中学の思い出 (5)
駅に行ったら、Sさんがいたので、本当にビビりましたよ。逃げようと思って。さいわい、Sさんはまだ気付いていないようなので、人混みに紛れて、駅庁舎まで逃げようかと。
よっぽど逃げようと思ったんですけど。
本当に馬鹿なんですよね。逃げようと思うと、体が勝手にSさんに向かい、自分から挨拶に行っちゃたんですよ。
Sさんは、私に気付くと、何時も通り渋い顔をして、
「○高か?」
と、私の高校名を聞いてきました。頷くと、何時も通り嫌な顔をして逃げて行ってくれました。
その時、Sさんは一人でいたので、いくら暴走族で活躍しても、私と一対一の勝負では
勝ち目がない
と、判断してくれた。○高だと思ったのも、私の能力値が非常に高いと評価していてくれたから。
そう解釈したいところなんですけどね。
その当時は、戦前の影響で、喧嘩の美学がまだ残っていました。
○高のガリ勉君を、不良がイジメるのは、みっともないことだったんですよ。
土地柄もありますよね。
私の生まれ育った地方は、昔は時代劇のチャンバラ映画で有名で、任侠の地だと、全国的に思われていたんですよ。そういった特殊な風土がありましたね。
○高は勉強だけしてろ!
みたいな。
「野球部が」
とか言うと、
「えッ!○高に野球部あるの?」
って、聞かれちゃうんですよ。そんな状況でしたから、野球部に入るのは、真面目で、おとなしくて、背が低くて、地味で、目立たない人ばかりだったんです。二年生が五人で、一年が八人、計十三人しかいませんでした。
だから、必死になって部員集めをしていました。私も二回くらい勧誘されましたね。
そんな野球部が甲子園に行ったんですよ。もう、マスコミが大騒ぎで。
スポーツ新聞の裏面を独占したことがあって。タイトルは、
えッ!偏差値70!
野球部員の中学時代の偏差値が載っていました。
週刊誌なんかは、
東大野球部が狙う△△投手!
勉強のことしか話題にならなくて、野球の実力は全く評価されませんでした。
その頃ですね。「▲▲甲子園」みたいに、甲子園の記事しか載っていない雑誌が創刊されたのは。
昔は本屋くらいしか行くところがなかったんですよ。見たことなかったし、なにしろ、
甲子園偏差値
というコーナーがありましたからね。
その、甲子園偏差値の投手部門の31位に、○高のピッチャーがランクインしていました。
出場校は、三十校です。
何が言いたいのかというと、
○高のピッチャーは、他校の控え投手よりも、評価が低かった
ということです。