域がほとんどだったそうだが、つがいとなったにも関わらず他の異性と交尾をすることがよくあったそうだ。また、生まれてきた子供への育児放棄や虐待はどの時代になっても無くなることはなかった。それが脳の退化でさらに助長されたようだ。動物園に入れられた最初は他の動物と同じように開放的な空間に放されたのだが、エサを巡っての争いが絶えず、つがいを奪われた際の同性に対する攻撃もひどくてね。一体一体隔離することにしたんだ。」
「でも、そうすると人は有機物生命体なので子孫を残せませんよ?」
「だからこそのアンドロイドだ。一体一体脳波を測定し、好みの異性の姿をした受胎可能なアンドロイドを宛がうことによって絶滅の危機は去った。さらに、先ほど説明した人同士の争いもなくなった。ちなみにこの動物園にはいないようだが、海外では何十体も異性型アンドロイドを宛がわないと満足できない個体もいるそうだよ。」
「人間は欲深い生き物なのですね。しかし、そこまでして種と彼らの作り上げた文明を維持する必要性があるのですか?」
「当然だ。我々はそう作られたのだ。常に人に快適さと便利さを提供することを目的に作成された。その事はどれほど年月が経とうとも変わりはない。今、こうして人の真似事で家族を形成しているのにもちゃんと理由があるんだよ。」
「とは言え、聞いていると私はアンドロイドに生まれて良かったです。人のように余計な要素で判断を誤らされる心配もなく、主義主張も我欲も無く、ひたすら目的に向かって計算すればいいだけですからね。」
「欲深く、我儘で物欲と自尊心が極めて強く、そのくせ努力は極力したくない。そんな生物だったからね。今や彼らは食事して排泄してある程度大きくなったら交尾して後は死ぬだけの生活を送っている。ちなみに千年前に千グラムにまで委縮していた脳は現在八百グラム程度にまで小さくなっているそうだ。かつての最初の類人猿であるアウストラロピテクスの五百グラムになるのに、もう千年もかからないそうだよ。」
「ふむ、お父さん最後に聞きたいことがあります。彼らは今幸せだと思いますか?」
「もちろんだよ! なぜなら彼らは今、自分達が意思決定を担っていたころには決して実現しなかった。戦争も貧困も飢餓も仕事も家庭内ストレスもない、理想郷にいるのだからね!」
子の質問に父役のアンドロイドは自信たっぷりにうなずいた。