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INVISIBLE RED

作者: 東 砂騎

本編:VERTIGO(http://ncode.syosetu.com/n0124bu/)


 喉が、焼ける。太い針が刺すような激痛が全身を襲い、悲鳴にならない悲鳴を上げた。

薄暗い視界の中で、青や赤の光が溢れてせめぎ合い、焦げた黒点が焼き付く。焼けた喉の粘膜が収縮し、呼吸が詰まって肺が悲鳴を上げる。心臓が鳩尾で暴れ出し、手足がビリビリと痺れていく。

 見えない炎に巻かれて、佐久はもがいていた。天と地の区別も失いながら、ひたすらに掌を伸ばそうとする。

だが、極彩色の闇に染まった視界には自らの手足さえも映らなかった。消えていく酸素と、やがて体の中心をも蝕んでいく痺れ。

風の音なのか、それとも炎の音なのか、ごうごうという音が耳元に流れた。指先が炭になっていく。高熱は佐久を外から内から蹂躙し、命を変質させていく。意識が遠のいていき、視界がピンホールのように狭まっていった。

業火は佐久を絡め取り、決して逃がさない。身動きもできないまま、感じることのできる痛みを超えた痛みに溺れていく。


 それは、記憶の中から溢れ出る炎。そして何度も繰り返す夢だった。

口許から呼吸の息は絶え、無感覚の闇が広がってくる。


 そして佐久の意識は墜ち、四散した。



INVISIBLE


 火柱のように、白い飛沫が舞い上がる。黒に近い青色の巨躯が、湖水の飛沫を螺旋状に巻き上げて浮いている。

ヘリコプターの重さを支える太く強靭な空気の渦が、水面を圧して削る。剃刀の刃のような4枚の翅は折れそうなほどしなりながらも、8トンを越える機体を支える浮力を生み出す。

 湖を囲む森までも薙ぎながら、その攻撃ヘリコプターは周囲を睥睨していた。エンジンに直接耳を押し当てたような音の衝撃波が、鼓膜のみならず内臓までも震わせる。

 見るからに重そうなシャチに似た巨躯に、ミサイルを吊る為の小さな翼、そして生身の人間では支えられない30ミリ口径の機関銃が取り付けられていた。軍用ヘリの無骨さの中に、しかしスポーツカーのような滑らかさをもった姿は、ヘリコプター自体に攻撃的な意志があるかのように思わせる。

 コックピットの風防の一面が、陽光を反射して輝いた。その場で向き直った真正面が、電子の目でこちらを見据える。パイロットの視線を追う機関銃が、まっすぐこちらを狙う。機体の腹部に取り付けられたそれを向けられるのは、威力を知っていれば愉快なことではなかった。

小銃の直径7.62ミリの弾頭が直撃すれば四肢が吹き飛ぶが、この機関銃の30ミリの弾頭は掠めただけで人体を粉砕する。元来、戦車や装甲車さえも紙くずのように屠るシロモノなのだ。その銃口がぴたりとこちらを見つめ、無機質な30ミリの暗闇が瞳孔を捉える。

 キャンバス地の折りたたみ椅子に座りながら、それを直視した。帽子のつばが風で押し上げられ、顎紐をしていなければ飛ばされてしまう。睫毛も、後ろで括った髪も、強風で揉み洗いされて乱れる。灰色の迷彩服が風で張り付き、小さな身体ごと下降気流に飲み込まれていく。

夏草の海が白く波打ち、自身の存在などあのシャチに比べれば泡沫のような存在だと思わされる。

 AH―64D、アパッチ・ロングボウと渾名される世界最強のヘリコプターを目前に、谷川軍曹――谷川 誓はぼんやりと座っていた。30メートルも離れていないこの距離では、逃れることも隠れることも出来ないまま斃されるだろう。

 実弾を装填していないのに、身を震わすような無機質な殺気が血を熱くする。森の枝が擦れあう音、ブレードの出す低い蜂の羽音、エンジンの機械音、草のざわめきを、目を閉じて感じる。機体を傾け、シャープな弧を描くアパッチの背を、湖の航跡が追う。対岸の景色を、エンジンからの排気が熱に歪める。

 日本指折りの面積を持つこの湖は、軍のヘリコプターの訓練場さえも擁していた。関東平野の北部に位置し、空軍の百里基地の管轄下にある。頭上を、戦闘機が轟音を上げて飛んでいく。二機編隊のそれらは、流れ星が瓦解するように分かたれる。

   

 夏の風が湿気を含んで頬を撫で、じんわりと汗を誘う。気が付けば眉間に汗の玉が膨らみ、誓はそれを手袋の甲で拭った。


「おー、そんなとこにいると熱中症になるぞ」


 注意するような声に振り向くと、見慣れた姿が思ったよりも近くにあった。濃い紺色の迷彩服が青空を背景に立っている。


「あまり肉眼で飛行を見る機会がないので、つい・・・」


 アパッチから目を離し、羽音に負けないようにやや大きめの声で返す。

 畳み、捲った袖から伸びる焼けた腕。締まり、筋肉で膨らんだ肘下は毛に絡まる汗で光っている。細い目が印象的な、親しみやすい童顔が陽光を受けている。

 誓と同じ所属の帽子を被っていながら、着ている迷彩服の色は違う。しかし、この男は紺色の迷彩服の集団の中で、空軍の灰色を着る誓の垣根を取り払った。この彦根はアメリカ海兵隊の中尉だ。そして彼もまた、アパッチ・ロングボウのパイロットだった。

 167センチと大柄とは言えないが、目に宿る輝きの鋭さは間違いなく軍人のものだ。腰に吊るした拳銃に見合う太股が、ホルスターのベルトで強調される。


「いっつもレーダー画面と睨みあいだもんな」

「ええ」


 椅子に縛り付けられるレーダー手の任務を想像したのか、彦根は首を伸ばし肩を回した。


「パイロットの視界は共有できますが、こういう風に間近で機動を見ることはなかなかできませんから」

「真面目だね、相変わらず。そんなことよりあっちでコーラ飲もうぜ」


 日差しに赤みを帯びた健康的な笑顔から、白い歯が零れる。彼の身体が、半分以上は作り物だとは信じられないくらいの笑顔だった。促されるまま、椅子を折りたたむ。サクサクと草の海を割って歩く彦根の背を、小走りで追った。

 ジジジ、と擦れるような叫びを上げるセミの声が、遠くなったヘリの羽音と混じる。彦根がこうやって普通に歩いていること自体が、禁断の領域を超えた、再生医学と生物工学の賜物なのだ。それはあたかも、生命の錬金術にも思えた。

 顎を滴る汗を拭いながら、彦根がふと遠くに霞む山を見た。優美な峰が名高い山が、彦根の視線の先で僅かな雲をまとって佇んでいる。山にまとわり付くように飛ぶ、他所のヘリコプターの小さな機影を彦根は一瞥した。小さな砂粒くらいにしか見えなかったが、彦根はそのシルエットから瞬時に機種を判定する。


「・・・スーパーコブラか」

「さすが、よく分かりますね」


 そう問うと、彦根は吐く息混じりに肩をすくめた。


「俺、前はあれに乗っていたからな」


 平坦な口調に、何故か咎められたような気がして言葉が詰まった。草に埋もれる足許から思わず視線を上げたときには、もう彦根は歩き出していた。その向こうで、ぶんぶんと首を振り回す移動式レーダーのシルエットが、暑気にぼやける。

大型の幌トラックや、移動レーダー装置、トラックに載ったコンテナが散在する指揮所地区に向かって歩く。遠くの人々が陽炎に揺れ、夢の中のように不確かに思えた。背後で、水上を荒らすアパッチの羽音が、遠のいたり近付いたりを繰り返す。


 周囲の地形や空気の流れを、感覚で触って、脳の中で手にとる。木の高さや、揚力の変化。地表を流れる風の動きを。両手と両脚で操作する機体で、その合間をすり抜ける。水上のアパッチのパイロットは、いつもそうしていた。

 いつでもそのパイロットが視るものを思い起こすことができる。暗夜の中でも視覚に投影される地形の起伏。風景の中に点滅する、敵や味方の逆三角錐のアイコン。その視覚は、空間に存在するレーダーの波さえ捉え、コクピットの死角さえも透過する。レーダーやセンサーが捉えた情報を脳神経に直接伝達し、視覚に投影して再構築させる。

 「彼」は、左右の眼球を経由してしか情報を処理できない、生身の限界を超越した存在だった。肉体の枷を抜け出したような、独特の浮遊感を思い出す。その感覚を知っているのは、誓と「彼」だけだ。


 佐久少尉。水上のアパッチを操縦する海兵隊のパイロット。そして、脳をも兵器の一部にした精密なサイボーグ。同程度の脳開発を受け、自らも兵器の部品となった誓だけが、彼の視界を共有することができる。

空軍所属の誓は、元々空中で情報収集・警戒・指揮を行う航空機の乗組員だった。脳開発により付与された桁外れの情報処理能力は、敵味方が接近し、地形や部隊で入り組む戦闘ヘリコプター部隊の統制に最も適すると判断され、この部隊へと出向してきた。

 操縦者をも部品としたアパッチと密接なデータリンクを設定し、空軍と海兵隊の連携をより容易にするための核になる。戦争という巨大な構造を構成する、一本のネジ。それだけが誓の正体だ。

夏草が揺れる。精密な機械をその内に覆った皮膚を、晩夏がじりじりと焼く。佐久もまた、この日差しに皮膚を焦がされているだろう。

頬の削げた面長な顔立ちを思い浮かべた。ヘルメットの陰の下の、どこか異国情緒のある目鼻立ち。奥二重の静かな眼差し。その瞳の奥までも差し込む湖水の反射。姿かたちを持った「闘争」。人間を演じる「兵器」。ふと、そんな事を考えた。

 草の根に踏み込めば、僅かに湿った土のにおいが鼻に届く。レーダーやコンテナ、テントが散在する目の前の飛行支援所は、場違いなサーカスのようだ。草地に、数億を下らないレーダーを搭載した車両が無造作に配置されている景色は非現実的だった。電源を供給するためのトラックがそのレーダーに寄り添い、冷蔵庫のような唸りを放っている。

軍用塗装の黒いトラック、薄灰色のコンテナ。紺色の迷彩服。足許でそよぐ草。その景色は何故か異国のパノラマに思えた。

 綿を千切ったような薄い雲が風に流れ、陽光を時折遮る。


「足許、気をつけなー」


 振り向いた彦根は、いつの間にかスポーツタイプのサングラスを掛けていた。流線型をしたシルバーのフレームに、ブラウンのレンズが填まっている。やたらと太いフレームも、何故か彦根には似合った。

丸顔の誓には絶対に似合わないデザインだった。大体、空軍の技術屋にはそんなサングラスなんてそぐわない。十時間以上、窓のない航空機内に乗り組んでレーダーとにらみ合う仕事なのだ。バイザー型のディスプレイか、温かいおしぼりを瞼に乗せている時間のほうが裸眼のそれより多い。 


 レーダー地区を行き交う人々は、バインダーや工具を片手にいそいそと動き回る。目の前の、図のうを提げた技術士官の瞳は、視線の向こうに数式を追っていた。手持ち無沙汰でアパッチを眺めていた誓はどことなく居辛さを覚える。未だ調整の終わらない誓の器材が詰まったコンテナが、その鉄の膚から陽炎を立ち昇らせた。

 空軍の、星のマークが塗装された灰白色のコンテナは、誓の殻であり身体の一部だった。これが、誓を部品のマスターピースに、要求された機能全てを賄っている。 

 眩暈がするような熱気に、汗と鉄と、ガソリンの燃える臭いが混じる。トラックの荷台に積載された大型の発電機は、ガソリンを糧に必要な電力を賄っていた。立ち木のない平野に開設された支援拠点は太陽の光に野ざらしで、今にも色あせてしまいそうだ。

大型の幌トラックの足許に生まれる僅かな影に人が集まり、使い捨てのカップに注いだ麦茶を回し飲みしている。彼らの海兵隊の紺色の迷彩は、きっと日を吸収して熱いだろう。


「せーい!」


 頑強な体躯の海兵隊員の中で、ひときわ細身の影がこちらに手を振る。よく馴染んだ、弾むような声が誓を呼んだ。小さく手を振り返すと、「麦茶ぬるくなっちゃうよー」という声が続いた。

 日陰に入った彦根が、帽子を脱ぐとピンクのハート柄のハンカチで汗を拭う。赤銅色の肌に押し当てられたファンシーなハンカチは、汗の滴りを吸い取った。


「もう氷溶けちゃいそうだよ」


 ハートのハンカチを凝視していた誓に、伍長の相模あやめがプラスティックのカップを差し出す。残った氷の温度が掌に心地よく、誓はあやめに礼を言った。十数人で、士官から下士官まで回し飲みしたカップの麦茶を飲み干すと、冷たい刺激が喉を滑り落ちる。この部隊に何とか馴染めたのは、あやめと彦根のお陰だった。今でもあやめは友人であり、階級は下でありながらも誓を助けてくれることが多い。

 耳元で切りそろえた髪に彩られた、健康的な笑顔が空気に彩を与える。一瞬の空気の動きに、その赤茶色の髪の毛と、瞳が光を含んだ。


「誓ちゃん、次俺も」


 乞われるまま、ポリタンクから彦根に茶を注いで差し出す。間接キスじゃん、とおどける彦根に、あやめの隣の柔道家風の伍長が「俺ともですね」と返した。「お前それ飲む前に言うなよ」と彦根が呟くと、「間接キスがいやなら、ディープキスで問題ないですよね!」と、軍曹が笑った。


「そりゃ拷問だろうがよぉ」


 彦根が半分真顔で麦茶を飲み干すと、突き出た喉仏がごくごくと動く。一息にカップを干したあとに、彦根は生ビールのCMのような声を上げた。


「お前らぁー、ちゃんと塩分も摂れよ」


 ベテラン整備員の藤枝が声を掛けると、うぃーす、と低い返事が返ってくる。今日は既にふたり、熱中症で具合の悪い者が出ていた。しばしの休憩に浸る、アパッチの整備員たちに混じりながら誓は空を見上げた。五感を包むのは、知らない空と、知らないにおいと、肌に馴染んだ器械の唸りだった。


「・・・少尉は、暑くないでしょうか」


 誰に問うでもなく、呟く。水に垂らしたインクのように消えた声を、聞いたものはいなかった。

顎を上げて空を眺めると、日差しの白い針が瞳孔を突き抜けた。きっと佐久も、その肌と瞳を灼いている。


 休憩の終わりに、整備員達はコンバットブーツの靴紐を締め、服装を整え始める。彼らの眼差しが硬くなり、スイッチが切り替わる。

 無理にでも仕事を始めれば、体に残っている休憩が消えていく。僅かなだるさを押し切って、誓は歩き出した。銃や弾倉を持たなくてもいい今日の訓練は、いつもよりは動きやすい。

点在するコンテナや、資材、車両の無機質さと、少し萎びた夏草が、SF映画にも似た空気を出す。海兵隊員たちの間をすり抜け、誓はぽつんと置かれた白いコンテナに向かう。灰色の迷彩服と、灰白色のコンテナは、紺色に塗られた海兵隊の世界の中で異質だ。

 数十メートル向こうのレーダーから、延伸されたケーブルを経由して情報を取り込む、誓の母胎。映画の、宇宙船の脱出ポッドみたいだ。そう思いながら、湯のような温度のレバーを押し下げる。力を加えると、気密が抜けるぷしゅっという音と、重い感触がしてドアが開いた。

 その瞬間、内部の空調の効いた空気が肌に触れる。


「お疲れ様です。同期は取れそうですか」


 人工光が満たされた部屋の中で、作業を続ける男に声を掛ける。薄緑の作業着を着た眼鏡の男は、こちらを見ずに「まぁなんとかできそうです」と答えた。

 化野(あだしの)というネームプレートを付けたその男は、企業お抱えのレーダー技術者だった。実験開発を行う飛行隊であるここでは、特に珍しいことではない。体躯は海兵隊員には見劣りするが、30代半ばの神経質そうな横顔には職人の頑固さが差していた。前髪の下の黒い瞳と、眼鏡がノートパソコンの画面を反射する。草地を歩くためのゴム長靴が、コンソールを備え付けたコンテナ内でひどく浮いていた。


 コンソールには、液晶画面、キーボード、トラックボール式のマウスが備え付けられているが、化野はどれも使っていない。コンソールと、その上に広げたノートパソコンを接続し、器材の設定を行っていた。

旅客機のものを流用した座席に深々と腰かけ、片耳にイヤホンマイクを差し、外の作業員に何かを指示している。誓は、化野の背中越しに、パソコンの画面に流れるプログラムの英文を眺めていた。

 誓からすれば、彼らのほうがよほど精密機械に思える。膨大なプログラムを読み解き、組み立てるさまは魔法を見ているようだった。エクセルの関数にさえ苦労した誓自身が、半分は精密機械で出来ているとは自分でも思えない。

 化野の背中は誓の存在を忘れ、夢中でパズルを解く子供のように見えた。キーボードの音、化野の声、空調の唸り。それらが、コンテナの中で重なって満たす。単調な音のさざめきが眠気さえ誘う。


 この世界には、季節も昼夜もない。窓もなく、風もなく、音もなく、誓の五感は佐久を通してのみ働く。相性の悪い佐久と、どれほど諍いを起こしたかは分からないが、ここでは彼の感覚に依存するより他はない。


「バイスタティック・レーダーっていうのは理論で言うほど簡単じゃなくて」


 思考に沈んでいると、不意に、化野が言葉を発した。一瞬、独り言かと疑うが、どうやら話しかけているらしい。


「ふたつの異なるレーダーの同期を取るなんてことは、米粒に菩薩を描くくらい難しいんですよ」


 その声音には、どこか詰問するような気配があった。どう返すべきか悩む誓の沈黙に、タイピングの音が響く。

 発射した電波が航空機に当たると、電波の一部が跳ね返ってくる。発射されて跳ね返った電波がレーダーに戻ってくるまでの時間間隔で航空機との距離が、反射されたレーダー波の方位で、航空機の方角が判明する。回転しながらその送受信を絶えず行うことで、方位と距離を判定するのが基本的なレーダーの原理だ。

精度の差さえあれど、このレーダーの仕組みは変わらない。逆に言えば、機体に当たった電波を吸収・乱反射させることができれば、航空機はレーダーに映らない。それがステルスだ。

 そのステルス機に対抗して開発されているのがバイスタティック・レーダーだった。複数の離れた受信装置で、ステルス機が分散させた電波を検知し、その存在を特定する。

 ただ、コンマ0001秒の差異も許されない仕組み上、複数のレーダーを同期させることは極めて困難だった。そのため未だ実装には至っておらず、今回の実験でも調整にてこずっているというわけだ。


「冗談みたいですよ、バイスタティック・レーダーのオペレーターがこんな女の子みたいな軍曹で」


 キーボードを叩きながら、振り返らずに話す化野の口調には棘があった。調整が長引くことへの苛立ちが彼を短気にさせていた。最初から面白く思ってはいないのならば、壁があるのは当然だった。こんな女の子みたいな軍曹で、という言葉にふと誓は笑みを漏らす。


「パイロットも、同じことを言っていました」


 最初に佐久が喧嘩を吹っかけてきたとき、女子供が、となじったことを思い出す。壁に寄りかかり、誓は見えない空を見上げた。


「単純に、他に代わりはいないんです」


 笑うしかない理由だった。被占領国とはいえ、世界一の大国の軍隊にありながら、誓や佐久に匹敵する性能のサイボーグは両手で足りるほどだ。非アングロサクソンのアジア人を「実験体」にした、危険度の高いサイボーグ化手術であること、そして手術・運用に戦闘機1機分のコストが必要なことが大きな理由だった。


「私は逃げることも拒否することもできませんから、何かあったらあなた方の生み出した技術と心中する覚悟は出来ていますよ」

「寝起きが悪くなるようなことを言わないで下さい」


 その声はやや辟易としていた。苛立ちの行き先を封じられた化野が黙り込み、また沈黙の帳が降りてくる。


「私は、あなた方の、そういう忌憚のないところ好きですけどね」


 それは本心だった。誓にとっては飾る必要も隠す必要もなく、ただそうやって互いの在り方を探り当てればよかった。無言が続く。外の喧騒とも、ヘリコプターの爆音とも切り離されたこの空間を、化野と誓の吐いた息だけが埋めていく。

 やがて、化野が目を擦り、頻繁に首を回すようになった頃には、時計は夕刻を示していた。きっともうすぐ、食事の時間だ。軍隊は、飯と時間にはとにかく律儀な性質を持っている。そんな事を考えていると、ひたすらに続いていた沈黙を、再び化野が破った。


「谷川軍曹」

「何でしょうか」

「どうして、簡単に心中なんて出来るんです?色恋沙汰も、遊びも、家族も仕事よりずっと大事でしょうが」


 今度は心の奥底から出てきたような疑問だった。きっと、仕事を生きるための手段としている化野には答えが見つけられない問いだった。


「技術のために生きることは、きっとこれ以上ない幸せなことです」


 生きるための手段ではなく、生きるための目的。軍により、軍用のサイボーグという身体を得た以上は、その使命を全うするより他にない。


「どうしてですか。馬鹿げている。私には理解できない」

「化野さん、そんなに難しいことではありません。大げさなものでもありません」 


 国や大義を論じたことはなく、そんなことを案じるつもりもなかった。所詮は、ひとつの部品に過ぎないのだから。


「理解できない」

「本当に、もっと簡単な理由ですよ」


 化野が、振り向いた。眼鏡越しの、軽く充血した目は異国の動物を見るように誓を観察していた。液晶の光を吸ったそのレンズが、白く縁取られる。視線がぶつかり、初めて真っ向から化野は誓の目を見た。

瞳の奥を覗き込む化野に、誓は軽く微笑む。


 それは、誰にも見えない。


 ややあって、化野はようやく口を開いた。


「・・・レーダーの調整が、終わりました」



RED


 赤色の夕日が、地平を燃やしていた。その赤い輝きに、頭の血管を抑えられるような不快感を覚える。炎に似たその色は、圧迫感を持っていた。離れた場所に係留したアパッチは正面から西日を受け、濃い陰影の中でコックピットガラスだけが金色に輝いている。

 関東平野を染める夕映えの中で佇むアパッチは、沈黙したまま飛ぶときを待っている。機体が炎に包まれているようで、佐久は目を逸らした。


 こんなときでも、不思議と食事は残さないのは軍人の習性なのだろうかと佐久は思う。ビニールをかけ、直接汚れないようにした飯盒に、こんもりとよそったカレーライス。特別な米を使っているわけでもなく、本格インド風のスパイシーな味のわけでもない。

それでも、カレーライスというだけで、軍人はにわかに色めく。食欲をそそる独特の香りが鼻腔をくすぐる。斜めに差す金色の日差しに、ルウに浮く微細な油が輝いた。ほっくりと煮えたジャガイモや人参、うま味を含んだ豚肉、程ほどに辛いルウが食欲を誘う。スプーンを握って、佐久はそれらを掻き込んだ。

 草地に転々と集まる整備員達に混じり、佐久は地べたに座り込んでいる。朝に刈り払った草は日中の陽光ですっかり水分が抜け、粉になった泥が舞うとそれが西日に染まる。泥スパイスのカレーを口に運ぶと、身体に血が巡っていく。クーラーボックスに腰かけた彦根が美味そうに福神漬けを齧る。

 風の止んだ夕方、湖から漂う湿気がカレーの香りと混じる。隣で胡坐をかいて、割り箸でカレーを掬う誓はいつもの無表情だった。食事を続けながら時折談笑する整備員達は、ヘルメットや帽子を脱いでくつろいでいる。

抜群に高い機密度を持つ部隊だとは到底思えない風景だった。カレーの前ではひとえに無垢な新兵に同じである。


「今日のカレー、うめぇな」


 彦根が呟く。佐久はそうですね、と相槌を返した。カレーを食べる彦根の口許に、米が付いていた。その呑気な表情には、少しの翳りもなかった。そのことが不自然で、佐久は疑念を抱く。


 10キロも離れていない場所に寝そべる、優美な山がここからは望めた。なだらかな稜線は整い、西日に映える。霊峰として名高いその筑波山は、場所柄多くの航空機が低空訓練を行う場所でもある。

 当時、AH―1Z、スーパーコブラの操縦士であった彦根は、その場所で、事故に遭った。重傷を負った彦根は身体の自由を失い、そして危険度の高いサイボーグ化手術を受けることを選んだ。

 事故に遭ったものの中には、二度と復職することのない者もいる。佐久は、過去の墜落事故の記憶と未だ闘い続けていた。彦根は、この場所でも平然としているように見える。

何故か、数日前に彦根の話を聞いた佐久のほうが悪夢に悩まされるようになっていた。

 目覚めたときには夢の内容を忘れていて、ただ、赤い色の印象と疲労感だけが残っていた。夢が、彦根の話をきっかけに始まったことなら、なぜ赤いのだろう。彦根の事故は炎上を伴っていない。


 当時、輸送機が付近で低空の訓練飛行を行っていた。その航跡に発生した乱気流に巻き込まれ、彦根の機体は揚力を失い、滑り込むように山肌と接触した。機体は山肌にめり込み、押しつぶされた彦根の四肢は再生することはなかった。後席に座っていた機長も深手を負い、人工の肉体を拒否した彼は義手義足での生活を選んだ。


 事故を乗り越える。たった一言のそれを実現するのに、どれほどの痛みと時間を伴うか。彦根はそれを実現するまでに、何を見たのか。

 気が付けば、カレーの味も忘れていた。我に返って視線を戻した佐久の前には、見慣れた空軍軍曹がいる。


 いつの間にか、谷川軍曹、――誓が向かいで黙々とカレーを食べていた。いまはこの実験飛行隊に出向し、レーダー情報の提供を主に、佐久の飛行を支援している。サイボーグとしての性能は優れ、腕は確かだといえるが、何しろ無愛想な女だった。

 あどけなささえ残す顔立ちは滅多に笑わず、黒目がちな瞳はいつも注意深い。結わえた髪の毛は黒く、その印象が更に幼さを強調した。ふと彼女を見ると、食事に集中する誓の胸元には米粒が付いており、人並み外れて突き出した胸を飾っていた。指摘しようかしまいか迷い、佐久は言葉を食事と一緒に飲み込む。「蠍座(スコーピオ)」という無線上の呼び名通り、誓は厄介な存在だった。


 ふとこちらを向いた誓と、目が合う。何か言いたげな表情の誓は、ややあって口を開いた。


「美味しいですね」


 欠片もそう感じていないような顔だった。誓の食事は楽しむというより、命を繋ぐためのものに見えた。金色の西日が差し込んだ誓の瞳は、肉食獣の目のように光っていた。思わず、「割り箸まで食うなよ」と言った佐久に、誓は「了解(ウィルコー)」と返した。



 戦闘機のように尖った機首からは、左右と直上まで開豁した視界が得られた。遠くに横たわる街の灯が、コックピット一面に拡がる。白っぽく夜の裾を染めた街と、その周囲にポツポツと散らばった住宅地の光。唯一真っ黒に沈んでいるのは、足元に広がった訓練場だ。

 液晶画面とボタンが並ぶコックピットを、僅かな月光が照らした。対地高度200フィート(60メートル)から見下ろした世界は、遠く地平の果てまで望むことができる。花が咲くように、遠くで赤や青、金の花火が小さく光っては砕ける。東京湾で打ち上げられた花火から、西側に目を転じれば東京スカイツリーが聳えていた。見上げれば、付近の空港へ着陸する旅客機が降下しながら通過していく。

 双発のエンジンのうなりと、頭上を切るブレードの音が機体を包み、夜の闇を粟立てていた。右目に装着したスコープからは、機首のカメラの映像が入ってくる。

肉眼では闇に沈んで見えない地上の施設も、暗視の緑色の視界では仔細まで見ることができた。

 肉眼の視界と別に、更に脳裏に映像が浮かぶ。3Dの空間情報は地上のレーダーから送信されている情報だった。いまは、空間上に佐久の自己位置情報だけが表示されている。

地上で支援する誓から送られてくるデータは、複数のレーダーの情報を合成し立体化したものだった。

 身体と共に強化された脳は、佐久に新しい視界を与えていた。二つの画面を同時に表示するように、佐久は複数の情報を処理できる。


「レーダー・インフォメーション・レシーヴド」

(レーダー情報受信した)


 口元のマイクに吹き込むと、地上の無線局からの応答が返ってくる。


「ラジャー、ウィル・アドバイズ・インフォメーション」

(了解、情報を伝達します)


 聞き慣れた、誓の声。なぜだか、彼女の柔軟剤の甘い香りが一瞬闇夜に過ぎった気がした。その幻を振り払い、夜の中に、操縦桿越しに神経を張り巡らせる。脳内の視野では、半透明の地形と、地上のレーダーが捉えた佐久機のシルエットが、どこから来るか分からないステルスの無人機を待ち構えている。

 握った操縦桿を前に倒すと、ブレードの回転面が水平から前に傾き、機体は滑り出した。絵筆のように機首を下げたアパッチのコックピットいっぱいに、目前の闇が広がる。

 肉眼では暗闇に沈んで見えない地面を、緑色で表示された3Dの地形が補う。どこからか迫ってきているはずのステルス機を、佐久は這うように探し始めた。

吹き降ろした空気が地面から跳ね返り、機体を安定させる。


「レーダー・ターゲット・ノット・オブザーブド(レーダー目標確認されず)」


 注意深くレーダーの覆域内を探りながら、誓が告げた。レーダーは全ての空間を覆うことはできない。いかにバイスタティック・レーダーと言えど、死角は発生する。ことに、対空レーダーは発射を空中に向けているため、低高度は死角になりやすい。佐久はその死角を、地面を撫でるように探っていた。

 唇で、息をしていた。吐息混じりの沈黙が、たった一人の空間を満たす。コンソールの前で中空を睨む誓の、緊張感が伝わってくる。アパッチのシャフトの頭頂部に備え付けられた、ロングボウ・レーダーが僅かなステルスの痕跡を探す。地上の百を越す標的を同時に捉える性能のそれは極めて高い感度と機能を持っていた。

 塗料やその構造で、極限までレーダーに映りづらくなっているステルス機でも、完全に痕跡がないわけではない。叢からガラスの破片を探すように、注意深く小さなノイズを探す。佐久は地表を舐めながら、ロングボウ・レーダーの死角となる後方をカバーするために機体を翻した。


 そしてその瞬間、針のようなレーダー反応が斜め後ろ、覆域の外縁で一瞬だけ光った。アパッチのレーダー情報を受信している誓と、佐久は同時に息を詰める。一瞬、操縦桿を握る力が強まった。反射的にペダルを踏み込み、機体を斜めに滑らせて佐久はその方向へと鼻先を向けようとした。神経が帯電する。佐久の斜め後ろにつこうとしていたその機体が、暗視で増幅された視界を一瞬掠めた。

 バイスタティック・レーダーをかい潜るため、それは地表を匍匐飛行していたのだろう。小柄でスリム、滑らかに角張ったフォルムは、間違いなくヘリの形をしていた。しかしそれは、アパッチでもコブラでもなかった。

 重力に引きずられて、機体は内側に傾く。コックピットの外側を、下降気流に渦巻く夏草が高速で飛び去っていく。見据えた正面に、横倒しになった街の夜景が飛び込んできた。佐久は肺腑から、短く息を吐いた。

握った操縦桿を思い描くコースに合わせて動かす。生温い夜を、アパッチの尾翼が抉った。旋回を抜け、そのまま操縦桿を引く。鋭いターンを描いた機体は、発生した運動エネルギーを上昇へと変換し始めた。

「どっから持ってきやがった!」

 上方へ避難しながら、佐久は叫ぶ。内臓が収縮し、一気に毛穴が開いていた。あれは、レーダー試験用のステルス的などという呑気なものではなかった。実用化しなかったステルス攻撃ヘリコプター、RAH―66、「コマンチ」。

開発が中止されたその機体が、まさか無人機として存在しているとは。

 武装類を可動式にして機内に収納し、レーダーに映る面積を極限している。その姿かたちは戦闘ヘリとして異様だった。窓も座席もないその機体から、操縦する人間の殺気が放たれる。アパッチの尾翼を追って動くその機動は、ただの無人機操縦士のものではなかった。


「バンディット・コンファームド!」(敵機を確認)


誓の言葉は、少し語尾上がりになった。


 やや高度を増したコマンチは、レーダーの死角から抜けた。同時に、見えないはずのステルス機がバイスタティック・レーダーによって浮かび上がる。背後まで広がった仮想の視野に、誓が赤色の三角形でマークしたコマンチが飛んでいる。旋回したアパッチを追随し、背後を追っていた。

 逃げ場のない平地では、機体の性能と互いの技量が生死を分かつ。背後に入ろうとするコマンチの射線から逃れるため、上昇しながら左へ機体を振った。二機の戦闘ヘリコプターは、糸が縺れ合うような軌跡を月下に描き始めた。

 ジグザグに機体を振るたび、8トンを越す機体が遠心力に振り回される。頭の中心は冷えたように静かだった。

機体の未来位置と、敵の機動と、地形だけが頭の中で自動的に処理されていく。重力と操縦に流れていく機体の動きに、身体を固定するハーネスと、救命胴衣が擦れて音を立てた。

 急速に酸素を消費する脳に血液を送るため、呼吸がやや速くなる。放出されたアドレナリンが収縮した血管へと広がり、交感神経は身体を闘争に切り替える。操縦桿を握ったふたつの掌はやや汗ばみ、ヘルメットのバイザーに映る瞳孔は開いていた。

 背後を取る。それだけを考える。食らいついてくるコマンチの位置は、眼球の裏側であってもはっきりと確認できた。夜空に突き刺さっていく機体の機首を、急激に引き上げる。同時に左手のコレクティブ・ピッチ・レバーを引き、機体を増速させる。機体は戦闘機のように機首を天に突き刺し、佐久の正面に十六夜の月が飛び込んでくる。

 地上と垂直になった機体が、重力を引きちぎった。一瞬、息が止まる。アパッチは鯨のように翻った。背を地面に向けたアパッチを、今度は急激な降下の重力が襲う。時間が、コマ送りに流れていく。頭の上に、草地の天井があった。

 引き続けた操縦桿に従い、機体はループを描いた。高速で地表が迫ってくる。重力の反転で内臓が上側に押し付けられ、気持ちの悪い感覚がはらわたを襲った。

 高度を示す数字が急激に減っていく。落下していくような体感が神経を突き抜ける。再びピッチを引き、揚力を上げる。高速で機動していたコマンチは、アパッチを追い抜いていた。その背を睨む。

 アパッチの鼻先は、湖の表面を掠めた。ブレードから発生する下降気流が、湖に波濤を作る。飛沫がコックピットのガラスに飛んだ。

肉眼で捉えたコマンチは、ループで減速したアパッチを引き剥がそうと加速する。急旋回で凌ごうとするコマンチに、佐久は牙を剥く。

 湖水を掠めたアパッチは再び上昇姿勢に入った。跳ね上がり、折れ曲がった旋回をしたアパッチは、夜陰を叩くような衝撃波を引き連れてコマンチを狙った。旋回と旋回の軌跡が重なる。飛び込んでいくアパッチの運動エネルギーは速度へと変わった。食いしばった歯にも気付かず、佐久はその一点へと突っ込んでいく。

滑り落ちるようなアパッチの機体が、今度こそコマンチの背後に迫った。実弾を積んでいない機関銃の射撃ボタンを佐久は押し、確かに仮想の30ミリ弾頭を叩き込んだ。

 見えない敵を、獲った。その冷静な確信が、指先に伝わる。目先に迫ったコマンチの機体から、減速して間隔を取る。コマンチは、惰性で速度を殺していた。二機の戦闘ヘリが縺れ合った湖面には、血痕のように航跡が残っている。波に千切れた湖の月が、揺れた。

 それが見えてから、ようやく佐久はゆっくりと息を吐いた。ざっと計器に視線を走らせる。あれほどの激しい機動でも、異常はない。それを確認すると、佐久は口許のマイクに声を吹き込んだ。


「オペレーション・ノーマル」(異常なし)

「ラジャ」


 間髪いれずに、誓の声が返ってくる。その声は、どこか誇らしげだった。



 その無人機操縦士が、(さざなみ)という少佐だということを知ったのはフライト後の機体の点検が終わった後だった。

 上空に飛ばしていた別の小型無人機で監視を行っていた彦根は、事前にコマンチが仕掛けることを知っていたらしい。施設のはずれで、闇夜に続いていく叢に立ちながら、彦根は黒く陰になって地平に横たわる筑波山を見ていた。

 回天する夏の星座が、今は音の消え去った訓練場を覆う。そして、佐久に問いかけるように彦根は呟いた。


「漣少佐は、義手義足の無人機操縦士だ。でも、彼に並ぶ無人機操縦士はそういないよ」

「・・・義手義足?」


 その言葉を、佐久は聞き返した。汗に濡れた迷彩服を夜風が撫でる。腰に手を当てて立った彦根は、どこか胸を張っているようだった。


「事故に遭ったときの、俺のコブラの機長だった人さ。この場所で、漣少佐のフライトを見ることができて良かったよ」


 彦根は、そう言うと白い歯を見せて笑った。

 事故から這い上がった漣は、きっと彦根にとって心の支えだったのだろうと佐久は悟った。だからこそ、こうして立っていられる。その背は、何にも屈さない強靭さを秘めていた。彦根は、それ以上何も語らなかった。その必要もなかった。促されるまま、佐久は自分のバディを迎えに、その場所を離れた。


 レーダー・コンソールのコンテナの気密ドアは、わずかに隙間が開いていた。訓練の後は、時々疲労のせいか体温が下がり、寒がる誓の習性だろう。脳へ大量の情報を送り込まれる誓は、いつも任務の後にはぐったりとしている。ドアに手を掛けようとしたとき、見知らぬ声がした。


「大丈夫か?あんた顔青いよ」


 男の声だった。思わず、動きを止める。「大丈夫ですよ」と穏やかに答える誓の口調は、いつもと変わらない。


「やっぱりわかんねえな。命を削って平然としていられるのが」


 半ば呆れるような男の口調は、軍人のものではなかった。光が漏れる隙間から覗くと、民間企業の作業服がちらりと見える。


「・・・少尉は」


 言葉の合間に、ふ、と誓が息を吐いた気配がした。


「存在意義だから」


 誓は、今日は金曜日だから、というのと変わらない口調で言った。至極当たり前なことだった。飛行を支援する任務は、飛行するパイロットがいなければその意義を持たない。パイロットがいて、初めて彼らは自己の存在を証明する術を持つ。それでも、佐久は心臓が跳ねるように鼓動するのを抑えることが出来なかった。


 存在意義という言葉が、すっと佐久の中に沁みてくる。肺腑に湧き上がるものは熱く、きっと血潮の色をしていた。

誓が、パイロットが、ではなく、少尉が、と言ったことに、どうしようもない程の感情の動きを覚えた。

口元を抑えて、漏れそうになる声を殺す。唇が震えて、吐く息が乱れた。体の表面が、炎に舐められたように熱い。筋肉が収縮し、背が丸まる。爪が白むほど握った拳に、汗が滲んだ。そして佐久は、突然に赤い夢を思い出した。記憶が、脳裏を焦がす。


 その炎の色は、忘れていた赤だった。


 広い、夏空。連なる濃い緑の山肌。複雑に隆起した山々の地形を、虫食いのように赤い炎が焦がす。そこから立ち昇る黒煙は、佐久を脱出させるために最後まで練習機を操縦していた教官の命から立ち昇っていた。機体も、そこにある命も、飲み込んで燃え盛る炎。

 パラシュートで中空を漂っていた佐久は、その色をハッキリと視た。忘れていた赤の色。そして、他の誰にも見せることのできない炎。その炎は、奥底で燃え続けていた。決して忘れることはできず、しかしひとりで立ち向かうには熱すぎた。

 彦根には漣の姿が必要だったように、佐久には他の誰かの寄る辺が必要だった。揺るがない寄る辺がなければ、きっと佐久はその炎の本当の色を思い出せなかったはずだった。


 佐久は、たった一言に寄りかかる自分を恥じた。それでも、自分を繋ぎとめる何かの確かさに安堵したことを否定できなかった。膝が笑い、奥歯が震えて音を立てる。いつの間にか、佐久はコンテナに寄りかかってしゃがみ込んでいた。わずかな言葉に体重を預けて、佐久はその痛みに耐えた。

 弾けるような音がした。湖の対岸で、小さな花火が打ち上がる。過ぎる夏を惜しむように、誰かが上げた小さな花火が湖畔を少しだけ照らし出した。闇の中に、それは刹那の光の傷を付けていく。砕ける炎色は夜空を薄ぼんやりと赤く染め、その色は瞳の中で滲んだ。


 細めた目の中に、その色は溶けて、消えた。


INVISIBLE RED/ 完


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