中学の思い出 (3)
中三で彼女が出来ないって、悲惨ですよね。そのくらいで女にモテなかったら、一生自分に自信が持てない気がします。
私は男子高に進学することを希望していましたから、
人生最後のチャンス
だと思っていました。男子高の後は、東大に行くつもりでした。その当時、偏差値の高い大学は、
男子校みたいなもの
だということを、よく知っていました。中学で彼女をつくれなかったら、
一生女には縁がない
という覚悟はありました。
小学生の時、某国立大学の医学部に行った従兄弟が婚約者を家に連れて来たのですが、
「三人しかいない医学部の女子学生と婚約した!」
と、私の母は、
三人しかいない
という希少価値を自慢したのです。従兄弟は母の姉の子でした。
今は、東大も医学部も女子学生が増えて、うらやましいかぎりです。
彼女を作るために、その当時支配していた剣道部を利用することにしました。
剣道部を支配出来たのは、私が中一の冬に暴れたからです。正確に言うと、
暴れそうになった
だけです。
私が所属していた剣道部は、中学の体育館の卓球場の全部を何故か部室にしていました。他の運動部の部室の五倍以上広さがありました。
その部室で、今だったら大問題になりそうな、上級生による下級生イジメが行われていたのです。
当時は、中学生から、上下関係が急に厳しくなるんですよ。戦前の日本では、小学校を卒業すると、社会人になるのです。その名残かも知れませんね。
イジメというよりも、
普通のこと
だと思っていました。
我々の世代は、親も学校の先生も戦前の教育を受けた人達です。戦争を経験してきた人達です。実際に戦争に行った人もいます。
戦前の価値観では、
暴力を全面的には否定しない
んですよ。ケンカには、
美学
が、ありました。ルールとマナーを守っていれば、他人を物理的に攻撃してもいいんです。
戦後、アメリカから民主主義が導入され、全ての暴力が
一律に、
否定され、ケンカの美学が失われていきましたが、当時はまだ残っていたのです。
剣道部では、一年生は部室(床はコンクリートです)で
正座
させられ、
太股の裏と下肢のヒラメ筋の間に木刀を挟まれたり、
膝の上に人に座られたり
していました。
その状態で、
「好きな女の子の名前をはけ!」
とか、命令されるわけですよ。今だったら、問題になるんじゃないですかね?虐待として。
私が正座させられていた時に、達磨と呼ばれていたことがあるデブが、私の膝の上に座らさせられたことがありました。
彼がダルマと呼ばれていたのは、小学校五年生の時で、呼んでいたのは我々J小学校の生徒だけです。
達磨はW小学校です。
私が通っていたJ小学校は、私が五年生の時に放火されました。
戦前の昭和六年に建てられた木造校舎でしたから、よく燃えました。
その木造校舎の廊下には、防火扉と呼ばれる鉄の扉がありました。いつも開いているので、何のためにあるのだろう?と、思っていたのですが。
火事の後、学校に行ってみると、その防火扉が初めて閉じられていました。扉の東側は、綺麗に焼け落ちていて、跡形もなかったのに、西側は、全くの無傷で残っていました。
まさか扉一つで、あんなにも威力があるなんて!
私は感動しました。というよりも、
不思議
でしょうがなかった。私の教室は扉の西側だったので、実害ゼロでした。
でも、教室が足りなくなり、五年生と四年生が近くのW小学校に通うことになったのです。
その当時は、戦前に造られた木造校舎が古くなり、建て替えが行われていた時期でした。
偶然、W小学校の新校舎が出来上がり、旧校舎を解体する前だったのです。
私達はW小学校の旧校舎に通うことになりました。
その時に、J小学校とW小学校のドッジボールの対抗戦が毎日行われていたのですが、W小学校で最も目立つ中心人物で、最も体格がよいデブを、J小学校側は、達磨と呼んでいたのです。
達磨さえ倒せば、
という思いがJ小学校側にはあったのですが、
倒れないんですよ、達磨なだけに。
その達磨と、中学で一緒になり、剣道部でも、同じで、そして正座している私の膝の上に達磨が座ったのです。
私は、情けないことに、その達磨にキレてしまったのです。達磨は先輩に命令されて仕方なくやっているのに。