4 お菓子が与えた甘い時
張り切って作り過ぎてしまったお菓子達。全て食べるとザクリスが言い張ったけれどそれは止めて、屋敷の使用人達へ振舞った。料理長の美味しい料理を食べ慣れているだろう彼らはみんな優しくて、形の不揃いな焼き菓子を嬉しそうに笑って受け取ってくれた。でもそれは、主であるザクリスも作ったというのが彼らの喜びの要因だったのではないかと思う。もしかしたら私は、大きな屋敷の主にやらせてはいけない事をさせたのかもしれないけれど、本人が幸せそうに笑ってくれたのだからそれは考えない事に決めた。
「何故俺に独り占めさせてくれないんだ」
ザクリスは今、私の隣で不満そうに顔を曇らせている。彼の機嫌を悪くさせた原因は私が手に持つカゴの中身だ。
「甘い物を食べ過ぎると体を壊すわよ」
聞き分けの悪い彼の機嫌を取る為、私はカゴを覆った布をどかして一枚摘まんで口の前まで運んでやる。素直にぱくりと食いついたザクリスは、私の指まで食べた。菓子を奪われた私の指には舌が這い、甘い欠片を舐めとっている。手を引こうにも手首はいつの間にやら捕らわれ動けない。そして深い青に捕らわれた私は見動きすら取れず、息を吸う事も吐く事も全てを忘れて硬直した。舌が這った場所に柔らかな唇がちゅうっと吸い付いた後で、ザクリスはゆっくり菓子を咀嚼して飲み込んだ。
「甘い……」
うっとりと吐かれた言葉の所為で、私は眩暈を感じた。遠退いていた音が一気に戻って来たけれど、呼吸の仕方がまだ思い出せない。
「なんて愛らしいんだ、ウィルヘルミナ」
ザクリスの指先が私の唇へと触れた。まるでそっとこじ開けるように動いて、私自身を食べようとするかのように彼の唇が近寄ってくる。甘い香りのする唇が触れる間際、断続的な揺れが収まり目的地へ到着した事を知らされた。同時にすぐ側で舌打ちも。
「……そんな表情の貴女を他の者の目に触れさせたくはない。やはりこのまま引き返すか」
「そ、れは、だめ! だめよ! 行くの!」
気が動転してしまい、必死に彼の提案を拒否する言葉を吐きながらも私は扉へ手を伸ばす。このまま屋敷になんて戻ったらだめだと思うの!
「落ち着いて、ミーナ。そんな状態で外へ出てはいけない。見た人間全ての目を潰して回る事になってしまう」
「ちょっと、残酷な冗談はやめて!」
悲鳴を上げた私の背中をあやすように、大きな手が撫でた。その触れ方は私の心臓を壊そうとするものではなくて、優しく穏やかな気持ちにしてくれるもの。ほっと力を抜いた私は、ザクリスの腕に身を預けた。
「落ち着いたか?」
「……だいぶ」
「顔を上げて、こちらを見て?」
彼の誘導に抗わず、私は顔を上げる。じっと深い青に観察するように見られ、私の視線の先でザクリスがいたずらっ子の少年のような顔で笑った。
「いつも通りに可愛らしいが、他の人間が見ても問題ない表情になった」
「何よ、それ。どれだけ酷い顔をしていたっていうの?」
「色香が薄れたという意味だ。女の顔した貴女を見られるのは、俺だけの特権にしたい」
「なっ」
一気に顔に熱がのぼり、私は彼の腕の中で暴れ出す。私は怒っているのにザクリスが楽しそうに笑っていて、なんだかそれすら腹立たしい。
「ほらまた出られない。諦めて家へ帰ろう? 俺は貴女と二人きりで過ごしたい」
「あなたこそっ、そういう色気を感じる顔や声はやめてよね!」
「だって仕方がないだろう。俺は、貴女が欲しくて堪らないのだから」
このままではザクリスの思うつぼだ! こうやって煙に巻いて、私を混乱させて、自分の思い通りに動かそうとしているんだ! その手には乗らないんだからねという気持ちを込めて、私はザクリスを睨んだ。だけどどうやら涙目だったらしく、思う程それは効力を発揮してはくれなかった。でも哀れさは出ていたようで、ザクリスは私をいじめるのをやめる気になってくれたみたい。
「すまなかった」
言葉と共にザクリスの唇が私の額へと押し付けられ、やっぱり私は彼の掌で踊らされてしまう。
「さぁおいで、愛しい人。貴女が作った物を分け与えてやるのは癪だが、貴女が望むのなら叶えよう」
馬車の扉を素早く開けて先に外へ出た彼は、微笑みと共に手を伸ばして来た。なんだか無性に腹が立って力を込めてその手を掴んでやったのに、ザクリスは嬉しそうに頬を緩めただけだった。どうせなら爪を立ててやれば良かったと、私は後悔した。
渋るザクリスを何とか宥めて説き伏せて、一騒動の末に私が連れて来てもらった場所は王城で、目的は王の子供達へお菓子のお裾分けをする為。屋敷の使用人達以上に舌が肥えているだろう相手だけれど、屋敷の外へ出る口実が欲しかった。久しぶりに戻って来たというのに今の所私はザクリスの屋敷へ閉じ込められている。屋敷の中では自由があるけれどやはり息は詰まるのだ。共に行動するしかないザクリスには悪いとは思うけれど、彼は自分で自分を私に縛り付けたのだからそこまで私が気を使ってやる義理はないのではないかと気が付いた。
数日前にここを出る時にはザクリスに抱えられて攫われた所為でじっくり見る事は叶わなかったけれど、ザクリスの先導で歩きながら少しだけ心躍る気分で私は歩く。昔はここまで立派な城ではなかったし、日本で生活していた時には城というものは気軽に行けるような場所ではなかった。海外にはあったが私はテレビで見た程度。日本の城はまた雰囲気が違う。
「ザクリス殿を発見! 捕獲しろ!」
突然の男性の大声に、冷水を浴びせられたような気持ちになる。だけど見上げたザクリスが慌てるでもなくただただ面倒そうな、どこか呑気な様子だった為に少しだけ安心した。
「すまない、ミーナ。仕事が追い掛けて来た」
彼の台詞で腑に落ちた。彼が頑なに隠そうとしていたのはこれだ。この数日は休暇ではなくてどうやらただの無断欠勤だったようだ。呆れてしまった私の前で、ザクリスは数人の騎士に取り囲まれた。そうして彼に突き付けられたのは騎士達の泣き言と書類の束、束、束――
「もう逃がしませんよ、団長! あんたがいないと進まない仕事が山ほど溜まっているんだ!」
一番多い書類の束を抱えた男性が、一番疲れているように見えた。本来ならびしりと着込んでいるだろう騎士の制服はよれよれで無精ひげまで生えている。数日間たった一人が抜けただけでこんなになるなんて、一体ザクリスの仕事とはどれだけ過酷なものなのだろうと少しだけ、心配になった。
「ホルガ―、仕事はする。だが少しだけ待て」
「この期に及んで何言ってるんですか!」
ホルガ―と呼ばれた青年は上司への言葉使いも忘れる程に怒っているのか、それとも普段からこんな調子なのかどちらだろう。輪の外でのんびりと成り行きを見守っていた私は、ザクリスに呼ばれて返事をした。それでようやく騎士達は私の存在に気付き、驚いたようだ。
「その菓子だが、分け与える相手はこいつらでは駄目か? この様子だと、俺は仕事をしに行かねばならない」
お菓子はただの口実だったから、私はすぐに頷いた。
「え? 魔女……?」
「は? 魔女って?」
「闇色だ」
「魔女って御伽噺の中の存在だろう?」
ざわめきの中に拾った言葉で、私は忘れていた事実を思い出した。日本ではこの色が普通だったからすっかり忘れていた。この世界で、闇色を持つのは魔女だけなのだ。魔女が人間となって子孫を残しても、この色は絶対に受け継がれる事はない。ザクリスや私が魔女だと知っていた王や王妃はともかくとして、ザクリスの屋敷で働く人々があまりにも自然に私を受け入れてくれていたものだから思い出す機会もなかった。逆に言えば、ザクリスの屋敷の人々は何故あんなにあっさりと私を受け入れられたのだろう?
「彼女は俺の妻となる女性だ。あまり見ると目を潰すぞ」
歩み寄って来たザクリスのマントの中へ隠された。隙間から見上げると、彼は穏やかに微笑む。だから私も笑みを返し、でもきっちり彼の言葉は否定しておく。
「まだ妻になる予定はないし、私を見た事で目を潰された者がいるなんて噂になったら魔女の印象が悪くなるじゃない!」
今この世界で魔女がどのように伝えられているのかは知らないけれど決して私達魔女は悪い存在ではなかったし、人々に溶け込み日々を過ごしていたちょっと特殊な力を持つだけの女性達だ。マントの中に隠された状態で憤慨している私の耳には、違う意味で驚いているらしい声が届く。
「え? 団長の妻?」
「団長って人間愛せたのかよ」
「おいバカ、殺されるぞ!」
「てか、団長の顔が蕩けてる……」
「え? 何? 世界滅ぶの?」
ザクリスって……一体どういう人なんだろう?
*
衝撃的な一騒動の末に場所を移動して、私は王城内のザクリスの仕事場へとやって来た。カゴ一杯に詰めて来たお菓子はすっかり空になり、数日間仕事詰めだったらしい彼らは大喜びでお菓子をパクついた後気絶するように眠ってしまった。だから室内は静かで――いびきが時々響くけれど概ね静かで――ザクリスは机に向かって黙々と書類の山を片付けていっている。話を聞く前にザクリスの部下達は大騒ぎの末に眠ってしまったから、騎士としての彼がどんな感じなのかは聞けていない。ただ部下と話している様子から推察出来た事は、ザクリスは部下から恐れられてはいるけど嫌われてはいないようで、むしろ慕われているみたい。仕事の出来る鬼上司って感じなのかな?
ここで私に出来る事は何もない。手伝おうとすれば返って邪魔になるだろうから黙って窓辺の椅子に座っている。仕事に集中しているザクリスはこちらを見ない。だから安心して、私は彼を観察出来た。
そういえば、ザクリスって何歳なんだろう? 団長と呼ばれていたからそこまで若い訳ではなさそうだけど……そこまでおじさんって感じもしない。見た目的には二十代後半か三十代前半くらいかな? 睫毛長いなぁ……金色の睫毛って綺麗。真剣な表情のザクリスって、まるで作り物みたい。数日間で彼の色んな表情を目にした後では新鮮だ。昔はこの世界の男性は髪を長く伸ばしていたけれど、今は違うのね。ザクリスも部下の人達も王様も、男性の髪は短く切られている。時が経てば世界の色んな事が変わっている。私だけが、何も変わらない。
「ミーナ? 退屈か?」
つらつら考え事をしていたら、ザクリスに心配されてしまった。申し訳なさそうに謝って来る彼に、私は笑みを向ける。
「仕事をしているザクリスを見ているのは、楽しい」
「俺を見ていたって何も楽しくないと思うが?」
「ザクリスだってずっと私を見ていたじゃない」
「それは、俺が貴女を好いているからで……」
真っ赤な顔で狼狽えているザクリスを見て、私は己の失言に気が付いた。
「べ、別に他意はないわ! ただ退屈ではないと伝えたかっただけで!」
「だ、大丈夫だ! 嬉しかったが、大丈夫だ!」
何が大丈夫なのかはわからないけれどお互いに動揺している様がおかしくて、どちらからともなく笑みを零した。
「退屈になったら言うわ。だから、お仕事頑張ってね」
「わかった。なるべく速く終わらせる」
そしてまた、仕事へ集中する彼を私は飽きずに眺めていた。
気が付いたら私はザクリスの腕に抱かれ運ばれていた。どうやら眠ってしまったみたい。そっと運ばれる揺れが心地良くて、開こうとした瞼は再び閉じて行く。意識が沈む直前、愛しそうに私を呼ぶ声を聞いた気がした。
「ミーナ」
次に私を呼んだのは違う声で、だけど私はすぐに相手が誰か気が付いた。
「エドヴァルト……」
私の視線の先で、彼は微笑む。彼といってもエドヴァルトは男性とも女性ともつかない見た目をしている。中世的というか、性別がないという感じ。声も少年のような女性のような、不思議で落ち着いた声をしているの。
「どうして今まで答えてくれなかったの?」
私の問いに、エドヴァルトは穏やかな笑みを崩さない。
「混乱している君に僕が会うのはいけないと思ったんだ」
「連れ戻す協力をしたくせに、冷たいのね」
「僕はただ、君の幸せを願っているだけさ」
「私の幸せ……?」
それは一体、どこにあるものなのか。かつて仲間達がまだ側にいたあの頃には確かに私はそれを持っていた。でも時の流れと共に、魔女が存在意義を失うと共に零れ落ちていき私の手の中からは消えてしまった。それが悲しくて、だけど老いた末に私だけを残していなくなる仲間の姿を見ている事が恐ろしくて、でも誰にも心をあげられずに私はここから逃げ出した。孤独を選んだのに独りきりは嫌で、多くの人間に紛れてみたらそれは更に冷たい孤独な場所で、寂しくて死にそうなのに力を捨てられなかった私に死は訪れてくれなくて辛くて、怖くて……抜け出せない恐怖を感じないよう、心の感度を落として生きるようになっていた。意外にも心の感度というものは自分の意志で落とす事の出来るものだったらしく、私は長い事薄い膜に覆われた状態で世界と接していた。そんな事をしていたら心を許せる相手を見つける事なんて、できっこないのにね。
「ウィルヘルミナ。愛しい僕らの妹。ねぇ君は、見つけてもらえたね。見つけたね」
「何を、見つけたっていうの?」
「それは自分の心に聞いてごらん。今君の心には再び、鮮やかな色が戻って来ているのだから」
「エドヴァルト……」
意味を問う為名を呼んだ私の頭を、彼はそっと撫でて微笑んだ。それでやっと私は、遠く離れていた故郷に戻って来たのだと実感したのだった――
次に目覚めた時には馴染みはじめたベッドの中。私の隣には、少し距離を空けてザクリスが眠っている。彼の寝顔を見るのは初めてだ。いつでも彼は私が眠った後でベッドへ入り、私が目を覚ますのを待っている。
手を伸ばし、彼の指先へ触れてみる。ぴくりと動いた彼の指。起こしてしまったのかと心配している私の視線の先で、彼の手が私のそれを包み込む。無性に泣きたい衝動が湧いて来て、私はそっと動き身を寄せてみた。すぐ側に感じる寝息と体温に、自分の心が動き始めた事を自覚した。