第8話 迷いの森に届ける 2
奈落の底が、あった。
新右衛門さんの家は立派だったが、周りを深い谷に囲まれていたのである。まるで悪魔が口を開けて俺たちを飲み込もうとしているような深い谷。身を少し乗り出してみるが、懐中電灯なんかでは照らすこともできないほどその闇は濃かった。下からのひんやりした風が頬を撫でて、恐怖感を膨れ上がらせる。
そしてそれを渡る手段として用意されているのが……吊り橋。
風化によっていかにも脆くなった、縄の吊り橋だった。
横の立て看板に「このはし渡るべからず」と書いてある。
「真ん中を渡れば怒られないタイプの橋であろう」
「とんち云々じゃなくてマジな警告だろ、これ」
「それでは行くかの。よっこいしょ」
「待て待て! 落ちたらどうするんだよ?」
「案ずるでない。デリバリストはこんな吊り橋では止まらぬ」
心配する俺の手を払い、ミーナは吊り橋に足をかけた。
ギッという縄のきしむ音がして、橋全体がぐらりと揺れる。音にひやっとさせられるが、ミーナはそんなこと気にしていないようにゆっくり一歩ずつ踏み出していく。
不安いっぱいで見つめていた俺だったが……
「…………すげえ」
そんな気持ちは五歩目には感嘆になっていた。
さすがは伝説と呼ばれたデリバリスト。目を瞑っていた。
その代わり、俺まで伝わってくる集中力は凄まじいものがある。橋に負担をかけないようバランスを取りながらゆっくりと進んでいく。まるでスーパースロー映像のような足さばきだった。風が吹こうと橋が揺れようとそのリズムは崩れることを知らない。
普段ミーナの見せるアグレッシブな配送スタイルを「剛」と言うなら、このスタイルは「柔」。今のミーナなら、湖に張った厚さ一センチの薄氷もヒビ一つ入れずに渡りきるだろう。
剛柔の一体化と、息を呑むほど完璧な身体のコントロール。
これこそ、ミーナが伝説のデリバリストたる所以なのかもしれない。
呼吸も忘れてその足取りを眺めていると、対岸についたようだ。硬直した筋肉をほぐすように全身を動かしながら「次はカケルの番であるぞー」と声をかけてきた。
「ミーナ、コツとかある?」
「平常心だの。自分を鳥だと思うのだ」
「精神論!?」
有益なアドバイスは期待できない。天才が感覚でやっていることを言葉にしようという方が間違いなのだ。
理屈で考えることを諦めて、片足を橋の末端にかけた。
しっかり前を向きながら橋に自分の体重を任せる。
ギッ、ギッという音が想像以上に頭に響く。二、三歩踏み出しただけで下からのひんやりした空気が俺の汗を冷やした。
一歩ごとに体が重くなる。ここだけ重力が二倍になったと言われてもすぐに信じてしまうだろう。それほどまでにこの命をかけることへの重圧は強く、意識せずにはいられなかった。
全身が寒くなるような感覚。それに耐え続けてようやく橋の真ん中までたどり着く。もう一時間くらい渡っていたのではないかと思うが、実際は五分も歩いていないだろう。時間の感覚は既にかなり狂わされていた。
とはいえ、あと半分。ほんの10メートルほど心を無にして進めば普通に配送できる。そうだここまでの10メートルを無事に来れたのだから、残りもできるはずだ。
そうやって自分を鼓舞しつつ足を踏み出そうとすると……
一つ疑問が浮かび上がってきた。
「……………………帰りもこれを渡るんだよね?」
他に道が見当たらない以上、そうとしか思えない。
……モウイッカイワタルノ? コレヲ?
激しく動揺。
その動揺が次の一歩に余計な力を加えてしまう。
そして生じたズレは、この状況では致命的なほど大きかった。
バキッ!
「えっ…………?」
今まさに足を乗せた木の部分が、あっさり割れた。
もちろん空中に俺が止まることなどできるはずもなく。
ガシッ!
言葉も出ぬまま、俺は吊り橋のロープ一本をつかんでいる状態になった。
「……………………」
本当に怖い時、人は一言も発声できない。
ただただ、感じている恐怖をミーナに目で訴える。
右腕の掴むロープがからブチブチと繊維が切れる音がした。
「か、カケルっ!」
「来るなっ!」
ようやく口が動いて、こちらに身を乗り出してくるミーナを制する。今ミーナがこちらに来たら俺はもちろん、ミーナだって奈落の底行きは免れない。
「ミーナまで死んだら、誰がデリバリストで配送するんだよ」
「で、でもこのままだとカケルが!」
「……ミーナ、短い間だったけれど、俺は幸せだったよ」
深い配送業界の深淵、デリバリストに少しでも触れることができてよかった。
命がけの仕事だと覚悟していただけに、悔いはない。
目を潤ませて震えるミーナに俺は最後の言葉を託す。
「おっかさん、チビたちによろしく……元気でな」
その言葉を待っていたかのように、ロープが切れた。
「カケルっ! カケルぅーっ!」
落下する俺の体。
闇に吸い込まれていくような感覚。
受け入れがたい屈辱を胸に、俺は永遠とも思える落下の恐怖に耐ーー
ゴンっ!
「痛ってぇ!」
落下の衝撃はすぐに来た。
痛い。
でも痛いということは生きている。
お尻から落ちたので体が半回転もしないうちに底についたことになる。
我ながらすばらしいバランス感覚だと思って目を正面にやると……
「カケル、いいリアクションだったのだ」
「……………………あり?」
真っ逆さまに落ちたはずなのである。
ではなぜ、俺の目線がミーナの足とほぼ同じ位置にある?
瞬間、何の前触れもなく辺りが一斉に輝き始める。すぐ近くにいくつも照明があったのだ。暗闇に慣れた目に光が突き刺さる。
目が順応を始めて少しずつ見えるようになって……
「うへ、マジか……」
俺は全部理解した。
本日二度目の全部理解だった。
「……これ、絵なのか!」
「うむ、そういうことだ」
ミーナが奈落の底(笑)に降りてきて、足をすくませる俺を立たせてくれる。
よく見ると俺の立っている場所は自然にできた段差だった。
ただし、絵の描かれたベニヤ板で覆われている。
どこまでも暗闇の続く深い深い谷の絵。
ごつごつとした岩肌を立体的に描く崖の絵。
そしてひんやりした風を送るために設置された空気孔。
その全てが相まって、本来ここにないはずの谷が作り上げられていた。
「騙されたってこと?」
「我の演技もなかなかだったであろう?」
「………………うわー、超恥ずかしい」
「『おっかさん、チビたちによろしく……元気でな』が辞世の句なのだな」
「やめろよ、俺がいい人みたいじゃん」
「ロープ一本で体を支えている時の、泣きそうなカケルはかわいかったぞ」
「そこに萌えるってちょっとヤバくないか」
混乱する頭で段差の上に引き上げられる。上から見ると、今は照明が点いているのでかろうじて絵だとわかるが、暗闇ではそこに谷があると思っても仕方ない。
「もしかして新右衛門さんって……」
「うむ、騙し絵アートの人間国宝なのだ」
「すげえ傑作だろ?」
と。俺のでもミーナのでもない声が割り込んできた。
後ろを振り向くと、ラフな格好の青年が立っている。タンクトップにデニムにスリッパという、休日の俺とよく似た格好だった。誇らしげに自慢するその口調は好感が持てるくらいにフレンドリー。
「ちょうどよい。新右衛門、新人デリバリストなのだ」
ミーナは腰が抜けて地面に大の字になっている俺を指差して、紹介してくれる。
俺は「どうも」と軽く手を上げて新右衛門さんに挨拶した。
「おうおう、君かい。ウワサには聞いてるよ。眠れる獅子に振り回されても生きていられる丈夫なデリバリストがいるってね」
「新右衛門、失礼ではないか」
頰を膨らませるミーナに笑いながら謝罪し、新右衛門さんは俺に肩を貸してくれた。
「いいねえ、きみくらいグッドな反応してくれると作り甲斐があるぜ。ちょっと前来た……望ちゃん? あの子は一言も言わずに落ちていったし、卯衣ちゃんは一発で見抜いちゃうし」
新人デリバリストの通過儀礼らしい。
「余計なことは言わんでよいぞ、新右衛門。早く荷物を受け取るのだ」
「あー、はいはい。とりあえず茶でも飲んで行けよ。久しぶりに話したいこともあるんだ」
「ふん、仕方あるまい。少しなら付き合ってもよいぞ」
二人は目も合わせずに歩き始めた。
薄々気づいていたけれど……この二人、仲悪いのか?
直接本人に聞くわけにも行かず、俺は黙って新右衛門さんに運ばれる。
俺に肩を貸したままの新右衛門さんは派手な御殿の門をくぐって……
行かず、隣の粗末な小屋の方に近づいていった。こんなに立派な家があるのにそっちに上がるのか?
不思議に思って尋ねる。
「これが家じゃないんですか?」
「これ? あー、これ。入れるなら入ってみろよ」
新右衛門さんはおもむろに門の端を蹴った。
普通なら人間の蹴り一発くらいで、家に何も影響はない。
ないはずだ。
しかしその一発でみるみる御殿は傾いて……バタン!
まるで一枚の板みたいにゆっくりと、倒れた。
砂煙が辺りに舞い、ミーナがくしゅんとくしゃみをする。
「これも自慢の作品なんだぜ」
「悪趣味よのう、くしゅん」
「……………………」
とにかく、人間国宝がとんでもないレベルにいるということだけはわかった。
目で見るものを信じてはいけないということか。
小屋が本当の家らしく、俺とミーナはゴザの上に座って、出てきたお茶を飲んだ。
「ちなみに今の俺、タンクトップとデニム着ているように見えるかもだけど、体に絵の具塗っただけで実際はブリーフ一枚だぜ。さすが人間国宝って感じだぜ?」
尊敬の念は泡のごとく消えていった。
「人間国宝に土下座してください」
「そう怒るなよ。俺なりのサービスシーンってやつだな」
「いりません」
「カケルの言う通りである。必要となれば我が脱ぐでの」
「ミーナ、それはそれで困るんだが」
「たまには自分をさらけ出したい時もあるであろう?」
「ちゃっかり露出狂のケを暴露するなよ」
そんなコントを繰り広げていると、新右衛門さんが伝票に印鑑を押してくれた。
……と思ったら印鑑に見える手書きのスケッチだった。
本当に、何を信じればいいのかわからない。
尊敬するべきか軽蔑すべきなのか、判断が難しいところだ。
「ところで新右衛門。頼んでいたものはできたかの?」
「はいはい、あれね。出来てるぜ」
新右衛門さんは裏の部屋に行き、風呂敷で包まれたキャンバスを持ってきた。
「仕事が速いのだけは長所だのう」
「馬鹿力だけが取り柄のミーナほどではないぜ」
礼も言わずにミーナはキャンバスを受け取り、中を確かめた。
どんな絵を描いたのか覗き込むと、そこには一枚の絵があった。
そして気になるそのモデルは……
「俺たち、か?」
「うむ、トーキョーエリア支部が新体制になったお祝いに、新右衛門に描かせたのだ」
ミーナ、卯衣、望さん、そして俺。
一昔前の家族写真のように、俺たちが額縁の中で笑い合っていた。
実際、ぱっと見て写真かと思った。しかしよくよく近づいて目を凝らすと、スケッチっぽい線が幾筋も見える。気が遠くなるほどの労力と集中力を注ぎ込んだことのわかる、魂の入った絵だった。騙し絵でなくてもビックリするほど上手い。
「うむ、気に入った。買わせてもらおう」
「カネなんていらん。俺には食い物と画材とiTu◯e cardを買う金があれば満足だ。間に合っているから小切手なんてしまえ」
「……礼は言わぬぞ。新右衛門が先に言ったのだからな」
「おうおう、構わん。その代わりたまに会いに来いよ」
「ふん、断る。仕事上の関係だけでも十分すぎるほどである。……カケル、行くのだ」
額縁に入った絵を持って立ち上がり、スタスタと歩き出すミーナ。やはり新右衛門さんと相性が良くないのだろうか。
「あ、おいっミーナ。……すみません、失礼します」
「おう、きみ……カケルもたまに顔見せてくれよ。きみ、インスピレーション湧く顔してるから」
「褒められてるんですかね、それ?」
「…………ははっ」
笑ってはぐらかされてしまった。
そういえば、と新右衛門さんに向き直る。
「ああ、自己紹介遅れました。新人デリバリストの倉掛駆です」
「丁寧にどーも。俺は新右衛門。秋月新右衛門だ」
「……………………はい?」
聞き覚えのある苗字に、俺は一瞬戸惑いを隠せなかった。
そんな俺の表情を見て、新右衛門さんは自信と意地悪に満ちた笑顔を浮かべる。
誰かさんによく似た笑顔、不敵な笑み。
「これからも妹のミーナのこと、よろしく頼むぜ」
「……………………」
予想外のブッコミ告白に、俺はたっぷり十秒ほど固まってしまうのだった。
★★★★★★★★★★
今回のエピローグ、行ってみよう。
新右衛門さんとしばらく話をしてから外でミーナと落ち合い、そこからさらに望さんと合流して俺たちは支部に帰った。色々あって神経擦り切れていたのと、望さんの運転が快適だったのとで、帰りは俺もミーナと一緒になって眠ってしまった。
「ういちょん、今帰ったぞー」
「ただいま」
「……………………(ぺこぺこ)」
「あらー。早かったですね、お帰りなさいー」
コーヒーを用意する卯衣の傍、ミーナは新右衛門さんの描いた絵を俺に差し出してきた。
「カケル、早速壁にかけてくれぬかの。我は届かぬのだ」
「ああ、いいよ。こっちか?」
「いや、このソファから見える位置が良いのだ」
お気に入りのソファに飛び乗って指示するミーナ現場監督。
腕を伸ばして壁に布がかかったままの絵をかざす。「この辺か?」と聞くと細かい指示が飛んできた。ミーナの言う通り忠実に微調整を繰り返す。
「うむ、そこなのだ。その高さが一番良い」
「じゃあ位置はここな。まっすぐなってる?」
「いい感じなのだ」
ミーナの納得がいったところを画鋲に引っ掛け、絵をかける。まだ布がかかったままなので、中身は見えない。
「あれ。なんですかー、これー」
「……………………?」
卯衣と望さんが、コーヒー片手にミーナのいるソファに近づいてきた。同時に正体不明の絵画を疑問の眼差しで眺めている。望さんの場合フルフェイスヘルメットで表情は読み取れないのだが、なんとなく。
「うむ、二人には説明していなかったのう。デリバリストトーキョーエリア支部の新しい門出を祝って、新右衛門に描かせたのだ」
「あらー、ちょうど壁が寂しいと思っていたところですー」
「……………………(カクカクシカジカ)」
「『どんな絵ですか?』で合ってる?」
「……………………(グッ!)」
正解のようだ。望さんの身振りを読み取るのはだいぶ慣れてきた。
その質問待ってましたとばかりに、ミーナは胸を張る。
「ふむ、実物を見てみようぞ。カケル、幕を外してくれ」
「おうよ」
心の中で「てってれ〜」と言いながら幕を外す。
瞬間みんなの口から出たのは、圧倒的芸術を前にした感嘆のため息。
ではなく。
「きゃああああああああーっ!」
「ふむうううううううっ!」
「……………………(ガクガクブルブル)」
「どうした!?」
耳を突き刺す悲鳴だった。
全員、絵から目を背けて顔色を変えたように見えたが。
振り向いて確認する。しかし、変わったところは何もない。
一時間前に新右衛門さんの家で見たのと同じだ。
「ほら、何もおかしなところなんて……」
「お、お化け! お化けなのだっ!」
「カケルさん、よく見てくださいよーっ!」
「……………………(カクカクシカジカ)」
「『おかしいのはあなたです』……望さんそんなキャラだったっけ?」
何をそんなに怖がっているのかとソファに近づいて振り向くと……
「…………そういうことね」
忘れていた。
人をビックリさせることをライフワークにしている新右衛門さんだ。
ちょっと仲の悪い妹ミーナに普通の絵を渡すなんて……あり得ない。
またしてもこれは、騙し絵なのだ。
近くで見れば何の変哲も無い一枚絵。しかし遠くから眺めてみれば……
モデルになっている俺たちの顔は青ざめて、目を血走らせて、苦悶の表情を浮かべて。
ゾンビ風のホラー絵画に早変わり。
視点を近くするか遠くするかで違って見える絵というのがあったが、それと同類のようだ。
しかも不気味なフォントと血を再現したと思われる赤黒い絵の具で「命に代えても届けます、デリバリスト!」とキャッチコピーが。
総合すると、気合い入ったホラー映画のポスターみたいだった。
……うん、間違っていない。
命懸けて配送しているという点においてそれは事実だ。
しかし……
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……
眠れる獅子を大激怒させたという点で、これ以上ない間違いだった。
ミーナの顔が……ヒロインにはあるまじきゆがみ方をしている。
「……卯衣、電話なのだ」
「は、はいっ!」
『おう、もしもし俺だぜ?』
「新右衛門こらあああああっ! 今日という今日は許さぬううっ!」
大した理由なしに兄妹の仲が悪くなるなんて普通のことと思っていたが……
訂正。
この二人の場合、全面的に兄が悪い気がしてきた。
ミッション:新右衛門のところに生活物資を届ける
進行率:100パーセント 任務完了。
次回予告
激務に追われて疲れ果てるカケル。
そんななか受け取った新たな依頼は……
ラブレターの配達。
楽勝ムード漂う依頼を前に機嫌を良くするカケルだったが
その依頼がまさかの方向へ転がっていく!
次回「第9話 ラブレターを届ける」