鏡の中のカーネーション
彼女の病室を訪れることが私の日課になるまでに、そう時間はかからなかった。
生きてる証を求めるように蝉が喚く、暑い夏の日。高校生なら誰でも同じように長期休暇を謳歌していて、私も元々はそのつもりだった。今日だけじゃなく、昨日も一昨日も、明日も明後日も来週も。彼女と一緒の時間を過ごそうと計画したものだった。
その彼女は今、病が重くなりそうなほど清潔に保たれた白いベッドに横たわり、規則的に胸を上下させている。長い睫毛に縁取られた瞼は、もう開かれることがないかもしれない。
私達の夏休みが奪われたのは、つい先週のこと。
私と彼女は一緒に下校していた。先輩と後輩で仲がいいのは少しだけ珍しいけれど、それも些末なことに過ぎない。私達は時々額に浮かぶ汗を拭いながら、夏休みの予定をああしようこうしよう、とお喋りに花を咲かせていた。
無邪気に笑う後輩を見ていると、ついつい宿題もきちんとやるように釘を刺してしまったりして。大人が言うのだからわざわざ私が言わなくてもいいことなのに、どうしてかそんな意地悪を言いたくなる。彼女に対する、せめてもの抵抗なのかもしれない。
信号機が止まれを示すから数十秒を待って、その時間も惜しいとばかりに私は話し続けたのだけれど。
先輩なのに、私の方が夢中になってしまっていて、背後に迫る異様な気配に気づくことが出来なかった。気がつけたのは、穏やかだった彼女の表情が険しくなってからだった。
遅過ぎた。
「危ないっ!」
まるで抱きつくように飛び込んでくる。私は彼女の雰囲気からようやく危機を悟り、硬直してしまって指先一つ動かせなかった。
決して少女のせいではない強い衝撃に打たれて、私の身体は飛んだ。視界が空と地を一周して、電柱に追突してひしゃげた自動車が目に入る。
見慣れた女の子の背中に赤い色が滲んでいく。それが最後に見た景色だった。
そうして彼女は意識不明で入院することになって、私は毎日のようにこの白い部屋に通っている。
今日も空が青い。今日も彼女は目を覚まさない。
「今日も来ちゃったわ」
返事はなく、代わりというように病室の外の廊下を小さな子どもがはしゃぎながら走り抜けていった。
「楓ちゃん、覚えてるかしら」
雲一つない快晴で、湿度ばかりが高い。自然とベタついた暑さが身に染みる。
そんな中でも穏やかな寝顔を見せているのだから、楓ちゃんは大したものだと思う。目を覚ましてくれてもいいのに。
「あの日は……ゴールデンウィークだったわね」
去年ではなく、今年の。彼女は私の家に泊まりがけで遊びに来ていて、夜はいつものように膝枕をしてくれた。触れるか触れないかという優しさで撫でる手が心地いい。
「先輩は甘えん坊ですね」
「……うるさいわね」
「ふふ、否定しないんですね」
会話の主導権は、いつも彼女が握っている。先輩の気持ちはいつだって後輩に筒抜けで、彼女に弱い部分を見せることに対して躊躇いはない。
私と彼女の関係は最初からこうだ。
「楓ちゃん」
「キス、ですか?」
見透かしたように言う。可愛らしいソプラノに腹立たしさを覚えることはなかったけれど、何度言われても慣れない。
きっと、私の顔は耳まで赤い。胸を打つ鼓動の速さがそれを教えてくれる。
「先輩、真っ赤じゃないですか」
「い、いいのよ言わなくて」
「可愛いんですもん」
後輩に翻弄されるばかりだけれど、それもいいかなと思う。これが彼女でなかったら「しっかりしないと」と思うのだけれど。
楓ちゃんがいてくれるから私は憩いの場を得られたと言ってもいいし、楓ちゃんでなかったなら、この感情は知り得なかったのだと思う。そんなこと、彼女には伝えられない。
またからかわれるに決まってるもの。
「いいから早く」
「……はい」
彼女は小さな身体で私を抱き寄せて、唇を重ねる。子ども同士がするような稚拙なそれは、それでも私には十分過ぎるほどの幸福感を与えてくれる。
身も心も委ね、後輩にされるがまま。彼女は私にだけは決して弱い部分を見せないし、私は彼女の前でだけは幼い子どものように防御を解く。
優等生でクールなキャラで通っている私のこんな姿を他の人が見たら驚くだろうし、穏やかでどこかぽやっとしたキャラの彼女が先導しているのを見たら、さらに驚くだろう。
それほどまでに、この空間は異質だった。
彼女が唇を離す。私はまだ少し切なくて。
「……ねぇ、楓ちゃん」
「ふふ、わかりました」
私が言葉を発するより早く、次が来た。彼女は私の目を見るだけで何を望んでいるかわかるし、私にはそれを言わせてくれない。
だというのに、言いたくないことは言わせようとする。後輩にいいようにされるのは悔しいけれど、それが私達の関係。私達だけの特別なのだから。
だから、昏々と眠り続ける彼女が目を覚ましてくれたら、最初に言いたいことは決まっている。「お寝坊さんね?」と。たまには仕返しするのも悪くない。その後、すぐに反撃が来るのだろうけれど。
「楓ちゃん……大好きよ」
ここ一週間、眠り続ける彼女への別れの言葉はそれに決まっていた。好き。毎日口にしないと、私は不安になる。もう二度と聞いてはもらえないかもしれない。
……いいえ、多分もう手遅れなのだということを、私はなんとなく感じている。
私の声が彼女に届くこともなければ、彼女が目を覚ますこともない。世界はそう都合よく出来ていなくて、私と彼女がこんな形で引き離されたのも必然に違いなかった。
「好き……愛してる」
人生、大抵のことは上手くいかない。
「覚えてるかしら? 去年の夏、一緒に海に行ったこと」
いつものように、彼女との思い出を語る。私にとっては会話だけれど、本当は独り言と呼ぶのかもしれないし、彼女もこれを不愉快に思っているのかもしれなかった。
答えは、ない。
「楓ちゃん、あの時は一回り小さな水着を買ってきて恥ずかしがってたのよ? 慣れないのにネットで買ったりして」
今どき珍しい、機械に弱いタイプ。だというのに彼女はネットで水着を買ってきて、更衣室でオロオロする羽目になったのだ。本当なら「あたしだって成長してるんですから!」と胸を張りたかったのだと思う。
苦手なことはほとんどないのに、苦手なことはとことん苦手な楓ちゃんらしかった。
小さいとはいえ着れないこともなかったけれど、際どすぎるその水着を脱ぐように私が指示して、その日はデパートで別の水着を買った。海水浴の予定は水着ショーに変更になったけれど、あんな姿の楓ちゃんを衆目に晒すくらいなら海水浴なんて行きたくない。
それを見ていいのは私だけだもの。
「今年はどうするつもりだったのかしら」
新しい水着を買うつもりだったのか、はたまた去年買ったのを着てくれるのか。……彼女のことだから、「選んでくれたから」という理由で同じものを着るかもしれない。
都合のいい妄想だけれど、たまにはいいじゃない。人生、大抵のことは上手くいかないのだから。
「好き……大好きよ楓ちゃん」
眠ったままの彼女に別れの言葉を告げた。言葉にすれば、それは途端に嘘のようになってしまう。けれど言葉にしないと伝わらない。言葉にしても足りないから肌を重ねて、言葉にできない絆を確かめたがる。
私のこの気持ちは、どうすれば彼女に伝わるの? どれだけ言葉を重ねれば伝えられるの? 答えのない問いが私の中を巡る。
人生、大抵のことは上手くいかない。
次の日も日常の一ページとして彼女を訪ねた。楓ちゃんは穏やかな子だけれど、本当はすごく意地悪で、小悪魔的な娘だ。
幼い頃から要領はよく、何かと矢面に立たされることの多かった私。頼られることも、「彼女に任せておけば大丈夫」と思われることも、いつしか当たり前になっていた。
それが強がりだと最初に気づいたのは私でも両親でもなく、彼女だった。
「ちゃんと休んでますか?」
「え? えぇ、まぁ」
それが私達の初めて交わした会話で、初対面なのに挨拶もないなんて非常識極まりないけれど、彼女にとっては挨拶よりも優先すべき事柄があったというだけの話だったのだと思う。
思えば、私と彼女の関係を決定付けたのもこの時だったに違いない。
当時新入生だった彼女は、職員室から出てきた私を一目見てそれを感じたのだそう。私は提出物を回収して届けに来ていただけだったのだけれど、彼女曰く、
「疲れてるのに、無理してる顔です」
と。
混じりけのない純粋な不安が彼女に見えて、私はいつものように手慣れで取り繕う。
「そうね、少し疲れてるのかもしれないわ。ありがとう」
「……そう言って、今までも休んでこなかったんですね」
そんなことは……多分、ない。
「……その通りではあるけれど、これからは気をつけるわ」
「うそです」
「…………」
「それは、うそです」
反論出来なかったのは、彼女の言うことがやけに的確だったからで、まっすぐ私を見る目が偽りを許さなかったからで、私が名も知らぬ少女に心を惹かれたからだったのだと思う。
ごまかしを嘘だと断じられて、背筋を寒気が走った。
「私は……平気よ。体調を崩すほどじゃないし、それに」
「いいんですよ。無理しなくて」
抱き寄せられて、違和感を覚えた。彼女はそれを、私を安心させる為にした。寂しがる子どもを母親があやすように。
彼女には背丈が足りない。私よりも頭一つ小さい彼女の抱擁ではむしろ、甘えたがりな子どもが抱きついているような格好で、逆に私が彼女をあやしているようだ。
だから、胸の奥から何かが込み上げてくるのには、違和感を覚えることが自然な感性というもの。
私は力いっぱい抱きしめてくる彼女の背中に腕を回す。
「責任、取ってくれるのかしら?」
「一目惚れってあるんですよ?」
「知ってるわよ?」
「今、知ったんですよね?」
知ったようなことを言う。
「経験豊富みたいな口ぶりね?」
「さぁ、どうでしょう?」
「……生意気な子」
「ナマイキなコ、じゃなくて楓です、先輩」
「私だってセンパイじゃなくて」
「先輩」
言わせてはもらえなかった。胸の熱さとは対照的に、背筋はゾクゾクと寒気を感じ取る。
私にはこの子しかいない。それを私が悟るのに、これ以上のやり取りなんて必要なかった。
穏やかに見えて、無理矢理わからせる力業。今だって、先に折れたのは私の方だ。
ちょっと悔しくて、この子はずるい、って何度も心の中で繰り返した。
悔しさを感じることに意味があったようには思えない。だって私は……。
いえ、悔しいからやっぱり言うのはやめておくわ。
貴女はそんな私を見て笑うのでしょうけれど。
「少なくとも、私が楓ちゃんに見た「純粋な不安」は嘘だったことくらいはわかってるつもりよ」
彼女は小悪魔だ。
「でも、好きよ。大好き」
別れの言葉は今日も同じ。彼女は目を覚まさない。
人生、大抵のことは上手くいかない。
次の日は病室を訪れなかった。それは彼女が入院してから初めてのことだった。
いいえ、訪れなかったというのとは少し違う。橙色の空を見たのは病院の窓からだったし、彼女の病室の前までは行ったのだから。
ただいつもと違ったのは私がその扉を開くのを躊躇い、最終的に入ることを諦めてしまったという点にある。
理由は一つだけ。私が訪れるより早く、彼女の母親が病室を訪れていたから。廊下に漏れる声を聞くに、眠れる娘に無意味に声をかけているようだった。
楓ちゃんの母親は、私のことが嫌いだ。私はそうでもないのだけれど、どうやら向こうは私が楓ちゃんといることを快く思わないばかりか、さっさと縁を切るべきだとすら思っているらしい。
私が彼女の家に初めて遊びに行った時のこと。
それまでも女友達は普通にいたし、家に遊びに行くことも当然のようにあった。けれど恋人というのは初めてで、らしくもなく気持ちがソワソワしていたのをよく覚えている。
それがよくなかった。最初こそ「いい母親」を演じて当たり障りなく接してくれていたけれど、話があるからと言って私と二人きりになったあの人は、ひどく冷めた声で私に言った。
「あなた、どういうつもり?」
こちらのことをわかっているような断定的な言い方は、血筋なのかもしれない。
「何がです?」
「楓と付き合ってるの?」
答えに窮した。私達の関係はきっと恋人のそれで、けれどまだ友人でも通せるような間柄だった。一線は越えてない。
そもそも、恋人と友人の違いもよくわからない。
「楓ちゃんとは……友達、です」
「……そう」
その二文字にゾッとした。私の言葉を一切信じていない、ナイフのような返答だったから。
事実、私と楓ちゃんがそういう関係だと確信していたのだろうし、私もそれを感じ取った。だから後で楓ちゃんから「お母さんに「あの人とは縁を切れ」って言われました」と聞かされた時にも驚かなかったどころか、平然としていたから楓ちゃんに驚かれた。貴重な表情を見れたと思う。
気持ち悪いとか、異常だとか、誰に思われても知ったことではないと私は思うのだけれど、それが彼女の親となると少し都合が悪い。
元々日本では結婚なんて出来ないからそれは関係ないのだけれど、楓ちゃんにとって母親は大事な人。もし私のことも大事に思ってくれているなら、一番悩むことになるのは楓ちゃん。
好きな人と好きな人がいがみ合う構図を、一体誰が望むのだろう。
結局先延ばし先延ばしにしたまま一年が過ぎて、今ではこんなことになってしまった。
突然病室の扉が開き、私は驚きながら飛び退く。中から出てきたのは疲れた様子の楓ちゃんの母親。染める気力もないのか白髪が目立つし、以前見たときよりも猫背で、肩も下がっているように見える。
やつれた彼女はまるで私がいないかのように無視し、少し早足で去っていった。すれ違いざまに私を睨み付けたように見えたのは、私の被害妄想に違いない。そんなはずは絶対、絶対にないのだから。
だというのに、その被害妄想に痛みを感じた馬鹿な私は、彼女の顔を見るに見れなくて引き返すことにした。
会ってもいないのに、別れの言葉は言えない。私は黙って外へ出るしかなかった。
上手く、いかない。
彼女は私に連絡を寄越したりはしなかった。
会ってその日の内に連絡先の交換はしたし、私が連絡をすれば必ず対応してくれたから、そういう顔の見えないやり取りを特別嫌っているわけではないはず。
けれど、彼女の方から私に連絡をしてくることは絶対になかった。頼ることもなければ、日常的な会話をしようとすることもない。何らかの誘いをするのもいつも私からで、私が彼女を求めたから彼女が応じる、という以外の形は存在しなかった。
なのに私は、何故だかこの世の誰よりも彼女に愛されていると実感を伴って感じられた。私が彼女を世界で一番愛して、彼女に恋をしているように、彼女も私を愛してくれている。
誰かから連絡があると、その度に「まさか楓ちゃんじゃないわよね」と身構えた。
そうして確認してみると、友人からテスト範囲を教えて欲しいというメールだったりして、私はホッと胸を撫で下ろす。
そんな私に、楓ちゃんの母親以外にも異を唱えてくる人物がいた。
その人は私の担任の女教師だった。去年の冬頃になって突然面談を予定され、内容も聞かされないまま放課後の教室で私は担任に問い詰められた。
「あなた、後輩の女の子と付き合ってるそうね」
「……? はい」
間が空いたのは、何故今さらそんな話をするのだろうと疑問を得たせい。隠していたわけでもないし、おそらくクラス中が知っているような事柄だから、先生もとっくに知っているものだとばかり思っていた。
「そういうのはやめなさい」
「そういうの、とは?」
先生の言わんとしていることはわかる。胸が痛んだのをごまかす為に問い返したに過ぎない。
けれど、三十路手前にして結婚間近の女教師はため息を吐きながら私を諭す。
「はぁ……あのね、恋愛には一定のルールがあるのよ。それを破ってはただのお遊び。大人になったら苦労するんだから、まだ引き返せる今の内にやめておきなさい、って言っているの」
理性は言った。この人は仕事をして、社会に混ざる大人として正しい見解を示している。もしかしたら私と楓ちゃんのような関係性は社会が受け入れてくれないかもしれない。社会に受け入れてもらえないと仕事が出来ず、仕事が出来なければ生きていくことすら危うくなる。それでは本末転倒だ。
感情は言った。自分が結婚出来そうだからって他人の否定とは価値観の狭いことね。今の人が見つかるまでみっともなく結婚結婚と騒いでいたのをもう忘れたのかしら。何がルールよ、あなたが好きになった人が偶然男だっただけじゃない。くだらない。本当にくだらない!
黙っていてくれたら、どんなによかっただろう。
「あなたの為に言ってるのよ? まだ経験が浅いからわからないでしょうけど、社会に出たらたくさん苦労するの。だから、勘違いなんか捨てて、まともな恋愛をしなさい? 大体気持ち悪いわよ、女同士でなんて」
黙っていてくれたら、あんなことにはならなかったのに。
「……先生、まともな恋愛ってなんですか」
声のトーンが低くなっていることに、気がつけなかった。それは私だけでなく先生もで、呑気な口調で当たり前のように答えを寄越した。
「それはね、男女でするものなの。愛しあえるかどうかは大事なことよ」
「……女同士では愛しあえないって言いたいんですか」
「当たり前じゃない。友達以上にはなれないんだから。異常なことなんだし」
血管が切れる音を聞いたのは初めてだった。視界は真っ赤に染まり、理性が完全に口を閉ざす。
「去年までオトコオトコって騒いでたくせに! 腐りかけでも拾ってくれる親切な人を見つけた途端に上から目線でご高説? まったく笑わせてくれるわね!」
「え、あ、ちょっと……?」
先生の戸惑う顔なんて見えていなかった。
「ふざけないで! 散々喚いて喚いてその歳まで結婚出来なかったのに今になって結婚出来そうなのは何故? 相手が拾ってくれたからじゃない! それを何? 自分が全部正しいみたいな物の言い方して! そんな傲慢な態度だったから結婚出来なかったんじゃないの!? それが改まってないなら、先生は拾われただけの石ころじゃない! 偉そうに説教する前に、拾ってくれた人に感謝しながら自分を磨くのが先でしょう!」
まともに息継ぎもすることなく、一気にまくし立てた。肺の空気がなくなりすぎて肩で息をすることになったし、酸欠からか、立ち眩みのようにクラッとくる。
結果から言いましょう。
泣かれた。
いい歳した教師が、声をあげて泣きながら教室を飛び出してしまった。残されたのは私一人で、私も泣きたくなった。
なんだっていうのよ。何がいけないっていうのよ。大人はみんな忘れてしまっている。純粋に人を好きになるってことを。打算抜きに誰かと生きていきたいって気持ちを。
そんな寂しいことを考えていると、まるで世界中にたった一人で取り残されたようで、無闇に悲しくなった。
カバンを肩に引っかけて、黄昏の街をうつ向きながら歩く。もう気持ちはすっかり弱ってしまって、私は駄々をこねて通らなかった子どものようになっている。
小石があれば、それを蹴った。何度か蹴ると、それは私の足下を離れてどこか遠くへ跳ねていった。
泣きたくなった。
道のすみっこを歩いていたはずなのに肩がぶつかって、知らない人に怒られた。
また、泣きたくなった。
橋の上から川を見ると、すごく高くて怖かった。
私はもう、泣きそうだった。
風が冷たくて、鳥肌が立ってきた。
また、悲しくなった。
それから太陽が隠れて、真っ暗になってしまった。
もう、限界だった。
「ぅっ、うえぇぇ……」
だから私は、知らない道のすみっこでうずくまって泣いた。なんにもわからない。どうして泣いてるの? どうして悲しいの? 大人に否定されたから? それが正しいって、本当は私もわかっているから?
「かえでちゃん……かえでちゃあん……」
彼女は私に連絡を寄越さない。私が求めて、彼女が応じる以外の形は存在しない。
だから、彼女に来て欲しかったら、私からきちんと連絡しないといけない。でも子どもの私にはそれもわからない。
私が泣いてたら、きっと彼女は助けに来てくれる。私は彼女を愛しているんだし、彼女も私を愛してくれているから。そこに大人の考えるような「まともさ」はなくて、本当の好きだから。
街灯の少ない暗い道をキョロキョロと見回す。誰もいない。聞こえてくるのはどこかの家族の楽しげな笑い声。私が悲しい時、楓ちゃんはいつも慰めてくれた。それは、楓ちゃんが私のことを好きだから。
……でも、もし。
そんなこと考えたくないけど、もしかしたらあるのかもしれない可能性に行き当たり、私は寒さに震えた。
もし、彼女が私を好きじゃなかったら?
「やだ……かえでちゃん……やだぁ……!」
考えたくない。私は子どもで、大人じゃないんだもの。
大人の私が意地悪を言う。彼女は来ない。私は彼女を呼び出してなんかいないし、ここがどこなのかもわからない。来てくれると思う方がおかしいのよ。
「くるもん……」
今までどうだった? 寂しくなる夜があっても、向こうから連絡してきたことすらなかったじゃない。次の日学校で何事もなかったように会うの。今日だって同じよ。
彼女は来ない。
大抵のことは上手くいかないのだから。
「あれ? 先輩?」
「え……?」
彼女は来ない。来ないはずだった。
涙に滲む視界には、いるはずのない彼女が映る。妖精のように星明かりに照らされて、厚手のコートに身を包み、白い息を吐きながら。
私の目の前にいるのが楓ちゃんのはずない。でも、これは楓ちゃんが来てくれたに違いなくて……? でもそんな、ほんとに来てくれたの……?
そんな私の混乱を余所に、彼女はしゃがみこんで頭を撫でてくれた。手袋越しだったけれど、触れるか触れないかの優しい手が心地いい。……今日の心地よさは、それだけじゃない。
「どうしたんですか?」
「かえでちゃんなの……? ほんとに?」
「あたしのこと忘れちゃったんですか? 悲しいです」
眉尻をわざとらしく下げる楓ちゃんの表情に、ズキンと心が痛んだ。怖くなった私は、慌てて喚き立てる。
「ちがうの! わた、し、かえでちゃんの、こと、すき、で、それで」
「はいはい。あたしも大好きですよ」
私の感じた不安も心配も、意地悪で優しい後輩は杞憂に変えてくれた。
苦笑しながらも、彼女は私の手を取って先を歩いてくれる。私が目的もなく歩いて辿り着いたこの辺りは彼女の家の近くだったらしく、コンビニに行った帰りに偶然私を見つけたのだそう。
コンビニの袋から季節外れのアイスを取り出して見せながら笑う彼女は、決して私の為に来てくれたのではない。
大抵のことは上手くいかないけれど……あの一度だけ、あなたは都合よく来てくれた。
私の中の一番大事な話を、病室で眠る彼女に聞かせ、私は別れを告げる。
「楓ちゃん、大好き」
私と彼女の、最後の日の話をしようと思う。
その日は蝉の喚く暑い夏の日で、特別な気配など何もない日だった。私もいつものように彼女を訪ねて、いつものように彼女と話をしていた。
異変に気づいたのは私で、その時病室には私しかいなかったのだからそれも無理からぬことなのだけれど、とにかく私が最初だった。
今まで指先一つ動かさなかった彼女は、まるで時間そのものがゆっくり流れているかのように目を開けた。
あれだけ話しかけても反応がなかったのに、劇的な出来事も刺激もなく、彼女はあっさり目を覚ましてしまったのだ。
あまりに唐突な出来事に狼狽えた私は、無意識に目を泳がせながら口を開いて、常套句を吐いていた。
「楓ちゃん? 目が覚めたの?」
……私は、どうして話しかけているのだろう。聞こえているはずがないことはわかっているのに。
あの日のようなことが二度もあるはずはないのだけれど、私はそれをどこかで淡く信じていた。
だから、
「はい……」
また奇跡が起きた時、私はそれが嬉しくて仕方なかった。何故か、だなんてことは説明の必要もないけれど。
もし奇跡が本当にあったなら、言いたいことがあるの。事故があったあの日から、ずっとずっと伝えたかったことが。
あぁ、絶対に伝えられないと諦めていたのに! こんな素敵なことはあの冬の日以来で、こみ上げてくる感情はあまりにも雑多でごちゃ混ぜだった。
「あのっ……あのね、楓ちゃん」
気ばかりが急いて、口がついてこなかった。焦りから無意味に手を振ってしまうし、目も合わせられなくて忙しなく視線が泳いだ。これでは上手く伝えられないかもしれない。深呼吸をしても焦りは消えてくれなくて、不安は私の目を彼女に向けさせた。
楓ちゃんは私の言葉を待っていてくれた。そうよ、彼女はいつだって私の求めに応じてくれる。撫でてもらうことは出来なくても、いつものように少し意地悪な答えをくれる。
「私……わたしは、楓ちゃんのことが大好きよ」
言えた……! 毎日伝えてきた別れの挨拶を、本人に聞こえるように言うことが出来たのだ。そんな機会はもう絶対に訪れないと思っていたのに。
だって私は、もうこの世の人ではないのだから。
あの日事故で死んでしまった私が楓ちゃんに伝えられることなんて、もうないと思っていたのに。鼓動のない胸の中に熱が広がり、解放されようとしているのがわかった。
彼女は私をじっと見つめ、小首を傾げた。いつも主導権を握り続けた楓ちゃんが見せた後輩のような動作は珍しくて、それはそれで可愛らしい。彼女は照れたようにはにかむ。
けれど、その桜色の唇から発せられた言葉は、到底私の望む言葉ではなくて、終わりをハッキリと認識させるようなものだった。
「えと……ありがとうございます」
「え……っ?」
うそ……でしょ?
今、なんて言ったの?
ありがとうございます?
どうして楓ちゃんが、私にそんなこと言うのよ?
最期の言葉を伝えられた喜びを追いやって、暗雲が立ち込める。彼女はいつだって小悪魔で、意地悪で、私を翻弄するような子だった。
こんな、私に大好きって言われて頬を染めながら礼を言うような子じゃない。これじゃあまるでーー。
嫌な想像は形を得て現実になる。いいえ、もう既になっていた。発覚したのが今だったというだけの話。
「あの……楓ちゃん、ってあたしのこと……ですよね?」
私達の関係は、音を立てて崩れ去った。崩れ去っていた。それに気づくことが出来なかった私はもはや孤独で、震える唇は意味のないあえぎを吐き出すばかり。
視界が波打つように歪む。なんで、どうして。死んでなお私がこっち側に留まっていたのは、こんな真実を知るためだったというの?
「だ、大丈夫ですか!?」
肩を抱き、膝から崩れ落ちる私を見て、慌てて起き上がろうとする。そんな無闇に優しい彼女の姿に、余計に目眩がしてくる。
終わった。私が死んでしまったからとか、彼女が記憶を失くしてしまったからとか、そんなどうだっていいような些末なことではなくて、もっと根本的で、失われちゃいけない部分が消え去ってしまった。
優しい優しい後輩は、ひたすらに温かい感情を私に向ける。
「あのっ! あなたはあたしの大事な人なんでしょう? 友達なんかよりずっと親密で、ずっと大好きな人なんでしょう!? だって、あたしはこんなにーー!」
彼女ーー楓ちゃんだった子の声を背中に受けながら、言葉を発することなくその場を去った。
楓ちゃん……大好きよ。
小さく呟いた愛は誰にも届かない。もう、彼女はどこにもいないから。
最後までご覧頂き、ありがとうございました。感想、無垢な彼女達を引き裂いた作者への不満等、お気軽にお寄せ下されば幸いです。