5 騎士は魔女に乞う
前の日は夕飯も食べずかなり早い時間に眠ってしまった所為で完全に目が覚めてしまった。だから彼の腕に包まれたまま、彼の目覚めを待っている。ザクリスは、一体どんな気持ちで私の目覚めを待っていたのだろう? そしてこの状況に気が付いたらどんな反応をするのかしら? あまりにも早くに目が覚めてしまった私は暇で、意識がなくて重たい彼の腕を動かし自主的に包み込まれてみた。それはなんだかこそばゆくて、でも幸福な感じがしたからこのままでいる。
視線の先で彼の睫毛が震えた。だから私は狸寝入りをする。でも彼の反応が気になるから、薄目は開けておいた。
鼻から深く息を吸い込んで、どうやら彼は目覚めたらしい。そしてすぐに焦った様子で目を開けた。腕の中にいる私を見つけて狼狽えているのに、眠る私を気遣ってか動けないみたい。なんだか楽しくなって来た私は、寝ぼけたふりをして彼の胸に顔を埋めてみる。びくり、彼の体が揺れた。背中へ回した腕も彼の緊張を捉えている。あまりいじめるのは可哀想だとは思うけれど起きていると気付かれるのも恥ずかしくて、私はそのまま動かない。
「ミーナ、ウィルヘルミナ……心から貴女を、愛している」
そっと彼の両腕が私を包み込み、彼は眠る私へ愛を告げた。後頭部と背中へ触れた、掌の熱。私は何故だか泣きたくなる。鼻の奥がツンとして、だけど涙の気配は温かくて……柔らかに込み上げてくるこれを、幸福と呼ぶのだろうか。
「……ねぇ、ザクリス?」
私が起きている事に気付いた彼の慌てようは凄かった。私の体へ回されていた両手がまるで悪い事をしていたのが見つかったかのように素早く離れ、すぐ近くで彼の鼓動が暴れ回っている音が聞こえる。でも私は離れようとした彼を捕まえ両手でしっかりしがみ付く。
「ミーナ? 寝ぼけているのか?」
動揺の末に彼は、私が寝ぼけていると思ったみたい。彼の手がそっと戻って来て、私の髪を撫でてくれる。動き出した心はそれにも反応を示し、私の世界は色づいてゆく。
「寝てない」
「え?」
「ずっと、起きていたの」
返って来たのは無言。髪を撫でていた手の動きも止まり、不安になった私は彼を見上げてみる。
「み、見るな!」
慌てた彼が逃げて行く。真っ赤になった顔を隠し、素早く起き上がったザクリスは私から顔を背けた。だけど耳もうなじも真っ赤で、全部は隠せていない。散々あんなに私を好きだと言っていたくせに、どうやら彼は不意打ちに弱いらしい。
「ねぇザクリス」
追い掛けるようにベッドの上で上半身を起こした私は手を伸ばし、こちらへ向けられている広い背中へ頬を寄せた。体を跳ねさせはしたが、彼は硬直してしまったように動かない。触れた場所からは彼の熱と、緊張が伝わってくる。己の緊張と彼の緊張を解け合わせるように、私は彼の背中へ掌を当てた。そして囁くように、愛を告げてくれた彼への答えを返す。
「私、あなたとなら始められるかもしれない」
「……何を?」
背中越しの問い。まだ彼は振り向いてはくれないみたい。でもそれは都合が良かった。向かい合った状態では気おくれしてしまい、私はきっとこの先の言葉を紡ぐ事が出来なかっただろうから。これまで凍結していた心の強張りを解すように深く息を吸い、出て来た声は小さかったけれど、震えてはいなかった。
「恋を。あなたとなら、始めたいと思えた」
まるで石化の魔法が解けたかのように、彼が振り向きこちらを見た。深い湖の青に、私は捕らえられる。青い宝石に映り込んだ私はかつて見た仲間達が浮かべていたのと同じ、幸福そうな微笑を浮かべていた。引き寄せられるように右手を伸ばし、彼の手首に嵌められた腕輪を掴む。私の意図を理解してくれた彼も、右手で私の腕輪を包むようにして掴んだ。今から始めるこれは儀式。二人の想いに反応した腕輪が、じわりと熱を持つ。
「魔女殿。人間である俺のもとへ、落ちて来てくれるか?」
魔女は人間ではない。天の使いだと思われていた事もある。それはもう遠い遠い昔の事だけど。
「あなたが私を望むなら。変わらぬ愛を誓えるというのなら私は、あなたのもとへ落ちましょう」
私達が唱えたのは腕輪の拘束を解く為の呪文だ。だけれど更なる縛りを与える為の、一歩間違えれば呪いにすらなってしまう誓いの言葉。これは言葉だけでは意味を成さない。想いが伴わなければ成立しない、お節介な魔女が定めた誓いの儀。言葉と想いに反応した腕輪は赤い光と共に熱くなり、次の瞬間には溶けるようにして私とザクリスの中へと消えた。
お節介な魔女が仲間の幸せを願い作ったこの腕輪。本当の役目は、真実の愛の選別。初めは物理的な距離を縛ってきっかけを作り、それを得て育まれた想いで心を縛る。魔女は人間になれるけれど、人間になった魔女が愛を失えば幸せに老いる事なくただ消滅してしまうのだ。だから、魔女ばかりが負うリスクを平等に人間の男にも背負わせるというのがこの腕輪の、呪いにも成り得る祝福だった。魔女を裏切れば人間の男も魔女と共に消滅してしまうらしい。――らしい、というのは私がそういう結末を迎えた二人を見た事がないから。どうやらこの腕輪の効力を理解した上で使用した末に結ばれた二人にとっては呪いすらも絆となってしまうようで、仲間達は伴侶と共に老いて幸せの中で去って行った。
私がこれを拒否していたのは、怖かったからだ。自分を縛るだけならまだ良い。だけど相手を縛るというのがどうにも受け入れられず、縛りたいと思えるような相手にも出会えなかった。それと同時に、私に縛られても良いと言ってくれる相手もこれまではいなかった。ザクリスだけ。ザクリスだけが、魔女である私へ愛を乞うた。
「共に消えるのではなく、老いて幸せの中で迎える最期を約束しよう」
溶けて消えた腕輪を見届けた後で、ザクリスは私を抱え上げてベッドから床へと降り立った。
「まだ恋の段階だから、腕輪の呪いは発動しないはずよ?」
彼の腕の中で首を傾げた私を愛しそうに見下ろして、ザクリスの指が私の頬にかかっていた髪を優しく払う。
腕輪による物理的な距離の拘束は解かれたけれど、まだ私と彼には想いを育てる猶予は残されているはずだ。この腕輪に掛けられた魔法にはもう一つの段階があって、今私達が行ったのは真ん中の儀式。体を繋げて魔女が人間とならない限り、祝福も呪いも発動しない。
「腕輪はきっかけで、ただの願いだ」
「願い?」
私を床へと降ろしてから、ザクリスは柔らかに笑った。
「本当はこの腕輪に、魔女の伴侶を消す効力なんてない」
「どういう事?」
「腕輪と共に残されていた手紙には、貴女の幸せへの願いが書かれていた。そして、腕輪の力や使用目的についても詳細が記されていた」
腕輪には、縁結び程度の効果しかないとザクリスは告げる。消滅や心を縛るというのは、大事な仲間を生半可な覚悟の男には渡せないという想いから生まれたハッタリだったらしい。
「俺がこれを使ったのは、貴女に対して俺の覚悟を示す為。それに俺の場合、神に愛されている貴女を不幸にすれば天罰が下るだろうから腕輪の効力がどうであれ関係ない」
「ちょっと! それって私自身が重たく危険な存在って事じゃないの!」
自覚とは関係ない場所で、私がザクリスを危険に晒してしまっているという事実に血の気が引いた。だけれどザクリスは、狼狽えた私の腰を抱き寄せ不敵に笑う。
「もう逃がさない」
「クーリングオフは利かないのかしら?」
「くーりんぐ……?」
聞いた事のない言葉に対して不思議そうに首を傾げた彼を可愛いと思うくらいには、私の心も手遅れのようだ。
「……わざわざ、異世界に渡ってまで叶えたかったあなたの本当の願いは、何だったの?」
わざと私は問うてみる。魔女なんていう過去の遺物であり、恋愛相手に選ぶには重過ぎる私を異世界の門をくぐってまで迎えに来てくれた彼の覚悟を、受け入れようと思えたから。
「俺が異世界へ行った目的は――」
ふわり、ザクリスは私の前で跪く。まるで出会いの再現みたい。場所も世界も違っていて、私達が纏っているのは寝間着。裸足の私達は寝起きで、気を許した状態で言葉を交わしている。
「貴女の愛を乞う為俺は異世界の門を開き、貴女に会いに行ったんだ」
跪き、私を見上げたザクリスの瞳は熱を宿している。私が右手を差し出すと、彼はそっと握ってくれた。そして私の答えをじっと待っている。だから私は笑みを浮かべ、口を開く。
「前向きに検討してあげるわ」
上から目線の素直じゃない言葉。だけれどザクリスは嬉しそうな笑顔をその顔に浮かべ、触れていただけだった手に力を込めて私を引き寄せる。抗わず、私は導かれるまま彼の胸へ飛び込んだ。包み込んでくれた熱は優しく温かで、お腹の底から幸せが湧き出して来る。
「ミーナ」
呼ばれ顔を上げた先、ぶつかったザクリスの視線の意味に気付いた私は目を閉じた。与えられたのは触れるだけの口付け。これまで一度も体験した事のないそれは甘い痺れを体へ広げていく。こんなにもどきどきとして、甘い酔いを私は知らない。一瞬の触れ合いの後、ザクリスの右手が私の頬を包み込む。情けない事に私にはもうそれが限界で、熱くて恥ずかしくて嬉しくて幸せで……一気に膨れ上がった感情が許容量を超えてしまった所為でのぼせてしまい、彼の腕の中で介抱される羽目になってしまったのだった。